いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。

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片道1700円の高速バスで横浜から京都に向かい、滋賀県近江八幡を経由して、いま、京田辺駅近くのカフェにいる。これから神戸のハーバーランドに向かい、明日の夜には関西空港からバンコクに向けて出発をする。お金がないために、多分、その日はドンムアン空港の路地裏に宿泊をする。バンコクでは、現地在住の日本人女性の方がイベントを企画してくださることになり、軽目の交流会が行われる。たまたまバンコクにいるぜ!という方は、誰でも気軽に遊びに来てください。


バンコクのあとはチェンマイに向かい、こちらでも、現地在住の日本人男性の方がイベントを企画してくださることになった。たまたまチェンマイにいるぜ!という方は、誰でも気軽に遊びに来てください。その後は、日本在住の女性が「インドに行きたいのですが、ひとりで行くのはちょっと怖いので、よかったら交通費などは負担するので一緒に行ってください」と連絡をくださり、(時間的に余裕があるためにラオスカンボジアベトナムを経由した後に)16日からインドのチェンナイとバンガロールに足を運ぶ。


世界を舞台にはしているものの、活躍はまったくしていない(要するに暇である)私は、自分の連絡先とスケジュールをWEB上で公開している。それを見てくれたひとが「おお、この日程はさかつめの予定がガラ空きだ。それならば、こんなことをお願いしてみよう!」という感じで、様々な依頼を投げ込んでくれる。私も、出来ることならばご要望に添えるように動いている。その結果、インドにまで足を運べることになった。人生は不思議だ。海外でも莫大な暇を持て余しているので、何かありましたら誰でも気軽にご連絡ください。

【坂爪圭吾のスケジュール】坂爪圭吾

※※※ 追記 ※※※

こちらの記事を見てくれた新潟県在住のC様が、非常にありがたいことに3日の宿を予約してくれました。この場をお借りして大感謝いたします。C様、ありがとうございます!!

近江八幡「日牟禮八幡宮

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日牟禮八幡宮の景観が素晴らしかった。

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近江八幡在住の女性から「久しぶりにお会いしたいです」的なご連絡をいただき、足を運んだ。ここでしか食べることのできないという『つぶら餅【たねや】』が抜群に美味しかった。最近は「言葉にならない」と感じることが多い。景観の素晴らしさも、食事の美味しさも、自分の心が覚えた気持ちも、言葉にした途端に「(それだけではないのに)それ以外のものを取りこぼしてしまう」感覚を覚える。言葉の非力さは、同時に、自分の非力さでもあるのだと思う。

尾賀商店「(坂爪史上最高の)近江牛カレー」

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これを食べるためだけにでも再訪をしたい。

近江八幡「ラコリーナ

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屋根が芝生でキュートだ。

大津駅「琵琶湖」

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空の青が。

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雲の白が。

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芝の緑が。

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吉井和哉風に言えば「天国旅行」だ。

コップに半分の水。

滋賀県を経由して京都駅に戻り、宿のなかった私は「(家のない生活をしていた頃にお世話になりまくった)あのひとに連絡をしようかな、でも、どうしようかな」と3時間ばかり逡巡していた。夜の10時を目前に控えた頃、意を決した私は京田辺在住のMさんに「突然ではありますが、お邪魔じゃなければお邪魔をしたいです」と連絡をした。すると、Mさんは「もちろんです!」と快諾してくれた。

Mさんとは「コップに半分の水がある」的な話をした。よく、コップに半分『も』水があると思うのか、コップに半分『しか』水がないと思うのか(ポジティブに考えるか、ネガティブに考えるかで全然違う)的な話を耳にすることがあるけれど、私は、このような話があまり得意ではない。別に『も』とか『しか』とかは不要で、ただ、コップに半分の水がある。『も』とか『しか』とかじゃない、ただ、コップに半分の水がある(ただ、そうである)だけ。以上。それだけでいいじゃないか、と思う。

金がないなら「金がないなあ」だけでいいし、家がなければ「家がないなあ」だけでいいし、友達がいなければ「友達がいないなあ」だけでいいし、さみしいときは「さみしいんだなあ」だけでいいし、ただ、そうであるだけのことを無理に前向きに捉えようとしたり、過剰に後ろ向きに捉えてしまうことは、また、別の問題を引き起こしてしまうような気がしている。そういう話を、Mさんとした。

カテゴライズされることへの違和感。

Mさんは言った。家がなかった頃の坂爪さんには、何かこう、もっと尖った部分とか『何かやばいことをしてやろう!』とか『固定観念を破壊してやろう!』いうギラギラしたものを感じていたのですが、いまは、仏教的な、ある種の慈悲深さというか何というか、あの頃とはまた違った性質を帯びているように感じるんだけど、最近の坂爪さんでも『これは許せない!』とか思ったことはあるのですか。

私は答えた。昔は、いわゆる権力などと呼ばれるものが大嫌いでした。俺は偉いとか、俺の言うことを聞け的なことを言うひとをみると「うるせー!ばか!」とか「お前は誰だ!」とか「なんぼのもんじゃい!(自分を偉いと思うヤツに偉い人間はおらん!)」と、まっこうから否定をしたくなっていました。でも、いまは、ああ、こういうひとっているよなあ(そして、こういうひとの話を聞きたがるひともいるよなあ)、でも、俺は違うなあと、自分と他人を分けて考えることができるようになりました。

ただ、最近でも「カテゴライズされてしまうこと」に対する抵抗は強くあるみたいです。あなたはこういうひとだよねとか言われてしまうと「違うし!」とか「俺がノイズキャンセラーだったら、お前、消されてるよ」などと反発をしたくなってしまうのですが、きっと、まだ、いまの自分は固定することも固定されることも大嫌いな(というか、固定されると死ぬ)のだと思います。そういう話を、Mさんとした。

海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。

琵琶湖に打ち寄せる波を眺めながら、自然はいいなあと感じていた。海でも、空でも、動物でも、植物でも、自然はいいなあと感じるとき、同時に「本来であれば、自分も自然の一部なんだよなあ」という当たり前のことを思う。自然が素晴らしいのは、ただ、ありのまま、裸のまま、剥き出しのままでそこにあるからだ。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、なぜ、自分のことを愛することができないのだろうか。


ありのままであるということ。頻繁に耳にする言葉だ。頻繁に耳にするからといって、しかし、簡単なことではないのだと思う。誰かに追いつこうとしないこと。誰かを引き離そうとしないこと。誰かに縛られ過ぎたりしないこと。誰かを過剰に尊敬したりはしないこと。誰かに勝とうとは思わないこと。誰かに負けたくないとは思わないこと。誰かではなく自分を主語に、自分の日々に集中をすること。


あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。自分以外の誰かの言葉に、影響を受け過ぎてはいけないのだと思う。どれだけ悪足掻いてみたところで、自分は、自分以外の何者にも成り得ない。特別な人間にはならなくても、特別な何かをしなくても、ただ、自分のこころが「いいな」と感じる瞬間を積み重ねた先に、きっと、特別な人生はある。静かなものは、ありのまま、そのままの姿で、満ち足りている。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたいと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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