いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

観光とは「光を観る」こと。

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カンボジアシェムリアップからバンコク経由で南インドのチェンナイにはいり、チェンナイからシャタブディ鉄道に乗って5時間弱、バンガロールに到着をした。今回、インドに足を運ぶきっかけになったのは、日本在住の女性から「インドに行きたいのですが、ひとりではちょっと心許ないので、一緒に行きませんか?」と連絡が届いたことが発端になる。彼女とは、バンコクの空港で合流をした。

自分で自分の予定をいれることを諦めてから数年が経ち、いまでは、様々な方々が私の代わりに予定を埋めてくれる。25日(土)には日本に戻り、27日(月)には福岡の警固神社にてトークイベントに登壇する。自分のような生き方がどれだけ人様の役に立つのかはわからないけれど、こういう生き方でも(いまのところ)どうにかなっているという、この「どうにかなっている」という部分について、話をしたいと思っている。時間に余裕のある方は、誰でも、お気軽に遊びにいらしてください。

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会

バンガロール在住の日本人女性。

バンガロールには、およそ1200人の日本人が暮らしているという。そのうちのひとり、バンガロールで8年間暮らしている日本人女性・Nさんから連絡をいただき、一緒に食事をした。数日前、たまたまこのブログを開いたら、そこには「バンガロールに行きます」と書いてあり、バ、バ、バ、バンガロール!?となったNさんは、そのままの勢いで連絡をしてくれたのだと話してくれた。

Nさんの紹介で、現地在住の日本人が集まる「合唱サークル」にご招待をしていただいた。私のような新参者にも、優しく、あたたかく、和やかな雰囲気の中で歓迎をしてくれた、非常に優しい方々の集まりだった。正直に言えば、私は、ひとがたくさん集まる場所があまり得意ではない。最大の理由は「普段は何をしているのですか」という定番の質問に、私は、上手に答えることができないからだ。

あなたは何をしているのですか【何もしていません】。旅人ですか【旅人ではありません】。どうしてインドに来たのですか【召喚されたからです】。お金はどうしているのですか【稼ぐことは少なく、貰うことが多いです】。これから何をするつもりですか【何も決めていません】など。質問に答えれば答えるほどに、露骨に、相手との距離が開いてしまう。

有為に対する「無為」に賭ける。

ひとびとがひとつの信仰を持っている中で、自分は、大袈裟な言葉で言えば「異教徒みたいだなあ」と思うことがある。大勢のひとびとが有為を信じる中で無為に賭け、何者かになろうとする中で何者でもないことを貫き、何かを得ることを試みる中で何かを棄てることを試みている、自分を、稀に、異教徒みたいなだあと思うことがある。

人間の外側にはりついているものではなく、外側にはりついているものをすべて取り去った後に残るもの、私の興味は『生身の人間【裸の人間】』にある。初対面での会話が苦手な理由は、おそらく、外側にはりついているものの話題で終始することが多いからなのだろう。そして、人間の外側にはりついているものでそのひと自身の価値が図られるとき、私の存在価値はゼロになる。

自分の気持ちをわかってもらいたいと思う気持ちと、自分の気持ちを伝えることは無理だろうなと思う気持ちと、その、両方がある。初対面を苦手だと感じる気持ちの裏側には、まだ、誰かにわかってもらいたいと願う弱い自分がいる。中途半端で、未練がましい、さみしがり屋の自分がいる。

アルゼンチン「空を見る話」

過去に、自分の前世を見るというヒプノセラピーなるものを受けたことがある。その時の話を短くまとめると、私は、アルゼンチンの人里離れた谷の上に暮らしていたのだという。そして、谷の上から、谷の下のひとびとの暮らしを眺めては、愛する妻とふたりで静かに暮らしていたのだという。

ある日、私は、愛する妻と死別をする。その日を境に、私の中に大きな変化が起きた。それは、いままで谷の下ばかりを見ているばかりの私が、谷の上も見るようになったのだ。きっと、亡き妻を思ってのことなのだろう。目には見えない何かを思い、いままで下ばかりを見ていた人間が、上を見るようになった。たったそれだけの話が、妙に、こころに残っている。

誰かにわかってもらおうと思うな。横を見るな。横につながりを求めるな。上を見ろ。つながりは上にあることを思い出せ。人に理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をしろ。このエピソードを思い出すたびに、私は、そういう気持ちになる。横につながりを求めていた自分を恥じて、うつむきがちになっていた視線を上げて、ただ、空を見る【見えない何かに思いを馳せる】ようにしている。

最高の観光名所は「人間」だ。


インドらしいことはなにひとつせず、路地裏を歩いてはこどもたちや犬や鳥やリスを観察していた。カメラを向けると、こどもだけでなく大人も一緒になって「俺を撮れ!俺を撮れ!」と求めてくる。こどもがいる大人は「うちのこどもを撮れ!」と、こども以上のテンションで迫ってくる。その姿が、そのストレートな態度と気持ちが、妙に胸に迫ってくる。

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インドのこどもは端正な顔立ちをしていて、

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赤ちゃんにさえ、風格がある。

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「娘を撮れ!」と母親に迫られ、

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「俺を撮れ!」とおじさんに迫られ、

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「私を撮って!」と母親に迫られ、

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「俺の家族も撮れ!」と若い父親に迫られて、写真撮影の順番待ちが発生した。皆、写真が好きなのだろう。撮った写真を見せると、おとなもこどもも一緒になって、ニコーッと弾ける笑顔で喜びの表情を浮かべる。お互いに写真を見せ合って、これが俺だ、これがお前だと、肩を叩きあって笑い合う。ただそれだけのことに、ただそれだけの場面に、涙が出そうになる。どうしてなのだろうか、涙の理由はわからないけれど、これだけで「インドに来てほんとうに良かった」と思う。

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最高の観光名所は「人間」だ。

観光とは「光を観る」こと。

観光とは、ガイドブックに掲載されている場所を巡ることではなく、ひとやものやことを通じて「光を観る」ことなのだと思う。光を観るためには、必ずしも海外まで行く必要もなければ、誰も踏み入たことのない秘境の中まではいらなければいけないというものでもない。光を観るものは、いま、ここにある、人間の心だ。


自分のこころが「いいな」と感じる出来事に触れたとき、まるで、こころが再び呼吸をはじめるような感覚を覚える。うれしいことは、いいなと思える出来事に出会えたこと【外側の出来事】だけではなく、自分の中にあるこころが、命が、魂が、まだ、死んでなんかいなかったのだということ【内側の出来事】を教えられることだ。いま、私のこころは光を観ることができていて、きっと、これから先も光を観ることができるのだという静かな予感が、希望になる。


日本在住の女性から、一通のメールが届いた。ひとのこころに光を観た時、きっと、その場所はひとつの『観光地』になる。光は、自分と、自分の人生を肯定する。涙は、自分の濁りと、自分の汚れを浄化する。光を観る時、ひとの温もりに触れた時、こころの中にある冷たいカタマリが溶け出して、流れ出してくるものが涙になる。非日常の中にあるものだけではなく、日常の中にもたくさん転がっているはずの、光を、涙を、ひとりの人間のこころの動きを、しっかりと捉えていきたいと思う。



圭吾さん

バンガロールというのはどこだろうと、探してみると
インドの南のほうなんですね。

日本からインドへ一瞬でメールが届くのは
改めて考えると不思議な感じです。

日本の実家に戻って3年間やってきたことに違和感を感じ、自分がそれを演じてるような気がしてきて、

引っ越しを機に全てを捨てようとしたところ、
引っ越しできなくなり、これは神様がちゃんと向き合えと言ってるのね、と観念し、

正直に辞めたいということと
辞めたい理由を言いました。

みんな引いてるだろうなと思いつつ帰ったところ、あるメンバーから
「カミングアウトに立ち会えたことが、うれしい」とメッセージがあり、

ああ、ちゃんと言ってよかったなあと思いました。

圭吾さんが言っていた「ひとを信頼して話すこと」、これがちょっと
腑に落ちた気がします。

どうせ分かってもらえないだろうと適当に話したり
ごまかしたりしないで、きちんと気持ちを話せば、分かってくれる人は
いるんだなあと。

もういい歳なのですが、今までずっとずっと「どうせ分かってくれない
どうせ私になんて興味が無い」と思って生きてきた気がします。

だから目の前の人に、言葉をにごして答えたり、適当にごまかしたり。

でも最近ちょっとそれをやめてみようと思って、銀行の外貨両替の窓口
などでも、今までなら「ちょっと旅行に」くらいでにごしていたのを
「今度モンゴルに行くんで、ドルの小銭がいるって書いてあって」と
正直に話すと、窓口の人と話が盛り上がったり。そんなことが、うれしかったり。

昔、修学旅行の班や文化祭などで、自分の班だけはつまらないと思ってきました。
でも、つまらなくしていたのは私だったんですね。自分を開けば相手も開く、
自分が楽しんでいたら、きっとみんなも楽しんだはず。

そんなあれやこれやを、遅まきながら圭吾さんに教わって実験して実感して、
そんな感じの昨今です。圭吾さんの言葉に出会えてよかったと本当に思います。
バンガロールは今何時でしょう?日本は今21時52分
さっきまで出ていた月は隠れてしまいました。









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人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

ストックはないけれど、フローはある。

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前回のブログ記事で「所持金の都合でアンコールワットの入場料が払えない」という内容の投稿をしたら、投稿を見てくれたカンボジア在住の女性Nさんから「シェムリアップまで来て、アンコールワットが見られないのはあんまりです!料金などはご負担いたしますので、よろしければ私がご案内いたします」と連絡をいただいた。


朝焼けに映えるアンコールワットは、綺麗だった。アンコールワットを見れたことはもちろんだけれど、それ以上に、ひとの優しさに触れることができたという事実が嬉しかった。Nさんは、優しくて、綺麗で、可愛いかった。シェムリアップに来てから、感動的な出来事が頻繁に起きている。過去に「奇跡は余白に舞い込む」という内容の投稿をしたけれど、また、当時と同じ感覚を抱いている。


シェムリアップの奇跡。

たまたま予約をしたホテルのオーナーSさんが「坂爪さんって、あの、坂爪さんですよね?」と、声をかけてくれた。私のことを知ってくれていたSさんは「オートバイでお連れできるので、いきたい場所があったら何処でも言ってくださいね!」と、神様のような優しさを示してくれた。街中を案内してもらうばかりではなく、結果的にプールにまで連れて行っていただき、クリームブリュレやフルーツまでご馳走になった。

また、自転車の観光ガイドをやっている25歳の日本人男性・Mさんから「ご飯をご馳走するのでお会いしましょう!」と、鍋料理をご馳走していただいた。Mさんの繋がり(?)で、シェムリアップ在住の日本人アイドル「さかなちゃん」とも出会った。驚いたことに、さかなちゃんもいばや通信を読んでくれていたらしく、出会えたことをよろこんでくれた。喜んでもらえると、照れてしまうけれど、こちらまで嬉しくなる。

また、シェムリアップで雑貨屋を営む日本人女性・Aさんから「ご飯をご馳走するのでお会いしましょう!」と、非常に豪華なクメール料理をご馳走していただいた。動的なだけではない、静的な時間も共に楽しめる素晴らしい時間になった。していただいた内容はとにかく、こうして、実際に出会えたことが何よりも嬉しい。そして、今朝、朝の4時半集合で、アンコールワットをご案内していただいた。

自分をオープンにするということ。

私は、自分のスケジュールと連絡先をWEB上(ブログ記事末尾)に公開している。そのため、足を運んだ先々で暮らす方々から「会いましょう」という連絡をもらう機会が、多分、一般的なひとよりは頻繁にある(ある方だと思う)。自分をオープンにすることは、時に、浴びる必要のない批判や罵倒を浴びてしまう結果になることもあるけれど、それをしていなければ絶対に起きない奇跡に出会えることもある。

五日間、何の予定もいれずに訪れたシェムリアップでの滞在は、まさに「奇跡は余白に舞い込む」を実感した滞在になった。私は、ひとと話をすることが好きだ。そして、当たり前のことだけれど、ひとも、自然だ。そのひとの中にある「自然」を垣間見たときの嬉しさは、花や、雲や、鳥や、猫や、空や、小さなこどもや、夕日を見ている時に感じる「ただ、そうであること」の嬉しさに似ている。

そして、明日からインドのマハーバリプラムを経由して、バンガロールに向かう。バンガロールでは、現地在住の日本人の方から連絡をいただき、お茶をしたり、宿を提供していただくことになっている。
なぜ、何もない私が、貯蓄や所持金という意味ではほとんどのストックを持たない私が、これだけの恩恵を受けることが許されているのだろうか。自分のことのはずなのに、稀に、自分のことがわからなくなることがある。

ストックはないけれど、フローはある。

感覚的な話になるけれど、いまの私には「ストック【貯蓄】はないけれど、フロー【流動】はある」ように感じている。言い換えるならば、ストックによっては生きることができない(自分の力だけでは到底生きていくことができない)私も、フローによって生かされている(様々なひとの力によって生かされている)という感覚を、強く覚えている。

これは決して自慢をしたい訳ではなくて、自分でも、自分に起きている現象が何なのかということはまるでわかっていない。ただ、感覚として「ストックはないけれど、フローはある」ということを感じていて、この流れは、自分の純度が落ちた瞬間から、自分が調子に乗った瞬間から、自分が何かしらを溜め込もうとした瞬間から、途絶えてしまうものだと感じている。

様々なひとの力を得た時に、一番強く思うことは「しっかりと生きよう」ということだ。この「しっかり」が、どういう意味なのかは自分でもわからないけれど、誰かにご飯をご馳走してもらえたからといって「ラッキー!儲け儲け!うひゃひゃひゃひゃ!」という気持ちには、とてもじゃないけれど、なることはできない。

心配を投影するか、信頼を投影するか。

ここ数日間の出来事を振り返りながら、およそ1年前に、ロンドンから届いたメールの内容を思い出していた。詳細は、過去記事【「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘】にまとめてあるのですが、ここに記載されている三つの要点のことを、思い出していた。

・実は、皆が何かを誰かに与えたいと思っている。
・他人から施しを受けるのは惨めなことではなく、寧ろ崇高な経験になる。
・すべてを受け取ることを自分に許しなさい。

心配を投影するか、信頼を投影するか。自分を開けば世界も開き、自分を閉じれば世界も閉じる。きっと、この世の中は、自分が投げたものがそのまま返ってくるようにできているのだと思う。相手を傷つける言葉を使えば、自分のこころも同じように傷つけている。相手を疑えば、自分も疑われ、相手を信じれば、自分も信じられる。月並みな言葉になるけれど、事実、その通りなのだと思う。


カンボジアのこどもたち。


Sさんのご案内で、一般人も立ち入り可能な学校に足を運んだ。カンボジアの平均年齢は24歳前後と非常に若く、小さなこどもたちが大量にいる。私は、こどもが大好きだ。こどもたちに囲まれているだけで、不思議なくらい、嬉しくなる。楽しくなる。元気をもらえる。見ているこちらまで、気持ちが若返る。世界中、どこの国のこどもたちも、愚かで、チャーミングで、最高だ。

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整列していたはずのこどもたちの中にも

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率先して、愚かな真似をする男子がいる

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瞬時に全体が乱れて、

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こういうことや、

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こういうことや、

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こういうことになる。

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カンボジアのこどもはほんとうに可愛くて、

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女子は、大人だ。

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お菓子を前にこどもは無力で、

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最終的には、全体で暴れる。

レールはないけれど、大地はある。

私は単純な人間だから、ひとから元気をもらうこともあれば、ひとから失望をもらうこともある。同じように、ひとから失望をもらうこともあれば、ひとから希望をもらうこともある。自分の中にしっかりとした軸を養うことができればいいのだろうけれど、まだ、まだ、まだ、簡単にぶれ続けてしまう日々のど真ん中を生きている。


みんなが当たり前にできることを、できることならば、自分も当たり前にできる人間になりたいと思っていた。それなのに、いつ、どこで、どのようにレールを踏み外したのかはわからないけれど、結果的に、自分でも何も分かっていない生き方をする31歳になってしまっている。完璧とはほど遠い生き方だけれど、それでも、自分の人生を「悪くない」と思えるようになったのは、つい最近の話だ。


シェムリアップの数日間を振り返っていた時、日本から、LINEを通じて一通の連絡が届いた。そこには「有難う、生きていてくれて、存在してくれて有難う」という言葉が綴られていた。心の中にじんわりと広がる、あたたかな膨らみを感じた。しっかりと生きようと思う時、その「しっかり」が何を指すのか、少しだけわかったような気がした。自分以外の誰かではなく、自分以外の何かではなく、自分自身をしっかりと生きよう。そう思った。



夜分に恐れ入ります。
坂爪さんのTwitterをいつからだったでしょうか、毎日拝見しております。

今、一番にお伝えしたいことは、とにかく
「有難う、生きていてくれて、存在してくれて有難う」という言葉です。

坂爪さんは誰かに感謝されようと発信してらっしゃるわけではないと思いますが、数々の言葉に、写真に、救われたり、背中をおされたり、寄り添ってもらったりして、感謝の気持ちを抱いている方は多くいらっしゃるように感じます。 

ここ暫くの間、理不尽なことや言い様のない哀しみを感じたりした時に、夜空を見上げながら坂爪さんの言葉や存在を思い、それだけで心を支えて頂きました。

と同時に、事情は違ってもいま私と同じように、坂爪さんの存在に涙している人もいるだろうと思いました。

こんなことを言うのはおこがましいですが、ブログを拝見しておりますと
“私と感覚や考え方が同じだなぁ”と思うことがあります。

そして、ブログの内容が今の自分に丁度タイムリーなものであることもしばしばで、確か以前にも他にも同じように仰る方が居られることをブログで拝見したような気がします。
坂爪さんを中心に繋がっているような、不思議な糸を感じます。 

坂爪さんのブログで、特に私にとって大切なものは、瞬間日記というアプリに保存しております!!

今まで感謝の気持ちをお伝えしようと思いながら、なかなかメッセージを送れずにおりましたが、勢いで書いてしまい、纏まりのない文章で申し訳ございません。

でも、何が起こるかわからない人生。
あと数時間後に100%生きているとも言えません。
だからこそ、こうしてお伝えできて良かったです。



動物や植物、あらゆる自然に包まれながら、心身ともに健康で過ごすことができるように祈っております。



深夜のガストにて… 
                                  

○○○


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人生は続く。

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ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。

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ラオスのルアンパパーンを経由して、カンボジアシェムリアップに到着した。たまたま予約をしたホテルが日本人宿で、日も暮れた頃、大勢の日本人たちとホテルのラウンジで「みんなで一緒に飲みましょうよ」的なノリが発生した。隣に座った男性が「お兄さんは何をしているのですか?」と尋ねる。私は「えっと、特に何をしているとかはないのですが、ブログを書いたりしています」と答えた。

男性は「へー!日本では、何処に住んでいるんですか?」と尋ねる。私は、話の流れから「ブログ読者の方が、熱海に家を購買してくれた」旨を簡単に話した。これがよくなかった。私の話は完全なネタになり、俺も家が欲しいからブログでも書こうかなとか、お前もブログを書けば家をもらえるぞとか、過去に何億回か体験してきたであろう地獄の時間を過ごした後、私は、その場を離れた。

集団心理と呼ばれるものがあるのかもしれない。多分、あの場にいた人たちも、ひとりひとりとしっかり話をすれば、それなりに心を通わせることもできたのかもしれない。しかし、多数決の原理が働くからなのだろうか、一対多数となった時、空間の雰囲気に私は完敗する。私の中にも「自分を正しく理解してもらいたい」と相手に願う、ある種の甘えがあったのだと思う。

シェムリアップ散歩

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カンボジアシェムリアップには、世界遺産でお馴染みのアンコールワットがある。自分は安上がりな人間だと思う。入場料と体調(数日前から、軽い頭痛が続いている)の関係でまだ足を踏み入れていないのだけれど、ホテルの近所を軽く歩くだけでも、カンボジアの風を感じることができた。こどもたちを眺めるだけで、花を眺めるだけで、晴れ渡る空を眺めるだけで、もう、充分だと思う。

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寺院の木陰で眠るタクシードライバーと、

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アンコールワット風の、近所の寺院。

知識を増やしてはいけない。

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シェムリアップ前に経由してきたラオスも、非常に素晴らしい環境だった。ルアンパパーン空港から市街地まで徒歩で向かう途中に「オールドブリッジ」という名前の、文字通り、非常に古い橋が架かっている。車の通行が許されていないこの橋を、現地のひともバイクで通過していくその傍らを、徒歩で渡っているのは、自分ひとりだけだった。たったそれだけのことが、強く、心に残る体験になった。


ありあまる知識は思い込みや先入観を増やし、ありあまる経験は瞬間の新鮮さを失わせる。どれだけ多くの知識を集めたとか、どれだけ多くの経験を重ねたとか、スタンプラリーを集めるような日々であることより、まだ、何もない、生まれたばかりのこどもの視点を、いま、生まれてはじめて目の当たりにした時の、あの、新鮮さを、積み重ねるよりも、積み減らすことを、私は、基点は「ゼロ」に置いていたい。

ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。

自分のことを正しく理解してもらいたいと願うことは、多分、甘えだ。そして、理解をしてもらいたいと思っておきながら、同時に、理解されてしまった(何かに括られてしまった)瞬間に「違うし!それだけじゃないし!」と、また別の自分が顔を出すことも頻繁にある。きっと、ひととひととはわかりあえない。ただ、わかりあえないという、そのことだけは、わかりあうことができる。


違いを許容すれば「正しさの幅」が生まれ、違いを許容できなければ「正しさの争い」が生まれる。稀に、出会うひとから「坂爪さんのようには生きれないけれど」と言われることがあるけれど、自分のように生きる必要など、微塵もないのだと思う。最近は、「自分みたいになれ」ではなく「あなたの代わりに生きている」という表現が、腑に落ちる。私は、あなたの代わりに生きていて、あなたは、私の代わりに生きている。あなたは、もうひとりの私で、多分、私は、もうひとりのあなただと思う。


バンコクでイベントを主催してくれたまさみさんのツイートと、後日、まさみさんから届いたメールを読んで、自分が大切にしていきたい感情を思い出した。あなたのすべてを理解することはできないけれど、あなたが覚えたその「感情」ならば、過去に自分も似たようなことを思ったことがある。だからなのだろうか、その気持ちが、とてもよくわかる。ひととひととはわかりあえないかもしれないが、しかし、感情は伝染する。私がしていきたいと思うことは、自分を触媒とした「幸福感」の伝達だ。




坂爪さん

こんにちは!
今頃はカンボジアの風に吹かれている頃でしょうか?

先週は本当にありがとうございました。
坂爪さんたちと別れた夜には、また別のお客様が日本から来て、バタバタと過ごした1週間でした。
バタバタだけが要因でなく、自分に起こっていることをなかなか言葉にできずにおりました。

しかし、その合間にも、いろんな方が感想を伝えてくださったり、ブログにかいてくださったり、あの日出会った方とお茶をする約束をしたりと、後からもたくさんのギフトをいただけた1週間でした。

「わたりカフェ」、企画しだした当初は、実はちょっと「やらねば」という気持ちがありました。

しかし、「うまくやろうと思わず、楽しんでやろう!」と思えたところから、ようやくワクワクが始まった気がします。「楽しく」は、私の課題なんです(笑)

皆さんと会うまでは、いろいろ話をしたいと思っていたのですが、始まって、いらっしゃった方たちの様子をみてたら、なんか良い意味で「どーでもよく」なっていました。(笑)
坂爪さんとちょっと離れたキッチンからの眺めを一緒に見て、幸せな気持ちを共有させてもらえた、あの瞬間だけで私の気持ちは「満腹」だったんじゃないかと思います。

満腹だと、あとは全部溢れていきますね(笑)

結果的に、皆さんがいろんな気づきを持って帰って下さったり、良い気持ちになってくださったり。

それを後日伝えていただいたことで、時間の経過につれ減ってくるお腹を、また満たしてもらえました。^ ^

なんという循環!!!

これが「わたりカフェかー!!!」と、身をもって体験しました。


お話会では、「稼ぐの苦手なんで」と、テヘヘと笑う皆さんの様子を見て衝撃を受けました。

私もそうなんですが、こういうのすごく抵抗があったんです。
でも!
いいのかー!!!
苦手なんでって、いっちゃえばいいのかー!!!

すごく気が楽になりました。

今、1週間経っても、思い出すと、すごく幸せな空気に包まれているのを感じます。

日本に帰っても、この幸せな感じを忘れたくないです。親子共々。

本当に素敵な時間をありがとうございました!

ではではまた日本でお会いできる日を楽しみにしております。

それまでは、濁らずこのままいけるように、残りのバンコク生活楽しみたいと思います!

それでは、良い旅を!

まさみ



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人生は続く。

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歩き出す前が、一番疲れている。

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チェンマイを経由して、ラオスのルアンパパーンに来た。金欠を理由に、チェンマイ旧市街からチェンマイ空港まで徒歩一時間程度を歩き、約一時間のフライトを経て、ルアンパパーン空港から市街地まで徒歩一時間程度を歩いた。飛行機には飛行機の、車には車の、徒歩には徒歩の風景がある。メコン川に沈む夕日が綺麗だった。

最近では、様々な場所を徒歩で移動するようになっている。行動範囲に限りはあるものの、現地の人達の暮らしや、戯れる子供たちや、犬や、猫や、眼前に開けた空を眺めているだけでも、エネルギーが漲って来る。文字通り、自分の足で歩くということ。たったこれだけのことが、自分自身をその土地に馴染ませるばかりか、忘れていた何かを取り戻すことができる。

ルアンパパーンの托鉢僧。

ルアンパパーンの市街地に到着し、予約をしていたホテルに荷物を降ろしたのが夜の19時頃。値段とは裏腹に豪華な室内に気分を良くした私は、ホテルの中をうろついていた。無料の洗濯機や無料のドリンクコーナーもあり、屋上のテラス席からは綺麗な三日月を眺めることができる。ラオスの夜は、日本の初夏の夜のように過ごしやすい気候で、今夜はここで静かに読書でもしていようかなとも思ったものの、ふと、思い立って夜の市場に足を向けた。

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レストランや土産物屋や幾つもの屋台がひしめく中に、露天の雑貨屋に並んでいた、托鉢僧のデザインの小物に目が止まった。オレンジ色の袈裟を来て、ごく少数で、限りなく少ない荷物と共に、前に、前に、足を進める托鉢僧の後ろ姿に、勝手なシンパシーを覚えてしまった。

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移動の多い生活をしているために、長距離を徒歩で移動する機会は頻繁にある。正直に言えば辛さを覚える中でも、これもある種のトレーニングだと自分の背中を押してみたり、無心になることを試みたり、ゴールではなく踏み出す一歩だけに集中したり、好きな歌を歌ったり、好きなひとを思い出したり、うつむきがちになる視線を「これではいけない!」と前に向け、空を仰ぎ、自分で自分を励ますことで乗り越えてきた。

歩き出す前が、一番疲れている。

昔、何かで「歩き出す前が、一番疲れている」という言葉を読んだ。もしも、私がホテルを離れずにナイトマーケットにも行くことがなければ、この、ルアンパパーンの僧侶と出会うこともできなかった。歩き出す前は億劫に感じることでも、歩き出せば、実際に行動を起こしてしまえば、吹き抜ける風や、自分を鼓舞してくれる様々な何かと出会うことができる。この「何か」は、頭で考えては勝手に磨耗していただけの自分の疲労を爽やかに、軽やかに、吹き飛ばしてくれる。

いま、私は、移動を続ける日々の中にいる。しかし、私は、自分を旅人だとは思えない。ひとに会い、ひとと話し、喜捨を受け、お布施を受け、別れを告げ、出逢いを元に、先に進む。先に進むが、何処にも行かない。私は、常に、途上にいる。明日の身もわからない。ただ、流れている。ただ、遍歴をしている。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。ー 鴨長明方丈記

6月25日(土)に日本【福岡】に戻ることが決まったので、この日から、一週間程度「喜捨JAPAN@福岡遍歴」をやることになりました。基本的には、会いたいと言ってくれるひとと会い、話したいと言ってくれるひとと話す(何もなければひたすら歩く)数日間になります。坂爪圭吾との面会(?)をご希望される方がいらっしゃいましたら、ブログ末尾の連絡先よりご連絡ください。詳しい日程などは、下記リンク先より随時更新いたします。


絞り出すではなく、溢れ出す。

数日前にタイのチェンマイで開催されたイベントには、バンコクやムンバイやマレーシアや日本からも遊びに来てくれた人達がいた。マレーシアから来てくれた女性は、行くかどうかを物凄い悩んだ挙句、やりたいことをやってこその人生だろうと発奮し、前日(!)に航空券を予約して主人に内緒で子供と一緒にやって来た道中、なんと、クアラルンプールの空港で神様からのギフト【1000リンギッド札を20枚(約5万円)】を拾ったのだと話してくれた。その話し方が、その時の身振り手振りが素晴らしく印象的で、イベント終了後にはLINEでメッセージをいただいた。


坂爪さん、遅い時間に失礼致します。

今日、いばやトークに参加させていただいた○○○○です。

興奮冷めやらず、こんな時間にラインしてしまっています、お許しください。

今日はお会いできて、本当に楽しかったです。

今まで坂爪さんの言葉に沢山の勇気をいただいてきましたが、今日直接お会いして、同じ場所で同じ空気を感じることの凄さ、素晴らしさを改めて感じました。

やっぱり、リアルにかなうものなし!です。

言葉ではなく、感覚でたくさんのことを教えていただいた気がします。

いいとか悪いではなく、ただそこに坂爪さんとして『在る』『在ろうとしている』んだなあと思いました。

私も私の全てを今のまま、受け入れていきたいです。


このような機会を与えてくださった全てに感謝しています。

そして、このような行動を起こせた自分にも、拍手したいです。

おやすみなさい。

またどこかでお会いできることを楽しみにしています。


千葉県からはるばる来てくれたムエタイ選手の男性は、イベント開始直前に到着する飛行機に乗って、急ぎ足で会場まで駆けつけてくれた。ムエタイをやっているということをひけらかすような態度は微塵もなく、ただ、いま、ここに来れたということを喜んでくれた男性の姿に、見ているこちらまでこみ上げてくる嬉しさに包まれた。二人とも、ほんとうに美しい瞳と、素晴らしい表情と、清々しい空気を身に纏っていた。イベント終了後に御礼のメールをしたところ、その日の内に返信が届いた。


まさかの
ご連絡とても嬉しいです


こちらこそ
チェンマイまで来るナイスなきっかけになりました

実際に payacaさんに出向いた事で
けいごさんを はじめ
普段じゃまず
出会えない
様々な環境、考えの方達との交流、、
サイコーでした

タイに来て
数時間にて旅の醍醐味は
ほぼ満たされました笑


少し勇気を出し
メールを送り
チェンマイへ行ってみて
よかったです

けいごさん
ありがとうございました

皆さんにもありがとうと言いたいです




では

เราจะได้เห็นคุณอีกครั้ง


ひととひとの出会いの中には、言葉にすることのできない、大きな、大きな、喜びがある。無理をしてまで自分を絞りあげるのではなく、内側から込み上げてくる抑えきれない何かが溢れてくる、いてもたってもいられなくなる、泉のような思いに包まれた時、生きていることの豊かさと、純粋な幸福感、確かな生命の躍動感を覚える。ひとがひとを思う気持ち、ひとが何かをやりたいと思う気持ち、ひとがひとつの命を生きていきたいと思う気持ちは『絞り出すものではなく、溢れ出すもの』なのだと思う。そして、自分の内側にある溢れ出すスイッチを押すために、私は、また、遍歴をしているのかもしれない。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

人生とは、ボーナスタイムである。

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バンコクを経由してチェンマイにはいり、旧市街界隈を散策した。今日は、チェンマイで開催されるトークイベントに登壇する。私が怠惰な人間だからなのだろうか、海外に足を運んでも「せっかく来たのだから、ここでしか見れないものを見たい!」という気持ちになることはあまりない。現地に到着し、現地の風を浴びて、現地の飲み物を飲みながら、現地のひとを眺めたら、多分、私はすでにゴールをしている。あとは、もう、おまけみたいなものだ。


おまけという感覚を、最近、人生全般に対して感じている。これまで生きてきて31年間、自分のやりたいようにやらせてもらった。いいこともあれば、悪いこともあった。振り返れば、もし、明日死ぬことになっても「それなりに生きてきたなあ」と思える日々を過ごしてきた。それなのに、まだ、生きていてもいいのですかと、これだけ楽しませてもらったのに、まだ、半分も終わっていないのですかと、これはもう、ボーナスタイムみたいなものではないですか!!と、稀に、何かに感謝をしたくなる時がある。

人生とは、ボーナスタイムである。

トークイベントなどに登壇をすると「坂爪さんのような生き方は、年をとったらできないじゃないか、結婚をしたらできないじゃないか、健康じゃなくなったらできないじゃないか」と言われることがある。確かに、そのひとの言う通りなのだと思う。だからこそ、私は言いたい。だからこそ、いま、こうしてやっているんじゃないのかと。いつか踊ることさえもできなくなる日が来るからこそ、いま、この瞬間を踊っているんじゃないのかと。過去でもない、未来でもない、なぜ、いまという瞬間をしっかりと見てくれないのだろうかと、そういう気持ちになる。

自分のような生き方は、たまたま偶然が続いているだけに過ぎない脆くて頼りのない生き方で、来月には死んでいるかもしれない、10年後にはあらゆる社会的な信頼を失ってどん底の生活を送る羽目になっているかもしれない。先のことはわからない。ただ、先のことはわからないのは「私だけではない」はずだ。同じように、どのような生き方をしてきたとしても「生きている」ことに変わりはない。

そんなんじゃ生きていけないよという言葉を、多分、これまでに百億回は聞いてきた。しかし、そんなんで生きてきてしまった身としては「自分みたいに生きろだなんて微塵も思わないから、正しさの勝負をしたいとも、自分の意見を押し付けたいとも思わないから、ただ、そんなんで生きてきてしまった人間の生き方を、単純に面白がってもらえたらうれしい」と思う。そんなんじゃ生きていけないと思っていたことが、必ずしもそうではないのかもしれない【道はいくらでもあるのだ】と感じた瞬間に吹く風が、多分、自由だ。

日本に生まれた恩恵を。

日本に生まれただけで、私達は、サイコロで言えば6が出ているようなものだ。日本が完璧だとは言わないが、まず、日本語が通じる。蛇口を捻れば水が出て、街並みもトイレも清潔で、デパ地下や炊き出しに行けば飢えることもなく、生活保護職業訓練などの支援もあって、パスポートがあればビザなしで行ける国が大量にある。足りない部分をあげればキリがないが、足りない部分があるからこそ、補完していくことの喜びを味わうこともできる。


距離が人間を近付けることもあるみたいだ。

出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい。

ブログなどを書いていると、まだ、会ったことのないひとからこころの無い言葉が届くことがある。そんな時、私は、露骨に傷を負っている。ぐはぁ!と叫び、見て見ぬ振りをしながら届いたメールなりなんなりを即座に削除はするものの、悪意に触れた瞬間に感じる不穏な空気、心臓の痛み、感情の荒波をごまかすことはできない。批判を受けることには徐々に慣れてはきたけれど、慣れたからといって、無傷でいられる訳でもない。

そんな時に、まさに傷ついているど真ん中の最中に、バンコクで開催されたイベントに来てくれた女性から、一通のメールが届いた。正直な言葉には、聞くひとの心を動かす目には見えないエネルギーがあるのだと思う。その力が、その思いが、その瞬間の煌めきが、文面からも伝わってくる素晴らしい内容だった。そして、私は「出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい」ということを思った。

自分の嫌いなものではなく、自分の好きなものに使ってこその命だ。自分の気持ちをごまかすことは、自分の感情を打ち消すことは、自分を否定する出来事を受け入れてしまうことは、大袈裟な言葉で言えば『小さな自殺』だと思う。それならば、できることならば、素直でいたい。正直でいたい。出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい。そして、いつか踊ることさえもできなくなる日が来る時まで、クリアな言葉で、クリアな気持ちで、ボーナスタイムを駆け抜けて行きたい。



バンコクわたりカフェに赤ちゃん連れで参加した○○○○です^^

一瞬の出会いでしたが、わたしなりにことばにしたい思いに駆られました。
子どもと育つ世界にどっぷりの日々のわたしにとって、坂爪さんと、team0のお二人のまとう空気感はどこまでも眩しく、20代のお二人の笑い声さえも、とてつもなく懐かしく遠くに感じ入ってました(笑)
子どもがいるせいか、お三方も子どもに見え(笑)どーやったらこんな風にどこまでも生きる力がつくのか、3人3様の生き様に一瞬でもクロスし、エッセンスを貰ったような気がします。

会場にいて、こんなに『ありがとうございます』と言う人を初めて見ました。坂爪さんから発せられる『ありがとうございます』は、相手を通り越して自分に返しているかのような、透明なことば。
いやー、これこそが、長年の生活の重みなのかと、聴き入ってしまいました。

わたくし、日本では家族一緒に暮らし、タイに赴任して週末同居の単身赴任となり、家族とはなんぞや?という問いが頭の中にずっとありました。消しても消しても。心にぽっかりと穴があいた時がしばらく流れいました。
わたりカフェを後にして、階下に下りると、『おかあーさーん』と2人の子どもが駆け寄ってきて、(たった)2時間ぶりの再会なのに、両手を広げて求め合い、この瞬間、言葉にはならない(家族とはなんぞや?)の答えがからだの隅々まで入ってきてグァーンと満たされました。
答えは感覚としてしかないけれど、一瞬で何かがやってきて、もう充分だよの思いが溢れてきました。

凛とした生身の坂爪さんに、まさか!のバンコクでお会いできて、眼差しをみれただけで、わたしは語ることもなくいっぱいいっぱいだったようで。坂爪さんの『ありがとうございます』の風が今でも心地よく吹いています。
何もかもが充分満たされている。言葉ではなく、思いで満たされた日曜日の夕方
果てしない偶然が続くことを祈って。よき旅となりますように。

○○○○




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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。

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関西空港を経由してタイのドンムアン空港に着き、5日、バンコクで開催されたわたりカフェ&トークイベントに登壇(?)した。大勢の人々がはるばる遊びに来てくれて、また、参加者のひとりひとりの雰囲気がとても柔和で素晴らしいもので、心に深く残る1日になった。ほんの一瞬の出来事だとしても「いま、このひとと心を通わすことができた」と思える瞬間の中には、言葉にならない喜びがある。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・自分を開けば、世界も開く。


こんなにもたくさんのひとが来てくれるとは思わず、ただ、ただ、感動してしまった。日本から来てくれたひともいた。小さなこどもたちもたくさんいて、見ているだけでも元気を貰えた。自分がいまいる場所を好きになるかどうかは、多分、自分の心理状態に大きく依存している。自分を開けば、世界も開き、幾つもの素晴らしい側面を見せてくれる。平和とは、外的な要因ではなく、心の状態だと思う。自分を閉ざせば、世界も閉じる。幾つもの素晴らしいものたちも、そのまま、流れ去ってしまう。

2・悪を糾弾する心も、同じように悪である。


私は、誰の生き方も否定をしたくない。他人がしたことやしなかったこと(してくれなかったこと)ではなく、できることならば、自分がしたことやしなかったことだけに集中をしていきたい。理由は単純で、私は弱い人間だからだ。他人の生き方にああだこうだと言いたくなっている時、私の心は静けさを失い、波風が立って、乱れている。乱れた心のままでは、自分で自分を護ることが難しくなる。大切なことは、他人の濁りを指摘することよりも、自分の純度を高めることだ。

3・ヘタクソなままでいいし、ヘタクソなままがいい。


コミュニケーションの本質は、何を話すかよりも「どのような気持ちで話すか」に宿るものだと思っている。心のない言葉は、どれだけ綺麗でも、どれだけ耳当たりの良いものだとしても、聞く人の心には届かない。語彙力はなくても、自分の気持ちを的確に表現できる言葉は見つからなくても、まっすぐに、精一杯に何かを伝えようとする人の姿には、見る人の心を動かす力が宿る。言葉だけではない、多分、私達は「言葉を含めた身体全体」を通じて、コミュニケーションを交わしている。

4・自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。


自分の強さを認めた分だけ、他人に厳しい人間になる。自分にもできたのだから、お前もやればできるのだと、何かをできないひとの姿を「努力が足りない」からだと叱責をする。厳しさは萎縮を生み、そのひと自身が本来持っていたはずの力さえ、芽が出る前に潰してしまうこともある。きっと、弱さとは「自分の弱さを認められない弱さ」のことだ。自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。弱さを認められた土壌の上にだけ、咲く花もある。

5・一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。


月並みな言葉になるけれど、いままで、何度も何度も目にしては通過してきた言葉になるけれど、大切なことは「他人がどう思うかということではなく、自分がどう思うかということ」だ。誰も理解者はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、自分の心は確かに素晴らしいと感じたものならば、紛れもない、それは本当に素晴らしいものなのだ。





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6・自分が溶け出していくこと。


抽象的な話になるけれど、俺が、俺が、となっている時、そのひとは(水に例えるならば)固体の状態になっている。固体は硬い。氷は冷たい。何かと交わることもない。それが徐々に溶け出した時、そのひとは固体から液体になる。液体は流れる。温度も上がる。周囲の液体とも混ざり合う。そして、最終的には気体になる。素晴らしいひとの存在は、まるで、そこにいるだけで周囲の空気を変えてしまう力がある。固体から液体へ、液体から気体に変化していく過程の中に、自分の純度を高めるヒントがあるような気がしている。

7・何度でも、宝物を探しに行こう。


わかってしまう(先が見えてしまうことに対する)退屈さもあれば、わからないことに対する不安や恐怖もある。同時に、何かを理解することの楽しさもあれば、自分は何もわからないということをわかる楽しさもある。ひとつの答えを常に胸に抱き続けることは、人間には、とても難しいことだ。だからこそ、僕達は、生きている限り見つける楽しさを喜んで行ける。

8・無理をすることは、ガチガチの固体。


バンコクのイベントを主催してくれたまさみさんは、とにかく素直で、リアクションも豊かで、かといって誰かに気に入られる為にしている訳でもない、ただ、そのまま、自然なままでそこにいる姿が、ほんとうに素敵だった。ほんとうに素敵なひとは、ほんとうに可愛い。無理をすることは、ガチガチの固体だ。何かをしなければいけないとかではない、頭ではない、ただ、自然に「何かをしたくなってしまう」瞬間の中に、透明な魅力は宿るのだと思う。

9・同じ気持ちを分かち合う。


あのひとのことばかり考えている。

10・どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。


トークイベントなどに出演をすると「夢や目標はありますか」と尋ねられることが頻繁にある。その度に、私は「特にありません」と答えていた。誰かに胸を張れるような夢もなければ、自分のモチベーションを高めるような目標もない。そんな自分をダメだなあと思う時期もあったけれど、しかし、ないものはない、無理矢理何かを用意をしたとしても何処か違和感がある、それならば「夢も目標もないままに生きる」しかない、それでいい、そのままでいい、そんな風に自分のことを思っている。

夢も目標もない自分にも、強く感じている部分は二つある。ひとつは「言葉に対する執着」のようなもので、何処にいても、何をしても、私は、言葉を綴ることをやめなかった。誰かに頼まれている訳でもないのに、それで生計が成り立つ訳でもないのに、ひたすらに、ひたすらに、自分が感じていることを言葉に置き換え続けてきた。それは、まるで自分の生きた証を残すかのように、自分の心臓に消えない刺青を掘るように、自分の内部に強く刻まれている。言葉を綴り続けること、そこに、私は自分が生きていることに対する大きな何かを感じている。

そして、もうひとつは「毎日、今日も生きたと思って眠りに落ちたい」という思いだ。いまの私には、固定された夢も目標も何もない、ただ、こどものような愚直で幼いこの願いしかない。どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残るような瞬間のど真ん中を。バンコクに沈む夕日が綺麗だった。心に染みる、素晴らしい夕日だった。きっと、いまの自分にも夢はある。いまの自分にも目標はある。燦然と輝く、いまの自分にも理想はある。それは、今日も生きたと思って毎晩眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、人生に幕を降ろすことだ。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。

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片道1700円の高速バスで横浜から京都に向かい、滋賀県近江八幡を経由して、いま、京田辺駅近くのカフェにいる。これから神戸のハーバーランドに向かい、明日の夜には関西空港からバンコクに向けて出発をする。お金がないために、多分、その日はドンムアン空港の路地裏に宿泊をする。バンコクでは、現地在住の日本人女性の方がイベントを企画してくださることになり、軽目の交流会が行われる。たまたまバンコクにいるぜ!という方は、誰でも気軽に遊びに来てください。


バンコクのあとはチェンマイに向かい、こちらでも、現地在住の日本人男性の方がイベントを企画してくださることになった。たまたまチェンマイにいるぜ!という方は、誰でも気軽に遊びに来てください。その後は、日本在住の女性が「インドに行きたいのですが、ひとりで行くのはちょっと怖いので、よかったら交通費などは負担するので一緒に行ってください」と連絡をくださり、(時間的に余裕があるためにラオスカンボジアベトナムを経由した後に)16日からインドのチェンナイとバンガロールに足を運ぶ。


世界を舞台にはしているものの、活躍はまったくしていない(要するに暇である)私は、自分の連絡先とスケジュールをWEB上で公開している。それを見てくれたひとが「おお、この日程はさかつめの予定がガラ空きだ。それならば、こんなことをお願いしてみよう!」という感じで、様々な依頼を投げ込んでくれる。私も、出来ることならばご要望に添えるように動いている。その結果、インドにまで足を運べることになった。人生は不思議だ。海外でも莫大な暇を持て余しているので、何かありましたら誰でも気軽にご連絡ください。

【坂爪圭吾のスケジュール】坂爪圭吾

※※※ 追記 ※※※

こちらの記事を見てくれた新潟県在住のC様が、非常にありがたいことに3日の宿を予約してくれました。この場をお借りして大感謝いたします。C様、ありがとうございます!!

近江八幡「日牟禮八幡宮

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日牟禮八幡宮の景観が素晴らしかった。

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近江八幡在住の女性から「久しぶりにお会いしたいです」的なご連絡をいただき、足を運んだ。ここでしか食べることのできないという『つぶら餅【たねや】』が抜群に美味しかった。最近は「言葉にならない」と感じることが多い。景観の素晴らしさも、食事の美味しさも、自分の心が覚えた気持ちも、言葉にした途端に「(それだけではないのに)それ以外のものを取りこぼしてしまう」感覚を覚える。言葉の非力さは、同時に、自分の非力さでもあるのだと思う。

尾賀商店「(坂爪史上最高の)近江牛カレー」

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これを食べるためだけにでも再訪をしたい。

近江八幡「ラコリーナ

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屋根が芝生でキュートだ。

大津駅「琵琶湖」

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空の青が。

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雲の白が。

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芝の緑が。

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吉井和哉風に言えば「天国旅行」だ。

コップに半分の水。

滋賀県を経由して京都駅に戻り、宿のなかった私は「(家のない生活をしていた頃にお世話になりまくった)あのひとに連絡をしようかな、でも、どうしようかな」と3時間ばかり逡巡していた。夜の10時を目前に控えた頃、意を決した私は京田辺在住のMさんに「突然ではありますが、お邪魔じゃなければお邪魔をしたいです」と連絡をした。すると、Mさんは「もちろんです!」と快諾してくれた。

Mさんとは「コップに半分の水がある」的な話をした。よく、コップに半分『も』水があると思うのか、コップに半分『しか』水がないと思うのか(ポジティブに考えるか、ネガティブに考えるかで全然違う)的な話を耳にすることがあるけれど、私は、このような話があまり得意ではない。別に『も』とか『しか』とかは不要で、ただ、コップに半分の水がある。『も』とか『しか』とかじゃない、ただ、コップに半分の水がある(ただ、そうである)だけ。以上。それだけでいいじゃないか、と思う。

金がないなら「金がないなあ」だけでいいし、家がなければ「家がないなあ」だけでいいし、友達がいなければ「友達がいないなあ」だけでいいし、さみしいときは「さみしいんだなあ」だけでいいし、ただ、そうであるだけのことを無理に前向きに捉えようとしたり、過剰に後ろ向きに捉えてしまうことは、また、別の問題を引き起こしてしまうような気がしている。そういう話を、Mさんとした。

カテゴライズされることへの違和感。

Mさんは言った。家がなかった頃の坂爪さんには、何かこう、もっと尖った部分とか『何かやばいことをしてやろう!』とか『固定観念を破壊してやろう!』いうギラギラしたものを感じていたのですが、いまは、仏教的な、ある種の慈悲深さというか何というか、あの頃とはまた違った性質を帯びているように感じるんだけど、最近の坂爪さんでも『これは許せない!』とか思ったことはあるのですか。

私は答えた。昔は、いわゆる権力などと呼ばれるものが大嫌いでした。俺は偉いとか、俺の言うことを聞け的なことを言うひとをみると「うるせー!ばか!」とか「お前は誰だ!」とか「なんぼのもんじゃい!(自分を偉いと思うヤツに偉い人間はおらん!)」と、まっこうから否定をしたくなっていました。でも、いまは、ああ、こういうひとっているよなあ(そして、こういうひとの話を聞きたがるひともいるよなあ)、でも、俺は違うなあと、自分と他人を分けて考えることができるようになりました。

ただ、最近でも「カテゴライズされてしまうこと」に対する抵抗は強くあるみたいです。あなたはこういうひとだよねとか言われてしまうと「違うし!」とか「俺がノイズキャンセラーだったら、お前、消されてるよ」などと反発をしたくなってしまうのですが、きっと、まだ、いまの自分は固定することも固定されることも大嫌いな(というか、固定されると死ぬ)のだと思います。そういう話を、Mさんとした。

海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。

琵琶湖に打ち寄せる波を眺めながら、自然はいいなあと感じていた。海でも、空でも、動物でも、植物でも、自然はいいなあと感じるとき、同時に「本来であれば、自分も自然の一部なんだよなあ」という当たり前のことを思う。自然が素晴らしいのは、ただ、ありのまま、裸のまま、剥き出しのままでそこにあるからだ。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、なぜ、自分のことを愛することができないのだろうか。


ありのままであるということ。頻繁に耳にする言葉だ。頻繁に耳にするからといって、しかし、簡単なことではないのだと思う。誰かに追いつこうとしないこと。誰かを引き離そうとしないこと。誰かに縛られ過ぎたりしないこと。誰かを過剰に尊敬したりはしないこと。誰かに勝とうとは思わないこと。誰かに負けたくないとは思わないこと。誰かではなく自分を主語に、自分の日々に集中をすること。


あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。自分以外の誰かの言葉に、影響を受け過ぎてはいけないのだと思う。どれだけ悪足掻いてみたところで、自分は、自分以外の何者にも成り得ない。特別な人間にはならなくても、特別な何かをしなくても、ただ、自分のこころが「いいな」と感じる瞬間を積み重ねた先に、きっと、特別な人生はある。静かなものは、ありのまま、そのままの姿で、満ち足りている。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたいと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
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死なないために、生きている訳じゃない。

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湘南江ノ島で開催された「わたり喫茶」があまりにも素晴らしく、ハートに風がびゅんびゅびゅびゅびゅぅんと吹き抜けた。ああ、この瞬間は最高だなと思える瞬間の中には「風が吹いた」よろこびがある。長い間、換気をすることのなかった部屋の窓を開けた時のような、こころのリンパに溜まった老廃物が流れ出すような、新鮮な感覚を覚える。生きていると死にたくなることも結構頻繁にあるなかで、同時に、生きているということは本当に素晴らしいものなのだなあと心の底から思うことができる。

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風が吹き抜けた10の瞬間をまとめます。

1・ちあきさんが素晴らしかった。

誤解を恐れずに言うと、私には「(自分を含めて)人間はクソだな」と思う瞬間がある。生まれたときには綺麗だったはずのヒューマンが、年を重ねるごとにどうしても避けられない汚れを抱えてしまい、やがて、大半の人間は薄汚れてしまう(そして、自覚も同時になくしてしまう)ものなのだろうかと思ってしまう時がある。そこに自分の意識がフォーカスされてしまっている時は、何かこう、人生全般ってクソだなという気持ちにもなってしまうことがある。

私は、自分のことを「表面的にはオープンだけど、実際は非常にクローズドな人間である」ような気がしている。自分でイベントを開催しておきながら、誰よりも早く集団の輪の中を飛び出して、自分の殻の中に閉じこもり、閉じこもっておきながら誰かに声をかけられることを待っていたりもする。そんな自分の面倒臭過ぎる心の扉をノックして「外に出ておいでよ」と寄り添ってくれるものは、たとえば、湘南江ノ島でラムピリカという素晴らしい喫茶店を営むちあきさんのような人間だ。

ちあきさんをはじめて、私は、心の綺麗なひとの存在に物凄いエネルギーで支えられている。自分を含めて人間全般を諦めてしまいそうになるときに、綺麗なままでいてくれるひとがいるということが、そのままで生きていてくれたひとがいるということが、どれだけ、自分の支えになっているのだろうか。具体的に何かをしてくれるという訳ではなく、ただ、そのひとが生きているというそのことが、たまらなくうれしくなる。

2・さとみさんの「ピットイン力」

昨日は、足もみ師のさとみさんもいてくれた。絶対的・相対的に共に弱者である私は、ひとと話しているときに気軽に傷ついてしまうことができるのだけれど、そういう時は「さとみさん、ちょっと聞いてくださいよ」と擦り寄りながら愚痴を吐く。器の大きいさとみさんは、私の話を、うなずきながらしっかりと聞いてくれる。昨日も、ことあるごとに勝手に自爆をしながら周囲を浮遊している私を、さとみさんは優しく受け入れてくれた。

私がF−1の車ならば、さとみさんはピットイン的な存在になる。基本的にギュインギュインとトラックをエンジン全開で爆走する私は、(割と早い段階で)故障かな?と思った瞬間に、さとみさん的な存在にピットインをして軽い修繕を行う。そして、新たな気持ちで再びトラックをギュインギュインと爆走する。ピットイン的な存在がいなければ、私は、路上で爆死をしていたのだろうなあと思う。さとみさんをはじめ、自分には「ピットイン的な存在がいるのだ!」と再認識できたことがうれしかった。

3・葛飾北斎の観察力。

私が「さとみさんは何を思っていたのですか?」と尋ねると、さとみさんは「打ち寄せる波を眺めていたのですが、見れば見るほどに、葛飾北斎の絵とまったく同じように見えてきて、北斎は、ほんとうに対象をじっくりとじっくりと観察をしていたんだなあと思っていました」と話してくれた。どうしてなのだろうか、私には、さとみさんのこの言葉が深く胸に刻まれた。

対象をじっくりと観察すること。いつもよりも、耳を澄ませること。いつもよりも、じっくりと見つめること。ひとも、自然も、見つめれば見つめるほどに『その、存在のすごさ』にハートが圧倒されるはずだったのに、宮本武蔵風も「(目で)見るのではなく(心で)観るのが大切でござる」とおっしゃっていたはずなのに、最近の自分には、そういう時間が足りていなかったことを反省した。

4・ルキノさんと出会えた。

7月9日(土)に大阪のロフトプラスワンで一緒にイベントをやることになっているルキノさんが、はるばる、東京から江ノ島まで遊びに来てくれた。この日が初対面になったのだけれど、私は、とにかくルキノさんと実際に話せたことがうれしかった。この感覚をうまく説明することはできないのだけれど、ルキノさんと同じイベントに出ることが決まった時に「最高の遊びの予定がはいった!」という気持ちになった。

私は、魂が綺麗なひとが好きだ。魂などという言葉を使うと非常に胡散臭いものに響くかもしれないけれど、しかし、現在の自分には「魂」としか言えない部分を感じることが頻繁にある。私は、会ってもいないくせに「ルキノさんは、きっと魂の綺麗なひとなのだろう」と勝手に思っていた。そして、これから自分の予感が確信に変わるまでの時間を、いま、ほんとうに楽しみにしているのだと思う。

5・冬樹さんの「死なないために、生きている訳じゃない」

イベントの途中、男女4人でテーブルを囲みながら話をする時間があった。ひとりの女性が「(非常に乱暴にまとめると)いまの仕事に悩みがあって、ほんとうは好きなことをやりたいんだけど、生活もあるからお金に対する思いを消すこともできない」と話していた。それを聞いていた冬樹さんという男性が、自分の思いなどを交えながら幾つかのたとえ話をしてくれた。

話の詳細は省略するが、その途中で「死なないために、生きている訳じゃないんだ」ということを、冬樹さんは満面の笑みで話していた。その姿が、その表情が、その表情の奥にある冬樹さん自身の過去の実体験や『悲しみを通過した優しさ』から伝わる何かに、私のこころはひどく感じ入ってしまった。死なないために、生きているんじゃない。そうだよな、と、思う。俺たちは、何も、死なないために生きている訳じゃないんだ。



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6・みさとちゃん(仮名)の笑顔。

イベントにみさとちゃん(仮名)という名前の二十代の女の子が遊びに来てくれた。優しくて可愛くて真面目そうなみさとちゃんは「自分には価値があるのだと思えるときもあれば、自分には何も価値がないのだと思うときもあって、自分の中にいる『みさとA』の声と『みさとB』の声にすごい悩まされることがあるのですが、坂爪さんは、そういうときはどうしているのですか」と聞いてくれた。

私は「では、『みさとC』を登場させるのはどうでしょうか?」的なことを答えた。みさとCにはゴリゴリのオラオラ的な所があり、価値があるとか価値がないとかで悩むA&Bに対して「無価値で何が悪い」と、無価値であることを肯定するある種の開き直りを見せる。彼女の口癖は『無駄こそJOY』であり、みさとCは、無意味に意味を覚え、無目的に目的を見出し、無価値に価値を観る。そういうキャラクターを自分の中に培うというのはどうでしょうか??的な話をした。

私の話はどうしようもなく支離滅裂なものになってしまったけれど、みさとちゃんが、私の話を聞きながら笑顔になってくれたことがうれしかった。そして、帰り際に「なんだかいろいろなことがどうでもよくなりました」と声をかけてくれたときに、ああ、いま、確実に俺たちの間に風が吹いているなあといううれしさを覚えた。いろいろなことが、後ろ向きな意味ではなくどうでもいいことのように思えたときに感じるこの気持ちこそが、きっと、自由だ。


7・空海と「俺は、一喜一憂していたいのだ」

最近の私は禅的なサムシングにはまりすぎていて、幸せになりたいと思うから不幸になるのだ、執着があるから、欲望があるから苦しみも生まれる訳であって、自分をなくせば、欲望を消せば楽になれるのだという思考に(非常に短期間ではあったものの)はまりつつあった。しかし、空海の思想にまつわる本を読みながら、ああ、俺はやっぱり(人間の欲望や煩悩や執着をする思いなども含めて)生きているということをまるごと肯定していたいのだ、という思いに立ち返った。

空海は「無我より大我、無欲より大欲」というようなことを言っている。この言葉を私なりに解釈すると「自我を消すなんて無理だよ、同時に、欲望を消すなんて無理だよ、自我や欲望があってこその人間なんだ、大切なことは欲望を消そうとすることよりも、どうせなら『自分のため』だなんていうけち臭いものに囚われるよりも、人類全体が幸福になってしまうようなビッグな欲望を抱けよ」ということになる。

直近の私は「一喜一憂する自分はダサい!もっと落ち着きたい!」などと思っていたけれど、いまでは「ああ、俺はなんだかんだと言いながら、一喜一憂していることを楽しみたいと思っているのだ。感情の揺れがなくなることよりも、感情の荒波に揉まれながら(時には溺れながら)、ああでもないとか、こうでもないとか、死ぬ!とか、生きる!とか、ギャーギャー言っていたいのだ」と思った。

8・「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」

わたり喫茶に参加をしてくれた女性が、終了間際、ほんとうに、ほんとうに楽しそうな表情を浮かべながら「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」と話してくれた。その言葉が、その表情が、ほんとうに嬉しかった。彼女がうれしそうにしてくれたこともうれしかったけれど、自分のよろこびや、自分が感じているうれしさは、決してひとりよがりのものでもなかったのだという事実が、ほんとうに嬉しかった。

誰かのために生きている訳ではないけれど、やはり、自分が楽しいと思うことも他の誰も楽しいと思ってくれることの中には、言葉にすることのできないうれしさがある。たとえば、それが「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」という言葉に象徴されるような形で自分の目の前に差し出されたときに、ああ、人生は捨てたもんじゃないなあ(というか、最高だなあ)という気持ちになる。

9・布施明の『MY WAY』

江ノ島から熱海に戻る車の中で、私が愛してやまない布施明の『MY WAY』を爆音で流しながら熱唱をした。ああ、なんて素晴らしい歌詞なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい声量なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい表情をしながらこのひとは歌を歌うのだろうかと、何がなんだかいろいろなものが「最高だなあ!」という気持ちになり、そして、私の中に新しい夢が生まれた。

自分も布施明のように『MY WAY』をカンツォーネ風に高らかに歌い上げることができたのならば、もう、最高に気持ちいいだろうなあと思った。やりたいことは何もない、夢も目標も具体的なビジョンも何もなかった私にも、それが実現したことを考えるだけでも胸がワクワクするような『夢』ができた。それは、布施明のMY WAYを高らかに歌い上げる日が来ること。隙間時間を見つけては、カンツォーネ的なサムシングの自主練習を日々に取り入れよう。


10・夕陽が綺麗だったこと。

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イベント終了間際に、夕日の光が差し込んできた。


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まるで、1日のご褒美みたいじゃないかと思った。


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夕日に「生きるんだよ」と言われている気がした。


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乱暴な表現になるけれど「この夕日の素晴らしさは、ものをたくさん持っているひとには味わうことはできないのだろうなあ」という気持ちになった。夕日の美しさは、自然の素晴らしさは、多分、なにもないやつほど深く味わうことができる。なにもないからこそ、全体に染み渡ってくる何かを受け取ることができるのだし、なにもないからこそ、目の前にあるものを全力でよろこぶことができる。


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そして、私は、余計なものは捨てていきたいという気持ちになった。まだまだ、いまの自分には、余計なものが身体全体にびっしりとこびりついている。これは、きっと、捨てていける。これはなくても、生きていける。生きていることを、よろこんで行ける。そして、身体の奥の方から、何かに感謝をしたくなる気持ちが湧き出してきた。自分や自分の人生全般を見限りそうになることもあるけれど、心の底では「すべてを肯定していきたいのだ」と思っている、自分を取り戻すことができた1日になった。




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人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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流動的な存在であるために。

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東京都国立市で開催されたイベントに登壇(?)した後に、熱海に戻った。職場でも、子育てでも、自分が解決できていないことを他人に教えることはできない。こどもの教育に悩むお母様とお話をする機会があったけれど、(こどもは勝手に学んでいるものだから)無理に何かを教えようとしたり、母親としてしっかりしなければいけないという思いは持たなくてもいいのではないだろうかと思った。


私は親になったことがないためにこどもの気持ちしかわからないが、こどもは、不完全でも構わないから親には楽しそうに生きていて欲しいと思っているのではないだろうか。逆に言えば、両親が常にイライラしたり心の余裕をなくしていたら、こどもは常に萎縮をして、自分の感情を溜め込み、時には「自分がいるから両親はイライラしているのだ」と自分を責め、世界を恐れて、周囲の顔色を伺う人間になる。私の場合、親が非常に適当な人間であったために、自分も適当な人間になることができた。この点は、とても親に感謝をしている。

自分に肩書きを与えない。

適当な人間が功を奏したのか(功を喪失したのか)、いまの自分には社会的な肩書きが何もない。文章は書くが作家ではなく、移動はするが旅人ではなく、わたり文庫やわたり食堂などはやっているが活動家ではなく、呼ばれたイベントなどには出演するが講演家という訳でもない。そのため、自己紹介をする時には非常に困る。多くの場合、ただの胡散臭い人間だと思われてコミュニケーションは終了する。自分を説明する言葉を持ち合わせていないために、ああ、今日もわかってはもらえなかったなあと思うことは多い。

自分に肩書きがあれば説明も楽になるだろうとは思うものの、私は、まだ、自分に肩書きを与えていない。これはある種の反骨精神にも似ていて、私は、人間が「自分の外側に装着しているもの」に対する関心が薄い。大企業の社長だとか、金持ちだとか、著名人であるとか、世界を舞台に活躍をしているとか、巷ではこれだけ話題になっているのだと耳にしたとしても、正直に言えば「だから何なのだろうか?」という気持ちになる。世間的にどのようなポジションにいるのかという相対的なものよりも、そのひと自身が何を感じ、何を思いながら生きているのかという『絶対的なそのひと自身』に興味がある。

だからなのだろうか、あなたはこういうひとですよねというカテゴライズをされてしまった瞬間、私の中にある反骨精神が爆発して「違うし!」と叫びたくなる。固定されてしまうことを、自分の役割を限定づけられてしまうことを、極端に恐れているのかもしれない。固定されたくない。自分の役割を限定づけられたくない。こどもじみた思いかもしれないが、私は、流動的な存在でありたいと思っている。

流動的な存在であるために。

最近は、ことあるごとに「捨てなさい」という言葉が脳裏をよぎる。高級な家や車や家具を所有することの中には自身の欲望を満たす快楽もあるかもしれないが、同時に、傷つくことや失うことを常に恐れる不安定な状態にもなる。目には見えない「見栄」や「プライド」や「世間体な肩書き」なども、それによって自分を律することができる場合もあれば、同時に、それに縛られる(守ろうとする力が働く)ことによって、自身の自由を喪失する場合もある。


家のない生活をはじめた頃から、自然を愛する気持ちが極端に増えた。昔はペットを飼いたいなどとも思っていたが、いまでは、家の前を通る野良猫や野良猿や野良狸(熱海には猿や狸が出る)を眺めているだけで「ある意味で、これもペットだ」という気持ちになる。大都会の街中ですれ違う美女も、かつては自分のものになったらいいなあなどと思うこともあったが、いまでは「眺めているだけでいい【一緒になるのも、一緒にならないのも、ある種の縁だ】」という、野に咲く花を眺めている時のような気持ちになる。


自分は強いのではなく弱いのだと、自分は賢いのではなく愚かなのだと思うようになってから、生きることが楽になった。多くのものを維持できる強さが自分にあれば、捨てずに持ち続ける生き方もできたかもしれない。しかし、今世における私には、そのような余裕は持ち合わせていないみたいだ。流動的な存在でありたければ、余計な見栄やプライドを、ポイっとゴミ箱に捨ててしまうことだ。

雨の日は、沢蟹も出る。

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「おお、また来たか!」と、話しかけている。

『「足もみ」で心も体も超健康になる!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、田辺智美さん著作『「足もみ」で心も体も超健康になる!【王様文庫】』です。この本は、熱海に遊びに来てくれた女性が「これはいいですよー!」とおすすめしてくれた最高の一冊になります。ふくらはぎや足裏は「第二の心臓」とも言われていますが、私も、自分の生活が行き詰まった暁には『ふくらはぎもみ師(ふくらはぎもまれ師)』として、第二の人生を歩みたいと思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、熊本県にわたりました ※※※


アキレス腱の周囲がもったりとして、足首のくびれがほとんどなくなってしまっている状態の人も即、足もみを。

足首が太いのは遺伝や体型のせいではなく、毒素や老廃物が付着しているケースがほとんどです。

しっかり足もみをすれば、必ずキュッとしまった足首になり、全身の肌ツヤもよくなります。



何者でもないからこそ、すべてになることができる。

自分の外側に装着したもので自分を誇るような、そういうものには、もう、あまり興味を持てなくなってしまった。どれだけ金を集めても、どれだけ周囲の評判を集めても、どれだけ高級な装飾に身を包んだとしても、どれだけ立派とされている行為を成し遂げたとしても、根本のところで感じている「虚しさ」をごまかすことはできない。それならば、今世の自分は「(有ではなくて)無に賭ける」しかないのだろうと、自分の外側に装着しているものではなく、何もかもを剥ぎ取った後に残る『裸の自分』で、どこまで行けるのかを見てみたいのだと思っている。


自然のすべてはこの世にひとつしかない天然記念物のようなもので、こどもを、花を、異性を、動物を、あらゆる自然を、檻の中に入れて閉じ込める(カテゴライズをして固定する)ような真似はしたくない。花や女性やこどもを「眺めているだけでいい」と感じている時の自分は、同じように、その対象に対して「生きているだけでいい」と感じている。相手を自由にさせているときに、自分のこころも、同じように自由になることができる。この気持ちを、この感覚を、出来ることならばなくしたくない。


何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時期は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。何者でもないからこそ「何者にでもなることができる」のであり、何者でもないからこそ「すべてになることができる」のだと、私は思う。何者でもなく生きるということは、ただ、そのままの姿でそこにあるということだ。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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天才とは、システムのエラーである。

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台湾を経由して、いま、三軒茶屋デニーズからこの記事を更新している。帰りの飛行機の中で読んだレイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』という本が面白く、その後、東京で合流した友達とSF的な未来の話をした。私は古典に触れるのが好きで、時代が変化しても変わることのない『普遍的』なサムシングに関心があったものの、いま、普遍的とされてきた前提そのものがまるごと変わろうとしている時期が迫っているのかもしれない。

今回は、対話形式でお送りいたします。

人間が死ななくなる。

坂爪「飛行機の中で『シンギュラリティは近い』っていう(非常に乱暴にまとめると)未来予測的な本を読んでいたんだけど、これが半端なくて、科学技術とかの発達によって近い将来『現在の生物学的年齢から本人が希望する年齢へと若返られるようになる』ようになるらしいの」

男友達「まじか!」

坂爪「少なくとも、現在の10倍は人類は長生きできるようになって、150歳になっても30歳の状態を保つことも可能で、あと、臓器の大部分は不要にすることができるようになるから『トイレに行かなくてもいい身体』とか『何も食べなくても死なない身体(どれだけ食べても太らない身体)』とかにすることもできるらしいの」

男友達「まじか!」

坂爪「だからね、いままで前提とされてきた「人生は短い。いつか必ず終わりの瞬間が来るのだから、いまを大切に生きよう」的なものも(必ずしも)そうではなくなってしまうようになるから、生きようと思えばいつまでも生きられてしまう世の中になってしまうときに、なんていうか『これまで常識とされてきたあらゆるものが揺らぐ』的な気がして、いろいろなことがわからなくなってしまって、なんだかワクワクしてしまいました!」

完全没入型のヴァーチャルリアリティ。

坂爪「あとね、巷で話題の『五感全てを組み込んだ完全没入型のヴァーチャルリアリティ』も出てくる(仮想現実が現実の水準に追いつく)から、たとえば、高い金を出してまで海外に行かなくてもメガネ的なサムシングが進化したものを装着すれば、即座に欧州でも南米でも(多分)月面の上にでも行けてしまうし、リアル社会ではまったくモテなくて彼女ができない男のひとも、バーチャルの世界ではSEXだろうが何だろうがいつでもできるようになるとかならないとか」

男友達「半端ないね」

坂爪「あとね、いままでは、たとえば俺が英語を習得したとしても、英語を話せるようになるのは俺ひとりだけの話だったけど、人類の脳味噌がスマホみたいに進化(リンク)しちゃえば、この世の中の誰かひとりでも何か新しいことができるようになれば『人類全体がそれをできるようになる』というかなんというか」

男友達「半端ないね」

坂爪「スマホにアプリをダウンロードするみたいに、英語を話したければ英語アプリを自分にインストールしたり、日本国憲法をマスターしたければ日本国憲法アプリを自分にインストールすればいいみたいな感じで、なんていうんだろう、何かこう『頑張る』という言葉そのものが死語になりそうな予感がしたよ」

男友達「スポーツの世界でも、いま、パラリンピックに義足で出場している選手の方が健常者よりも早く走るとかいう話を聞いたこともあるし、肉体改造も『どこまでが肉体改造なのか?』とか、いろいろと訳がわからなくなることがあるよ」

「わたし」とは誰なのか。

坂爪「でね、たとえば俺はツイッターをやっているけれど、過去の投稿の傾向とかを機械に読み込ませれば、俺が死んだ後も『坂爪圭吾が投稿しそうなこと』を自分の代わりに投稿してくれるようにもなるし、俺の脳味噌を何かしらの方法で保存をしておけば、俺が死んだ後も『坂爪圭吾そっくりのロボットと一緒に遊んだり、一緒に仕事をすることもできる』ようになるらしいの」

女友達「すごいね」

坂爪「こうなってくるとさ、いよいよ『自分とは何か?生きるとは、どういうことなのか?』みたいな気持ちになります」

女友達「私は、美大に通っていたんだけどね」

坂爪「うん」

女友達「受験の時とかは、ひたすら『上手に絵を描く!』ということだけに集中していればよかったんだけど、大学にはいると『自分を出しなさい!』みたいな風になって、嫌でも自分と向き合わなくちゃいけない時間を過ごすことになるから、それで病むひととかもすごいたくさんいたんだ」

男友達「ただでさえ病みやすい年齢だというのに!」

女友達「自分とは何かとか、考え始めると鬱になるよね」

坂爪「鬱になるときは、なるね!」

いろいろなことがわからなくなる。

坂爪「ブルーハーツの情熱の薔薇っていう曲の中に『見てきたものや / 聞いたこと / いままで覚えた全部 / デタラメだったら面白い / そんな気持ちわかるでしょう』っていう歌詞があるんだけど、まさにこの気分といいますか、俺はもう、何がなんだかいろいろなことがわからなくなってしまいました!」

男友達「これは、わからなくなるね」

坂爪「人間は、いかに生きるべきか」

女友達「謎だね」

坂爪「ただ、俺はこの『わからねえぞ!感』がすごい好きみたいで、なんだかうれしくなってしまう自分がいるし、極論『人生は、何でもありなんだなあ』みたいな気持ちにもなってくるから、わからないって素敵だな、わからないって楽しいな、っていう気持ちになります」

『シンギュラリティは近い』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』です。上記でご紹介した通り、いろいろな意味で面白い一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をさせていただきます。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※


天才とは、システムのエラーである。

スイスの画家であるパウル・クレーの言葉に「天才とは、システムのエラーである」というものがある。私は、この『エラー』という言葉が大好きで、生きとし生けるものは、皆、何かしらのエラーを抱えながら生きているのではないだろうかと睨んでいる。誰もが『一見すると普通に生きている』ように見える中で、実は、そのひとオリジナルの『エラー』をこっそり抱えているものだと睨んでいる。


ものすごい清楚な感じの女の子が両親の目を盗んでロックンロールを愛聴していた事実を知ると、たとえば、私はとっても嬉しくなる。普段はスーツでビシッと決めている真面目で誠実そうな男性も、ストレスが溜まった時は、自宅のココアを粉のままで踊り食う『粉喰い』をしていたのだという事実を知ると、私は、これまたとっても嬉しくなる。皆、何かしらギリギリの状態になりながら【自分なりの方法で必死に自分を保ちながら】生きているのだというその事実に、不思議な癒しを感じてしまう。


私は、いよいよ、いろいろなことがわからなくなった。自分は何者なのか、これからどのような志を胸に抱き、そして、どのような態度でいまという瞬間を生きるべきなのか、など、私は、何も知らない。わかることと言えば、世界はこの瞬間も確実に変化をしているのだということと、こうでなければいけないということなんて、実は、ひとつもないのだということ程度だ。感じることと言えば、沈む夕日を見たときに「夕日が綺麗だ」と感じる自分はまさにここにいるのだということと、そして、自分の中にある『(完璧性ではない)エラー』の部分こそ、抱き締めていきたいのだということだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
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もっと遊べ。もっと狂え。

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ヨガマットで眠ると身体が如実に快活になると言い張る女性と出会い、男女三人で熱海の自宅でヨガマットを敷いて眠りに落ちた所、意外と寝れた。という訳で、何があってもいいように携帯用のヨガマットを携えつつ、いま、台湾にいる。今回の遠征に同行している女性は、宿にベッドがあるにも関わらず「これ、いらない!」とマットレスをわざわざ外して、木の板の上に直接ヨガマットを敷いて眠っている。一見すると、ただの苦行に見えるけれど、本人はすこぶる楽しそうだ。おそらく、すべての物事は苦行だと思えば苦行になるし、娯楽だと思えば娯楽になる。要は、つまりはよく言うあれで、本人の捉え方次第になるのだろう。

日本を逃げる。

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最近の自分は、雪国出身の人間独特の「(冬は雪で閉ざされてしまう故に)自分と向き合いすぎちゃう系」の時間を過ごしてしまったために、何かが閉じて行くのを感じていた。環境を言い訳にするのは恥ずかしいことだけれど、今回ばかりは「すべてを他人のせいにしてやろう!日本という環境のせいにしてやろう!」ということで、こころを落ち着かせるために(台湾までの往復航空券が一万円程度だったので)日本を逃げた。

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日本在住の比較的フットワークの軽い友人の皆様に「台湾で一緒に仕事をしましょう!(俺はなにもやることはないけど)」と声をかけた所、男女3名が仲間になり、4人で台湾の高雄や屏東や琉球郷界隈をうろうろしている。こういう時に、一緒に行動を共にしてくれる友人の存在は大きい。夜市を巡り、適当な料理を選んで、酒を飲みたいひとは酒を飲みながら、暑い国で、熱い飯を食うだけで元気になる。

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人混みは嫌いなはずなのに、そこに生命力のようなものを感じるからなのだろうか、アジアの喧騒に触れると元気になる。台湾南部の人柄は非常に柔和で、温暖な気候独特のテキトー具合も調度よく、何もかもを環境のせいばかりにもしていられないけれど「それでもやっぱり環境の影響ってあるよね!」という気持ちになる。

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客を無視してこどもをあやすおばさま。

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胡椒餅40元(約150円)

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「今夜はぼくが奢りますよ!」と、巨大な海老や牡蠣などの豪華な海鮮料理を威勢良く注文していた友人のオーダーがうまく通らず、テーブルの上には結果的に人数分の3倍相当の料理が並んで、彼は破産をした。

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当たり前のことだけれど、日本の常識は日本での常識でしかないのだということを、日本を離れることで実感する。自分が悩んでいることや、自分が直面している問題のことなど、まるで悩みもしなければ問題にさえならない国の人達が、この星の上にはたくさんいる。いまいる場所が世界のすべてではないのだということを、身体を通じて実感することができる。

イベント情報

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【5月24日@TOKYO】坂爪圭吾さんお話会


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【5月28日@ENOSHIMA】わたり喫茶@江の島海岸!


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呼ばれる限り、あらゆるイベントに出演するようにしている。私がイベントに出演する理由は、多分、主張したいことがあるからではなく、有益な何かを広めたいからでもなく、「友達が欲しいから」なのだと思う。尊敬するとか尊敬されるとかではない、ただ、そこに行かなければ出会うことのなかったたったひとりの『誰か』と出会えた時に、自分のこころはうれしさを覚える。友達とは、常に行動を共にする仲間のことではなく「離れていても、そのひとのことを思うだけで元気になる」ひとのことだ。だからなのだろうか、自分が話をすることよりも、来てくれたひとの話を聞きたいと思う。興味のある方は、是非、足を運んでみてください。

『インド人の頭ん中』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、冬野花著作『インド人の頭ん中』です。来月、インドに足を運ぶにあたって「これを読むといいですよ!」と贈呈していただいた、いろいろなことがどうでもよくなるインドの内実(?)を伺い知ることが出来る一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、香川県にわたりました ※※※


インド人の入浴は朝なので、朝シャワーをした後にプージャ(神様に捧げる儀式)をすることが多い。また、プージャのときにホラ貝を吹く人も多く、住宅地では、どこからともなく、ホラ貝の音が聞こえてくるのが、朝の情景だ。毎日、ホラ貝を吹くのは、肺にもいいそうである。

忙しい現代人の中には、通勤の車の中でマントラなどをCDやテープで聞く人も非常に多い。タクシーでも、朝一番に乗ると、そういったテープをかけている場合が多いのだが、テープにとどまらず、車の中でお香までたいてしまうところが、さすがインド。灰が車内に落ちても、へーちゃらなので、客はすごい煙に巻かれ、マントラを聞きながら、朝もやの中を移動することになる。

しかし、いざ日本に帰ると、懐かしく思い出すのは、インドのそんな朝の情景なのである。

冬野花「インド人の頭ん中(中経の文庫)」



もっと遊べ。もっと狂え。

自分の中に神様がいるとしたら、いま、神様は何を言っているのだろうかと考えることがある。私の中には弱い部分もあれば強い部分もあり、繊細な部分もあれば大胆な部分もある。最近の自分は、繊細な部分にばかり目がいってしまっていて、一方の極に偏り過ぎているように感じていた。そして、マイゴッドは「もっと遊べ。もっと狂え」と言っているのではないだろうかと、そんなことを考えていた。


透明になりたいと思う。そして、自分の純度を高めるためには、蛇が脱皮を繰り返すように、古い自分を捨て去る必要があるのだと思う。繊細さに偏ることなく、大胆さに偏ることなく、ここから先を行ってしまうと自分の頭がおかしくなってしまうと感じるギリギリの際を、私は、歩いていたいのだ。良いことも、悪いことも、様々な出来事のシャワーを浴びながら、いちいちダメージをくらっては血を流しつつ、その血を見ては「ああ、自分は生きているのだなあ」と感じたがっているみたいだ。


繊細な部分が前面に出ている時は、罵倒の声に傷つくだけではなく、賞賛の声にも傷ついてしまうこともある。誉められる程に、さみしくなる。また、わかってはもらえなかったなあとひとりになる。自分は誉められたくて生きている訳ではないのだと、ただ、友達が欲しかっただけなのだと、そういうことを思ってしまう。しかし、真の男になるためには、他人に期待をする前に、徹底的に自分に期待をすることだ。何が起きても、誰に何を言われても、自分だけは自分を絶対に見離さないこと、いまの自分に守れる宝は、多分、そのくらいだ。




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人生は続く。

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自然のままの姿が、多分、一番美しい。

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手書きの手紙を受け取ると、うれしくなる。人柄に宿る体温が、文字を通じて伝わってくるからなのだろうか。届いた手紙のすべてに返信をすることはできないけれど、出来る限り、自分も手書きで返事を書くようにしている。手紙を書くことはあまり得意ではないから、代わりに、季節の花を封筒にいれる。ちょっと前は梅の花を、最近ではジャスミンの花を、自宅にいない時は道端の草花を勝手に拝借して、そのまま、封筒の中に投入している。

手紙を書く時間と、荷物を封筒に詰める時間と、手頃な花を見つけるために外をうろついている時間は、自分にとってはとても幸福度の高い時間になる。一年前の自分が、いま、手紙に花を添えて誰かに贈るようになっているだなんて、想像することもできなかった。花を添えるようになったきっかけは、熱海に家を用意してくれたムラキテルミさんが、ことあるごとに花を与えてくれたからだ。花をもらうとうれしくなるという感覚を、この【うれしさのバトン】を、いま、私はムラキテルミさんから受け継いでいるのだと思う。

ローズマリー軟膏

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神奈川県のT様から、新作の自家製ローズマリー軟膏が届きました。添えられていた手紙に、ふわっと、心が軽くなるようなうれしさを覚えた。ひとは優しいということ、そして、優しいT様からこうしてバトンを託されていることに、不思議な縁を感じた。丁寧な時間が流れている。ご希望される方に無料で郵送いたしますので、必要な方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※


圭吾さんへ

こんにちは。今日はいつもより多めに軟膏を送りたいと思います。見た目がフラットになっていないものは、私が知人に差し上げる物用として冷蔵庫内でとっておいたものをスパチュラで入れたものです。

気温も高めなので、やわらかくなりやすいですが、手荒れで困っている方々にプレゼントして下さい。圭吾さんからもらうことで、きっともらった方はさらに嬉しいと思います。

軟膏を使って下さる方々へお伝えください。夏場は涼しい場所に置いて下さい。とてもやわらかくなりますので。

それから、何か不足しているものはありますか。消耗品でも何でも、気がついたものがあれば言って下さいね。

⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎



『夏の森』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、一冊ではなく三冊になります。一冊目は、過去のブログ記事で紹介した銀色夏生さんの最新の詩集『夏の森』です。この本は、数日前に大阪に足を運んだ際に、ご連絡いただいた女性から美々卯のうどんすきをご馳走していただいた(他にも書き尽くせない程の贈り物をいただきました)際に、受け取った本のバトンになります。

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※


幸福な人っていうのは
どんな状況の中でも
どんな景色の中にも
どこかいいところを見つけられる人

そして
どんなにすばらしい景色の中にもある影をうとまない人



『わたしは樹だ』

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二冊目は、新潟市西区内野町でイロハニ堂という素晴らしい喫茶店を営むS野さんから届いた『わたしは樹だ』というタイトルの絵本です。この本を読み終えた瞬間に、ああ、これはわたり文庫のためにある本だと感じてくださった天使S野さんは、即座に熱海に郵送してくださいました。生かしたいひとを生かすために生きる。S野さんは、自分にとって、生かしたいと思う(勝手に「生きていてほしい」と思っている)存在のひとりです。

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※


そうして いつか……、

わたしにも たおれる ひが くるだろう。

生きて 生きて、
そして そのときが きたら、
わたしは ゆっくりと たおれよう。

そして、
つぎに やってくる タネたちの ねどこに なろう。

わたしの いのちは、つぎの 
樹へと、森へと、
つながっていくのだろう。



老子入門』

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三冊目は、移動の際に愛読していた楠山春樹『老子入門』です。「世の思想・教訓の類は、人は何を為すべきか、如何にあるべきか、を説くのが通例である。ところが『老子』は無為に生きよ、自然のままがよいという。もっとも無為といっても、何もしないということではない。無作為、つまりことさらな行為をしない、ということである(本文より引用)」ー ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

聖人は積まず、既く以て人の為にして、己れ愈いよ有り、既く以て人に与えて、己れ愈いよ多し。


得道の聖人は自身にためこまない。何もかも他人の為にしながら、自身はさらに心豊かになっている。何もかも人に与えながら、自身はさらに所有(徳)がふえている。



自然のままの姿が、多分、一番美しい。

私は本が好きで、かつては自宅の本棚に無数の書籍を並べていた。しかし、ある日、ふと冷静になって考えてみると「自分が素晴らしいと思うものたちを、自分の手元に置いておいただけでは、自分以外の誰も楽しむことができないじゃないか」ということを思った。そして、自分が素晴らしいと思うものほど、自分の手元に置いておくのではなく、周囲の「これだ!」と思う人達にばら撒きはじめるようになった。


耐久力のある愛を養うためには、とにかく、種を蒔き続けることなのだと思う。ひとつの場所に固執して与えるのではなく、いつでも、どこでも、何を言われても、誰にも理解されなくても、これだと思った瞬間に種を撒き続けていく。すべての種が芽を出すとは限らないけれど、時折、芽を出す果実(よろこんでくれるひとの存在)にこころが慰められることがある。そういう時は、実らなかった種のことを忘れていられる。自分に浴びせられている、罵倒の数々を忘れていられる。


老子の言葉に『天の道は、利して害せず、聖人の道は、為して争わず(天のやり方は、万物に利益をもたらして害することがない。同じように聖人のやり方は、万民の為をはかって人と争わない)』というものがある。自分を必要以上に大きく見せようとしないこと。同じように、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。自然のままの姿でいることが、多分、一番美しいのだと思う。



いつも
空を見上げているような気持ちでいたい

心の解放が必要だ
人には時々

そして帰るところも


銀色夏生『夏の森(角川文庫)』


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。

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久しぶりに熱海の家に戻ったら、玄関先にあるジャスミンの花が満開になっていた。あまりにも綺麗に咲き誇っていたために、見た瞬間、思わず「うわあ」と声が出た。自分のこころの中にある、柔らかい何かが膨れ上がるような感覚を覚えて、ああ、これは夕日を見た時の気持ちと同じだと思った。それを目にした瞬間、何もかもを放り投げて駆け出してしまう、自分の小さな考え事を吹き飛ばしてくれる力がある。

花を見ると、嬉しくなる。花のゴールは、たぶん、咲くことだ。自分の命を大きく開き、無心に咲き誇る花を見て、勝手に嬉しくなる。この気持ちは、小さなこどもを見ている時に覚える、あの、躍動するような嬉しさに似ている。生きているものを見ると、どうして、これほどまでに嬉しさを覚えるのだろうか。きっと、ひとりひとりのこころの中にも花の蕾は隠されていて、それは、いまこの瞬間にも咲き誇る時を待っている。花を育てる時のように、ひとと付き合っていきたいと思う。

花と月を友にして。

家のない生活をしていた頃、自分を惨めに思うことや、得体の知れない寂しさに襲われることが、頻繁にあった。そういう時に、自分の心を慰めてくれた人物のひとりに「良寛」がいる。托鉢の生活を送りながら、詩作を続けていた良寛の生き様を思い出すだけで、元気が出た。稀に、家のない生活を送る私を見て「坂爪さんは強いですね」と言ってくれるひとがいた。しかし、移動を続ける生活は強さではなく、同じ場所に根をはることができない弱さに支えられているのだと、私は、そのように思っていた。


旅に出る人間は不幸だ。根をはる場所を見つけた人間は幸福で、根をはる場所を探し求めてさまよい続ける自分のような人間は、たぶん、不幸だ。いつでも、どこでも、どこまでも、遠くまで行くことができるという強さではなく、いつまでも同じ場所にいることができない弱さがある。それは、家を与えられたいまも変わらない。どれだけ素晴らしい環境を与えられても、また、すぐに「ひとりになりたがってしまう」弱さが出る。


自分の中にある弱さを認めてから、ああ、本当にそうなのだと、自分には弱い部分が大量にあるのだということを、いまさらのように実感するようになった。生きていれば、いいこともあるし、悪いこともある。賞賛の声が届くこともあれば、批判の声が届くこともある。いまの自分には、まだ、賞賛の声にこころを踊らせる余裕も、批判の声にこころを萎ませている余裕もない。自分のこころが「ここにはいられない」と感じる限り、静かになれる場所を求めて、また、移動を繰り返すのだと思う。

良寛

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、水上勉著作の『良寛(中公文庫)』です。「寺僧の堕落を痛罵し、妻や弟子ももたず、法も説かず、破庵に独り乞食の生涯を果てた大愚良寛。その人間味豊かな真の宗教家の実像を凄まじい気魄で描き尽くした水上文学のエッセンス。毎日芸術賞受賞作【表紙裏・内容紹介より引用】」ー ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

我生何処来
去而何処之
独坐蓬窓下
兀兀静尋思
尋思不知始
焉能知其終
現在亦復然
展転総是空
空中且有我
況有是與非
不知容些子
随縁且従容

独りで生まれ、独りで死に、独りで坐り、独りで思う。そもそもの始まり、それは知られぬ。いよいよの終り、それも知られぬ。この今とは何か。それもまた知られぬもの。展転するものすべて空である。空の流れの中にしばらく我れがいるのだ。だから、是もなければ、非もないはず、そんなふうにわしは悟って、こころゆったりと、時のすぎるにまかせておる。

静夜虚窓下
打坐擁衲衣
臍与鼻孔対
耳当肩頭垂
窓白月初出
雨歇滴猶滋
可怜此時意
寥々只自知 

静かな窓の下で、衣をととのえて坐禅を組んでいる。臍と鼻の穴をまっすぐにおくと、耳が肩までたれてくるではないか。窓が白くなった。月が出たのだ。しずくがひとつひとつ落ちる音がする。雨もやんだ。このひとときの、このこころもち、ああ、たださびしさがあるだけだ。ほかのものは何もありはしない。


ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。

これから、幾つかのイベントが控えている。5月20日(金)からは台湾の高雄に行き、5月24日(火)には東京都国立市で開催されるトークイベントに、28日(土)には神奈川県の江ノ島で開催される『わたり喫茶』に、6月5日(日)にはタイのバンコクで開催される『わたりカフェ』に、6月8日(水)にはタイのチェンマイで開催されるトークイベントに登壇した後に、多分、ラオスに向かう。

ひとりでいたいと思いながら、同時に、ひとりではいられない自分がいる。どこかに行きたいと思いながら、同時に、どこにも行きたくないと思う自分がいる。静かになれる場所を探しながら、同時に、強烈な動を求めている自分がいる。昨日までは「これだ!」と思っていたことに、今日、何も手応えを見出せていない自分がいる。確かなことは何もなく、揺れる思いに身を委ねている。変わらないことは、ただ、自分の中にある弱さやさみしさだけだ。

何かに見惚れているとき、それは、たとえば花の美しさにこころを奪われている間だけは、自分の中にあるさみしさが消える。自分の中にある、弱さを忘れさせてくれる。ひととつながるとき、それは、強さではなく「共通の弱さ」を通じて、表面的な一体感や一時的な楽しさではなく、その根底にある「共通のさみしさ」を通じて、より深く、つながることができるのではないだろうか。弱さが強ければ強いほど、さみしさが強ければ強いほど、同じ弱さ、同じさみしさと出会えた瞬間に感じるよろこびは、大きくなるのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

お願いだから、負けないでくれ。

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愛媛県松山市からしまなみ海道を経由して広島に向かい、尾道迎賓館で開催されたイベントに登壇した後に、いま、兵庫県の三ノ宮にいる。最近、小学校の先生を辞めた(辞めたいと思っている)ひとと、頻繁に出会う。誰が悪いとか、何が悪いとか、そういうことは何もわからないけれど、つらそうに仕事をしている大人に育てられるこどもたちは、可哀想だなと思う。マイナスの感情が連鎖していかなければいいなどと、ひどく曖昧な希望を託すしかない。


私のもとには、稀に、不登校のこどもを抱えた親御さんから悩み相談のようなものが舞い込むことがある。息子が不登校になりました、どうすれば学校に行きたいと思えるでしょうか。何もやりたいことがないと嘆くこどもに、親としてはどういう態度を取ればいいでしょうか。どうすれば、坂爪さんみたいな大人に育つのでしょうか。など。私の最終学歴は高卒で、学生時代は根暗で友達も少なく読書と煙草と音楽に溺れ、現在の職業は(限りなく無職に近い)不定、家があるんだかないんだかよくわからない、呼ばれる場所にはふらふらと足を運び、五年後どころか来週何処にいるのかさえもわからない、人様のお手本になれるような生き方は、とてもじゃないけれどできていない。

言葉に支えられて、生きる。


尾道で開催されたトークイベントで「私は、多分、言葉に支えられているのだと思う」という話をした。家もない、金もない、仕事もないという何もない状態の中で、私を支えてくれたものは『言葉』だった。安定はなくても、保証はなくても、心臓は身体中に血液を巡らせている、生命がある。私は、自分に残されている頭と体と魂を使って、そのときの自分が感じること、思うこと、自分を励ますこと、自分を突き落とすこと、自分の心を震わせていることを、言葉に残した。この作業はいまも続いていて、それは、言葉の中に「自分の生命を注ぎ込む」かのように、言葉を通じて自分が生きているということを確認するかのように、そして、これがなければ生きていけない自分に『言葉のエサ』を与えるように、自分に、見えない何かを与えていた。

そして、この、見えない何かによって現在の自分は生きている【生かされている】ように感じている。普通、それで飯が食えていない人間の生業を『職業』とは言わない。私は言葉を綴るが、言葉が金になることはない。誰かが原稿料をくれる訳でもなければ、何処かから印税がはいる訳でもないし、広告宣伝費を貰える訳でもない。私の言葉は、まず、金にならない。その点において、私を「作家」と呼ぶことはできない。しかし、私は、言葉を残すまさにそのことで生き、言葉を残すまさにそのことで生かされているように感じている。

言い換えるならば、私を支えてくれたものは「自分のこころ」になる。自分のこころを言葉にする。自分の言葉に自分のこころは励まされて、自分のこころは、再び「自分の言葉」を生み出していく。この、繰り返しの営みが自分の内側に無限の熱量を生み、自分自身を回転させるほど、空間に『不思議な磁場』が発生する。この磁場が何なのか、私はまだ何も知らない。私はまだ何も知らないけれど、ただ、この『不思議な磁場』の力によって自分は生かされているように感じている。

モーターサイクルダイアリーズ

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エルネスト・チェ・ゲバラ著作『モーターサイクルダイアリーズ』です。この作品と直接的な関係はないのですが、ボリビアで捕虜となったゲバラが銃撃を躊躇う敵軍兵士に向けて放ったと言われている、最後の言葉が胸を撃つ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

落ち着け、そしてよく狙え。

お前はこれから

一人の人間を殺すのだ。


お願いだから、負けないでくれ。

銀色夏生の詩に「すみわたる夜空のような」という題名のものがある。その内容は「何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいよりも、すみわたる夜空のような孤独を」という、とても短い言葉が織り成している。私の生き方は、人様のお手本になるようなものではない。だからこそ、不登校で悩み苦しむひとに対して、仕事や人間関係で悩み苦しむひとに対して、適切なアドバイスや具体的な指示を出すことはできない。私に出来ることは、同じような苦しみを抱えた過去のある、自分の血で書かれた言葉を綴ることだけだ。


俺はこう思う。俺はこのように生きる。嫌だなあと思うことを受け入れてしまったら、魂が腐る。自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとから嫌われる方がずっといい。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。たとえ、それでメシが食えなくなったとしても、このままダメになってしまうとしても、どこまでも、自分は自分のままでいたいのだ。この思いだけが、この願いだけが、これまでの自分を支え続けてくれたように、これからの自分を支え続けるものになるのだろう。そういうことを、何度も、何度も、震える心臓に刺青を彫るように刻み続けている。


これまでの自分が自分に願い続けてきたように、自分と同じ部分を持つひとを見かけては「お願いだから、負けないでくれ」と、勝手に願う自分がいる。自分にはこの身体とこの精神しかないのだから、このままで生きるしかないじゃないかと、どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きるのだと、顔を上げて、前を見て、何度でも、何度でも、威風堂々と歩き出すのだと、何度でも、何度でも、懲りずに言葉のエサを撒く。そして、過去に自分が励まされた言葉をかき集めては「届け、届け」と願い、放つ。希望とは、強さから生まれる思いではなく、自分を含めた人類全体に対して『生きろ』と願う弱さのバトンであり、あらゆるラインを超えて『永遠にそのままで行け』と願う、そうでもしなければ生きていけない弱さから噴き出した【血と汗と涙の滲み】だ。



「泡になる」

その想いは泡になる
泡になって
消えてしまう
だから
気にしなくていい

この想いも泡になる
泡になって
消えてしまう

消えてしまうだろう



「抜け殻」

二人の関係がよかった頃の言葉を
思い出し つないでも
そんなものには意味がない

二人の関係がよかった頃の言葉は
二人の関係がよかった時にだけ正しく機能する

二人の関係が変わってしまった今では
そんな言葉など
もうとっくに死に果てている
見てみろ
ただの抜け殻だ

おまえが抱いているものは
抜け殻ではないか
力をこめればすぐに壊れてしまうだろう

聞きたくないか
できないと泣くのか
俺が壊してやるがどうだ

愛というものの
なれの果てを
俺が教えてやるが どうだ

愛しき君よ
抜け殻など捨てて
現実の二人を見てみろ
そこに希望があるのが見えないか




「白い空」

羽ばたく鳥の
遠い後ろに
ひろがる空
白い空

散りぢりになる葉っぱ
風の音

憧れたあの人

憧れが
消えていった
消えてしまった
今日

白い空に羽ばたく鳥の
広い背中にひろがる空




「希望」

俺達は
いっせいに
おどろき あこがれた

この空の青さ 広さ
見たこともない
狭い路地の上に広がる
青さ まぶしさ

いまなにか
聞こえた?

なにか
胸が躍るようなものじゃなかった?



「すみわたる夜空のような」

何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいより
すみわたる夜空のような孤独を



「君へ」

君は好きなことを、
好きなふうにやるべきだ。
そのことが他人から見て、どんなに変でも、
損でも、バカだと言われても、
気にするな。
だって彼等は、君の願いを知らない。
君が何をめざし、
何に向かっているのかを知らない。
君は彼等とは違うものを見てるのだから。
あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。
そのことを忘れないで。

他人の説教やからかいなど気にせずに、どんどんやりなさい。
けして周りを見たらダメだ。
仲間はいないんだ。すくなくとも途中には。
君はやりたいように、どんどんやりなさい。
やりたいことを。
好きなやり方で。
その行為が同時に君を救うだろう。
その行為は同時に人をも救うだろう。
そのことを忘れないで。


銀色夏生「すみわたる夜空のような」(角川文庫)


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。

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東京都美術館で開催中の若冲展に足を運んだものの、あまりの人混みに「これは無理だ」と思い、100分待ちの大行列を横目に眺めて退散をした。300年前に生まれた人間が、現代を生きる人間たちの大行列を織り成しているという事実を前に、強い感動を覚えた。5月24日(火)まで開催中の『若冲展』の前売りチケットが、いま、手元に一枚ある。ご希望される方に無料で郵送をいたしますので、必要な方は下記連絡先より坂爪圭吾までご連絡ください。

坂爪圭吾 keigosakatsume
MAIL keigosakatsume@gmail.com

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※

昨夜は空港に泊まり、いま、成田空港の第二ターミナルからこの記事を更新している。今日の昼頃には愛媛県松山空港に到着して、12日(木)に尾道迎賓館で開催されるトークイベントに出た後は、何も予定が決まっていない。中国界隈や関西界隈で時間のある方がいたら、いつでも気軽にご連絡ください。現在の所持金が四桁程度ではあるものの、可能な限り、疾風の如く足を運べるように努めます。

諦観の先に得たもの。

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諦観などという大袈裟な言葉を使うのも恥ずかしいことだけれど、昔、家を持たない生活をしていた頃は「今世においては、自分のような社会不適合者には、普通の家庭とか、普通の暮らしとか、そういったものを手にすることは不可能なのだろう」と思っていた。悲嘆に暮れる訳でもなく、卑屈になっている訳でもなく、ただ、薄ぼんやりとそのように感じていた。そして、いま、不思議なことに(そして、非常にありがたいことに)熱海に自分の家が与えられた。諦めていたはずのものが、いま、まさに自分の掌の中にある。

自分に家が与えられたことを自慢したい訳ではなく、諦めていたはずのことが(諦めてからより一層の加速度を増して)実現しているという事実に、人生の不思議さを覚える。幸せになりたいと思っていた頃は、幸せから随分と遠い所にいた。幸せなんてどうでもいいと思うようになってから、前より心は穏やかになり、周囲に惑わされることも躍起になることも減って、気がつけば「幸せになりたいと思っていた頃よりも、よほど幸せになっている」ように感じている。

そして、いま、与えられたはずの家を飛び出して、再び「擬似的な家のない生活」を始めている。いったい、自分は家を持ちたいのか、家を捨てたいのか、安定したいのか、安定したくないのか、幸せになりたいのか、不幸せをくらいたいのか、自分でも、自分のことがわからなくなる。わかることと言えば、生きているということの実感を覚えたいと思っていること、自分の中に拭い切れないさみしさがあるということ、そして、古い自分の小さな殻を突き破り、新しい世界に飛び出してみたいと胸を焦がしている、未熟で強い【こどものような、獣のような】渇きがあるということだ。


『禅とはなにか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鎌田茂雄著作『禅とはなにか(講談社学術文庫)』です。少しだけ減らすことを考えれば、減らした分だけ、世俗から抜け出すことができる。幸せになりたければ(「幸せ」という言葉が適切なのかはわからないけれど)、多分、捨てることだ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バルセロナにわたりました ※※※

人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。


孤独や無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。

宮沢賢治に『告別』という詩がある。この詩の中に、私の好きな箇所がふたつある。ひとつは「おまえのいまのちからがにぶり / きれいな音が正しい調子とその明るさを失って / ふたたび回復できないならば / おれはおまえをもう見ない / なぜならおれは / すこしぐらいの仕事ができて / そいつに腰をかけているような / そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」であり、ひとつが「みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに / おまえはひとりであの石原の草を狩る / そのさびしさでおまえは音をつくるのだ  / 多くの侮辱や窮状のそれらを噛んで歌うのだ / もしも楽器がなかったら / いいかおまえはおれの弟子なのだ / ちからのかぎり / そらいっぱいの / 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」になる。


私は、多分、自分が自分に見捨てられてしまうことを恐れているのだ。「おまえのいまのちからがにぶり / きれいな音が正しい調子とその明るさを失って / ふたたび回復できないならば / おれはおまえをもう見ない / なぜならおれは / すこしぐらいの仕事ができて / そいつに腰をかけているような / そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」ということを、自分以外の誰かではない、その言葉が、自分自身の内側から自分に向けて出てしまうことを恐れている。


自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。「みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに / おまえはひとりであの石原の草を狩る / そのさびしさでおまえは音をつくるのだ  / 多くの侮辱や窮状のそれらを噛んで歌うのだ / もしも楽器がなかったら / いいかおまえはおれの弟子なのだ / ちからのかぎり / そらいっぱいの / 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」のだと、嬉しさや楽しさだけではない、悲しみの中にも、苦しみの中にもよろこびはあるということを、孤独や自分の無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘るのだということを、花に水を与えるように、いまはまだ言葉がなければ枯れてしまいそうになる自分の心に、言い聞かせている。



「告別」

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく
天の仕事もするだろう
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村の一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
それらのどの人もまたどの人も
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材というものは
ひとにとどまるものでない
(ひとさえひとにとどまらぬ)

云わなかったが
おれは四月はもう学校にいないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけているような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

宮沢賢治春と修羅 第二集』より


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
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