観光とは「光を観る」こと。
カンボジアのシェムリアップからバンコク経由で南インドのチェンナイにはいり、チェンナイからシャタブディ鉄道に乗って5時間弱、バンガロールに到着をした。今回、インドに足を運ぶきっかけになったのは、日本在住の女性から「インドに行きたいのですが、ひとりではちょっと心許ないので、一緒に行きませんか?」と連絡が届いたことが発端になる。彼女とは、バンコクの空港で合流をした。
自分で自分の予定をいれることを諦めてから数年が経ち、いまでは、様々な方々が私の代わりに予定を埋めてくれる。25日(土)には日本に戻り、27日(月)には福岡の警固神社にてトークイベントに登壇する。自分のような生き方がどれだけ人様の役に立つのかはわからないけれど、こういう生き方でも(いまのところ)どうにかなっているという、この「どうにかなっている」という部分について、話をしたいと思っている。時間に余裕のある方は、誰でも、お気軽に遊びにいらしてください。
【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会
バンガロール在住の日本人女性。
バンガロールには、およそ1200人の日本人が暮らしているという。そのうちのひとり、バンガロールで8年間暮らしている日本人女性・Nさんから連絡をいただき、一緒に食事をした。数日前、たまたまこのブログを開いたら、そこには「バンガロールに行きます」と書いてあり、バ、バ、バ、バンガロール!?となったNさんは、そのままの勢いで連絡をしてくれたのだと話してくれた。
Nさんの紹介で、現地在住の日本人が集まる「合唱サークル」にご招待をしていただいた。私のような新参者にも、優しく、あたたかく、和やかな雰囲気の中で歓迎をしてくれた、非常に優しい方々の集まりだった。正直に言えば、私は、ひとがたくさん集まる場所があまり得意ではない。最大の理由は「普段は何をしているのですか」という定番の質問に、私は、上手に答えることができないからだ。
あなたは何をしているのですか【何もしていません】。旅人ですか【旅人ではありません】。どうしてインドに来たのですか【召喚されたからです】。お金はどうしているのですか【稼ぐことは少なく、貰うことが多いです】。これから何をするつもりですか【何も決めていません】など。質問に答えれば答えるほどに、露骨に、相手との距離が開いてしまう。
有為に対する「無為」に賭ける。
ひとびとがひとつの信仰を持っている中で、自分は、大袈裟な言葉で言えば「異教徒みたいだなあ」と思うことがある。大勢のひとびとが有為を信じる中で無為に賭け、何者かになろうとする中で何者でもないことを貫き、何かを得ることを試みる中で何かを棄てることを試みている、自分を、稀に、異教徒みたいなだあと思うことがある。
人間の外側にはりついているものではなく、外側にはりついているものをすべて取り去った後に残るもの、私の興味は『生身の人間【裸の人間】』にある。初対面での会話が苦手な理由は、おそらく、外側にはりついているものの話題で終始することが多いからなのだろう。そして、人間の外側にはりついているものでそのひと自身の価値が図られるとき、私の存在価値はゼロになる。
自分の気持ちをわかってもらいたいと思う気持ちと、自分の気持ちを伝えることは無理だろうなと思う気持ちと、その、両方がある。初対面を苦手だと感じる気持ちの裏側には、まだ、誰かにわかってもらいたいと願う弱い自分がいる。中途半端で、未練がましい、さみしがり屋の自分がいる。
アルゼンチン「空を見る話」
過去に、自分の前世を見るというヒプノセラピーなるものを受けたことがある。その時の話を短くまとめると、私は、アルゼンチンの人里離れた谷の上に暮らしていたのだという。そして、谷の上から、谷の下のひとびとの暮らしを眺めては、愛する妻とふたりで静かに暮らしていたのだという。
ある日、私は、愛する妻と死別をする。その日を境に、私の中に大きな変化が起きた。それは、いままで谷の下ばかりを見ているばかりの私が、谷の上も見るようになったのだ。きっと、亡き妻を思ってのことなのだろう。目には見えない何かを思い、いままで下ばかりを見ていた人間が、上を見るようになった。たったそれだけの話が、妙に、こころに残っている。
誰かにわかってもらおうと思うな。横を見るな。横につながりを求めるな。上を見ろ。つながりは上にあることを思い出せ。人に理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をしろ。このエピソードを思い出すたびに、私は、そういう気持ちになる。横につながりを求めていた自分を恥じて、うつむきがちになっていた視線を上げて、ただ、空を見る【見えない何かに思いを馳せる】ようにしている。
最高の観光名所は「人間」だ。
最高の観光名所は「人間」だ。 pic.twitter.com/HxAsj7vnak
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月19日
インドらしいことはなにひとつせず、路地裏を歩いてはこどもたちや犬や鳥やリスを観察していた。カメラを向けると、こどもだけでなく大人も一緒になって「俺を撮れ!俺を撮れ!」と求めてくる。こどもがいる大人は「うちのこどもを撮れ!」と、こども以上のテンションで迫ってくる。その姿が、そのストレートな態度と気持ちが、妙に胸に迫ってくる。
インドのこどもは端正な顔立ちをしていて、
赤ちゃんにさえ、風格がある。
「娘を撮れ!」と母親に迫られ、
「俺を撮れ!」とおじさんに迫られ、
「私を撮って!」と母親に迫られ、
「俺の家族も撮れ!」と若い父親に迫られて、写真撮影の順番待ちが発生した。皆、写真が好きなのだろう。撮った写真を見せると、おとなもこどもも一緒になって、ニコーッと弾ける笑顔で喜びの表情を浮かべる。お互いに写真を見せ合って、これが俺だ、これがお前だと、肩を叩きあって笑い合う。ただそれだけのことに、ただそれだけの場面に、涙が出そうになる。どうしてなのだろうか、涙の理由はわからないけれど、これだけで「インドに来てほんとうに良かった」と思う。
最高の観光名所は「人間」だ。
観光とは「光を観る」こと。
観光とは、ガイドブックに掲載されている場所を巡ることではなく、ひとやものやことを通じて「光を観る」ことなのだと思う。光を観るためには、必ずしも海外まで行く必要もなければ、誰も踏み入たことのない秘境の中まではいらなければいけないというものでもない。光を観るものは、いま、ここにある、人間の心だ。
ある一定の話題について、信頼できるひとに話をするというよりも「ひとを信頼して」話をすればいいのかもしれない。難しい場合もあるけれど、先に、自分から信頼を寄せること。すぐに気持ちは伝わらなくても、心のこもった言葉は聞く人の土壌に種を蒔き、長い時間を経た後に咲く花もある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
自分のこころが「いいな」と感じる出来事に触れたとき、まるで、こころが再び呼吸をはじめるような感覚を覚える。うれしいことは、いいなと思える出来事に出会えたこと【外側の出来事】だけではなく、自分の中にあるこころが、命が、魂が、まだ、死んでなんかいなかったのだということ【内側の出来事】を教えられることだ。いま、私のこころは光を観ることができていて、きっと、これから先も光を観ることができるのだという静かな予感が、希望になる。
真実の響きはきっと、そのひとが言葉にしたことではなく、そのひとが言葉にすることのできなかった部分に宿るものだと思う。言っている(書いている)ことだけではなく「そのひとが言い切れなかった(書き切れなかった)部分」にまで寄り添おうとすることを、思いやりと呼ぶのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
日本在住の女性から、一通のメールが届いた。ひとのこころに光を観た時、きっと、その場所はひとつの『観光地』になる。光は、自分と、自分の人生を肯定する。涙は、自分の濁りと、自分の汚れを浄化する。光を観る時、ひとの温もりに触れた時、こころの中にある冷たいカタマリが溶け出して、流れ出してくるものが涙になる。非日常の中にあるものだけではなく、日常の中にもたくさん転がっているはずの、光を、涙を、ひとりの人間のこころの動きを、しっかりと捉えていきたいと思う。
コミュニケーションは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」の方が、多分、何億倍も大切だと思う。心のない言葉はどれだけ正論でも空疎に響くし、無様でも、心のある言葉には真実の響きが宿る。言葉はただの容れ物で、感情と合致した瞬間に『言葉は音楽になる』のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月21日
圭吾さんバンガロールというのはどこだろうと、探してみるとインドの南のほうなんですね。日本からインドへ一瞬でメールが届くのは改めて考えると不思議な感じです。日本の実家に戻って3年間やってきたことに違和感を感じ、自分がそれを演じてるような気がしてきて、引っ越しを機に全てを捨てようとしたところ、引っ越しできなくなり、これは神様がちゃんと向き合えと言ってるのね、と観念し、正直に辞めたいということと辞めたい理由を言いました。みんな引いてるだろうなと思いつつ帰ったところ、あるメンバーから「カミングアウトに立ち会えたことが、うれしい」とメッセージがあり、ああ、ちゃんと言ってよかったなあと思いました。圭吾さんが言っていた「ひとを信頼して話すこと」、これがちょっと腑に落ちた気がします。どうせ分かってもらえないだろうと適当に話したりごまかしたりしないで、きちんと気持ちを話せば、分かってくれる人はいるんだなあと。もういい歳なのですが、今までずっとずっと「どうせ分かってくれないどうせ私になんて興味が無い」と思って生きてきた気がします。だから目の前の人に、言葉をにごして答えたり、適当にごまかしたり。でも最近ちょっとそれをやめてみようと思って、銀行の外貨両替の窓口などでも、今までなら「ちょっと旅行に」くらいでにごしていたのを「今度モンゴルに行くんで、ドルの小銭がいるって書いてあって」と正直に話すと、窓口の人と話が盛り上がったり。そんなことが、うれしかったり。昔、修学旅行の班や文化祭などで、自分の班だけはつまらないと思ってきました。でも、つまらなくしていたのは私だったんですね。自分を開けば相手も開く、自分が楽しんでいたら、きっとみんなも楽しんだはず。そんなあれやこれやを、遅まきながら圭吾さんに教わって実験して実感して、そんな感じの昨今です。圭吾さんの言葉に出会えてよかったと本当に思います。さっきまで出ていた月は隠れてしまいました。
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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