観光とは「光を観る」こと。
バンガロール在住の日本人女性。
有為に対する「無為」に賭ける。
アルゼンチン「空を見る話」
最高の観光名所は「人間」だ。
最高の観光名所は「人間」だ。 pic.twitter.com/HxAsj7vnak
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月19日
観光とは「光を観る」こと。
ある一定の話題について、信頼できるひとに話をするというよりも「ひとを信頼して」話をすればいいのかもしれない。難しい場合もあるけれど、先に、自分から信頼を寄せること。すぐに気持ちは伝わらなくても、心のこもった言葉は聞く人の土壌に種を蒔き、長い時間を経た後に咲く花もある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
真実の響きはきっと、そのひとが言葉にしたことではなく、そのひとが言葉にすることのできなかった部分に宿るものだと思う。言っている(書いている)ことだけではなく「そのひとが言い切れなかった(書き切れなかった)部分」にまで寄り添おうとすることを、思いやりと呼ぶのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
コミュニケーションは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」の方が、多分、何億倍も大切だと思う。心のない言葉はどれだけ正論でも空疎に響くし、無様でも、心のある言葉には真実の響きが宿る。言葉はただの容れ物で、感情と合致した瞬間に『言葉は音楽になる』のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月21日
圭吾さんバンガロールというのはどこだろうと、探してみるとインドの南のほうなんですね。日本からインドへ一瞬でメールが届くのは改めて考えると不思議な感じです。日本の実家に戻って3年間やってきたことに違和感を感じ、自分がそれを演じてるような気がしてきて、引っ越しを機に全てを捨てようとしたところ、引っ越しできなくなり、これは神様がちゃんと向き合えと言ってるのね、と観念し、正直に辞めたいということと辞めたい理由を言いました。みんな引いてるだろうなと思いつつ帰ったところ、あるメンバーから「カミングアウトに立ち会えたことが、うれしい」とメッセージがあり、ああ、ちゃんと言ってよかったなあと思いました。圭吾さんが言っていた「ひとを信頼して話すこと」、これがちょっと腑に落ちた気がします。どうせ分かってもらえないだろうと適当に話したりごまかしたりしないで、きちんと気持ちを話せば、分かってくれる人はいるんだなあと。もういい歳なのですが、今までずっとずっと「どうせ分かってくれないどうせ私になんて興味が無い」と思って生きてきた気がします。だから目の前の人に、言葉をにごして答えたり、適当にごまかしたり。でも最近ちょっとそれをやめてみようと思って、銀行の外貨両替の窓口などでも、今までなら「ちょっと旅行に」くらいでにごしていたのを「今度モンゴルに行くんで、ドルの小銭がいるって書いてあって」と正直に話すと、窓口の人と話が盛り上がったり。そんなことが、うれしかったり。昔、修学旅行の班や文化祭などで、自分の班だけはつまらないと思ってきました。でも、つまらなくしていたのは私だったんですね。自分を開けば相手も開く、自分が楽しんでいたら、きっとみんなも楽しんだはず。そんなあれやこれやを、遅まきながら圭吾さんに教わって実験して実感して、そんな感じの昨今です。圭吾さんの言葉に出会えてよかったと本当に思います。さっきまで出ていた月は隠れてしまいました。
ストックはないけれど、フローはある。
シェムリアップの奇跡。
自分をオープンにするということ。
ストックはないけれど、フローはある。
心配を投影するか、信頼を投影するか。
カンボジアのこどもたち。
カンボジアのこどもたち。 pic.twitter.com/ZqPDDl2qN2
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月14日
レールはないけれど、大地はある。
朝焼けのアンコールワット pic.twitter.com/lj4EpNgK4L
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月15日
ひとつの事がうまくいかなかったからといって、すべてがダメになる訳じゃない。ひとりに嫌われたからといって、すべてのひとに嫌われた訳じゃない。ひとと同じであることが、自分を磨り減らすことだけが人生じゃない。レールを外れても、大地は残る。 pic.twitter.com/cNAF0yymM7
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月15日
相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心を同時に傷つけている。目の前にいる人間を愛するようにつとめることは、同時に自分を愛することにも繋がる。自分の心を開けば世界も開くし、自分が閉じると世界も閉じる。この世の中は、多分、自分が投げたものが返ってくるように作られている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月11日
夜分に恐れ入ります。坂爪さんのTwitterをいつからだったでしょうか、毎日拝見しております。今、一番にお伝えしたいことは、とにかく「有難う、生きていてくれて、存在してくれて有難う」という言葉です。坂爪さんは誰かに感謝されようと発信してらっしゃるわけではないと思いますが、数々の言葉に、写真に、救われたり、背中をおされたり、寄り添ってもらったりして、感謝の気持ちを抱いている方は多くいらっしゃるように感じます。ここ暫くの間、理不尽なことや言い様のない哀しみを感じたりした時に、夜空を見上げながら坂爪さんの言葉や存在を思い、それだけで心を支えて頂きました。と同時に、事情は違ってもいま私と同じように、坂爪さんの存在に涙している人もいるだろうと思いました。こんなことを言うのはおこがましいですが、ブログを拝見しておりますと“私と感覚や考え方が同じだなぁ”と思うことがあります。そして、ブログの内容が今の自分に丁度タイムリーなものであることもしばしばで、確か以前にも他にも同じように仰る方が居られることをブログで拝見したような気がします。坂爪さんを中心に繋がっているような、不思議な糸を感じます。坂爪さんのブログで、特に私にとって大切なものは、瞬間日記というアプリに保存しております!!今まで感謝の気持ちをお伝えしようと思いながら、なかなかメッセージを送れずにおりましたが、勢いで書いてしまい、纏まりのない文章で申し訳ございません。でも、何が起こるかわからない人生。あと数時間後に100%生きているとも言えません。だからこそ、こうしてお伝えできて良かったです。動物や植物、あらゆる自然に包まれながら、心身ともに健康で過ごすことができるように祈っております。深夜のガストにて…○○○
ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
シェムリアップ散歩
知識を増やしてはいけない。
川を眺めていたら「知識【経験】を増やしてはいけない」と言われた気がした。多ければ多いほどに良いと思っていた知識【経験】だけれど、それに依ることで、ある種の自在さを失ってしまうこともある。自然は、何もないまま、平気で、満ち足りている。 pic.twitter.com/yDifKt0gXO
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月12日
ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
俺が、俺が、となるほどに、世界から自分が引き剥がされていくような感覚を覚える。美しい景観を目の当たりにした時、目的もなく歩き続ける時、ひとつの何かに集中する時、自分が溶けてなくなって、世界と一体化するような感覚を覚える。自分を強く主張するほど、多分、人間は寂しくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
認めてほしい気持ちは悪くない!ただ、見てほしい相手を間違えてた。「人」に認めてほしいと思ってやっちゃだめなんだなー。にごりの元。でも天に向かってならいいんだ。こんなに楽しく生きてるよー!と。そして、出して出して楽しんでいると、天はちゃんと見ていて、人を通してサインをくれる。
— masami (@mamithai2014) 2016年6月7日
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
坂爪さんこんにちは!今頃はカンボジアの風に吹かれている頃でしょうか?先週は本当にありがとうございました。坂爪さんたちと別れた夜には、また別のお客様が日本から来て、バタバタと過ごした1週間でした。バタバタだけが要因でなく、自分に起こっていることをなかなか言葉にできずにおりました。しかし、その合間にも、いろんな方が感想を伝えてくださったり、ブログにかいてくださったり、あの日出会った方とお茶をする約束をしたりと、後からもたくさんのギフトをいただけた1週間でした。「わたりカフェ」、企画しだした当初は、実はちょっと「やらねば」という気持ちがありました。しかし、「うまくやろうと思わず、楽しんでやろう!」と思えたところから、ようやくワクワクが始まった気がします。「楽しく」は、私の課題なんです(笑)皆さんと会うまでは、いろいろ話をしたいと思っていたのですが、始まって、いらっしゃった方たちの様子をみてたら、なんか良い意味で「どーでもよく」なっていました。(笑)坂爪さんとちょっと離れたキッチンからの眺めを一緒に見て、幸せな気持ちを共有させてもらえた、あの瞬間だけで私の気持ちは「満腹」だったんじゃないかと思います。満腹だと、あとは全部溢れていきますね(笑)結果的に、皆さんがいろんな気づきを持って帰って下さったり、良い気持ちになってくださったり。それを後日伝えていただいたことで、時間の経過につれ減ってくるお腹を、また満たしてもらえました。^ ^なんという循環!!!これが「わたりカフェかー!!!」と、身をもって体験しました。お話会では、「稼ぐの苦手なんで」と、テヘヘと笑う皆さんの様子を見て衝撃を受けました。私もそうなんですが、こういうのすごく抵抗があったんです。でも!いいのかー!!!苦手なんでって、いっちゃえばいいのかー!!!すごく気が楽になりました。今、1週間経っても、思い出すと、すごく幸せな空気に包まれているのを感じます。日本に帰っても、この幸せな感じを忘れたくないです。親子共々。本当に素敵な時間をありがとうございました!ではではまた日本でお会いできる日を楽しみにしております。それまでは、濁らずこのままいけるように、残りのバンコク生活楽しみたいと思います!それでは、良い旅を!まさみ
歩き出す前が、一番疲れている。
ルアンパパーンの托鉢僧。
歩き出す前が、一番疲れている。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。ー 鴨長明「方丈記」
絞り出すではなく、溢れ出す。
坂爪さん、遅い時間に失礼致します。今日、いばやトークに参加させていただいた○○○○です。興奮冷めやらず、こんな時間にラインしてしまっています、お許しください。今日はお会いできて、本当に楽しかったです。今まで坂爪さんの言葉に沢山の勇気をいただいてきましたが、今日直接お会いして、同じ場所で同じ空気を感じることの凄さ、素晴らしさを改めて感じました。やっぱり、リアルにかなうものなし!です。言葉ではなく、感覚でたくさんのことを教えていただいた気がします。いいとか悪いではなく、ただそこに坂爪さんとして『在る』『在ろうとしている』んだなあと思いました。私も私の全てを今のまま、受け入れていきたいです。このような機会を与えてくださった全てに感謝しています。そして、このような行動を起こせた自分にも、拍手したいです。おやすみなさい。またどこかでお会いできることを楽しみにしています。
まさかのご連絡とても嬉しいですこちらこそチェンマイまで来るナイスなきっかけになりました実際に payacaさんに出向いた事でけいごさんを はじめ普段じゃまず出会えない様々な環境、考えの方達との交流、、サイコーでしたタイに来て数時間にて旅の醍醐味はほぼ満たされました笑少し勇気を出しメールを送りチェンマイへ行ってみてよかったですけいごさんありがとうございました皆さんにもありがとうと言いたいですではเราจะได้เห็นคุณอีกครั้ง
無理をするということは、まるで自分を雑巾のように扱うことで、最後の一滴が出なくなるまで、絞り出して、絞り出して、最後には絞りカスになってしまうまで自分を苦しく締め付けてしまう。きっと、純粋な幸福感や動機は『絞り出すものではなく、溢れ出すもの』なんじゃないのかな、と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月9日
人生とは、ボーナスタイムである。
人生とは、ボーナスタイムである。
日本に生まれた恩恵を。
離れた時間が、会えない距離が、人間を近付けることもあるみたいだ。 pic.twitter.com/gEafwy4H8j
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月6日
出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい。
素晴らしいことを言っているはずなのに、何も胸に響いてこない言葉がある。多分、言葉はその人の生き様と密接に繋がっていて、言葉に生き方が追いついていない時、聞くひとの心には何も届かない。自分を大きく見せるでもなく、自分を小さく見せるでもなく、ただ、等身大の言葉で話すことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月7日
バンコクわたりカフェに赤ちゃん連れで参加した○○○○です^^一瞬の出会いでしたが、わたしなりにことばにしたい思いに駆られました。
子どもと育つ世界にどっぷりの日々のわたしにとって、坂爪さんと、team0のお二人のまとう空気感はどこまでも眩しく、20代のお二人の笑い声さえも、とてつもなく懐かしく遠くに感じ入ってました(笑)
子どもがいるせいか、お三方も子どもに見え(笑)どーやったらこんな風にどこまでも生きる力がつくのか、3人3様の生き様に一瞬でもクロスし、エッセンスを貰ったような気がします。会場にいて、こんなに『ありがとうございます』と言う人を初めて見ました。坂爪さんから発せられる『ありがとうございます』は、相手を通り越して自分に返しているかのような、透明なことば。
いやー、これこそが、長年の生活の重みなのかと、聴き入ってしまいました。わたくし、日本では家族一緒に暮らし、タイに赴任して週末同居の単身赴任となり、家族とはなんぞや?という問いが頭の中にずっとありました。消しても消しても。心にぽっかりと穴があいた時がしばらく流れいました。
わたりカフェを後にして、階下に下りると、『おかあーさーん』と2人の子どもが駆け寄ってきて、(たった)2時間ぶりの再会なのに、両手を広げて求め合い、この瞬間、言葉にはならない(家族とはなんぞや?)の答えがからだの隅々まで入ってきてグァーンと満たされました。
答えは感覚としてしかないけれど、一瞬で何かがやってきて、もう充分だよの思いが溢れてきました。凛とした生身の坂爪さんに、まさか!のバンコクでお会いできて、眼差しをみれただけで、わたしは語ることもなくいっぱいいっぱいだったようで。坂爪さんの『ありがとうございます』の風が今でも心地よく吹いています。
何もかもが充分満たされている。言葉ではなく、思いで満たされた日曜日の夕方。
果てしない偶然が続くことを祈って。よき旅となりますように。○○○○
どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。
1・自分を開けば、世界も開く。
バンコクのわたりカフェにお越しいただいた皆様、ありがとうございました!!こんなに来てくれるとは思わなんだ!!何かをやらなければいけないというよりも、自然に「何かをやりたくなってしまう」その姿に、可愛さは宿るのだと思いました。多謝!! pic.twitter.com/y7mvbgdqbC
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
2・悪を糾弾する心も、同じように悪である。
悪を糾弾する心も同じように悪であり、多分、何かを責めているひとの心は静かでもなければ自由でもない。聖書にある「罪のない者だけが石を投げよ」にある様に、他人がした事やしなかった事を見るのではなく、ただ、自分がした事やしなかった事に集中することが「自分を整える」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月31日
3・ヘタクソなままでいいし、ヘタクソなままがいい。
自分を必要以上に大きく見せようとしないこと。同じように、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。最低限の言葉を選んで、相手に伝わるように、ゆっくり、静かに話すこと。大切に言葉を扱えば、多分、何かを伝えることは難しくない。 https://t.co/nqYAznXSfG
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月2日
4・自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。
自分の良い部分を肯定することは簡単なのに、自分のダメな部分を否定することも簡単なのに、自分のダメな部分を肯定していくことは、なぜ、こんなにも難しいことなのだろう。多分、弱さとは「自分の弱さを認められない弱さ」のことだ。自分の弱さを認めた分だけ、きっと、優しい人間になる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月2日
5・一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。
あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。特別な人間になろうとはしなくても、ただ、自分の心が「いいな」と思える瞬間を積み重ねた先に、特別な人生は築かれていくのだと思う。 pic.twitter.com/296LieKJKA
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月2日
6・自分が溶け出していくこと。
俺が、俺が、となるほどに、世界から自分が引き剥がされていくような感覚を覚える。美しい景観を目の当たりにした時、目的もなく歩き続ける時、ひとつの何かに集中する時、自分が溶けてなくなって、世界と一体化するような感覚を覚える。自分を強く主張するほど、多分、人間は寂しくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
7・何度でも、宝物を探しに行こう。
これが真理だ!と、まるで悟りを開いたような気持ちになっても、数日も経てばまた同じようなことを悩み始める。ひとつの答えを常に胸に抱き続けることは、人間には、とても難しいことだ。多分、答えはひとつだけじゃない。だからこそ、僕達は、生きている限り見つける楽しさを喜んで行ける。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月3日
8・無理をすることは、ガチガチの固体。
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
9・同じ気持ちを分かち合う。
綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分かち合える関係性は、素晴らしいものだ。 pic.twitter.com/wVgxIErkxy
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月4日
10・どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、行きたい場所に行くということ以上に、優先するべきことはあるだろうか。自分の理想は今日も生きたと思って毎晩眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、人生に幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月29日
海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。
近江八幡「日牟禮八幡宮」
尾賀商店「(坂爪史上最高の)近江牛カレー」
近江八幡「ラコリーナ」
大津駅「琵琶湖」
コップに半分の水。
カテゴライズされることへの違和感。
海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。
天国みたいな滋賀県の朝だ。 pic.twitter.com/xsNO66she8
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月1日
悪を糾弾する心も同じように悪であり、多分、何かを責めているひとの心は静かでもなければ自由でもない。聖書にある「罪のない者だけが石を投げよ」にある様に、他人がした事やしなかった事を見るのではなく、ただ、自分がした事やしなかった事に集中することが「自分を整える」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月31日
自分を必要以上に大きく見せようとしないこと。同じように、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。最低限の言葉を選んで、相手に伝わるように、ゆっくり、静かに話すこと。大切に言葉を扱えば、多分、何かを伝えることは難しくない。 pic.twitter.com/Acnrq2adO4
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月26日
死なないために、生きている訳じゃない。
1・ちあきさんが素晴らしかった。
2・さとみさんの「ピットイン力」
3・葛飾北斎の観察力。
4・ルキノさんと出会えた。
5・冬樹さんの「死なないために、生きている訳じゃない」
6・みさとちゃん(仮名)の笑顔。
7・空海と「俺は、一喜一憂していたいのだ」
8・「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」
9・布施明の『MY WAY』
10・夕陽が綺麗だったこと。
仕事はつらいものだとか、ひととひととは分かり合えないものだとか、人生はこんなものだとか、後ろ向きな意味での「こんなものだ」に負けちゃいけないのだと思う。人間は、多分、自分が決めただけ幸せになれる。奇跡は何度でも舞い込むし、そこには「こんなものだ」という天井はないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月28日
流動的な存在であるために。
国立のイベントにお越しいただいた皆様、ありがとうございました!!巷では「人にはそれぞれ役割がある」などと言いますが、役割なんてあってもなくてもどちらでもよくて、どん底でも笑顔になれたらそれだけでOK!だと思いました。遺影用に動画!! pic.twitter.com/jlruiH7bQL
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月24日
自分に肩書きを与えない。
流動的な存在であるために。
人は幸せになりたくて何かを求めるはずなのに、家族とか、恋人とか、家とか、金とか、仕事とか、常識とか、一般的な世間体とか、求めたものに縛られるほどに不幸になる。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
皆が、意味に進む中で無意味に進み、価値に進む中で無価値に進み、利益に進む中で無利益に進み、所有に進む中で無所有に進み、自己に進む中で無自己に進み、強さに進む中で弱さに進み、賢者に群がる中で愚者を貫き、有益に生きる中で無駄に死ぬ。無駄に賭ける。無駄に生きて、無駄に消える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月25日
雨の日は、沢蟹も出る。
『「足もみ」で心も体も超健康になる!』
アキレス腱の周囲がもったりとして、足首のくびれがほとんどなくなってしまっている状態の人も即、足もみを。足首が太いのは遺伝や体型のせいではなく、毒素や老廃物が付着しているケースがほとんどです。しっかり足もみをすれば、必ずキュッとしまった足首になり、全身の肌ツヤもよくなります。
何者でもないからこそ、すべてになることができる。
海や空や風を、自分のものにしたいと思うひとはいない。だけど、それを見ている間だけは、世界はそのひとのものなのかもしれない。世間的な肩書きとか恋愛とか、所有欲とか執着心とか、多分、何かを自分のものにしようとするから苦しくなるんだ。 pic.twitter.com/R9Kk0TRg0D
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月25日
何者でもない自分に耐えきれないから、何者かになろうとしてしまう。何もしていない自分に耐えきれないから、何かをしようとしてしまう。いまの自分には社会的な肩書きは何もないけれど、装備したもので自分を誇ろうとしてしまうこともあるけれど、何者でもなく生きる強さが、いまは必要なのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月25日
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
天才とは、システムのエラーである。
人間が死ななくなる。
完全没入型のヴァーチャルリアリティ。
「わたし」とは誰なのか。
いろいろなことがわからなくなる。
『シンギュラリティは近い』
天才とは、システムのエラーである。
⚪︎⚪︎すべきとか、⚪︎⚪︎しなければいけないという言い方や考え方は、できることなら控えていきたい。誰かが決めた模範的な優等生の姿よりも、「⚪︎⚪︎したくなる」とか「⚪︎⚪︎してしまっていた」という姿の中に、その人だけに宿る自然や、その人だけに宿る魅力はあるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
恐れなければ、心を閉ざしてしまわなければ、人生は素晴らしいものになるんだ。 pic.twitter.com/rEsaeOzUwg
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月23日
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
もっと遊べ。もっと狂え。
日本を逃げる。
イベント情報
『インド人の頭ん中』
インド人の入浴は朝なので、朝シャワーをした後にプージャ(神様に捧げる儀式)をすることが多い。また、プージャのときにホラ貝を吹く人も多く、住宅地では、どこからともなく、ホラ貝の音が聞こえてくるのが、朝の情景だ。毎日、ホラ貝を吹くのは、肺にもいいそうである。忙しい現代人の中には、通勤の車の中でマントラなどをCDやテープで聞く人も非常に多い。タクシーでも、朝一番に乗ると、そういったテープをかけている場合が多いのだが、テープにとどまらず、車の中でお香までたいてしまうところが、さすがインド。灰が車内に落ちても、へーちゃらなので、客はすごい煙に巻かれ、マントラを聞きながら、朝もやの中を移動することになる。しかし、いざ日本に帰ると、懐かしく思い出すのは、インドのそんな朝の情景なのである。冬野花「インド人の頭ん中(中経の文庫)」
もっと遊べ。もっと狂え。
こんなことをしてしまったら自分はダメになってしまうんじゃないだろうかと思うことの先に、多分、新しい自分はいる。自分の純度を高める為には、蛇が脱皮を繰り返すように、古い自分を脱ぎ捨てる必要がある。大切なことは、繊細さと、大胆さだ。大袈裟に言えば「もっと狂え」ということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月21日
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月3日
自由でありたいと思うならば、自分を批判してくるひとの「批判する自由」も認めないといけない。批判に屈するでもなく、認めた上で、話は聞くけど言うことは聞かない。ごめん、やっぱり俺はこうだわという感じで(悲壮感を漂わせることなく明朗に)自分の道を歩けばいいのだと思いました。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月19日
自然のままの姿が、多分、一番美しい。
ローズマリー軟膏
圭吾さんへこんにちは。今日はいつもより多めに軟膏を送りたいと思います。見た目がフラットになっていないものは、私が知人に差し上げる物用として冷蔵庫内でとっておいたものをスパチュラで入れたものです。気温も高めなので、やわらかくなりやすいですが、手荒れで困っている方々にプレゼントして下さい。圭吾さんからもらうことで、きっともらった方はさらに嬉しいと思います。軟膏を使って下さる方々へお伝えください。夏場は涼しい場所に置いて下さい。とてもやわらかくなりますので。それから、何か不足しているものはありますか。消耗品でも何でも、気がついたものがあれば言って下さいね。⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎
『夏の森』
幸福な人っていうのはどんな状況の中でもどんな景色の中にもどこかいいところを見つけられる人そしてどんなにすばらしい景色の中にもある影をうとまない人
『わたしは樹だ』
そうして いつか……、わたしにも たおれる ひが くるだろう。生きて 生きて、そして そのときが きたら、わたしは ゆっくりと たおれよう。そして、つぎに やってくる タネたちの ねどこに なろう。わたしの いのちは、つぎの樹へと、森へと、つながっていくのだろう。
『老子入門』
得道の聖人は自身にためこまない。何もかも他人の為にしながら、自身はさらに心豊かになっている。何もかも人に与えながら、自身はさらに所有(徳)がふえている。
自然のままの姿が、多分、一番美しい。
自分の心を軽く扱う人達を相手にするほど、自分も他人の心を軽く扱うようになる。同じように、自分を大切に扱ってくれる人達と同じ時間を過ごすほど、自分も他人を大切に扱えるようになる。大切なものは大切な人達との時間であり、自分の心を軽く扱う人達を相手にしてはいけないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月8日
自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。路傍の草花に魅了されるのは、其処に「有終の美」を見るからなのだと思う。誰が見るでもなく、誰に認められるでもなく、与えられた命を無心に生き抜くその姿に、心は共鳴するのだと思う。 pic.twitter.com/y1bTpVfbmZ
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月9日
自由とは、常にやりたいことができる状態のことだと思っていたけれど、最近は【自分が消えた状態が自由なのだ】と思うようになった。自分が自然と同一化して消えた時、楽しさも寂しさも悲しみも喜びもない、ある種の『無』だけが残る。自分が透明になるほどに、多分、すべてが自分になる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月10日
いつも空を見上げているような気持ちでいたい心の解放が必要だ人には時々そして帰るところも銀色夏生『夏の森(角川文庫)』
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。
花と月を友にして。
自分の中にいる小さなこどもが、外に、外に、飛び出したがっている。ここから出してくれと、時折、小さな暴動を起こしている。大人になるということは、こどものままではいられないということだと思っていたけれど、違った。自分の中の小さなこどもに、広い、広い世界を見せてあげることだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月14日
人間の価値は、誰かに褒められたからと言って増えるものでもなければ、誰かに貶されたからと言って減るものでもない、常に一定でそこに在る【不増不減】のものだと思う。大切なことは、多分、過剰に調子に乗らないことと、過剰に自分を責めないことだ。自分を責めても、誰も幸せにならない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月15日
『良寛』
独りで生まれ、独りで死に、独りで坐り、独りで思う。そもそもの始まり、それは知られぬ。いよいよの終り、それも知られぬ。この今とは何か。それもまた知られぬもの。展転するものすべて空である。空の流れの中にしばらく我れがいるのだ。だから、是もなければ、非もないはず、そんなふうにわしは悟って、こころゆったりと、時のすぎるにまかせておる。
静かな窓の下で、衣をととのえて坐禅を組んでいる。臍と鼻の穴をまっすぐにおくと、耳が肩までたれてくるではないか。窓が白くなった。月が出たのだ。しずくがひとつひとつ落ちる音がする。雨もやんだ。このひとときの、このこころもち、ああ、たださびしさがあるだけだ。ほかのものは何もありはしない。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。弱い自分は、苦手だなと感じるひとと同じ空間にいるだけで、露骨に胃腸が痛くなる。自分で自分を護ることが難しくなる。ひとりの時間を好むことは、孤独に耐える強さではなく、そうでもしなければ生きていけない自分の弱さだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月8日
お願いだから、負けないでくれ。
尾道! pic.twitter.com/RtNJmhA9gv
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月12日
言葉に支えられて、生きる。
いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。いやだなあと思うことを続けていると、美しくないと思うものを受け入れてしまうと、自分の存在まで醜いものに成り下がる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
『モーターサイクルダイアリーズ』
落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ。
お願いだから、負けないでくれ。
瀬戸内海は、もう夏だ。 pic.twitter.com/GFMPwxuPg6
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月11日
星は誰のものでもないからこそ、みんなのものになり得るのだと思う。 pic.twitter.com/6d5ExuGlWX
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月12日
学校に行きたくないとか、仕事に行きたくないとか、これらは我儘でも弱さではなく、心の底には「正当な理由」が必ずあると思う。必要なのは、それを押し殺す為の努力ではなく、それを言語化する為の努力だと思う。嫌だなあと思うことを受け入れ続ける日々を過ごすと、最悪の場合、魂が腐る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月13日
「泡になる」その想いは泡になる泡になって消えてしまうだから気にしなくていいこの想いも泡になる泡になって消えてしまう消えてしまうだろう
「抜け殻」二人の関係がよかった頃の言葉を思い出し つないでもそんなものには意味がない二人の関係がよかった頃の言葉は二人の関係がよかった時にだけ正しく機能する二人の関係が変わってしまった今ではそんな言葉などもうとっくに死に果てている見てみろただの抜け殻だおまえが抱いているものは抜け殻ではないか力をこめればすぐに壊れてしまうだろう聞きたくないかできないと泣くのか俺が壊してやるがどうだ愛というもののなれの果てを俺が教えてやるが どうだ愛しき君よ抜け殻など捨てて現実の二人を見てみろそこに希望があるのが見えないか
「白い空」羽ばたく鳥の遠い後ろにひろがる空白い空散りぢりになる葉っぱ風の音憧れたあの人憧れが消えていった消えてしまった今日白い空に羽ばたく鳥の広い背中にひろがる空
「希望」俺達はいっせいにおどろき あこがれたこの空の青さ 広さ見たこともない狭い路地の上に広がる青さ まぶしさいまなにか聞こえた?なにか胸が躍るようなものじゃなかった?
「すみわたる夜空のような」何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいよりすみわたる夜空のような孤独を
「君へ」君は好きなことを、好きなふうにやるべきだ。そのことが他人から見て、どんなに変でも、損でも、バカだと言われても、気にするな。だって彼等は、君の願いを知らない。君が何をめざし、何に向かっているのかを知らない。君は彼等とは違うものを見てるのだから。あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。そのことを忘れないで。他人の説教やからかいなど気にせずに、どんどんやりなさい。けして周りを見たらダメだ。仲間はいないんだ。すくなくとも途中には。君はやりたいように、どんどんやりなさい。やりたいことを。好きなやり方で。その行為が同時に君を救うだろう。その行為は同時に人をも救うだろう。そのことを忘れないで。銀色夏生「すみわたる夜空のような」(角川文庫)
さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。
諦観の先に得たもの。
『禅とはなにか』
人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。
孤独や無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。
さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。 pic.twitter.com/Yvk62K1xWl
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月10日
自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。路傍の草花に魅了されるのは、其処に「有終の美」を見るからなのだと思う。誰が見るでもなく、誰に認められるでもなく、与えられた命を無心に生き抜くその姿に、心は共鳴するのだと思う。 pic.twitter.com/y1bTpVfbmZ
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月9日
つらく厳しい瞬間が訪れたとしても、自暴自棄にはならないこと。これは、この二年間の生活の中で、自分が自分に設けたルールのひとつになる。嬉しさや楽しさだけではない、悲しみの中にも、苦しみの中にもよろこびはある。孤独や自分の無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月9日
「告別」おまえのバスの三連音がどんなぐあいに鳴っていたかをおそらくおまえはわかっていまいその純朴さ希みに充ちたたのしさはほとんどおれを草葉のようにふるわせたもしもおまえがそれらの音の特性や立派な無数の順列をはっきり知って自由にいつでも使えるならばおまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろうけれどもいまごろちょうどおまえの年ごろでおまえの素質と力をもっているものは町と村の一万人のなかにならおそらく五人はあるだろう泰西著名の楽人たちが幼齢 弦や鍵器をとってすでに一家をなしたがようにおまえはそのころこの国にある皮革の鼓器と竹でつくった管とをとったそれらのどの人もまたどの人も五年のあいだにそれを大抵無くすのだ生活のためにけづられたり自分でそれをなくすのだすべての才や力や材というものはひとにとどまるものでない(ひとさえひとにとどまらぬ)云わなかったがおれは四月はもう学校にいないのだ恐らく暗くけわしいみちをあるくだろうそのあとでおまえのいまのちからがにぶりきれいな音が正しい調子とその明るさを失ってふたたび回復できないならばおれはおまえをもう見ないなぜならおれはすこしぐらいの仕事ができてそいつに腰をかけているようなそんな多数をいちばんいやにおもうのだもしもおまえがよくきいてくれひとりのやさしい娘をおもうようになるそのときおまえに無数の影と光の像があらわれるおまえはそれを音にするのだみんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときにおまえはひとりであの石原の草を刈るそのさびしさでおまえは音をつくるのだ多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだもしも楽器がなかったらいいかおまえはおれの弟子なのだちからのかぎりそらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいい