社会不適合者でも楽しく生きる。
Q「さかつめさんは反資本主義なのですか?」
A「いいえ、違います。お金がないだけです」
遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。
『方丈記 全訳中』
遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居とは、やはり同じく、このようなものである。
さて、露のようにはかない、六十歳に近い、年老いた命の消えかかるころに達して、また改めて、草木の枝の先の葉のような、余生のための住居をこしらえることになった。たとえて言えば、旅人が、一晩だけの宿舎を造り、年老いた蚕が、繭をせっせと作るようなものだ。これを、賀茂の河原近くに造った、生涯の中ごろの家に比べると、これはまた小さく、その百分の一にも達しない。
あれこれと愚痴を言っているうちに、わたくしの年齢は、年々に積もって来、住む家は移転の度ごとに狭くなってくる。この度の家の様子は世間一般のものとも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも足りない。土地柄を心に選んできめないから、土地を自分で所有したうえで造ったのではない。土台を組み合わせて造り、簡単な屋根を上にふいて、材木と材木との継ぎめには、どれも、締りとする鉤をかけてある。これは、もしも、自分の気持に合わないことが起きたら、簡単に、ほかの場所へ移そうと思うからである。その改築することには、どれほどの苦労があろうか。車に積む所の資材は、たったの二台分であって、その車で運ぶ者の労力に報酬を払う以外には、まったく、出費を必要としない。ー 鴨長明(安良岡康作)『方丈記 全訳中』【講談社学術文庫】
社会不適合者でも楽しく生きる。
好きなように生きても周囲に迷惑をかけることは意外と少なく、逆に、自分の感覚を押し殺してまで自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。帰りたい時は帰る、嫌なものは嫌だと言う、自分の欲求は勇気を出してはっきりと口にするなど、潔い我儘は最高の美徳だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月27日
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
無駄に慰め合うよりも、一回死ね。
自分の役割を認識する「校長先生、話が長いです」
本音はエンタメ【戦闘開始のゴング】になる。
被害者意識を喝破して、自分を生きる。
『ハンパな人生論より極道に学べ』
この時代、日常性のなかで高じるばかりのストレスの捌け口を、ひそかな不倫や浮気に求めるといったことは多々ある。しかし、一方ではその発覚を恐れ、ちゃちな罪悪感にとらわれて、あらたなストレスを抱え込むという悪循環にはまていく。その挙げ句の「失楽園」じゃあ、シャレにもならない。たかが「女を抱くこと」にさえ市民はタガをはめずにはいられないのである。
アウトローの発想、思考、行動様式はわけもなく、そうした情況を突破する。いともたやすく閉塞感に風穴を穿つ。私にはむろんのこと、アウトローを賛美するつもりもないし、「極道はおいしいぜ!」という気もない。が、日々「おもしろくねぇな」「なんとかならねぇかな」という思いを引きずりながら生きている〝いま〟の突破口は、アウトロー的世界にあるとだけはいえる。まずは本書でそれを覗き、あとは読者が判断すればいい。ー 宮崎学『ハンパな人生論より極道に学べ』【青春出版社】
ダメじゃない!からのハグ。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
言葉を大切に扱うということは、そのまま、自分を大切に扱うことに通じると思う。投げやりな言葉遣いには自分を含めた人間全体を傷つけ分離させる力があり、無様でも、不器用でも、心のある言葉には人間全体を温める力がある。何かを信じるということは、多分、否定的な考え方を手放すということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月25日
楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。
いばや【とにかくやばいことだけをやる】
「生きろ」と言われる喜び。
損を承知で負ける側に賭ける。
丸山眞男は、『現代政治の思想と行動』という名著のなかで、法的な秩序と無関係な次元で生きる「無法者」について述べています。彼は、「無法者」を否定的にとらえているのですが、私はもちろんこれを肯定的に考えるものです。以下に「無法者」のエッセンスを列挙してみます。言うまでもなく、これは私の生き方にまったく重なるものです。
一・市民生活のルーティンに埋没しない。丸山はそれを、「一定の職業に持続的に従事する医師と能力の欠如」と規定しているが、それはとりも直さず退屈な日常生活が嫌いであるということだ。
ニ・モノへの関心より人間への関心が強い。金より、人間関係を重視する。
三・常に非日常な冒険、破天荒の「仕事」を追い求める。
四・しかもその「仕事」の目的や意味よりも、そこで引き起こされる紛争や波乱のほうに興奮と興味を覚える。
五・公的な責任意識が欠け、その代わりに私的な、あるいは特定の人的な義務感(仁義)が、以上に発達している。
六・規則的な労働により、定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。これはつまり、賃金や報酬の奴隷にならないということである。
七・最悪事態における思考様式やモラルが、物事を判断する日常的な規準になっている。そのため、瞬間的に善悪を判断し、きっぱりとトドメを刺す。
八・性生活の放縦、好きな異性と、好きなときに寝る自由をもっている。
このような「無法者」の生き方のほうが、私にはずっと人間らしく思えます。所詮、生まれて死ぬだけの人生。その間の時間はすべて自分のもの、どんなふうに生きようと、人生は一回きりなのです。それならば、興奮できる冒険的な人生のほうが楽しいに決まっています。ただし、こういう生き方をしていると、その反動は大きい。私の五十数年の人生を振り返っても、死屍累々、それはもう無残なものであります。それでも私は、「突破者」としての自分の人生をまっとうしたい。
もし「たった一つだけ、突破者の条件を挙げてくれ」と問われれば、私はためらわずにこう答えます。それは、「損を承知で負ける側に賭けられるかどうかということや」と。もちろん、私のこんな生き方を人に強いるつもりはまったくありません。ただ、突破者として、こんな生き方を楽しんでいるのです。どちらがよい悪いというのではなく、それを選ぶのは自分自身。ですから、「無法者」だろうが「市民的人間」だろうが、自分の人生で生じたことは自分で責任をとらなければならないのです。ー 宮崎学「宮崎学の兵法」【サンマーク出版】
『インド放浪』
この「インド放浪」は、私が二十三歳の時、はじめてその熱球の下の大陸に遊んだ時の記録である。はじめて、その土地を踏んだ一九六〇年代の終りのころ、日本はちょうど高度経済成長の最中だった。物質的な豊かさを求めて、誰もが一生けんめいに働いていた。この国の近代化と、経済の豊かさを求める過程において、失われて行くものも多かった。そして、社会は管理化されつつあった。管理化のシステムの中で人間的なる息吹は隠滅され、それに対する抵抗もあった。そういう状況の中で、私ば大学を捨て、自分の経歴のすべてを捨て去るようなかたちでインドに行った。この国は貧困であった。ただ、そこに私が見たものは、その物質的貧困と同時に、あの、我々が今現在失いつつある、熱、であった。つまり、ちょうど日本では、この熱という一つの生命の根本が、何か巨大なものによって管理されて行こうとしている最中だったから、私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生きものの命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の存り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。ー 藤原新也『インド放浪』【朝日新聞社】
楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。
幸福が好きなひともいれば不幸が好きなひともいるし、重く考えることが好きなひともいれば軽やかな生き方が好きなひともいるし、心配や批判が好きなひともいれば信頼や励ましが好きなひともいる。こういうのは全部趣味が違うだけのことだから、端的に「趣味の合うひとと一緒にいればいい」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月23日
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。
野生の勘を取り戻せ!
「修行」と「遊び」のハイブリッド。
天然記念物のような人がいる。誰も味方がいない中、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と、自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けた人がいる。私は「よくぞ、そのままでいてくれた」と思う。永遠にそのままで行けと願う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月21日
理解を求めたり何かを説明することに力を使うよりも、自分の生き様に言葉を宿らせること。仲間や理解者は、歩き出す先に出会うのだと思う。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月23日
男は女に許されて生きている。
『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』
人々は時に、食べ物以外のもので飢えていることがあるものです。私たちの子どもたち、夫、妻は食物、衣服、住む所に飢えてはいないでしょう。でも、彼らが一人っきりで淋しく、見捨てられ、無視されている結果、愛情に飢えていないとは断言できないのです。こういう貧しさも存在しているのです。
私たちは忙しすぎます。だからお互いを見つめ合う時間も、互いにほほえみ合う時間も持ち合わせていないのではないでしょうか。
政治家たちは、謙虚にひざまずく時間をもっともっと、ふやさないといけません。そうしたら、きっと彼らはより良い政治家になると、私は信じています。
私が喜びという時、それは、大声で笑うこと、馬鹿騒ぎをする状態を意味していません。それらは真の幸せな状態とは異なります。人は、笑いとか馬鹿騒ぎで何かをごまかそうとすることがあるものです。
きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。私が怒りを覚えるのは、無駄遣いです。まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。
私は、一対一のパーソナルな触れ合いが大切だと信じています。
私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみではなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです。ー 渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』【PHP】
いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。
目で恋に落とし
耳に愛をささやき
頭から離れさせず
心を奪い
胸で抱きしめて
尻で敷く
女の六段活用じゃ
覚えとけ 試験に出るぞ
by 祖母
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。
「何が起こるかわからない」を愉しむ。
ラッキー!【誰かの幸福は副産物】
戸籍がないひととか、親がヤクザだとか、両親を自殺で亡くしているとか、生活保護を受けているとか、腕がないとか、足がないとか、整形手術をして実名を変えたひととか、これまで様々なひとと出会った。それでも「同じ人間である」ことに変わりなく、語り、共に遊ぶことは誰とでもできるのだと知った。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月15日
「鉄砲玉48」というアイデア。
『突破者の母』
極道の世界は「男の花道」がどうの「男ぶり」がどうのと、ことあるごとに「男」を云々する男臭い世界であるが、実は母性原理に貫かれた母系社会的な要素がきわめて強い。男たちは「人は一代、名は末代」などと勝手なことをいいながらおのれの面子や名分にこだわって游俠の限りをつくす。そして、喧嘩沙汰で命を落としたり放蕩の果てに窮死したりで、多くが若死にする。その男たちの精神的な拠り所となっているのは「母的なもの」である。
この社会には必ずグレートマザー的な女性がいる。その大いなる母が死んでいった男たちの死を癒し、男たちの勲を語って伝説化・神話化していく。男の馬鹿さ加減に半ばうんざりしながらの営為であるのだが、その母性に支えらえて男たちはひたすら跳ねていくわけである。典型的な男尊女卑の世界のように見えながら、女の存在は物心両面にわたって実に大なるものがあるのである。
生きることを媒体としていた昔のヤクザの女は、男が生きてゆくために一つの重要な役割を確実に果たしていた。それは、何かにつけてはヤクザな男たちの武勇伝に尾ヒレを付け、ついには伝説にまで仕上げてしまうことだ。それは、体を張って生きている者にとっては勲章をもらったようなもので震えがくるほど嬉しいことなのである。
だいたいにおいて、アウトローというのは失敗に失敗を重ねながら生きているのであって実はそんなに立派な生き方をしているわけではない。それを周りの女たちが褒め讃え美化してくれるおかげで、アウトロー的モラルのタガがはめられて共同体の成員としての自覚が培われて行くのである。つまり、その美談が本人の耳に入り女たちが美化したような人間になろうと努力する。そういうふうにしてアウトローとして徐々に純化してゆくわけである。
「馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て」ー 宮崎学『突破者の母』【徳間文庫】
馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。
自分の心を軽く扱う人達を相手にするほど、自分も他人の心を軽く扱うようになる。同じように、自分を大切に扱ってくれる人達と同じ時間を過ごすほど、自分も他人を大切に扱えるようになる。大切なものは大切な人達との時間であり、自分の心を軽く扱う人達を相手にしてはいけないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月16日
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ひとにはそれぞれの役割がある。
熱海とニュージーランドの架け橋。
支援は「私怨」【逆もまた然り】
ひとにはそれぞれの役割がある。
多拠点生活【新しい家族】
助ける側にも、助けられる側にもよろこびはある。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
最近、怒りは人生を駄目にするということを実感する。怒りはある種の悲しみを内包していて、怒る度に「自分の中にある悲しみや分離感を強化する」感覚を覚える。かといって、言いたいことを言わないでいると病気になるから、最近の課題は「言いたいことは言う。その時は、心を込めて優しく言う」です。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月5日
大切なことは「気持ちを込める」ことなのだと思う。日常的な家事とか会話とか何気ないメールのやりとりとか、いま、目の前にあることにこの日限りの気持ちを込めるということが、多分、いまを生きるということなのだと思う。今日の命は今日でおしまい、出し惜しみをしている場合ではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月12日
過酷で楽しい托鉢生活。
過酷で楽しい托鉢生活。
「生きているぜ!」という感覚の共有。
「粋」な女性の登場。
おはなをあげる@渋谷の展開。
『オン・ザ・ロード』
若い作家サルとその親友ディーンは、自由を求めて広大なアメリカ大陸を疾駆する。順応の50年代から叛逆の60年代へ、カウンターカルチャー花開く時代の幕開けを告げ、後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書。バロウズやギンズバーグ等実在モデルでも話題を呼び、ボブ・ディランに「ぼくの人生を変えた本」と言わしめた青春のバイブル『路上』が半世紀ぶりの新訳で蘇る。ー ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』【河出書房】(表紙裏帯より引用)
ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。
誰の中にも『菩薩ボタン』みたいなものは隠されていて、美しいものを見た瞬間、ひとの善性に触れた瞬間、ある種の真理に触れた瞬間、菩薩ボタンは発動して「今なら、すべてに優しくなれる」的な気持ちになる、そんなボタンがあると思う。多分、私は「人類の菩薩ボタンを連打する生き方」をしたいのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月29日
ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だと思う。楽しそうに生きているひとの姿は、生き生きと健やかに生きているひとの姿は、見るひとのこころを自由にする。善悪を平気で飛び越えた、大きなイエスを感じたいのだと思う。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月11日
健康のためなら死ねる。
タオ島を南下してパンガン島、サムイ島、スラータニーを経由して再びバンコクに来ました。日本は初冬を迎えている頃にも関わらず、タイは連日30度を超える真夏日が続き、こころも毛穴もフルオープンです。来たる11月11日(金)お昼頃から、非常にありがたいことに下北沢でお話会的なサムシングを開催していただける運びになりましたので、お時間のある方はお会いできますことを楽しみにしております!!
【イベント詳細】坂爪圭吾を囲む会|下北沢NOWHERE ☆☆☆Speak from your heart☆☆☆
最近思うことあれこれを「健康」をテーマにまとめます。
1・歯磨きよりも「歯茎磨き」
2・五つの「浴」
3・タワシで身体を洗う。
4・ターメリック玄米。
5・ヨガマットで寝る。
6・病気の原因は「身体の冷え」と「血液の汚れ」
7・家だけベジタリアン。
8・光熱費0円ハウス。
9・歩きまくる【踊りまくる】。
10・好きなひとに好きだと言う。
イライラしないコツは「すべてはベストタイミングである」と信じることだと思う。雨が降ることの中にも、電車に乗り遅れることの中にも、苦手な人と同じ空間を共にすることの中にも、多分、何かしらのヒントは隠されている。神様からの謎解きみたいなものだと思えば、毎瞬間は宝物探しみたいなものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月29日
怒りは人生を駄目にする。
新潟、群馬、神奈川、成田、ドンムアン、バンコク、チュムポーン駅を経由して、爆揺れするフェリーにしがみつきながらタイの南部にあります雨季ど真ん中のタオ島に到着しました。私、坂爪圭吾は基本的に呼ばれた場所なら何処にでも行くスタンスで生きておりまして、11月9日はバンコク、12-13日は関東圏、16日は北海道、17日は福岡、21-22日は山口県及び広島県、24日は東京、30日は新潟で暇を持てあましております。
【11月18日(金)は佐賀県に行くことになりました!】あいつが武雄に帰ってくる! ホームをレスしてヒットした!!! 坂爪圭吾を囲む会
様々な方々と出会う日々を過ごしながら、ひとりの時間と同じ位、人とリアルに対面してお話をする時間も大切なのだということを感じています。もしも、上記の日程で「時間もあるから坂爪圭吾を囲む会的なサムシングを企画してもいーよ!」という方が奇跡的にいらっしゃいましたら、気軽にご連絡をいただけると幸いです。規模の大小などは問いませんので、ピン!と来た方はお気軽にご連絡ください!!
連絡先・坂爪圭吾
keigosakatsume@gmail.com
おはなをあげる。
先日、11月3日は国民の祝日ということもあり、私も「国民の皆様の生命を祝福したい!」と思い立ち、その時はたまたま神奈川県藤沢市にいたので「関東圏でお会いできる方々にリアルで対面をして、おはなをあげる」という企画を敢行しました。私は花を愛していて、また、花を愛するこころの余裕を愛しているので、誠に勝手ながら「是非とも、皆様とこの喜びをシェアしたい!」と思い立ちまして、このような企画を突然(その日の昼過ぎから当日限定で)開催させていただきました。
誰かひとりからでも連絡が来ればいいなあ程度に構えていたのですが、結果的に五組もの方々に実際に対面しておはなをあげることができまして、あろうことか「男性からお花をもらうなんて何年振りかしら!」と、涙を流して喜んでくださる方もいらっしゃり、こちらとしても「そんなに受け取ってもらえるなんて、こっちが幸せ!」と、貰い泣きをしてしまいそうになりました。ただ、おはなをあげてさようなら!程度に終わるものかと思いきや、皆様、ご自宅にあげてくださりお茶やお菓子を振舞ってくださるものだから、こちらとしても「新しい家族が増えた!」的な喜びを強く噛み締めることができた、とても素晴らしい時間になりました。
他にも感動的なシーンは108個位あったのですが、ひとつだけ言えることは「男性はもっと女性に花をあげたほうがいい!」ということです。切り花であればそれほど高価なものではないですし、多分、野花でも構わないのだと思います。大事なものは気持ちであり、今回の裏テーマは「アドバイスではなくおはなをあげよう!【WANDS風に言えば『愛を語るより口づけを交わそう』】」だったのですが、一輪の花が、言葉を超えた力を(受ける側にも与える側にも)授けることも確実にあるのだなということを強く実感した1日になりました。
世界をぼくらの遊び場に。
いまはタイのタオ島にいるのですが、とりわけ特別なことをするでもなく、海辺にあるカフェのテラス席で寄せては返す波の音を聞きながらこのブログ記事を更新しています。私の好きな言葉に「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」というものがあるのですが、本当は書きたいと思っていたことが108億個位あったはずなのに、良くも悪くも「いまが幸せならそれでいいよね」的な気持ちになってしまって、小難しいことを書くことができません。
最近思うことは、遊ぶということが人生にとってどれだけ大切なのかということで、誤解を恐れずに言えば「人間には二種類いる。遊んでいる人間と、遊んでいない人間だ」みたいに感じることがあります。これは、巷で頻繁に耳にする「遊びと仕事の境目をなくす」みたいなことを言いたいのではなく、ただ、何かに夢中になって遊んでいるひとたちを見ると、見ているこちらまで楽しさが伝染してきていい感じになってしまう、最高に遊べる瞬間を見つけてそれを実行しているひとの姿は、本人的にも無意識のうちに周囲を「善の循環」に巻き込んでいるのではないだろうか、小さなこどもとかまさにそんな感じだよな、という風に感じています。
生産的であるとか、効率的であるとか、数値化できる損得勘定は一旦脇に置いておいて「なんだか知らないけど、これがやりたい!」と思うことを実際にやってしまっているひとの姿からは、いい風が吹いているなあと感じることの多い昨今です。自分のこころがピースフルであれば勝手にひとにも優しくしたいと思うものであり、自分をピースフルな状態に保つことは単なる自己満足ではなく、巡り巡って世界平和に貢献するのではないだろうか、それならば「まずは自分のご機嫌を死守する!【遊ぶ!】」ということは、とても大切なことではないのだろうかと感じています。
怒りは人生を駄目にする。
病気は身体のサインと言いますが、現代社会においては「言いたいことが言えないあまりに、身体が先に病気になる」ということが、とてもたくさんあるのだと思います。怒りや悲しみなどのネガティヴな感情を自身の内側に溜め込み過ぎると、自分でも気がつかないうちに腐敗をはじめてしまって、病気や体調不良という形を通じて「腐ってますよー!あなた、いま、腐敗してますよー!」というサインを放つ、みたいなイメージがあります。
また、言葉だけではない「肉体を通じたスキンシップ」も死ぬほど大切だと思っていて、どれだけ頭で考えてもどうにもならなかったことが一回のセックスで霧消した、みたいなことは往々にしてあるのだと思います。自分が抱えている問題の多くは表面的なものに過ぎず、実は「(いつも怒ってるひとはいいセックスをしていないだけで)ただ、温もりに触れたかっただけなのだ【あるいは、単なる睡眠不足か運動不足】」ということは、意外とあるあるなんじゃなかろうか、などと思うことがそれなりにあります。
怒りは人生を駄目にする。これは、最近のわたしの課題でもあり、いかに怒らずに日々を穏やかに過ごせるのかが当面の目標でもあり、自分を使った実験でもあります。昨日、タオ島のオフロードをバイクで滑走していたら見事に横転をして膝小僧が悲鳴をあげているのですが、これは神からの「お前、あんまり調子に乗るなよ」というポップな戒めと受け取り、傲慢になりそうな自分の萌芽を発見しては摘み取り、摘み取り、罪を取り、より一層のイノセントな日々に磨きをかけて行きたいと思いました。
最近、怒りは人生を駄目にするということを実感する。怒りはある種の悲しみを内包していて、怒る度に「自分の中にある悲しみや分離感を強化する」感覚を覚える。かといって、言いたいことを言わないでいると病気になるから、最近の課題は「言いたいことは言う。その時は、心を込めて優しく言う」です。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月5日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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あなたは素晴らしい存在だ。
新潟市西区の愛するカフェ「イロハニ堂」が10月31日で閉店することになり、これは絶対に駆けつけなければならない(from熱海)ということでWEB上に公開しているスケジュールに『新潟』と記載したものの、エコノミックな理由で「最悪の場合はヒッチハイクだな!」と思っていた。ら、奇跡的に新潟在住の方から「ちょうどその日に出張で東京にいるのですが、もしよろしければ、交通費は負担するので新幹線で一緒に帰りませんか?」というご連絡をいただいた。
非常にありがたいことに11月23日(水・祝日)には広島県尾道市でイベントを開催していただけることになり、こんなことを偉そうに書くことは気が引けてしまうけれど、家や金がなくなってから、圧倒的にひとの優しさに触れる機会が増えた。「なんでそこまでしてくれるんですか!」と思わされることが、ほぼ、毎日のようにある。これは決して自慢をしたい訳ではなく、ただ、世界や人間は「信頼に値する」のだということを強く実感する。渡る世間に鬼はなし、自分を閉ざせば世界も閉じるが、自分を開けば世界も開く、多分、人の心の中には「お互いに助け合いたいと思う素晴らしい部分がある」のだということを、身をもって実感する。
【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ@尾道
私も、出世したなあ。
お言葉に溺れて新幹線に同乗させていただき、この日、東京駅で待ち合わせをすることになった。この日が初対面の男性(以降、K様)だったのだけれど、その方は新潟市内でフリースクールをやっていらっしゃる方で、新幹線の中で「今度、是非、お話会をやってくださいよ」という風に言ってくたさった。私は、新幹線に乗せていただいた御恩があるばかりではなく、何よりもその方の瞳があまりにも綺麗なものだったから「もちろんです!」と答えた。
すると、K様は「ありがとうございます!では、明後日なんていかがでしょう?」と満面の笑顔でおっしゃり、私は「明後日!早っ!やりましょう!この速度好きです!」ということになった。K様は「では、いまからイベント告知のメールマガジンを書きますね」と言いながら、新幹線の車内でマックを開き、カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ!!と音速でキーボードを打ち始めた。新幹線の車内で仕事をするK様を横目に「ああ、なんだか、いま、それっぽいことをしている!」という気持ちになった。
新潟駅に着いて新幹線を降りると、あろうことかK様がお寿司をご馳走してくれた。私は「新幹線にお寿司とか、VIP過ぎる!(新宿駅から東京駅までは歩いて移動をしたのに、落差が激し過ぎる!)」と恐縮に震え、さすがにそこまでしていただくのは非常に申し訳ないという旨を伝えると、K様は「いやいや、いつも坂爪さんのブログには力をもらっているので、これはせめてものお礼です」みたいなことを言ってくださり、私は、何か大きなものに感謝をしたくなった。帰り際、私も出世をしたなあなどと思いながらK様に全身全霊の御礼を伝えた後に、実家のある小針駅まで歩いて帰った。
調子に乗ると即死する。
こちらは、イロハニ堂の店主サカノヒロミさん(通称・ヒロミ1000000ボルト)との写真です。この日、私は大学院生の男の子【かずし】に珈琲&ケーキをご馳走していただきました。数年前だったら「いい大人が、大学生に奢られるなんて!逆だろ!」みたいに思う自分もいましたが、いまでは、そういうことをあまり思わなくなりました(人間関係に上も下もない、あるのは「ひとりの人間」と「ひとりの人間」だけである、的な思考になりました)。
帰り際、今日は来てくれて本当にありがとうございましたと告げるサカノさんの瞳からじわっと涙が溢れて来そうになるのを目撃してしまって「やばい!これはもらい泣きをするパターンだ!」と思った私は、挨拶もそこそこに店を退出してしまった。素晴らしい瞬間だと思ったし、うまく言葉にできないけれど、美しい瞬間だと思った。やはり、実際に足を運んでリアルに顔を合わせることに勝るコミュニケーションはないなあと思いながら、実家のある小針駅まで歩いて帰った。
三人兄弟の末っ子として生まれ、自営業を営む両親からは基本的にほったらかされて育った私は、何かあるとすぐに調子に乗ってしまう悪い癖がある。いまの自分があるのは、自分が凄いからではなく「自分を生かしてくれるひとたちが凄いからだ」ということを忘れてしまった瞬間から、自分の中に濁りが発生して、純度は下がり、傲慢になり、結果的に痛い目を見るようにできているのだと思う。いまあるものに最大限の感謝を示しながら、同時に、絶対に調子に乗らないこと。いまあるものを当たり前だ【何かをしてもらって当然だ】と思った瞬間から、多分、自分の中にある純度は簡単に濁るのだと思う。
やばさぎっしり、新潟。
新潟在住の女性で、写真が好きだという方と出会った。今回、このブログ記事で使用している風景写真のすべては、その女性(以降、H様)が撮影したものになります。私は、普段、カメラ機材などは持っていないので自分のiPhone5sで撮影した写真をブログ内で使っている。H様が撮影しているこれらの写真も、すべて携帯で撮影したものになります。
H様の写真を見ていたら「ああ、新潟にはこんなに素晴らしいものたちがあったのか!」と、嬉しさがこみ上げた。それは、既に紅葉がはじまっている越後の山々に対して抱いただけのものではなく、こうした美しい風景を美しいと思うH様のこころに対しても、また、同じようにK様のこころに対しても、かずしのこころに対しても、サカノさんのこころに対しても、私は、同じような感覚を抱いたのだと思う。
何かを「素晴らしい」と思えるということは、既に、自分の中にその素晴らしさが備わっているからなのだと思う。自分が愛するものに出会えた瞬間のよろこびは、自分が素晴らしいと思える場面に立ち会えた瞬間のよろこびは、その対象だけではなく、その対象を通じて「自分自身を含めた世界全体を賛美している」のだと思う。自分と世界は切り離されたものではなく、実は、境目のない同質のものであるという感覚。だからなのだろうか、私は、私が好きだと思えるものに出会えるほどに、大袈裟な言葉で言えば「生きる力」をもらっているような、そういう気持ちになることがある。
『旅をする木』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作『旅をする木』です。星野道夫さんの著作には名作が多いですが、この本は、その中でもとりわけ大好きな一冊になります。下記に、私の好きな星野道夫さんの言葉をのべつまくなし列挙します。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※
僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
偶然の一致に意味を見出すか、
それとも一笑に付すか、
それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。
その大切な何かが、
たましいというものだった。
一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。
もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい
寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。
大切なのは、出発することだ。
この世に生きるすべてのものは
いつか土に帰り、また旅が始まる。
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
あなたは素晴らしい存在だ。
新潟で開催されたイベントには、様々な年代の方々が足を運んでくれた。実際にリアルに対面して話せることのよろこびは大きい。参加者の方々の中には「私も、いばやの嘉向徹君や保科亮太君と友達なんですよ」という方もたくさんいて、そのひとたちの話を聞いていることがとても楽しかった。私は、いばやの人達を愛している。だからなのだろうか、いばやの人達の話を聞けることがとても嬉しい。
参加者の女性S様が、こんな話をしてくれた。「ある日、嘉向徹君と保科亮太君が、私の事務所まで遊びに来てくれたんです。あの人たちはまったくお金を持っていないのに、自分たちの生活だけでも精一杯だと思う(坂爪註・破綻をしています)のに、その日はかすみ草の花束も持ってきてくれて、ああ、この子たちはなんていい子達なんだろうって思ったんです。」と。私は、この話を聞いて、やっぱりこの人達は最高だなあと嬉しくなった。
自分が素晴らしいと思うもの、同じように素晴らしいと思ってくれるひとの存在は、大きな力になる。時に、自分自身も信じることが難しくなる場面もあるけれど、ひとに優しくすることと同じくらい、自分にも優しくすることが大切な場面があるのだと思う。自分が自分に優しくすることができない時、周囲のひとの声が、周囲のひとの行動が、パッと輝く前向きな力を与えてくれることがある。「あなたは素晴らしい存在だ」と、実際に言葉にして伝えること、相手に対して、自分に対して、お前はお前で最高に素晴らしいと言えるやり取りがより多く交わされるようになったら、世界は簡単に平和になるのではないだろうかと、そんなことを考えていた。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
心配よりも信頼をしよう。
いばやメンバーとの会話【概念の先に行く】
熱海の家のこれから【終わりははじまり】
「売る・買う」より「あげる・もらう」【自分の命を生きる】
『生の短さについて』
生は浪費すれば短いが、活用すれば充分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく、徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃-後65)の倫理学の特徴がよく出ている代表作3篇を収録。新訳。ー セネカ『生の短さについて』【岩波文庫】
心配よりも信頼をしよう。
心配をすることは「あなたには力がない」ということを伝える否定的な力があり、信頼をすることは「あなたには力がある」ということを伝える肯定的な力がある。心配よりも信頼をしよう。自分を信頼することは相手を信頼することに、人間を信頼することは世界を信頼することになるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月29日
永遠にそのままで行け。
ひとを幸せにするものは「生き物」だ。
汗と涙は裏切らない。
わたり花壇『朝顔のタネ』
2010年、山崎直子宇宙飛行士は宇宙の旅に朝顔の種を持参。これを広島と福島の子供たちに咲かせてもらいました。この種はその朝顔の5代目です。是非、わたり花だんへどうぞ♡
わたりチケット『ルノワール展@東京駅』
わたり文庫『日本の美を求めて』
花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに何の感動も起こらないであろう。花は散ることによって生命の輝きを示すものである。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命をいつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違いない。それならば、花に限らず名も知らぬ路傍の一本の草でも同じことではないだろうか。ー 東山魁夷『日本の美を求めて』【講談社学術文庫】
永遠にそのままで行け。
天然記念物のような人がいる。誰も味方がいない中、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と、自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けた人がいる。私は「よくぞ、そのままでいてくれた」と思う。永遠にそのままで行けと願う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月21日
理解を求めたり何かを説明することに力を使うよりも、自分の生き様に言葉を宿らせること。仲間や理解者は、歩き出す先に出会うのだと思う。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月23日
自分はダメな人間だと思うことは、誰かの悪口を言うことと同じくらい、否定的な力を生み出してしまう。多分、自分との関係も人間関係であり、自分を悪く言うことは「自分が自分自身と戦ってしまっている」ことなのだと思う。まずは、自分との戦争を終わらせること、平和な関係を結ぶことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月21日
【実践最強】どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ。
「ないのに元気!」が面白い。
兄弟姉妹が多いひとほど死なない。
『空海の思想について』
人里から離れ、清浄なる悟りを楽しむ仏弟子たちよ、汝は己の清浄さ、己の悟りを否定し、もう一度人間のもとに、世俗のもとに帰らねばならないのではないか。まさに龍樹らによって起された大乗仏教の思想は、このような伝統仏教の世俗否定性にたいする批判から起った。(中略)いわば、龍樹は仏教者にたいへんむつかしい実践を命じるのだ。
人間は、いつも、とらわれの世界に住んでいる。自己にとらわれ、他者にとらわれ、小さな世界にとらわれているので、自由をえない。自由をえないから、本当に楽しくない。そういうとらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体となることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる。
密教では無我を言わない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と他の多くの仏教宗派、たとえば禅とちがっているところである。禅では否定の契機が強いのにたいし、密教では肯定の契機が強い。人間ばかりか、一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。しかも、我と欲は、人間存在の根源であるとともに、あらゆる人間的闘争と妄想の根拠でもある。この我と欲を脱却せよ、禅は、そのために、無我、無欲を説く。しかし果して、人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることではないとしたら、いたずらに、人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。
密教は、何よりも、強烈な生命力を説く仏教である。それは永遠に否定の深淵に人間をおきざりにすることを好まない。もう一度人間に、生命の歓喜の歌を歌わせねばならぬ。禅も、もとより、単なる否定に立ちとどまるものではない。しかし、密教の立場からいえば、その道は、まだ、真の肯定に達していない。汝は、何故に、墨染の衣に身をつつみ、苦行者のごとき、悲しい面持をするや。
密教哲学の魅力を、著者は次のように説く。「『世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ』。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。私が真言密教に強く魅かれ、現在も魅かれているのは、そういう思想である」と。ー 梅原猛『空海の思想について』【講談社学術文庫】
どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ。
自分の力で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものだと思う。日々を信頼して身を委ねていけば、きっと、世界は幾つもの輝きに溢れた瞬間を見せてくれる。 pic.twitter.com/FIXy3OAUc3
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月7日
希望の光は、朝日と共に昇ってくる。
1・趣味の合うひとと一緒にいればいい。
幸福が好きなひともいれば不幸が好きなひともいるし、重く考えることが好きなひともいれば軽やかな生き方が好きなひともいるし、心配や批判が好きなひともいれば信頼や励ましが好きなひともいる。こういうのは全部趣味が違うだけのことだから、端的に「趣味の合うひとと一緒にいればいい」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月27日
2・真理はひとに優しい。
イライラしないコツは「すべてはベストタイミングである」と信じることだと思う。雨が降ることの中にも、電車に乗り遅れることの中にも、苦手な人と同じ空間を共にすることの中にも、多分、何かしらのヒントは隠されている。神様からの謎解きみたいなものだと思えば、毎瞬間は宝物探しみたいなものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月30日
3・この人でいいかなではなく、この人といたいと思える人といること。
この人でいいかなではなく、この人といたいと思えるひとといること。中途半端な思いではない、自分から前のめりになって愛していけるひとやものを大切にすること。誰かに何かを言われても、自分には「これが最高だ」と思える瞬間を大切にすること。 pic.twitter.com/9lCC1ykZgU
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月2日
4・生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。
みっともなさばかりが溢れる夜は、感謝できることを探そう。今夜寝る場所があり、明日食うに困らないカネもある。家族は元気で、友達もいる。好きな音楽がある。好きな自然がある。両足があって、指先がある。愛を語る口があり、愛を語る言葉がある。俺はまだ生きていて、何かを伝えたがる熱量がある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月3日
5・「ない」に賭ける。
夕陽を眺めながら「弱点を克服する必要はないのだ」ということを思った。弱さを克服することが強さなら、弱さを認めることも、弱さを曝け出すことも、同じように強さだと思う。弱いからこそ誰かを必要とし、弱いからこそ誰かと繋がり得るのだと思う。 pic.twitter.com/EQdpIQdnEo
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月4日
6・自分の代わりに自分を生きてくれるひとはいない。
あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を簡単に見失ってしまう。大事なことは、多分、日々を肯定しようとする姿勢だ。特別な人間になろうとはしなくても、自分の心が「いいな」と思える瞬間を積み重ねた先に、特別な人生はつくられるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月12日
7・「人並み」であることを捨てる。
元気を出さなきゃとか、明るくいなくちゃとか、やりたいことを見つけなくちゃだめだとか、そんな言葉で自分を痛めつけてはいけないのだと思う。生きる力は、ボロ雑巾のように絞り出すものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだ。元気になんてならなくていいし、みんなと仲良くする必要もない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月13日
8・静かな充足感を与えてくれるものは、どれもお金のかからないものだった。
朝の森を散歩することや植物の世話をすること、音楽を奏でることや静かな環境で文章を綴ること、珈琲を飲みながら読書をすることや沈む夕日を眺めること、ひとと話をすることや虫の声を聞きながら夜の空を眺めること、静かな充足感を与えてくれる者達は、どれもお金のかからないものだった。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月23日
9・自由とは「自分が消える」こと。
満員電車の裏側で、都会の喧騒の裏側で、大音量の音楽の裏側で、明滅を繰り返すネオンライトの裏側で、世界の何処かでは、この瞬間も、静かな時間が流れている。大切を護るためには、自分で自分を調律するためには、静かになれる時間が必要みたいだ。 pic.twitter.com/Rw61JrBXG3
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月31日
『【新訳】老子』
無用の用自転車の車輪というのは、たくさんのスポークが輪の中心の甑に集まっている。この輪の中心の軸は空っぽだ。でも、真ん中が空っぽだから車輪は車輪の働きができるんだ。粘土をこねて器を作る。器の中は空っぽだ。何もない。でも、中が空っぽだから使い道があるんだ。家の造りだってそうさ、中が空っぽだから部屋として使えるのさ。人は目に見えるもの、形のあるもの、中身の詰まっているものを大事にするけれど、じつは、本当に大事なものは、何もない “空” が支えているんだよ。これを “無用の用” というんだ。『【新訳】老子』【PHP】
10・希望の光は、朝日と共に昇ってくる。
何をしてもいいし、何もしなくてもいいし、何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいいのだと思う。しなければいけないことは何もなくて、唯、自分で自分を縛っていただけなんだろう。疲れた時は眠ることだ。希望の光は、朝日と共に昇って来る。 pic.twitter.com/lFggVZwj3e
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月14日
弱さは「希望」だ。
クロスバイクの神様の降臨。
坂爪様
はじめまして。
◯◯と申します。栃木県足利市に住む
24歳男性です。
ブログ、いつも興味深く読んでおります。ありがとうございます。
前置きが不器用で恐縮ですが、
わたくし自転車がとても好きで、
本日ブログの投稿を見て、カレラの
ロードバイクという記述にひとり
喜びを感じました。
最近あまり乗っていないブリヂストンの
クロスバイクがあるのですが、
もし坂爪さんがご希望なら無料で
お譲りします。サイズM、スチールフレーム、泥除け、荷台等付属です。
都内もしくは川崎あたりまでなら
お持ちできます。
ご興味ありましたら連絡ください。
遅くに失礼しました。
◯◯◯◯
iPhoneから送信
貰い物だらけの日々の中で。
賛美歌「慈しみ深き」に慰められる。
生きる気力をなくした時は、
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月10日
・好きな歌を歌う
・好きな道を歩く
・好きな人を思う
この三つが効果的でした。 pic.twitter.com/G6tLwA0ELL
いつくしみふかき ともなるイエスは
つみ とが うれいを とりはりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを
いつくしみふかき ともなるイエスは
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん
いつくしみふかき ともなるイエスは
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん
不安になるのは当たり前で、さみしくなるのも当たり前のことだと思う。元気な時に「この調子で行こう!」と思うことは簡単だけど、元気のない時も、元気のないままで「この調子で行こう!」と生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。無様でも、不器用でも、自分を責めてはいけないのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月4日
『お灸のすすめ(+せんねん灸オフ)』
古くから親しまれてきた自然療法、「お灸」。実は、高温多湿な環境や、水分をたっぷり含む食文化を持つ、私たち日本人には相性ばつぐん。小さな刺激で体をじっくりあたため、いたわることのできるお灸を、ぜひ、体感してみてください。ー 『お灸のすすめ』【池田書店】
弱さは「希望」だ。
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月10日
こんにちは。はじめまして(*^^*)
◯◯◯◯と申します。
わたり文庫の『いつも忘れないで』読んでみたいと思い、応募します♪♪
いつもメールを読ませて頂いてます!
ここ2週間程気持が塞ぎ込んで、家に引きこもっていました。(現在妊娠4ヶ月の専業主婦です)
やりたいことも見つからず、楽しいと思えることもわからないような気持ちだったのですが、
そんな時に坂爪さんのブログを読んで、
この子のためじゃなく、
私のためにこの子(お腹の子)と生きたい!
と言う言葉が浮かんで、すごい勢いで泣きました。
私のために動く
本当はずっとそうしたくて、
そうしていいんだと坂爪さんの言葉に背中を押された気がしました!
どこかで子供のために我慢しなきゃ…って思ってたんです。それが常識なんだと。
もちろん体調を優先して無理なくですけど、
妊婦でも、出来ることがある!
そう思えました(*^^*)
今やりたいことは、会いたい人に会いに行くことです。
そして食べたいものを食べることです♪
坂爪さんのブログで元気を、気づきをもらいました!
ありがとうございます(*^^*)
メールが長くなって申し訳ありません!
応援しています!!
◯◯◯◯