ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
ラオスのルアンパパーンを経由して、カンボジアのシェムリアップに到着した。たまたま予約をしたホテルが日本人宿で、日も暮れた頃、大勢の日本人たちとホテルのラウンジで「みんなで一緒に飲みましょうよ」的なノリが発生した。隣に座った男性が「お兄さんは何をしているのですか?」と尋ねる。私は「えっと、特に何をしているとかはないのですが、ブログを書いたりしています」と答えた。
男性は「へー!日本では、何処に住んでいるんですか?」と尋ねる。私は、話の流れから「ブログ読者の方が、熱海に家を購買してくれた」旨を簡単に話した。これがよくなかった。私の話は完全なネタになり、俺も家が欲しいからブログでも書こうかなとか、お前もブログを書けば家をもらえるぞとか、過去に何億回か体験してきたであろう地獄の時間を過ごした後、私は、その場を離れた。
集団心理と呼ばれるものがあるのかもしれない。多分、あの場にいた人たちも、ひとりひとりとしっかり話をすれば、それなりに心を通わせることもできたのかもしれない。しかし、多数決の原理が働くからなのだろうか、一対多数となった時、空間の雰囲気に私は完敗する。私の中にも「自分を正しく理解してもらいたい」と相手に願う、ある種の甘えがあったのだと思う。
シェムリアップ散歩
カンボジアのシェムリアップには、世界遺産でお馴染みのアンコールワットがある。自分は安上がりな人間だと思う。入場料と体調(数日前から、軽い頭痛が続いている)の関係でまだ足を踏み入れていないのだけれど、ホテルの近所を軽く歩くだけでも、カンボジアの風を感じることができた。こどもたちを眺めるだけで、花を眺めるだけで、晴れ渡る空を眺めるだけで、もう、充分だと思う。
寺院の木陰で眠るタクシードライバーと、
アンコールワット風の、近所の寺院。
知識を増やしてはいけない。
シェムリアップ前に経由してきたラオスも、非常に素晴らしい環境だった。ルアンパパーン空港から市街地まで徒歩で向かう途中に「オールドブリッジ」という名前の、文字通り、非常に古い橋が架かっている。車の通行が許されていないこの橋を、現地のひともバイクで通過していくその傍らを、徒歩で渡っているのは、自分ひとりだけだった。たったそれだけのことが、強く、心に残る体験になった。
川を眺めていたら「知識【経験】を増やしてはいけない」と言われた気がした。多ければ多いほどに良いと思っていた知識【経験】だけれど、それに依ることで、ある種の自在さを失ってしまうこともある。自然は、何もないまま、平気で、満ち足りている。 pic.twitter.com/yDifKt0gXO
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月12日
ありあまる知識は思い込みや先入観を増やし、ありあまる経験は瞬間の新鮮さを失わせる。どれだけ多くの知識を集めたとか、どれだけ多くの経験を重ねたとか、スタンプラリーを集めるような日々であることより、まだ、何もない、生まれたばかりのこどもの視点を、いま、生まれてはじめて目の当たりにした時の、あの、新鮮さを、積み重ねるよりも、積み減らすことを、私は、基点は「ゼロ」に置いていたい。
ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
自分のことを正しく理解してもらいたいと願うことは、多分、甘えだ。そして、理解をしてもらいたいと思っておきながら、同時に、理解されてしまった(何かに括られてしまった)瞬間に「違うし!それだけじゃないし!」と、また別の自分が顔を出すことも頻繁にある。きっと、ひととひととはわかりあえない。ただ、わかりあえないという、そのことだけは、わかりあうことができる。
俺が、俺が、となるほどに、世界から自分が引き剥がされていくような感覚を覚える。美しい景観を目の当たりにした時、目的もなく歩き続ける時、ひとつの何かに集中する時、自分が溶けてなくなって、世界と一体化するような感覚を覚える。自分を強く主張するほど、多分、人間は寂しくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
違いを許容すれば「正しさの幅」が生まれ、違いを許容できなければ「正しさの争い」が生まれる。稀に、出会うひとから「坂爪さんのようには生きれないけれど」と言われることがあるけれど、自分のように生きる必要など、微塵もないのだと思う。最近は、「自分みたいになれ」ではなく「あなたの代わりに生きている」という表現が、腑に落ちる。私は、あなたの代わりに生きていて、あなたは、私の代わりに生きている。あなたは、もうひとりの私で、多分、私は、もうひとりのあなただと思う。
認めてほしい気持ちは悪くない!ただ、見てほしい相手を間違えてた。「人」に認めてほしいと思ってやっちゃだめなんだなー。にごりの元。でも天に向かってならいいんだ。こんなに楽しく生きてるよー!と。そして、出して出して楽しんでいると、天はちゃんと見ていて、人を通してサインをくれる。
— masami (@mamithai2014) 2016年6月7日
バンコクでイベントを主催してくれたまさみさんのツイートと、後日、まさみさんから届いたメールを読んで、自分が大切にしていきたい感情を思い出した。あなたのすべてを理解することはできないけれど、あなたが覚えたその「感情」ならば、過去に自分も似たようなことを思ったことがある。だからなのだろうか、その気持ちが、とてもよくわかる。ひととひととはわかりあえないかもしれないが、しかし、感情は伝染する。私がしていきたいと思うことは、自分を触媒とした「幸福感」の伝達だ。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
坂爪さんこんにちは!今頃はカンボジアの風に吹かれている頃でしょうか?先週は本当にありがとうございました。坂爪さんたちと別れた夜には、また別のお客様が日本から来て、バタバタと過ごした1週間でした。バタバタだけが要因でなく、自分に起こっていることをなかなか言葉にできずにおりました。しかし、その合間にも、いろんな方が感想を伝えてくださったり、ブログにかいてくださったり、あの日出会った方とお茶をする約束をしたりと、後からもたくさんのギフトをいただけた1週間でした。「わたりカフェ」、企画しだした当初は、実はちょっと「やらねば」という気持ちがありました。しかし、「うまくやろうと思わず、楽しんでやろう!」と思えたところから、ようやくワクワクが始まった気がします。「楽しく」は、私の課題なんです(笑)皆さんと会うまでは、いろいろ話をしたいと思っていたのですが、始まって、いらっしゃった方たちの様子をみてたら、なんか良い意味で「どーでもよく」なっていました。(笑)坂爪さんとちょっと離れたキッチンからの眺めを一緒に見て、幸せな気持ちを共有させてもらえた、あの瞬間だけで私の気持ちは「満腹」だったんじゃないかと思います。満腹だと、あとは全部溢れていきますね(笑)結果的に、皆さんがいろんな気づきを持って帰って下さったり、良い気持ちになってくださったり。それを後日伝えていただいたことで、時間の経過につれ減ってくるお腹を、また満たしてもらえました。^ ^なんという循環!!!これが「わたりカフェかー!!!」と、身をもって体験しました。お話会では、「稼ぐの苦手なんで」と、テヘヘと笑う皆さんの様子を見て衝撃を受けました。私もそうなんですが、こういうのすごく抵抗があったんです。でも!いいのかー!!!苦手なんでって、いっちゃえばいいのかー!!!すごく気が楽になりました。今、1週間経っても、思い出すと、すごく幸せな空気に包まれているのを感じます。日本に帰っても、この幸せな感じを忘れたくないです。親子共々。本当に素敵な時間をありがとうございました!ではではまた日本でお会いできる日を楽しみにしております。それまでは、濁らずこのままいけるように、残りのバンコク生活楽しみたいと思います!それでは、良い旅を!まさみ
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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