いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

真理とは「ひとを自由にする」ものだ。

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所持金が511円になった私は、いばやの保科さんに500円をあげた後に110円の缶コーヒーを飲みたくなったので100円を貰って缶コーヒーを購買し、残額は1円になった。昨夜、東京の国立市で開催されたイベントは非常にありがたいことに満員御礼となり、主催者のやたさんが「坂爪さんを生かしたいと思うので、よろしかったらドネーションをお願いします」と、参加者の皆様にお布施(!)を募ってくださった。

生きていると、とてもじゃないけれどブログには書けないような出来事が頻発する。それでも私が生きていられるのは、多くの方々の支えがあってこそだということを痛感している。昨夜のイベントには、いばやの保科さんとMAYUCHAPAWONICAさんも参戦をしてくれた。彼らに共通しているのは「お金はないけど妙に元気だ」ということで、私は、彼らから大きな力を貰っている。

生きているということは「大丈夫である」ということ。

三年前、私は、高校の同級生でもあるMAYUCHAPAWONICAさんと一緒に合同会社いばやを設立した。いばやとは「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプト(?)だけがある合同会社で、設立当初は事業内容も何も決めていなかった。ただ、自分たちがやばいと思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人達が現れて、化学反応が起きて、結果的にとんでもないわっしょい状態になるであろうと思っていた。

いばやには「自分たちの活動が未来にとって必要なものであれば、それを見たひとが『こいつらを餓死させてはいけない!』と思い、私たちを生かしてくれるはずだ。しかし、自分たちの活動が未来にとってまるで必要のないものであれば、私たちは餓死をするだろう」という仮説がある。それを実証するために存在しているようなものだけれど、生きているということは「まだ大丈夫である」ということになる。

金になるかどうかはわからない(おそらくならないであろう)、それでも自分がやりたいと思ったことをやる、自分の心が「これは楽しそうだ!」と思ったことだけをやるのだという、それだけの思いが共通したメンバーで構成されているものがいばやになる。久しぶりに再会を果たした三人は、お互いに、笑ってしまうほどにお金を持ち合わせていなかった。それでも「生きているということは大丈夫である」という希望の通奏低音を感じることのできる、非常に稀有な仲間の存在には、何度も力を貰っている。

「不安だから何かをやる」ということは絶対にしない。

イベントの最中、参加者の方から「お金がないことで不安になることはないのですか?」という質問をいただいた。それに対するMAYUCHAPAWONICAさんの返事が素晴らしかったので、以下に簡単にまとめます。私の文体が硬いために実物とはことなる印象を伝えてしまうかもしれませんが、ひまわりみたいな女の子が非常にポップな調子で話している姿を想像しながら読んでいただければ幸いです。

私は、いま、カメラマンのちーちゃんと一緒に『CHAPAWONICA【ちゃぱうぉにか】』という活動をしています。CHAPAWONICAのコンセプトについての説明をはじめると超絶長くなるので省略をしますが、私は絵を描くので、車の中に寝泊まりできる道具と画材とカメラ機材を積んで、呼ばれた場所に車で行って撮影をしたりイラストを描くというような生き方をしています。
この前も、東北の方に行く必要があったのですが、お金が10000円とかしかなくて「このままだと東北に到着できないかもしれない」ということになりました。一緒にいたちーちゃんは「何かイベントなどを企画してお金をつくらないと!」と焦りましたが、私は、断固として「不安だから何かをやるということは絶対にしない」と、何を言われてもひたすらに拒み続けました。
お金に対する考え方はひとそれぞれで、そのことで「やばい、死ぬ!」と感じるひともいるかもしれませんが、私の場合は「うおー!このままだと東北に行けない、いよいよ面白くなってきた!」という感じで、アガります。この時は、奇跡的に「宿泊とか移動とか大変だと思うからこれを使ってよ」と言ってくれる神様があらわれて、私たちは「超絶あざす!!!!!!」ということで受け取り、結果的にどうにかなりました。

「不安だから何かをやる」ということは絶対にしないと話すMAYUCHAPAWONICAさんを見て、ああ、このひとは常に自分の筋を貫いているなあと感服した。MAYUCHAPAWONICAさんの好きな所は、全身からハッピーなオーラが溢れている【端的にかわいい】ということで、言っていることは同じでも、言っているひとから不穏なエネルギーが出ている場合は、どうしても耳を貸すことはできない。

ちゃんとしなさいの「ちゃんと」とは何か。

いばや設立当初には、様々なひとからお叱りを受けた。MAYUCHAPAWONICAさんは「会社をつくったときは、おじさんたちから『事業内容はどうするんだ』とか『そんなんじゃやっていけないよ』的なことを結構言われました。私は『会社ではあるけれど、ギャグみたいなものだから』と答えていたけれど、わかってくれるひとはあまりいませんでした」と(無邪気に笑いながら←これ大事!)話した。

私も、設立当初のことを懐かしく思い出していた。いばやを設立して、家のない生活をはじめた頃からこのブログ【いばや通信】を書きはじめて、ある時は「お前はいつまでこんな生活をしているつもりなんだ」と言われることもあった。要するに「ちゃんとしなさい」ということなのだけれど、私は、心の中では「ちゃんとできるような人間だったら、はじめからこんな生活はしていません」と思っていた。

ちゃんとできないから「いばや」を必要としたのであり、ちゃんとできないから「家のない生活」をはじめたのであり、ちゃんとできないから「ちゃんとできない自分でも、それでも(死なないためではなく)生きたいと思う生き方」を探したのである。はじめからちゃんとできるような立派な人間だったら、このような愚かな生き方はしていないのだ【自分のスタートラインは非常にネガティブなものだった】ということを、ノスタルジックに思い出していた。

『スピリチュアル・コンパス』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サティシュクマール著作『スピリチュアル・コンパス』です。日本語版のタイトルが駄目すぎて悲しい気持ちになるのですが、内容は素晴らしいものであると思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、青森県にわたりました ※※※

「神を知ること」

説教では聖書を読めという
神を知るためには
跪いて祈ろう
神を知るためには
義に従おう
神を知るには・・・

しかし私はきのう
蝶を見た
枯れた葉の上にとまっていた
ちょうど日の沈むときだった
そのとき私は神を知った

マオリ族の瞑想から

サティシュクマール『スピリチュアル・コンパス』【徳間書店


真理とは「ひとを自由にする」ものだ。

家のない生活をはじめた頃から、初対面のひとから食事をご馳走になったり、初対面のひとのご自宅に宿泊をさせていただくなど、ひとの優しさに触れる機会は目に見えて増幅した。おそらく、私はいばやの活動や家のない生活を通じて「人間を含めた地球全体に対する共同体感覚」を得たのだと思う。多分、人間とは「関係性のいきもの」であり、家や金や仕事を失くしても死ぬことはないけれど、社会的な繋がりを失ってしまった(と思い込んでしまった)時、ひとは、強い孤立感や分離感に苛まれることになる。


家や金のない生活は、最悪の場合は「森にテントを張って暮らせばいい」「日本全国を托鉢しながら生きればいい」「困ったときはひとに助けてもらえばいい【自分が助けてもらっているように、自分もひとを助けていけばいい】」のだと教えてくれた。静かな充足感を与えてくれるものたちは、どれもお金のかからないものだということを、どのような状態に置かれていたとしても、万人に等しく与えられているよろこびはあるのだということを教えてくれた。


私にとって、真理とは「ひとを自由にする」ものだ。こうでなければいけないという規律の縄でひとの自由を制限する思考の裏側には「人間【世界】に対する不信感」がある。私には、このようなものが真理であるとは思えない。それに触れた瞬間、思わずうれしさがこみ上げてしまうような、自分もそうでありたいと思えるもの、生きていることのよろこびを肌で感じることのできるものが、私にとっての真理になる。それを表現したいと思う時に、たとえば私は文章を綴り、ひとと話をしたいと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。

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Envelope【無料の喫茶店】をはじめて数日が経ち、全国各地から足を運んでくださる様々な方々と話をする機会に恵まれている。熱海を離れている時間も多い為に、実際に面と向かって話せる時間は貴重だ。先日、栃木県から小型バイクで8時間(!)かけて来てくれた男性が「坂爪さんの周りに集まる方々は、まるく尖っている印象があります」ということを話していて、うまい表現だなあと思った。

熱海の家に来てくれる方々は、皆、一様に優しい方々ばかりだ。自分を強く主張するような我の強いタイプではなく、思いやりのある柔和な雰囲気の方々が多い。そして、同時に「日常生活の中で、何かしらの違和感を覚えている【自分をごまかすことができない】」方々でもあるのだと思う。言い方を変えれば、自分は自分でありたいのだと思う姿勢が『まるく尖っている』ように見えるのかもしれない。

人間を分類することはできない。

老若男女、年齢や社会的な肩書きを問わず、様々な方々と話をする。その日々の中で「無職とか会社員とか風俗嬢とか、主婦とか身体障害者とかセクシャルマイノリティとか、人間は分類できるものではない」のだということを感じている。カテゴライズを通じて相手を理解したつもりになるのではなく、顔と顔、命と命、魂と魂を付き合わせた先に、分類を超えた「ひとりの人間」と出会う。

私が話をしたいと思うのは「分類を超えた人間」であり、そのひとが社会的にどのようなポジションにいるのだとか、そういうことにはあまり興味が湧くことはない。そのひとの外側に張り付いているもの(世間的な肩書きや能力)ではなく、そのひとの内側に流れているもの(そのひと自身の実感や体験)に興味がある。何をやっているのかではなく、何を思いながらやっているのかということに関心がある。

おそらく、このような話をできる機会は極端に少ないのだと思う。昔、新卒で入社したばかりの友達が「仕事でストレスを抱えないコツは、自分を殺すことだ。自分を殺せば、理不尽なことでも受け入れることができる」というアドバイスを先輩から受けた、という話を聞いた。常に他人の顔色を伺いながら、言われたことだけを無難にやるように強制される環境において、自分が自分でいる必要はなくなる。

道徳の上に経済があるのであり、経済の上に道徳があるのではない。

道徳の上に経済があるのであり、経済の上に道徳があるのではない。真の教育は、金を稼げる人間になる【良い企業に就職する】人間を育てるためにあるのではなく、善い人間を育てるためにあるのだと思う。喜びの対価としてではなく、人間性を犠牲にする代わりに金を得るような働き方や生き方は、多分、誰も幸せにしない。

昔から、ある種の生きづらさを感じていた原因のひとつはここにあるのだと思う。生きることが辛かった時期、私は「生きるためには嫌なことでもやらなければいけない」という前提に立っていた。そして、自分を殺さなければ生きることができない【自分を殺した分だけお金になる】のだとしたら「そこまでして生きていたくない」と思っていた。

独裁者という映画の中でチャップリンが「私たちは家畜でも奴隷でも機械でもない、心を持った人間だ」と演説をしたように、私は、どれだけ青臭いと言われようとも「機械になんてなりたくない!」と思っていた。機械のように生きるくらいなら、人間のままで死にたいと思っていた。そんなんじゃ生きていけないと言われても、自分は自分のままで生きていけない世の中ならば、生きていたいとは思えなかった。

他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になること。

様々な方々と話をする日々の中で、このような思いを抱いていたのは自分だけではないのだということを、自分を殺すことによってではなく、自分を最大限に活かすことによって生きているひとがいるのだということを、徐々に私は知るようになった。生き延びることではなく「生きたいと思う」ことが、強制的にやらされることではなく「おのずからやりたいと思う」衝動的な感情が、ひとに大きな力を与えるのだと思うようになった。

いまの私は、ただ「自分が素敵だと思ったこと」を実際に行動に移し、成り行きを見守り、想像を超えた展開に胸を躍らせていたいだけだ。自分のような生き方が、どこまで通用するのかはわからない。もしかしたら、すぐにダメになるようなものなのかもしれない。明日には路上で野垂れ死ぬかもしれないし、誰にも理解されることのないさみしさと悔しさに敗れ、自分がやっていることを信じられなくなる時もあるのかもしれない。

ただ、と思う。大切なことは「ひとに理解を求めることではなく、天に恥じない生き方をすること」なのだと私は思う。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が思う誠実さのど真ん中を生きるのことなのだと私は思う。他人の濁りを指摘することではなく、自分自身が透明になることなのだと私は思う。変化を求める【口先を変える】ことではなく、自分自身が変化になる【行動を変える】ことなのだと私は思う。

『短歌ください』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、歌人穂村弘講評『短歌ください』です。こちらの本は、先ほど愛知県から遊びに来てくれた女性がお持ちくださったばかりの、綺麗な装丁の一冊です。このようにおすすめの本を持参してくださる方がいらっしゃるということは、とても嬉しいです。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バングラデシュにわたりました ※※※


天に恥じない生き方をすること。

数日前、江ノ島で見た夕日が綺麗だった。夕日を眺めながら、ああ、自分はひとの気持ちを自由にするものが好きなのだということを思った。言葉にならないよろこびを、自然の風景は与えてくれることがある。言葉にならないさみしさを、自然の風景は掬い取ってくれることがある。深刻になりがちな日々の姿勢を、重くなりがちな自分の身体を、優しくほぐしてくれるものが好きなのだということを思い出した。


横につながりを求めると、多分、人間はさみしくなる。きっと、つながりは横に求めるものではなく「上【天地の間】に既にあるもの」なのだと思う。そのことを簡単に忘れてしまうけれど、忘れる度に、何度でも思い出していきたいと思う。つながりは、横【ひとの間】に求めるものではないのだということを。つながりとは、上【天地の間】にあるものを思い出すことだということを。


Envelopeに遊びに来ようとしてくれた方から、心のこもった一通の連絡をいただいた。自然に法と呼ばれるものがあるのならば、それに適った生き方ができている限り、何かしらの形で自然は必ず豊かな実りをもたらしてくれるのだということを、きっと、私たちはもっと信じていけるのだと思う。天は分け隔てることのない恩恵を大地にもたらすように、私も、そういう生き方をしていきたいと思う。


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坂爪圭吾様

8月20日(土)にお家の場所を電話で伺いたどり着けなかった、○○市の○○○○○と申します。
お手数おかけしてすみませんでした。

早朝に思い立って、住所にたどり着けばなんとかなるだろうと車で出発してしまいましたが…観光シーズンの熱海をなめてました!
渋滞にはまった挙げ句、空いてる駐車場を見つけられず退散となりました。
最初のお電話からずいぶん時間も経ってしまい、ご心配おかけしてしまいました。


ただ、私的にはとても充実した一日を過ごせたのでそれをお知らせしたくてメールしました。


朝3時にふと目覚めて熱海に行くのを決めて、私の実家(静岡県西部地区)の緑茶を水出しにしたものをぜひ誰かに飲んで欲しい!と思ったのです。
この地域のお茶は深蒸し茶といって、茶葉の蒸し時間を長くして甘味とまろみを引き出したものなのですが、それを水出しにするとさらに爆発的な味わいになります。
夏場の来客にはいつもお出ししてお褒めの言葉を頂けます、が…

これを初対面の人に飲んでもらえたらどんな反応が返ってくるだろう?
その人がお茶菓子とか持ってきていて、一緒に飲んだらどんなに楽しいだろう?

そう考えただけでワクワクが止まらなくて、家にある容器を総動員してお茶を入れました。
準備しているうちに「あれも、これも手土産に持っていこう」とひらめいたり。
道中も、どう紹介したらわかりやすく興味を持ってもらえるか言い回しの練習をしたり、どんな方々が集まってくるのか想像したりと脳みそフル回転でした。


結局たどり着くことはできませんでしたが全然ガッカリ感は無く、心地よい疲労感となぜか達成感がありました。

何でかと考えたら、

〉どう紹介したらわかりやすく興味を持ってもらえるか言い回しの練習をしたり、どんな方々が集まってくるのか想像したりと脳みそフル回転でした。

これはいつも夫の役目なんです。私は子供の面倒を見ながらそれを見守ったり同行したり。

でも今回は全部自分でトライ&エラーをしたからこんなに楽しかったんだと思いました。
小さい子供がいるから自由に行動できないと思考停止していたのに気づいてびっくりです。

坂爪さんの設定してくれた場のおかげで、すごく自由になれました。

それに、私の周りには人に自信を持って紹介できる素晴らしいものがたくさんあるのだと気づくことができました。
自分にとって当たり前でも、実はとても価値あるものだったのだと。

今、得体の知れない幸せに包まれています。
ありがとうございました。



長文失礼しました。
また次の機会にぜひ伺いたいと思います。
(今度は計画的に…(^o^;))

今年は残暑が続くようです。ご自愛くださいませ。


○○○○○

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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居場所とは、場所ではなくて人間だ。

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Envelope【無料の喫茶店】初日を終えた。空間を開放するメリットは、滞りがちになる思考や空間に「風」が吹くことだ。不特定多数のひとを迎え入れることによって、熱海の自宅は見えない進化を続けている。貴重な食糧を持参してくださる方々の存在により、所持金2000円程度の私でも非常にありがたいことに餓死FREEだ。庭の草取りや小屋の修繕作業【別荘を作っている】に力を貸してもらえることも嬉しい。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。


ツイッター経由で「優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいかを分析するのは遠回り」という言葉を教えてもらった。苦しい仕事や人間関係に耐えて「これも修行だ」とマゾヒスティックに生きる日々にもそれなりの妙味はあるのかもしれないけれど、多分、私には無理だ。私がやりたいと思っていることは、ネガティブな感情の共有ではない「幸福感の伝達」だ。


2・生き延びることよりも「生きたいと思う」こと。


みっつの文章が素晴らしかった。生きるためには必要ないけれど、生きていることを実感するためには必要なものがある。その最たるものが芸術【アート】であり、私は、自分自身がアーティスティックなものに触れることができた瞬間に無上のよろこびを覚える。素晴らしい芸術作品は「特別なアーティストがいるのではなく、ひとりひとりが特別なアーティストなのだ」ということを思い出させてくれる。

自分に問いを突きつけられた時は嬉しくなる。今ある答えに満足するだけではなく、今ある答えを進化させるために問いが必要なのだと思う。自分に問いを突きつけられた時、自分を進化させるために考えたり悩んだり苦しんだりするのだろう。その時、心の奥底では「もっと生きていたい」という気持ちが爆発している。
自分に「もっと生きていたい」と思わせてくれるものは、全てにおいて「アート」であり、「問い」だ。自分はもっと問いに出会いたくて、生きている。
アートはいつだって、もっと生きたいと思わせてくれるものだ。


3・おかしいと思う自分がおかしいのだろうか。


昔から、誰もが当たり前にできることが自分にはひどく難しいと感じる場面が大量にあった。楽しいとされている場面で自分だけは楽しむことができない、正しいとされている場面で自分だけは正しいと思うことができない。そういう時に、私は「おかしいと思う自分がおかしいのだろうか」と、過去に何度も自分を責めた。生きるためには心を殺さなければならないのだろうか。生きるためには様々なことを諦めて、自分の心が美しくないと感じるものも受け入れていかなければならないのだろうか。それが大人になるということなのだろうか。それが生きるということなのだろうか。みんなと同じ気持ちになれたのならば、自分の心を殺すことができたのならば、どれだけ楽になれるのだろうかと思い悩み苦しんでいた。

4・自分を殺さないで良かった。


そしていま、「自分を殺さないで良かった」と強く思っている自分がいる。自分が自分のままでいたからこそ、いま、自分が心の底から好きだと思えるひと【自分のままで生きてきてくれたひと】と同じ時間を過ごすことができている。自分は自分のままでは通用しないのだから、自分以外の何者かにならなければいけないのだという声に耳を傾けることなく、「自分は自分でいいのだ」と自分のど真ん中を貫いて生きてきたひとびとに対して、いま、最大限の賛辞の言葉と祝福を贈りたくなる瞬間が大量にある。

5・幸福は全体感、不幸は分離感。


最近では「幸福は全体感、不幸は分離感」ということを考えている。生きるのが苦痛にまみれていた10代後半から20代にかけて、私は、自分の存在を主張することなしには生きていることの実感を得ることはできないと思っていた。何もしていない自分には何の価値もないものだと思い込んでしまっていた私は、からっぽの自分に価値を与えるかのように、付け焼き刃の正当性を声高に叫んでいた。そして、自分の正当性を主張すればするほどに、まるで世界から切り離されていくような痛みと分離感を覚えていた。

6・自分を強く主張するほど、惨めになる。


乱暴な言葉でまとめると、小物は「俺はすごい人間だ」と、自分の功績や正当性を主張する。自分の功績や正当性を主張するほどに、そのひと自身は世界から切り離される痛みと分離感を蓄積する【孤立する惨めさを生む】。故に、小物になる。大物は「人間はすごい存在だ」と、人類全体の可能性を表現する。人類全体の可能性を表現するほどに、そのひと自身はより一層の全体感を見に纏う。主体は全体に溶け出した『人間』になる【天才は、それに触れるひとの天才を導き出す】。故に、大物になる。

7・何者でもなく生きる姿勢が、自分の中心を生きる軸になる。


やりたいことをやる勇気と同じくらい、やりたくないことはやらない勇気の中に、誇り高い人間の尊さを見る。何かをやることの強さと同じくらい、何もしないでいることの強さの中に、誇り高い人間の気高さを見る。何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何者かになろうとするのではなく、何者でもなく生きる姿勢が、自分の中心を生きる軸になる。

8・ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。


私は、あらゆるひとに対して「そうしたくなった、その気持ちを大切にしてください。しなきゃ、に負けないでください」と願っている。何かをしなければいけないというある種の脅迫的な感情に従うのではなく、これをやりたい、こうしていきたいと思う前向きな感情に従って欲しいと願っている。不安や恐怖を動機に何かをするのではなく、衝動や喜びを動機に生きていて欲しいと願っている。


9・無様でも、不器用でも、愛情を表現していこう。


私達は、多分、大丈夫だ。

『イリュージョン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、リチャードバック著作『イリュージョン』です。最後に紹介されているリチャードバックの言葉が非常に素晴らしいので、長文になりますが全文を引用します。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

「人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ」

「人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の二本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、二本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ」

「人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り物にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ」

「どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ」

「これからの『神』というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている」

『イリュージョン』【集英社文庫】リチャード・バック村上龍・訳)より引用


10・居場所とは、場所ではなくて人間だ。


綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。過去の自分は、好きなひとに好きだと言えることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分け合える関係性は、何よりも素晴らしいものだ。

私の存在は、きっと、私が好きだと思うひとやものやことの存在によって強く肯定されているのだと思う。認められることや受け入れられること、愛されることばかりを求めていた頃には感じることのできなかった力強さを、私が好きだと思うひとやものやことの存在は、途絶えることなく心の種に水を注ぎ続けている。

居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。其処で、忘れていた記憶を思い出すのだろう。自分の存在は遥か昔から許されていたのだということを、既に認められていたのだということを、既に受け入れられていたのだということ【自分は既に愛されていたのだということ】を、思い出すのだろう。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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落ち着けば、大概のことはどうにかなる。

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明日18日(木)から8月いっぱい、熱海の自宅を無料の喫茶店【Envelope】として開店します。喫茶店という名目ではあるものの、簡単に言うと「自宅を開放するので、読書や昼寝や料理をしたり、他のひとがいれば会話をしたりしなかったり、自由にお過ごしください」というものになります。店主の私が不在の場合もありますが、鍵は空いている(台所にある食材や調理器具は自由に使ってOK!)ので自由にお寛ぎください。


25日(木)には東京の国立市でトークイベントに登壇します。最近は「対談イベントに呼ばれたい!」と思うことがとても多いので、もしも「あのひとと坂爪圭吾【いばやの人達】を対談させたら面白そうだ!」と思い当たった方がいらっしゃいましたら、ブログ末尾の連絡先よりお気軽にご連絡いただけたら非常に嬉しいです。開催規模の大小や、有名・無名(自薦・他薦)は問いません!!


人生はギャグだ(と思うことがあります)

過去に、イケダハヤトさんと高知県で対談をさせていただいたことがある。その時の様子を、イケダハヤトさんご自身が華麗な言葉でまとめあげてくれた(素晴らしい文才!)。デンマークの絵本作家であるアンデルセンは「人生は、神の手によって書かれたおとぎ話である」という素晴らしい比喩を残したけれど、私は、私の人生を「笑いの神様によって書かれたコントである」ように思うことがある。


この記事を読み直して、ああ、自分のことながら「こいつはバカだなあ」と思った。家のない生活を送っていた頃、海外に暮らす女性から「最悪、余っている住居付きのクルーザーがあるから、海の上で島巡りでもしながら暮らせばいいよ」と言われたことがある。私は「最悪が最高じゃないか…」と軽いパルプンテ状態に陥り、ああ、人生はある種のギャグみたいなものなのだと思うようになった。


数年前に躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで、およそ半年間の寝たきり生活をしていた時期がある。この時も、結果的に自らの貧乏性が功を奏して(医療費をケチって病院通いを勝手に辞めた)、医者からは「完治するのに三年はかかる」と言われた精神疾患が半年で消えた。多分、死んだ魚の目をしながらもビリーズブートキャンプを粛々とやり続けた日々が、功を奏したのだと思う。


深刻さを吹き飛ばしてくれるもの。

深刻なこととか、真面目で重苦しい話題とか、悲壮感が漂っている空間の中にいると、どうしても居心地が悪くなってしまう。ユーモアは酸素みたいなもので、ユーモアが許されないような場所にいると、私の場合は露骨に呼吸が苦しくなる。多分、深刻になってもロクなことはひとつもないのだ。そして、深刻さを吹き飛ばしてくれるものがユーモアであり、私は、ユーモアの力に支えられて来たのだと思う。

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三人兄弟の末っ子として生まれた私は、小さな頃からえらく挑発的な顔をしていた。5歳年上の姉と4歳年上の兄から常にボコボコにされる日々を送りながら、それでも、絶えることなくケンカを挑み続けるようなガキンチョだった(ような気がする)。姉や兄が好むものを必死に真似して、自分の中に取り入れ、おさがりの服を着ながらも気持ちは「宇宙全体【姉と兄】のいいとこどり」をしているつもりだった。


そしていま、自分の役割は「こいつを楽しませること。こいつを驚かせること。こいつの世界を広げてあげること」なのだと思うようになった。自分の中にいる小さな自分を、もっと楽しませてあげること、もっと驚かせてあげること、もっと広い世界を見せてあげること。この世界はよろこびと驚きに溢れたテーマパークみたいな場所なのだということを、その実感を、これからも一緒に深めていきたいのだと思う。

『ベルギー近代美術の精華展』

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関西在住の女性から、姫路市立美術館で開催されている『ベルギー近代美術の精華展』招待チケットが二枚届きました。このような心遣いをいただけることが、とても嬉しいです(S様ありがとうございます!)。8月25日(木)までの開催となるのですが、希望者の方に無料で郵送をいたします。期日が間近に迫ってはおりますが、ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらのチケットは、兵庫県にわたりました ※※※

『見てる、知ってる、考えてる』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、小さなからだの哲学者でお馴染みのBAO君著作『見てる、知ってる、考えてる』です。手書きのメッセージまで添えて丁寧に郵送をしてくれたBAO君に惜しみない拍手を…坂爪圭吾は、BAO君の顔が好きです。ご希望される方は、こちらも何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※

僕が素敵だと思う大人は、自分を生きている。
子供みたいに生きている。
嫌なことは駄々をこねるように嫌と言い、
嬉しい時は子供みたいに喜んでいる。

ようするに僕はこのままでいいということ。
嫌なことは駄々をこねるように嫌といい、
嬉しい時には子供のまま喜ぶ。

中島芭旺「見てる、知ってる、考えてる」【サンマーク出版


落ち着けば、大概のことはどうにかなる。

自分の直感と反射神経に従って生きるようになってから、現在の私は「今世の私はお金に困ることはない」と思うようになった。自分で勝手にそう決め付けているだけのことなのだけれど、稀に、それでもやっぱり「お金がなくなったらどうしよう」と不安を覚えることもある。こういう時は、大概自分の思考が守りにはいっている(あるいは一時的に自信をなくしている)だけのことが多いので、無視をするようにしている。


BAO君曰く「僕の自信は、根拠のない自信。根拠がある自信は、その根拠がなくなったらなくなる」のであり、多分、私が感じている自信や勇気や楽しさやよろこびなどといった類の感情も、きっと根拠のないものになるのだろう。きっと、自信に根拠なんていらないし、やりたいことをやるのに最もらしい意味も理由もいらないんだ。強いて言えば「生きている」というそのことが、私達は大丈夫であるということの最大の証明になる。


落ち着けば、大概のことはどうにかなる。物事を複雑に考えるのではなく、実際に起こるかどうかもわからないことに心を悩ませるのではなく、明日の為に今日のエネルギーを温存しておくのでもなく、自分を出し惜しむことなく、瞬間をぶちまけて輝くこと。今日の自分は今日で最後、明日には二度と取り戻すことはできないのだ。身体よりももっと奥の方で、心よりももっと奥の方で、魂はいつでも「大丈夫だよ」と笑っている。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

生きろではなく「生きたいと思わせろ」

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数日間の野点カンタービレの日々を終えて、いま、湯河原にあるガストからこの記事を更新している。道中、高速道路内で車が急に動かなくなり「死ぬのかな」と思ったものの、道路脇の僅かなスペースにスライディング駐車することで九死に一生を得た。結果的に、群馬県新潟県の県境にある三国峠をレッカー車内で越境することになったのだけれど、同乗していた女性は終始楽しそうにしていた。

ハプニングの多い人生なので、失敗や失態を一緒に楽しんでくれるひとの存在は大きい。あらゆる問題は、多分、楽しみはじめた瞬間からアトラクションに変わる。ど田舎の高速道路内で車が動かなくなった時、まっさきに「今夜はここで野宿をするのもアリだね!」とはしゃぐ彼女を見て、ああ、自分は最高の女性と同じ時間を過ごしているのだという幸運に感謝をした。

洞窟のオフィス【屋内から屋外へ】

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新潟のポルコロッソでお馴染みの私たちは、過去に生活をしていた洞窟と海に足を運んだ。数年前に合同会社いばやを設立したばかりの頃、まるでお金がなかった(あろうことか家もなかった)為に適当な森や海や洞穴を見つけては「今日からここが俺達のオフィスね!」という中二病的なノリで、森のオフィスや洞窟のオフィス、海のオフィスや星のオフィスなどを連続的に設立した。

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各種取材の対応や打ち合わせなども、海や森で行うようになった。スタバやタリーズなどで珈琲を買う余裕もなかった為に、小型のミルで挽いた貰い物の珈琲豆を湧き水で淹れたりしていた。携帯用の小型ソーラーパネルで電気を自炊し、傘にアルミホイルを敷いて自作したソーラークッカーでお湯を沸かしたりしていた。それが意外と好評で、都心部から来たひとなどは「最高に贅沢ですね!」と喜んでくれるものだから、私は徐々にドヤ顔をするようになっていった。

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貰い物のテントを貰い物のバイクに積んで、毎晩、眠る場所を変えるような生活をしていた。家も金も仕事もない癖に、妙に毎日が楽しかった。有料の宿屋を探す必要はなかった。地球全体が無料のキャンプフィールドになるのだということを覚えた。テントを張る度に、自分の領域が拡張していくような感覚を覚えていた。日に日に増していく「実は何処でも生きていけるんだ!」という実感が嬉しかった。

崖っぷち書道【ひとりの人間が複数の仕事を持つ】

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数年前に、新潟県にある崖っぷちに崖っぷちな人間を集めて「崖っぷち書道」なるものを開催した。風の噂で、日本には年間3万人の自殺者がいて、100万人を越える鬱病患者がいるのだと聞いた。これがほんとうのことならば、日本人全体が潜在的鬱病患者ということであり、これはチャンス!と思った私は「ギリギリ【崖っぷち】なみんなで集まって、ギリギリ【崖っぷち】なことをやろう!」と閃いた。

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潜在的にギリギリなひとたちは結構たくさんいるみたいで、この日は全国から新潟県の崖っぷちに人々が集まった。特大の用紙に特大の筆で「日々の鬱憤を吐き出して燃やす【焚き火にする】」だけのひどくシンプルなこの企画に、これだけのひとが賛同してくれたことが楽しかった。

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日本海の荒波は人間の心を駆り立てる。写真からも「どりゃー!」という声が聞こえてくるみたいだ。私も、これから路頭に迷うことがあったら『崖っぷち書道家』になろうと思う。これからは、ひとりの人間が複数の仕事をやるようになるのだと聞いた。世界中の崖を筆と一緒に巡りながら、現地の人々と鬱憤を晴らし続ける日々は悪くないと思う(けど、私は面倒臭がり屋なのでなることはないと思う)。

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私は、鬱病などのあらゆる病気は「幻想なんじゃないだろうか」と思っている。社会不適合者という言葉もあるけれど、自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人を越える社会に適応(!)してしまったら、頭がおかしくならないほうがおかしいのではないだろうかと思うことがある。必要なことは適応よりも『開墾』で、従来の常識に縛られるほどに苦しくなるのではないだろうかと思うことがある。

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これまで何人もの鬱病患者や自称引きこもりの方々と出会ってきたが、皆、場合によっては最高の笑顔を見せる。多分、この世の中には「問題解決型」と「問題もみ消し型」の二種類がいる。私は完全に後者【問題もみ消し型】の人間であり「あらゆる問題は、楽しみはじめた瞬間からアトラクションに変わる【問題を問題として認めない】」と思うタイプの人間だ。

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笑顔になれないひとがいるのではなく、笑顔になれない環境があるだけだ。

生きろではなく「生きたいと思わせろ」

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元気のないこどもたちに「元気を出せ!」とか「志を高く持て!」などと言ってみたところで、大人たちに元気がなければ、大人たちに高い志がなければ、言われたこどもたちは違和感を覚えるだけに過ぎないと思う。言っていることとやっていることが一致していなければ、それを「嘘をついている」ということだ。自分が出来ていないことを、自分が解決できていないことを、他人に強制することはできない。


他人の生き方をああだこうだというよりも、自分を真面目に生きること。ないものねだりを続けたり、不満や愚痴を吐き続けたり、被害者意識を抱き続けるようなダサい真似はしないこと。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を越える。見るひとの心を動かすものは、能書きよりも生き様だ。


日本海の雲が綺麗だった。素晴らしい自然【人間】を目の当たりにしたとき、月並みな言葉になるけれど「自分は自分のままでいよう。やりたいことを、やりたいようにやっていこう」と思う。他人の評価に合わせて何者かになろうとするのではなく、自分は自分でいいのだと腹を据えて生きているひととの時間は潔く、清々しい。そのひとがそのひとであり続けるというただそれだけのことが、見るひとの心を勇気付けることがある。言葉を超えて「生きたい」と思う力になる。

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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ。

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三日間の無料喫茶店を終えて、いま、熱海のデニーズからこの記事を更新している。これから、車に野営用具一式を詰めて(世界で一番美味しい珈琲を淹れる女性と一緒に)数日間の旅に出る。そして、旅先で最高の珈琲を振る舞う「野点珈琲店【通称・野点カンタービレ】」を敢行する。カンタービレという言葉には「歌うように(美しく)」という意味があり、私は、この言葉の響きを愛している。


私は、過去に、新潟県にある洞窟の中にテントを張って暮らしていた時期がある。日本海に沈む夕日を独占できる素晴らしい景観の場所になるので、そこで「野点珈琲店」を開催できたら面白そうだなあとは思っているものの、アクセスが悪過ぎる為にお客さんは誰も来ないだろうなあとも思っている。具体的な開催場所などは、決まり次第改めてお伝えいたします【告知しない可能性もあります!】。

三日間の無料喫茶店【Envelope】を終えて。

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嵐のように過ぎ去った三日間の無料喫茶店【Envelope】の日々は、たくさんの記憶を残してくれた。Envelopeの玄関には、わたり銀行【みんなの財布】なるものが設置されている。この中にあるお金は誰でも自由に出し入れができる「循環型(?)の財布」になっていて、常に変動を続けているもののお金がなくなったことはない。

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宮城県気仙沼市在住の女性から、Envelopeの開店記念に手作りの花のリースが届いて、私は慟哭した。箱を開けた瞬間にたちこめる花の香りが素晴らしくて、激烈なうれしいが込み上げた。添えられていた手紙には「開店おめでとうございます。新しい、より大きな循環を感じました」と書かれていて、ああ、自分は『(交換ではない)循環』を大切にしていきたかったのだということを思い出した。

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鹿児島県からは「お友達のカメラマンさんが、インドを旅した時の写真をポストカードにしていたものを同封します。逢初庵【Envelope】を訪れた方が、逢初庵から大切な誰かにラブレターを出してくれたらステキだなと思います(ステキだと思うだけです。自由に使ってください!!)」という言葉と共に、ポストカードと切手が届いた。なんて素晴らしい心遣いなのだ!!と、私は慟哭した。

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東京からは手編み(!)のバッグとアクセサリーが届いた。

無料の喫茶店を開かれるということで、もしよろしければ・・・と思い、お送りしました。私は編みものが好きで、小物やセーターなどを編むのですが、これを「無料でいろんな人にあげてみたい」と思ったのです。理由は、ただ単に「売ったり買ったり」するよりも、「あげる・もらう」の方が嬉しいな!と思ったからです。なので、少しなのですが、バッグとアクセサリーを送ります。バッグは、実はMAYUさん(坂爪注・MAYUとは、いばやの共同代表者です)の絵をイメージして作りました!よければ「わたりニット」?として、Cafe Envelopeの一角に置いていただけたら本当にうれしいです。今は暑いので夏素材ですが、冬にはマフラーや手袋もお送りできたらな・・・と妄想しています!暑い日が続きますが(熱海の気候はどんな感じでしょうか?)お身体に気をつけてくださいね。これからもブログ楽しみにしています!

大和民族による心遣いの数々に、私は再び慟哭した。

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江ノ島で喫茶店を営む女性からは、ソファーとちゃぶ台と高級なティーセットまでいただいてしまった。他にも様々な恩恵が熱海に届き、そのすべてを紹介できないことが悔やまれてならない。開店当初は「無料の喫茶店をやりたい!でも、準備が足りないから水しか出せない!」という状態でスタートをしたにも関わらず、いま、皆様の恩恵によって世界にまたとない喫茶店が、ここ、熱海に誕生した。


無料の喫茶店【Envelope】の、これから。

三日間限定となった無料の喫茶店には、およそ50名ほどのひとが(北海道や岐阜や東京や大阪や千葉や愛知や新潟や神奈川や兵庫や栃木から)様々な手土産を持って遊びに来てくれた。テーブルの上は軽い地方物産展状態になり、水と一緒に、全国津々浦々の郷土土産を楽しむような状態が生まれた。喫茶店とは名ばかりで、結果的には座席の垣根を飛び越えて全員で団欒をするような状態が常態になった。

店主役の私は早々と自らの役割を放棄し、途中から昼寝をしたりギターを弾いたりひとり虚空を見つめたりしていたので、いつの間にか台所にはお客様自身が率先して立つようになり(新しく来たお客さんには、お客さんが接客をするようになった)、いよいよ喫茶店【店側とお客様側】という役割のフレームは崩壊した。そこにあるものは「(上下関係のない)ただの人間」だけになった、その感覚がとても心地良かった。

これからも定期的にEnvelopeを開店していきたいと思う。私がいなくても、鍵は開けておいて誰でも自由に出入りができて、軽食を食べたり作ることができて、昼寝もできて、のんびりと手紙を書いたり読書をしたりすることができるような、そういう空間として開放をしていきたいと思う。月並みな言葉になるけれど、自分ひとりだけの力ではなく「みんなの力で進化を続ける永遠に未完成の喫茶店+α」として、新しい展開を見せてくれることを楽しみにしていたい。

『もたない、すてない、ためこまない。身の丈生活』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、静岡県三島市から遊びに来てくれた男性が持ってきてくれたアズマカナコさん著作『もたない、すてない、ためこまない。身の丈生活』です。節約や忍耐という言葉には後ろ向きな響きを感じるけれど、アイデアとか実験などの言葉にはワクワクする前向きな響きを感じます。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

冷蔵庫があったころは、いつも庫内の使いかけの食材や賞味期限の近いものを気にして、献立を考えていました。今は、その日に食べたいものを買い、食べることができます。毎日の食事作りや買い物のストレスが減りました。冷蔵庫を手放した一番の収穫は、ありすぎることの不便さに気付けたことでした。(本文より)【主婦の友インフォス情報社】


生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ。

無料の喫茶店最終日のテーマは「生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ」というものになった。ひとつの企画を主催する時、主催者自身のこころの状態は、空間全体に大きく影響するものだと思う。それならば、主催者にとって何よりも大切な仕事は「(お客さんを大切に扱うこと以上に)自分の状態をピースフルなものにしておくこと【自分自身を大切に扱うこと】」だと私は思う。

平穏なひとと同じ時間を過ごすとき、ひとは、平穏な気持ちでいることができる。同じように、怒りや憎しみにまみれたひとと同じ時間を過ごすとき、ひとは、どうしても目には見えないネガティブなエネルギーを受け取ってしまう。自分に許せていないことを、他人に許すことはできない。家庭でも、学校でも、職場でも、自分のこころの状態ら何かしらの形で必ず周囲に影響を与えているのだと思う。

何かをしなければいけないとか、こうでなければいけないという思考に枠で自分や相手を縛ることよりも、私は「生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ」という精神的なゆとりを身に纏い、あらゆるものを受け入れていけたならいいと思っている。夏だ。嫌なことを嫌々やりながら生きるよりも、やりたいことをやりたいようにぶわあとやって、腹の底から大好きなひとと笑い合えたら最高だ。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。

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熱海の自宅で開催している、無料の喫茶店【Envelope】初日が終わった。前日の告知にも関わらず、愛知や大阪や北海道(!)から来てくれた人達もいて度肝を抜かれた。それだけの行動力があれば、あなたたち、きっと何処でもやっていけると思います!という気持ちになった。フットワークの軽いひとの特性は「風」だ。遠方から足を運んで来たひとの存在は、空間を吹き抜ける新鮮な風になる。


以前、京都で出会った旅好きの女性が「最近は仕事が忙しくて旅に出る時間がないので、自宅を無料の宿として開放(カウチサーフィン)をして、来てくれたひとを通じて旅の気分を味わっています」と話していた。ひとつの場所に固定をされてしまうと、どうしても視野は狭くなり、小さく限定的な思考の枠にはまってしまう。自分なりの対処法【思考の枠を外す方法】を実践しているひとは、素敵だ。

人生も喫茶店も「なるようになる」

私は、多分、何かを「こうである」と決めることが非常に苦手な人間だ。自分から喫茶店をやるといっておきながら、固定のメニューを決めることができず、固定の座席を用意することができず、固定のルールを設定することができず、結果的に「自由に好き勝手にやっちゃってください」ということになる。いい加減な自分の特性を、非常に便利な言葉で言い換えると「流動的でありたい」と思っている。

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結果的に、喫茶店という名目でありながらメニューは『おいしい水(HOT or COLD)』のみで開店をするという、ある種の醜態を晒した。しかし、晒した醜態が功を奏し(?)て、さすがにそれはちょっとアレだろと思ってくださった東京在住の方が、台湾で購買したという非常に高価な茶葉と茶器を贈呈してくれた。おかげさまでメニューが増えた。この、流動的【行き当たりばったり】感が大好きだ。

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手土産に「場合によっては2時間以上も並ぶことがある銀座CENTREのパンと洒落乙な北欧の紅茶」を購買してきてくださった女神様の登場により、ただの給水所と化していたEnvelopeが喫茶店になりはじめた。愛知から来てくれた方はかりんとうを、北海道から来てくれた方はバウムクーヘンを、東京から来てくれた方は「水出しアイスコーヒーの器具と珈琲豆」をEnvelopeに贈呈(!)してくれた。

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私は、心の底から「水だけで開店してよかった」と思った。ほんとうは、何かをやるにはそれなりの準備を整えてからやるものだろうという常識的なサムシングが自分の中にもあったものだから、水だけの状態で開店をするのはいかがなものだろうかと感じる部分も少なからずあった。が、蓋を開けてみたらこのようになった。人生は「どうにかする」ものではなく「どうにかなる」ものなのかもしれない。

不安や恐怖より「衝動や喜び」

Envelopeに来てくれた女性が「わたしは、こうしてお菓子の差し入れを持ってきてはいるのですが、正直に言えば『持って行きたいから持ってきただけではなく、自分をいいひとに見せたい(何かを持っていかないと悪いひとになる)』から持ってきているように感じています。坂爪さんは様々なものを貰う機会が多いと思うのですが、皆、純粋な善意だけで与えているものなのでしょうか」という問いを投げた。

私は、しばらく考えた後に「わかりません」と答えた。純粋な善意だけで与えるひともいれば、何かしらの見返りを求めて与えるひともいるし、自分を良く見せたいある種の見栄やプライドの為に何かを与えるひともいるのだと思う。どのような気持ちが乗っかっているのかは(女性の話を聞くまでは女性がそのような気持ちで差し入れを持ってきたこともわからなかった)私は、多分、何も知らないのだと思う。

私は、あらゆるひとに対して「そうしたくなった、その気持ちを大切にしてください。しなきゃ、に負けないでください」ということを願っている。何かをしなければいけないというある種の脅迫的な感情に従うのではなく、これをやりたい、こうしていきたいと思う前向きな感情に従って欲しいと願っている。不安や恐怖を動機に何かをするのではなく、衝動や喜びを動機に生きていて欲しいと願っている。

『聖なる予言』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、J・レッドフィールド著作『聖なる予言』です。こちらの本は、関西在住の女性から「わたしの人生を大きく支えてくれた一冊です。必要とされる方に、必要なタイミングで届きますように」という言葉と共に、熱海に届きました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、長崎県にわたりました ※※※


ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。

多分、私はEnvelopeという空間を通じて「迷惑をかけない訓練をするのではなく、楽しく迷惑をかける【明るい混乱を起こす】練習をしているのだ。我慢をする訓練をするのではなく、無邪気に我儘である【ポジティブに甘える】練習をしているのだ。強くなる為の訓練をするのではなく、余計な見栄を投げ捨てる【安心してダメになる】練習をしているのだ」と思う。


こうでなければいけないということなんて、本当は、ひとつもないのだと思う。いままで「これはこういうものです」と定められてきたほとんどのものも、もしかしたら、すべてはデタラメなのかもしれない。地動説が天動説に変わるように、世界の常識が一瞬でひっくり返る出来事が、人生にはたくさんある。つまらない常識で自分をダメにしてしまうことほど、勿体無いことはないのだと思う。


正しさを追い求めると重くなる。楽しさを追い求めると軽くなる。どれだけ正しいことを言えるひとでも、一緒にいる時間が楽しくなければ、こころは簡単に疲れてしまう。私は「明るい混乱を起こす」ひとが好きだ。「ポジティブに甘える」ひとが好きだ。「無邪気に我儘である【邪気のあるものはNG!】」ひとが好きだ。ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。


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人生は続く。

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【Cafe Envelope】優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいか分析するのは遠回り。

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無料の喫茶店をはじめたいと思う。机や椅子を探したり、適当なメニューを考えてみたり、熱海の自宅を無料の喫茶店にする為の準備をしている。無料だなんて食材費はどうするのだ、やればやるだけ損をするだけじゃないかと言われることもあるけれど、自分でもはじめる理由がわからない。ただ「素敵だと思ったから」以上の答えを見つけられないでいる。


実験的に8月5日(金)から7日(日)までの三日間「無料の喫茶店」なるものを開店します。私は非常に怠惰な人間なので、完璧に準備が整ってからやるのではなく(そうなると永遠に開店できない)、何も準備ができていない状態からドヤ顔で店を開き、皆様のお力を借りながら徐々に環境を整えていくという「永遠に未完成スタイル」ではじめます。是非、お気軽に遊びにいらしてください。

【イベント情報】Envelope 〜無料の喫茶店〜

なぜ、無料の喫茶店【循環スタイル】なのか。

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私が「無料の喫茶店」をはじめたいと思った理由はだいたい100個くらいあって、ひとつめは「たとえ採算性を度外視したものであっても、このひと(このお店)が人類にとって必要なものであれば、このひと(このお店)を生かそうとする謎の力が働いてきっとどうにかなるはずだ」という非常に楽観的なものになる。

ふたつめは「およそ2年間にわたる家なし生活の時期を含め、現在の私は【交換感】ではなく【循環感】の原理で生かされていることを感じているから」というものになる。等価交換を原則としている世の中では、持たざるものは何も得ることができない(交換に参加することができない)。しかし、家も金も仕事もなかった自分が生きてこれたのは、交換ではない循環のシステムに奇跡的に乗ることができていたからなのだと感じていて、あの【循環スタイル】を再現できる舞台装置(?)をつくることができたら面白いなあと思うようになった。

みっつめは「気前の良いことがやりたかった」というものになる。気前の良いひとに触れると、自分も気前の良いことをやってみたくなり、結果的に「世の中に気前の良い風が吹きまくる」のではないだろうかとひどく短絡的に睨んでいる。過去に、はなまるうどんで30人に自腹を切ってご馳走をするという自主企画を通じて、私は「神は『好きなように生きなさい』と言っているのだ!!!」ということを悟った。


Cafe Envelope【逢初庵】

熱海の自宅は「逢初庵【あいぞめあん】」と名付けている。初対面の人間がたくさん出逢う場所になるだけではなく、昔から付き合いがあった人や、雲や、花や、虫など、見慣れているすべてのものに対して「生まれてはじめて見た時のように新鮮な気持ちで」接することができる場所になればいい、という思いを込めている。


無料の喫茶店の名前は、Envelope【エンヴェロープ】になるかもしれない。もともとは「封筒」という意味の言葉で、ゆっくり落ち着いて手紙を書けるような空間になればいいと思っている。逢初庵の英訳としては意訳に過ぎるかもしれないが、私は、エンヴェロープという言葉の響きにある種の安心感を見た。この空間を吹き抜ける風を通じて、何かしらの安心感を取り戻す【思い出す】ことができるようになればいいと思っている。多分、安心感とは「つながっている」という感覚だ。


無料の喫茶店をはじめたいと言い始めてから、野菜や本を持って行きますという方や、自宅で余っている食べ物や飲み物を送りますという方や、手伝いが必要であればいつでも声をかけてくださいと言ってくださる方々がいる。このような「善意の循環」が、やがて、いまはまだ想像をすることもできない未来を運んでくれるような、静かな予感に包まれている。実験的な三日間の開店を終えた後も、私が熱海を離れて自宅にいることができない期間も、何かしらの方法で毎日開店することができるあり方を考えていきたい。

『動物たちの惑星』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、南アフリカ出身の写真家であるスティーブ・ブルームの写真集『動物たちの惑星』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。こちらの写真集は、先日、熱海まで遊びに来てくれたカメラマンの男性が持参してくれた一冊になります。無料の喫茶店を開催中の店内にも、わたり文庫用として幾つかの本を陳列する予定です【無理やりにでも誰かに読ませたい本をお持ちの方は、是非、ご持参いただければ幸いです】。

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※


美味しいケーキを食べること。

無料の喫茶店の良いところは「与える側と受け取る側が徹底的にフェアである【媚びる必要はない】」ことだと思う。対価を貰っている(対価を払っている)訳ではなく、ただ、与える側は「与えたいと思ったから」与えているだけで、受け取る側も「受け取りたいと思ったから」受け取っている【そうしたいと思ったからそうしている】だけであり、矛盾がない。矛盾がないから、我慢をする必要がない。


自分のやりたいようにやっても、意外と周囲に迷惑をかけることは少ないのだということを経験則的に思う。逆に、自分のやりたいことを押し殺して自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。多分、重要なポイントは「無邪気さ」だと思う。無邪気なわがままは周囲の人間の母性本能をくすぐって「仕方がないわねえ」という微笑を誘うが、邪気のあるわがままは周囲の人間の生きる力を奪う。


今世紀史上稀に見る非常に素晴らしい名言に出会った(nicさんありがとうございます!!ハリネズミのアイコンと奈良さんの背景がかわいい!!)。そうなのだよ、そうなのだよ、まさにその通りなのだよと私はスマートホンを握り締めながら体育座りでヘッドバンギングを繰り返した。嫌いを克服するよりも、愛しているのど真ん中にダイブしよう。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいかなどという不幸せの謎解きをするのではなく、私は、ただ美味しいケーキを食べて「幸せだなあ」と笑い合えたらそれだけでいいのだ。大切なことは「好きなひとと過ごすこと」と「好きな仕事を追求すること」で、好きなことをやるのに自分を擦り減らす努力なんて要らないんだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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【Fast alone, Far together】早く行きたければひとりで行け。遠くに行きたければみんなで行け。

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熱海や辻堂や蒲田や平塚界隈を行ったり来たりしながら、怒涛の日々を過ごしていた。自分は自分の考えなり思想なり生き方のスタイルをそれなりに持っているつもりだった(「俺は俺だ」という自分軸をそれなりに持っているつもりだった)けれど、最近、これが自分だと思っていた大部分が音を立てて崩れはじめている。

ひとりの人間とひとりの人間が本気で向き合う瞬間の中には、多分、人間を別人に変えてしまう力がある。お互いに持っている魂とか生命とか呼ばれるような何かが空間に流れ出て、グチャグチャに溶けて混ざり合うからなのだろう。「これが自分だ」と思っていた部分が大きく変わろうとすることは時に恐怖にもなるけれど、同時に、生きていることの醍醐味にもなる。要するに、いま、私は恋をしている。

絶滅危惧種は大切にされる。絶滅しろ!

数年前に「いばや【とにかくやばいことだけやる】」という団体のようなものをはじめてから、今世の自分は、いわゆるまともな生活はできないだろうなと思っていた。家のない生活をしていたり、生活のためではなく生命のために生きるなどと鼻息を荒くしていた時期など、恋愛とか、就職とか、結婚とか、いわゆる「普通の生活」と呼ばれるようなものとは無縁の今世になるだろうなと思っていた。

私は、昔から「絶滅危惧種は大切にされる。だから、大切にされたければ絶滅をしなければいけない」という偏った考え方を持っている。佐渡島のトキが大切にされるのも、トキが残り一羽とかギリギリの状態にいるからこそ大切に保護される訳で、これが「100匹とか200匹とか繁殖に成功しました!」となってしまったら、おそらく、いまほど大切にはされないだろうなと思っている。

これを自分の人生にあてはめて考えてみたとき、おそらく、自分がギリギリの状態から遠ざかってある種の安定を手にした瞬間から、私は、いわゆる「退屈な人間」に成り下がってしまうのではないだろうかという謎の恐怖感がある。大切にされたければ、尋常ではない生き方を望む(人類の可能性を探求したい)のであれば、常にギリギリの状態で生きなければならないという非常に面倒臭い考え方を持っている。

ひとりの人間に大きく揺さぶられる人生。

それが、である。たったひとりの人間の登場によって、自分の人生が大きく揺さぶられているのを感じている。自分にとって重要な『何か』との出会いは、人生におけるいままでの優先順を大きく変えてしまう力がある。たとえば、私の場合は「坂爪圭吾というひとりの人間の生き方」をどこまでも深く探求してみたいと思っていたけれど、いま、その辺りが大きく変わろうとしているのを感じている。

チューリップの青春の影という曲の中に「自分の大きな夢を追うことがいままでの僕の仕事だったけど、君を大切にするそれこそがこれからの僕の生きるしるし」という歌詞がある。手放しで「自分も同じ気持ちです!」とは言えないけれど、いま、似たような心境にある。いままでの自分の人生の主語は「私は」というどこまでも個人的だったものが、いま、「私たちは」というある種の共同体的な思想に変わろうとしている。

家のない生活をはじめたのがいまから2年半前、家をいただいたのがいまから約半年前、ある程度の安定期にある中で、そろそろ「次のステージがはじまる」予感はある。どのように自分の人生が展開していくのかはわからないけれど、いま、岐路に立っていることは間違いないのだと思う。迷いの気持ちは意外と少なく、ああ、自分は変わっていくのだろうなあという不思議な静けさに包まれている。

Fast alone, Far together.

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アフリカの諺に「早く行きたければひとりで行け。遠くに行きたければみんなで行け」というものがある。自分の言葉で言い換えることはできないけれど、多分、きっと、そういうことなのだろうなと思う。いままでの自分の日々は、ただ、自分のことだけを考えていればそれだけで良かった。誰の顔色も伺う必要もなく、ただ、自分の心の思うままに足を運んでいればそれだけで良かった。


その日々が悪いものだったとは思わない。ひとりでいることの中にも、ひとりでいるなりの孤独や疲労もそれなりにあって、それらは、自分を逞しく鍛える為のトレーナーとなった。ただ、である。これからも、あくまでも主語は「私【I】」というもので貫くのか、それとも「自分たち【WE】」というある種の共同体的なものへと発展させていくのか、いま、まさに分岐点に立っている感覚を覚えている。


明日、8月2日(火)は大安の新月で、新月の夜には「(これから月が満ちていくのに掛けて)新しい何かを願ったりはじめたりするのに最適な時期」だと言われている。自分は、これからの自分の日々に何を願うのだろう。わかることは「これからのことは何もわからない」ということと、そして、どのような道を選んだとしても希望しかないということだ。熱海にある家の目の前には海が広がっていて、夏の空には大きな雲が流れている。「空があるから、私はどんな時も大丈夫だと信じられる」という、オノヨーコさんの言葉を思い出している。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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この世界に立ち向かう勇気。

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東京駅国立市で開催されたトークイベントに登壇した後に、そのまま大阪に向かう予定だったはずの流れが爆発して、いま、再び熱海にいる。予定が二転三転することはままあることで、今回も様々な方々にご迷惑をかけてしまった。笑って許してくださる方もいれば、怒りのメガトンパンチをお見舞いしてくださる方もいて、日本昔話の「人間っていいな」が脳内を流れた。

トークイベントでは、最近感銘を受けたインドの思想家・サティシュクマールさんの逸話を軽く紹介した。クマールさんは、お金を一円も持たないで歩いて世界を一周する「ピースウォーク」を達成した男性で、それにまつわる逸話が半端ない。私は、過去に家を持たない生活を二年間ほど続けていたけれど、クマールさんの経歴を前に月とお米粒(最近はこの言い回しにはまっている)ほどの違いを感じている。

清々しい敗北感のど真ん中。

自分はなんてちっぽけな存在なんだ!と痛感させられる人間の存在【清々しい敗北感のど真ん中】には、不思議な嬉しさがある。クマールさんは、ある日、平和のために歩いて世界を一周しようと思い立つ。そのことを師匠的な存在のひとに伝えると、あろうことか、師匠は「それならば、お金を一円も持たないで出発するといいですよ」というぶっ飛んだ提案をする。クマールさんはびびる。まじかよ。たまにはお茶とか飲みたいじゃないか。だがしかし、師匠の教えは絶対なのでクマールさんは「わかりました」と言って、財布の中にあったお金を全部取り出してからインドを出発をした。

パキスタンとの国境まで歩いたとき、クマールさんの友達や親戚が駆けつけた。インドとパキスタンの間柄は最悪で、過去に三度の戦争をしているほどには荒れている。彼らは説得をする。クマールよ、パキスタンに行くのは自殺行為だ。しかも徒歩で、無一文で行くなんてアホ過ぎる。やめろ。いますぐ私たちの元に帰るんだ。全力で説得を行う彼らに、クマールさんは言う。俺は行く。私は大丈夫だ。たとえ死ぬことがあったとしても、平和の為に死ぬのなら本望であると。

友達や親戚は諦めた。その代わりに、クマールさんに3日分の食糧を渡そうとする。しかし、クマールさんはこれさえも拒否をする。もしも私がこの食糧を受け取ってしまったら、パキスタンで私を受け入れてくれたひとになんて言えばいいんだ。パキスタンのひとは誰も泊めてくれないだろうと思ったので、私はこの食糧を持ってきたのだとでも言えというのか。この食糧は、パキスタン人への不信感にほかならない。だから、この食糧はいらないのだとクマールさんは拒否をする。

敵が味方になる。

パキスタンの国境を越えてしばらく歩くと、すぐにパキスタン人【友達や親戚が言うところの「敵」であるひと】から声をかけられた。あなたがクマールさんですか、新聞であなたが平和の為に歩いていることを知りました。私も、インドとパキスタンの戦争は無意味だと思っています。よろしければ、是非、我が家に泊まってください。私の友達にも同じ考えの人間がいるので、みんなを集めて、平和について語りあいたいです。

この体験を通じて、クマールさんはひとつのことを実感する。もしも、自分がインド人として来たのであればパキスタン人【敵】と出会うのであろう。もしも、自分がヒンズー教徒として来たのであればイスラム教徒【異教徒】と出会うのであろう。しかし、自分が人間として来たのであれば、そこには人間としての出会いがあるのだということを。そして、クマールさんは「その時に私は、この世界に立ち向かっていく勇気をもったのです」と言う。

私は、この一連のエピソードに強い感銘を受けた。敵が味方になるという体験は、二年間の家なし生活の中で自分の身に起きた最も大きなパラダイムシフト内のひとつになる。いままで、私にとって他人とは「張り合う対象【ライバル的な存在】」であり、ひとは優しいのだということを実感レベルで強く思い知らされることの少ない人生を生きていた。この考え方を大きく変えてくれたのが家のない生活であり、私は、ホームをレスするのと同時に世界に対する不信感もレスしていったのだと思う。


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この世界に立ち向かう勇気。

私が家を持たない生活をはじめた動機は、クマールさんのように立派なものではなく、単純に「同棲していた彼女に振られたから」である。昔から、日本の家賃は高すぎる!これじゃ家賃を払う為に生きているみたいなものじゃないか!と思っていた私は、これはちょうどいいタイミングだということで「家がなくても人間って生きれるのかな??」という純然な興味を軸に、自分を使って実験的に試していた。そして、その様子をこのブログ記事を通じて(暇を持て余していたので)書き綴った。

結果的に、二年間の家なし生活は「熱海に家を用意してくれた女神様の降臨」によって終焉を迎えることになる(いまも、その家からこのブログ記事を更新している)のだけれど、私は、この二年間の家なし生活を通じて「世界に立ち向かう勇気」を知らず知らずの内に得たのだと思う。他人とは張り合う対象であるばかりではなく、時には仲間になり得ることを、救世主になり得るのだということを、できることならばお互いに助け合って生きていきたいと思っている生き物なのだということを、家のない生活は教えてくれた。

前回の記事を読んでくれた読者の方から、一通の連絡が届いた。そこには「あなたの命を生きることが、私の喜びになる」と書かれていた。ひとりの人間が世界に立ち向かう勇気を獲得した時、それは、きっと「人類全体が世界に立ち向かう勇気を得た」瞬間になるのだと思う。クマールさんというひとりの人間が獲得した勇気を、決してクマールさんひとりだけのものとして終わらせてしまわないように、繋げていきたいと思う。私は、多分、悲しみや恐れではない「この世界に立ち向かう勇気」をリレーしていきたいのだ。




圭吾さん、こんにちわ!○○○○です
いつもブログ読ませていただいてます^ ^
圭吾さんのブログを読んだ後、あーいいなぁ〜って爽やかな風が吹くんですけど、これなんなんだろうなって考えた時ふと思った事があったのでメールを送らせてください。
今回のブログで書かれてた

与えられたこの命は、ひとつだけのこの命だけは、精一杯に生かしてやりたいと思う。そう思う時に、私は言葉を綴りたいと思う。そして、これからも言葉を綴っていきたいと思う。

この誰かのためでなく!徹底的に自分のために書かれた真っ直ぐな言葉たち
自分のために生きる姿にあーいいなぁって感じていて
誰かのために!と生きていた時の私は
あなたの為なら多少無理してもいい!自己犠牲が美しい!それが愛‼︎と思い込んでいました
それは今思えば決して楽ではなく、そんな自分を本当の意味で好きではなかったんだなと。

圭吾さんや自分のために生きる人たちの姿や言葉には、以前クレイジーハウスダラットを観た時に書かれてた
「この世の中にこうでなきゃいけないということなんて、本当は何もないのだ」
という風が私にも吹いて気持ちを楽にさせてくれる、好きなように生きていい、
それでいいのか〜っていう爽やかな風を感じるんだな…と思いました。

それで、そこから芋づるのようにつながって思ったんですけど
なんかそういう気持ちを楽にしてくれるものを見ると自分は無性に嬉しくなるんです。
そんな嬉しい気持ちの自分自身が私は好きで
自分を好きになる(満たされる?)と人に優しい気持ちになったりして
毎日生きてく中で常に前向きなんて無理で、嫌な感情も汚い思いも後悔もあるけど
その瞬間、自分を好きになって、人もまた同じように好きになれるのかなって。

誰も、私の代わりに私の命を生きることはできないけど
あなた(私)の命を生きることが私(あなた)の喜びになることはできるのかな…
なんて思いました^ ^

そんな気持ちにさせてくれた圭吾さんに大感謝です!
本当にいつもありがとうございます‼︎

私はこれからも自分を生きる喜びで爆発させていきます

長々失礼しました!
圭吾さんにとって素敵に躍り狂う日々でありますように!
ありがとうございました^ ^



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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生き延びることより「生きたいと思う」こと。

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バンコクを経由して東京に戻り、熱海に来た。明日26日(火)は、東京都国立市で開催されるトークイベントに出演します。誰でも自由に参加できる内容になるので、興味のある方は気軽に遊びにいらしてください。水曜日からは関西方面に向かいます(近未来、奈良県の村々や和歌山県紀伊半島に足を運んでみたいです)。

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会

最近思うことあれこれをまとめます。

1・ダサい人間が感謝をされることは少ない。


最初は、ただ、自分がやりたくてやっていた【そうできることを感謝していた】だけのことなのに、やがて、周囲の人間に対して「自分はこれだけやっているのに、なぜ、認められないのか」的なことを思うことがある。そんな時、私は、自分が感謝をされたがっているのだということに気がついて「ダセえ!」と思う。感謝をされたがっている瞬間の自分はダサく、ダサい人間が感謝をされることは少ない。

2・最優先事項は「自分を楽しませること」


頻繁に耳にする言葉に「ひと様に迷惑をかけなければ何をしてもいい」というものがある。しかし、何をしたって一部のひとには露骨に迷惑にぶっかけてしまうというのが世の常だ。たとえば、私【坂爪圭吾】が生きているだけで「消えろ!目障りだ!迷惑だ!」と喚き叫ぶひとがいる。彼らには誠に申し訳ないけれど、生きている限り消える訳にはいかない。私は、私を嫌うひとの為に自害をするほど聞き分けのいい人間ではない。

3・人生とは、自分との心理戦である。


何かをしたら「笑われるかもしれない【誰かに馬鹿にされるかもしれない】」とビビってひるんでしまうことがある。しかし、中島みゆきのファイト!の歌詞にも「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」とあるように、ひと様を馬鹿にする人間は基本的に闘っていない豚である。真の敵は己自身であり、人生とは「【世間的な過干渉(余計なお世話)とのバトルではない】自分との心理戦」である。

4・愛想笑いは「生きる力」を剥奪する。


あなた、いま、絶対に元気ないでしょ!その笑顔、ウルトラ無理をしているでしょ!と感じてしまうひとの笑顔、困っているような、泣いているような笑顔を見ていると胃と心臓が痛くなる。悲しみに寄り添いたくなる時もあるけれど、端的に「生きる力が奪われるからやめてください」と思うこともある。自然な感情は、絞り出すものではなく「溢れ出す」ものだ。搾りカスみたいになりたくなければ、自分で自分をスクイーズ【搾取】しないこと(そういうひとたちからは物理的に離れること)。

5・静けさが、知性や品性を醸成する。


誰の中にも詩人はいて、自分の口数が増えるほどに詩人は黙り、自分の口数が減るほどに詩人は語り始める。私は、詩人の心を身に纏うひとが好きだ。品格を身に纏うひとが好きだ。ある一定の閾値を超えた人口密度の中で、自分の中にいる詩人の声を聞くことはひどく難しい。詩人の心を身に纏うひとには、そのひと独特の「凛とした静けさ」がある。多分、その静けさが『知性』や『品性』を醸成する。


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6・好きなひとに好きだと言うために生きている。


明日死ぬとしたら何をするだろうか。明日死ぬとしたら、後悔のない生き方をできているだろうか。天国に持っていけるものは、多分、愛し愛された記憶だけなのだと思う。愛されるだけでは足りない、自分から能動的に何かを愛した時、多分、同時に自分【自分の人生】を愛することもできるのだと思う。私は「好きなひとに好きだと言うために生きている」のだと思う、ただ、それだけなのだと思う。


7・「自分は自分でいいのだ」と腹を据えて生きる。


私が誰かを好きになるとき、そこには「よくぞこのままで生きていてくれた!」という大きな喜びと感動がある。そのひとがそのひとで在り続けるということが、こんなにも見るひとを元気付けるものなのか。他人の評価に合わせて何者かになろうとするのではなく、自分は自分でいいのだと腹を据えて生きているひととの時間は潔く、清々しい。言葉はいらないから、ただ、永遠にそのままでいて欲しいと思う。

8・生きるために一番大切なもの。


居場所がないと感じることがある。かといって「居場所をつくりたい」という風には思わない。居場所とは、多分、外的な空間ではない「現在【自分の心の状態】」のことだ。乱暴にまとめるならば、それは『安心感がある』ということだ。安心感があれば土管の中でも河川敷の橋の下でも自分の居場所になり得るけれど、安心感がなければ北欧の家具でまとめられた洒落乙な空間も孤独と虚無に包まれる。

9・過去を嘆くこともなく、未来を憂うこともない。


居場所とは「現在【自分の心の状態】」だ。

10・誰も、私の代わりに「私の命を生きる」ことはできない。


私は、いま、この記事を熱海のデニーズから更新している。自宅からはバイクに乗り、丁寧に舗装をされた道路を走ってきた。私の代わりに家や料理やバイクや道路を作ってくれるひとがいる。私の代わりに言葉を発明してくれたひとがいて、私の代わりにiPadを製造してくれたひとがいて、私の代わりにWi-Fiを各地に飛ばしてくれたひとがいるおかげで、いま、この記事を更新することができている。

三人兄弟の末っ子として育ち、生まれながらの怠け者と甘えん坊のハイブリッドである自分は、自分以外にも誰かが何かをしてくれるのであれば「いつもお世話になっています!本当にありがとうございます!」と最大限の感謝をしながら、恩恵の上にあぐらをかいてしまう。代わりがいるのならば自分はやらなくてもいいかななどと、何もしない、怠惰な日々を過ごしてしまう。

しかし、当たり前のことだけれど「誰も、自分の代わりに『自分の命を生きる』ことはできない」のだ。それならば、と私は思う。あらゆることを他のひとに頼ってしまう【他のことは何もやる気が起こらない】自分だけれど、与えられたこの命は、ひとつだけのこの命だけは、精一杯に生かしてやりたいと思う。そう思う時に、私は言葉を綴りたいと思う。そして、これからも言葉を綴っていきたいと思う。自分の脳味噌が何を生み出すのかを見ていきたいという思いが、私にとって「【死なない為に生きるのではない】真っ直ぐに生きたいと思う力」になる。

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人生は続く。

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踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

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ベトナムのダナン空港からホーチミンを経由して、バンコクドンムアン空港に到着した。バンコクに向かう飛行機からの眺めが素晴らしく、しばらくの間見惚れていた。雲の行列が踊りながらパレードをしているような、賑やかな空の風景に心は奪われた。口からは「うわあ」という嘆声が自然に溢れ、窓側に身を乗り出し、目の前に広がる深遠な風景に見惚れていた。


風の吹かない狭い屋内に閉ざされていると、自分の視野も狭く限られたものになる。空一面を踊る雲達を眺めながら、ああ、自分は自分を楽しませてやりたいのだということを感じた。もっと自分を楽しませてやりたい。もっと自分を驚かせてやりたい。自分という存在に新しい価値を覚えるほどの『神秘的な景色の広がり』や、いつも目にしているものの中にずっと昔からある『発見されることを待っている奇跡の存在』や、涙が出るほどのよろこびに触れる『何か』を、自分に見せてやりたいのだということを感じていた。

旅【生きること】と同行【従うこと】

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みっつという男性と行動を共にするのも今日が最後で、明日からはまたひとりになる。いわゆる『旅』と言われるものは、ひとりで出発するのか複数人で出発するのかによって、その後の様相が大きく変わる。複数人での移動は、食事をシェアできたり宿代が安く済むなどのメリットがあるが、新しい何かとの出会いの機会は圧倒的に減る。そして、何よりも「泣きそうになるほど【頼れるひとが周囲にいない】不安で孤独な場面を、どうにかして切り抜けることができた」記憶を残すことが難しくなる。

私は、いま、反省をしている。頼まれてもいないのに、私は「みっつの親代わり的な役割」を勝手に勤めようとしてしまった。結果的に、みっつはあらゆる局面で私の顔色を伺うようになり、乱暴な言葉で言えば「自分の足で歩き出す機会」を逸した。旅【生きること】と同行【従うこと】は違う。自分では何も決めることはない、誰かに用意された道を歩いているだけでは、生きているのではなく「同行している【従っている】」だけに過ぎない。

そのような考え方にいたり、最終日の今日、私たちははじめて単独行動をすることになった。今夜発の深夜便で日本に戻るために、23時に空港で待ち合わせる。それまでは各自自由、金が必要ならば自力で両替をして、ネットを使いたければ自力でWi-Fiを見つけ出し、空港までの行き方も自力で調べる。どちらかが間に合わなければ、健闘を祈って帰る。言葉にすればひどく当たり前のことに聞こえるけれど、この数日間、みっつは「当たり前のすべて」を剥奪されていた。

馴れ合って足を引っ張り合うよりは、強くなった彼を見送る方がずっといい。

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自身の身勝手さを痛感する。私は、多分、徹底的に自己満足を追求したいのだ。「誰かのため」なんて言葉は使いたくない。そのような言葉を使う【使ってしまっている】自分を見た時は、その見栄を、その傲慢さを、その認識の甘さを張り倒してやりたくなる。自分で自分を満足させることのできない【自分で自分を救うことのできない】人間が、他人を使って自分を満足させようとしている【他人を使って自分を救おうとしている】だけに過ぎないのだと、自分で自分を蹴飛ばしたくなる。

日本橋ヨヲコという漫画家の作品に、高校時代、熱病のように犯されていた時期がある。プラスチック解体高校という作品の中に「馴れ合って足を引っ張り合うよりも、強くなった彼を見送る方がずっといい」というような台詞があった。ここ数日間、私は、この言葉を思い出していた。ぬるま湯のような馴れ合いの中にはない「お互いに刺激を与え合うことができる、時には『傷つけ合って覚醒し合う』ような関係性」を、私は求めているのだと思う。

自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。俺はお前にはなれないし、お前は俺にはなることはできない。俺が俺であるほどに、お前はお前でいることができる。お前がお前であるほどに、俺は俺でいることができる。俺が俺であるように、お前はお前になれ。俺は俺で、俺であることを楽しむから、お前はお前で、お前であることを楽しんでくれ。私は、ただ、人間がメタモルフォーゼをする瞬間に触れたかったのだ。

『夜市』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、大阪府羽曳野市古市でカフェを営む店主さんから譲り受けた、恒川光太郎著作『夜市』です。こちらの作品は、ホラー小説という限定的なカテゴライズを超えて「二度と取り戻すことのできない悲しみと美にあふれている」素晴らしい作品でした。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※


踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

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ひととひとが共に生きるということは、どういうことなのだろうか。こんなことを言ったら相手にどう思われるだろうか、傷つけてしまうかもしれないし、そのことによって自分が傷ついてしまうかもしれない。面倒なことになるくらいなら、自分が我慢をしてその場をやり過ごせばいい。このような考え方でいれば、きっと、表面的には平穏無事で何事もない日々を送ることができるのだろう。

それぞれが自分の命を開きながら、カオスティックな中にある種の秩序が成立している状態を「調和」と呼ぶのならば、ひとりひとりが本心を押し殺して無難に収めようとしている状態を「予定調和」と呼ぶのだろう。「そういうものだよね」という予定調和の中には、ひとりの人間が大きく傷つくことのない代わりに、各々の本心が徐々に削り取られていく「ゆるやかな諦め【静かな殺人】」の雰囲気が漂っている。

空一面を踊る雲達を眺めながら、ああ、自分は自分を楽しませたいのだということを感じた。もっと自分を楽しませてやりたい。もっと自分を驚かせてやりたい。雲が空を踊るように、命は、この瞬間も踊りたがっている。成功するかはわからない、うまくいかないことの方が多いかもしれない、それでもなお、命の鼓動に殉じること。確かなことは、いつか『踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る』ということだ。

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人生は続く。

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永遠の前の一瞬。

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ベトナムのニャチャンを経由してホイアンにはいり、これからタクシーでダナンに向かう。夜には寝台列車ホーチミンに戻り、一泊した後に水曜日の便でバンコクにはいる。基本的に暇なので、ラジオ番組「坂爪圭吾のポンポンがパンパン!」なるものを配信した。ポンポンとは腸【はらわた】のことで、肉体的及び精神的に満腹時の坂爪が皆様のご機嫌をハンティングする軽薄な内容になっている。


自前のスマートフォンを落として割ってしまった。ブログに使用している写真は、すべてスマホiPhone5s】で撮影していたために困ってしまった。精神もスマホも粉々である。新しい携帯(iPhone6s plusの大画面に惹かれている)を購買したいが、所持金はお米粒程度だ。金曜日には祖国【日本】に戻るので、どなたか使っていないスマホなどを安価で譲ってくださる神様がおりましたら、ご連絡いただけると猛烈に喜ぴます。

元気なんか出さなくていい。

私は、多分、ハイテンションのひとが苦手だ。みっつを含めたいばやの皆様といると落ち着くのは、彼らは「元気だけどテンションは高くない」からだ。要するに、無理をしていない。常に明るくいなければいけない、前向きでいなければいけない、元気でいなければいけない、楽しまなければいけない、みんなと仲良くしなければいけないという雰囲気が空間に満ちている時、私は、その場にいることが耐えられなくなって逃げ出すことが多い。

誰かから贈り物を貰う時、受け取りやすいものと受け取りにくいものがある。金にしろ、物にしろ、そのひとが「これをあなたにあげたくて仕方がないの!」という溢れ出す感じがあるものは受け取りやすく、逆に「いまの私にはこれが精一杯なの」的な悲愴感【絞り出している感】がブレンドされている贈り物は受け取りにくい。前者には、何かをすればするほどにそのひと自身も潤うイメージがあるけれど、後者には、何かをすればするほどにそのひと自身が干からびるイメージがある。

私にとって、何かをしたいと思う感情は「絞り出す」ものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだと思っている。自分をボロ雑巾みたいに扱って、最終的には搾りカスになるほど無理をしてまで何かをするほどに、多分、そのひと自身は干からびていく。私は、人間が干からびていく様を見たいとは思わない。搾りカスになることを前提としたコミュニケーションや人生の在り方には、違和感を覚える。俺も我慢しているんだからお前も我慢をしろという世界は、端的に、酷だ。

花と水の街「ホイアン

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ホイアンの街は、花が綺麗だ。アジア諸国の緩さは自分には相性が良いみたいで、暇な時は平気でスマホをいじるレストランの店員や、まるで商売っ気のない仏頂面の店員や、仕事であることを抜きに気軽に話しかけてくる店員の笑顔に触れると、不思議と嬉しさがこみ上げてくる。私は、多分、この「【自分の内側から】こみ上げてくる」という感覚が好きなのだと思う。

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花を見ると嬉しくなる。嬉しくなりたいと思うから花を見るのではなく、花を目にすると「嬉しくなっちゃう」のである。この、自然と「なっちゃう」感じ【ちゃうちゃう感】が私は好きで、これは夕日を見た瞬間に思わず駆け出してしまっている自分に似ている。思わずしてしまっているという、この「そうせずにはいられなくなる【気がついたらそうしちゃっていた】」姿に、自分の必然や自然を見る。

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近くの川にはボートが並び、客寄せのおじさんが「ボート!ボート!」と叫んでいる。

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幾つもの色彩に溢れた、可愛らしい街だ。

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移動を続ける日々の中で、私は旅や食や世界遺産などにはあまり興味がないのだということを知る。ただ、自分の心が何を感じるのかということには興味があり、外側の世界ではない内側の世界の拡がりを覚えた時に、ある種のよろこびを覚える。ああ、自分のこころはこのような反応をするのか、ああ、自分はこれをするとこういう気持ちになるのかということを垣間見た時、それがどのような反応であれ、なるほど、ここに来てよかったと思う。


そしてまた、新しい一日を迎える。

青空文庫「こころ」

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征中のために紹介のみになるのですが、青空文庫で無料で読める夏目漱石の「こころ」です。海外で日本の文学に触れると、いつもとはまた違った染み込み方をする。他にも、最近では原民喜「夏の花」宮沢賢治よだかの星太宰治「斜陽」高村光太郎智恵子抄坂口安吾文学のふるさと内村鑑三「後世への最大遺物」芥川龍之介羅生門伊藤野枝「遺書の一部より」トルストイ・レオ「イワンの馬鹿」などが良かったです。電子書籍は荷物にもならない、様々な作品を無料で読むことができる、素晴らしい時代だ。お手隙の際にでも、是非、青空文庫で検索してみてください。

私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた私は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。ー 夏目漱石「こころ」【青空文庫


永遠の前の一瞬

どれだけ遠くに足を運んだとしても、どれだけ多くの著作に触れたとしても、自分自身から逃れることはできない。結局、最終的に行き着く先は自分であり、他人がどう生きるのかではなく「自分はどう在りたいのか」ということを、自身に問い続ける日々にいる。自分との付き合いは長い。長ければ長いほど詳しく分かりそうなものなのに、長ければ長いほど、いよいよわからなくなることも多い。


不安になるのはあたりまえで、さみしくなるのもあたりまえのことだと思う。元気な時に「このままで行こう!」と思うことは簡単だけれど、元気のないときも、元気のないままで「このままで行こう!」と生きる姿勢が、多分、自分の中心を生きる芯になる。元気を出さなきゃとか、明るくいなくちゃとか、やりたいことを見つけなくちゃだめだとか、そんな言葉で自分を苛めてはいけないのだと思う。生きる力は、ボロ雑巾のように絞り出すものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだ。


普通はこういうものだという声に惑わされてはいけないのだと思う。自分という人間は普通でもなければどこにでもいるような存在でもなく、優等生でもなければ劣等生でもない、そのことによる悲しみもあるけれど、そのことによる光と尊さを見出すこともできる、唯一無二の存在だ。生きていることが安らぎになるように、死ぬことが安らぎになることもある。生まれてから死ぬまでの【永遠の前の一瞬】に、どのように生きるのかはそのひとの自由だ。その中で「自分は自分でいいのだ」と思えた時、多分、ある種の安心感は芽生えるのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分を責める必要はない。

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ベトナムのダラットを経由してニャチャンにはいり、突如、念願のベトナムデビューを果たした。「この夏は、はなはだしいロールアップでキマりよ!!」ということで、心も身体もグイッ!と巻き上げて行きたい。それっぽい写真を撮影していただけたことが露骨に嬉しい。夏だ。プロフィール画像を変えると、自分がまるで新しいものに生まれ変わったような気持ちになる。


音声配信を公開した。現在、行動を共にしているみっつとは、様々な話をする。その中の一部(文章で伝えるには難しい部分)を音声で配信した。そこで出た話題と、その補足について、最近思うことあれこれをまとめます。

「働かざる者食うべからず」という嘘。

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非常に乱暴な言葉でまとめると、みっつは、10年間ほど自宅で引きこもりの生活をしている。私も、通常の意味での仕事はしていない(定期的な収入があるう訳ではなく、人々のお布施によって生きている)為に、我々ふたりは無職ということになる。無職の人間は、社会的に居心地の悪い思いをすることが(ひとによるけれど)頻繁にある。要するに「ダメ人間」のレッテルを貼られることが多い。

日本の諺に「働かざる者食うべからず」というものがある。これは、直訳すると「お前らみたい(ニートや引きこもりや何かしらの事情で働いていないひと)な生き方をしている奴は死ね」ということになる。言葉が与えるダメージは大きい。他人から言われることも勿論辛いが、何より、自分自身が自分に対して「お前はダメな人間だ」と感じる瞬間【自分で自分をいじめてしまう瞬間】は辛い。自分の存在や自分の人生が「負債だらけの罰ゲーム」になり、世界から、自分ひとりだけ消えてしまいたくなる

誤解を恐れずに言うと、私は「働かざる者食うべからず」という諺は嘘だと思っている。働きたいから働いているだけであり、働かないひとを責める必要はないと思っている。働かざる者食うべからずというひとは、本当は「そのひと自身が働きたくないだけ」だと思っている。働かないひとが羨しいから、働かないひとに腹が立つから、働かざる者食うべからずという諺を用いて、働かないひとを責めている【自分を正当化している】だけだと思っている。働いていないひとも、放っておけば勝手に働きたくなる時が来るだろうし、その時が来なければ来なかったでまた、非常に個性的【乙な人生であると思っている。

自立と依存は紙一重。

音声配信の中で「自立とは何か」という話題が出た。多くの場合、それは「経済的な自立」を指すのだと思う。たとえば、企業に勤めるひとは、自宅に引きこもっている若者に「いまは親がいるから良いけれど、親が死んだらどうするんだ」と言う。この場合、家族からの庇護を受けているひとは自立をしていないということになり、企業からの庇護を受けているひとは自立をしているということになる。

しかし、私には、これらのことが同じに見える。親が死んだらダメになる生活と、企業が倒産したらダメになるような生活は、頼りにしている先が異なるだけで「お互い様」なんじゃないだろうかと思っている。誤解されると困るが、私は「働くこと」を否定したい訳ではない。そうではなく、誰もが誰かを頼りにしながら生きているのであり、真の意味で自立をするということは実は不可能なことであり、自分の力で生きていると思うことは「自惚れの最たるもの」になるのではないだろうかと思っている。

いや、俺はどの組織にも属さないで、自分の腕一本で生きている。だから俺は自立をしているんだと言うひともいるかもしれない。しかし、このひと自身の生活も「そのひとが提供するサービスを買ってくれるひとがいる」から成り立っている訳であり、どれだけ素晴らしい技術や能力を持っていたとしても、それを買ってくれるひとがいなければ生活は破綻する。

自分を支えるものは「他者」である。

繰り返しになるけれど、私は「働くことを否定したい」訳でもなければ「働かないことを正当化したい」訳でもない。ただ、誰もが誰かに支えられながら生きているのだから、もっと、お互いに優しくできないものだろうかと思っている。「こうでなきゃいけない」という不安や恐れからではなく「こうしていきたい」という希望や喜びを礎に、明日を生きることができる世の中になればいいなあなどと思っている。

私が使っているスマホタブレットも、ベトナムまで来た飛行機も、家も、服も、車も、水筒も、洗濯機も、日本語も英語もギターなどの楽器も、とてもじゃないけれど私には自作をすることはできない。既に、先人たちによる様々な恩恵を受けながら成立をしているこの日々の中で、とてもじゃないけれど私は「自分ひとりの力で生きている」とは思えない。そして、私は「自分の生活を支えているものは『他者』である」ということを思う。

私には、生きるために必要な酸素を生み出す力もなければ、種を抜きに食物を生み出す力もない。自分の身体であるにも関わらず、血液の流れを早めることも、トイレの時間をコントロールすることも、髪の毛の生育をストップさせることもできない。ただ、勝手に肉体は傷ついた皮膚を修復し、口から取り入れた栄養を分解し、赤い血液【生きるために必要な力】に載せて身体中に巡らせている。そういうことを思うとき、私は「生きているということは、生かされているということだ」ということを思う。

クレイジーハウスダラット

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ダラットにある「クレイジーハウス」に足を運んだ。仮に、人間が損得勘定だけで生きている生き物だとしたら、このように愚かな建物を創り出すことも、このようなものを見て「OMG!」と興奮することもない。アーティスティックなものに触れた時、空間に、心に、自由の風が吹く。自由になることと「楽になること」は似ている。自由の風は受けるひとの心を楽にして、この世の中に「こうでなきゃいけないということなんて、本当は何もないのだ」ということを思い出させる。

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ダラットの空

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自分を責める必要はない。

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何もしていない自分には価値がないと感じる時、生きているだけではいいと思えなくなる。生きているだけではいいと思えないということは、生きているだけではダメ【存在をしているだけでは価値がない】になるということだ。生きているだけではダメになるということは、生きていること(生まれてきたこと)そのものが「負い目【生まれてきてごめんなさい】」になるということだ。しかし、私は思う。生きているだけではダメだなんて、それはちょっと、あんまりにも酷ではないだろうか。


自立とは何だろうか。それは「自分で自分にOKを出す」ということではないだろうか。どのような生き方をしていたとしても、いま、こうして無事に生きているということは「大丈夫である」ということの最高の証明になりはしないのだろうか。人間としては不完全でも、不完全で当たり前、不安になることがあっても当たり前、落ち込むことがあっても当たり前、でも、大きな全体の流れの中では「生きている【成立をしている】」というこの点において、私達は、実は『パーフェクトな存在である』とは言えないものだろうか。


何かをしたから価値があるとか、何かをしていないから価値がないとかではない、ただ、ありのままでそこにあるというその姿を通じて、見る者もまた、何者でもない「ただの自分」に戻ることができる。何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだ。自分を責めてしまう瞬間は辛いけれど、しかし、私達が自然を美しいと思うとき、それは「自然のままでそこにある」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。


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人生は続く。

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好きなひとに好きだと言うために生きている。

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マレーシアを経由してベトナムにはいり、ホーチミンからバスに乗ってダラットという都市に来た。高原に位置するこの都市は、日没後の気温が20度以下ににまで下がるために厚手の長袖が必要になる。1年前、モスクワを訪れたことを思い出した。まるで冬の到来を感じるようなこの気候に、夏と冬のハイブリッド的な一挙両得感を覚えられることが物凄い嬉しい。


ホーチミンの喧騒は自分には合わず、予定を早めて速攻でダラットに逃げた。逃げた先には、天国が広がっていた。多分、何かを好きになるために「自分を擦り減らす」必要はない。私は、ホーチミンを好きになるために努力をしてしまっていた。自分の体に合わない場所に、無理をしてまで長居をする必要はないのだという当たり前のことを実感する。地獄に拘泥するほど、天国を逃す。いまいる場所が合わなければ、ただ、その場所を離れればいいだけの話なのかもしれない。


そういうことを思っている。

好きなひとに好きだと言うために生きている。

今回の移動は、みっつと行動を共にしている。みっつは父親の方針で一切の義務教育を受けずに育ち、日本語も自力で覚えたために文字を読むことはできるけれど書くことはできない。みっつと出会った頃、何かやりたいことはあるかと尋ねたら「何処でもいいからいろいろなところに行ってみたい」と言った。それ以来、タイミングが合う時は一緒に行動を共にするようになった。


みっつと動画配信をした。現在の私の年齢は31歳で、生きる意味は何もわからないけれど、生きたいと思うことの理由ならば、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。安易な言葉になるけれど、しかし、これしかないんじゃないだろうかとさえ思うこともある。ひとを好きになることは、本当に素晴らしいことだ。

あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです。

私は、誰かのことを好きになる時「あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです」という感覚を覚えることがある。大袈裟な言葉になるけれど、私はあなたの代わりに生きていて、あなたは私の代わりに生きているのだという感覚を覚えることがある。別々の命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を生きているのだという感覚を覚えることがある。

先日、あるひとから「さくら」というタイトルの小説を貰った。話の内容は省略するけれど、物語の途中で『神様』という言葉が出てきた。特定の宗教を持たない私は、しかし、神様と呼ばれるものに思いを巡らせることが頻繁にある。私にとって、神様とはどこか遠くにいるものではなく、自分の中に常にいるものであると感じている。神様を信じるということは、自分の中の神様を信じるということだと感じている。それが「自信」と呼ばれるものではないだろうかと感じている。

あなたの中にもいて、私の中にもいて、それは一見すると別々なもののようでいて、同じでもあって、きっと幸せと呼ばれるものは「何か大きなものとの一体感」で、不幸と呼ばれるものは「何か大きなものとの分離感【切り離される痛み】」なんだろうなと思っている。自分の調子がいい時は、世界も開いたものとして映し出される。自分の調子が悪い時は、世界は閉じたものとして映し出される。

幸福は一体感、不幸は分離感。

先月、タイに足を運んだ時に美しい夕日を目にする機会に恵まれた。綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分かち合える関係性は、素晴らしいものだ。


私は、人間関係における幸福は「同じ気持ちを分かち合えた瞬間」に生まれるものだと思っている。自分が笑う時、世界も一緒に笑顔になる。しかし、自分が泣く時は世界にひとりぼっちで泣く。世界は一緒に泣いてはくれない。ただ、稀に世界も一緒に泣いている時がある。世界も一緒に泣いている時、それは幸福な瞬間になるのだと思う。同じ喜びだけではない、同じ涙を流している時、それは、美しくて貴い「幸福な瞬間」なのだと思う。

『さくら』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征中であるためにご紹介のみになるのですが西加奈子著作のロングセラー『さくら』です。巻末のあとがきで、西さんは「結果的に『さくら』は売れ、私の生活を変えてしまう一冊になりましたが、それより、『何かを書くことは?』ということを忘れることが出来るのは、何かを書いている間だけである、ということを教えてくれた一冊でもありました。私は、ずっと書き続けよう、と思います。こんな苦しくて、幸せなことはありません」と言う。きっと、生きるとは何かということを忘れることが出来るのも、生きている間になるのだろう。

でもなぁ、わしのこの目えはな、わしのもんやけど、ああ、わしのもんや無い思たんや。神様に返すんやてなぁ。わしはもう、山も星も見ることは出来へんけど、山の裾野がな、こう、どんな風に曲がってるかを覚えてるし、星のな、その形は見えんでも、光を感じることが出来る。わしは目え見えへんけどなぁ、ぜえんぶわしのもんに出来るし、ぜえんぶ返すことも出来るんや。ー 西加奈子『さくら(P79・公園のおじいさん)』【小学館文庫】


ひとつの大きな命を生きている。

素晴らしい出逢いの中には、いままでの人生をまるごと肯定する素晴らしい力がある。それは、相手に対して「いままで良く生きてきてくれた、あなたが生きていてくれたから、いま、こうして出逢うことができたのだ」と感じる、大きな大きな喜びをもたらす。そして、この言葉は、相手だけでなく実は自分自身にも言っているのだということを知る。相手が生きていてくれたように、自分もこうして生きてきたからこそ、二人は出逢えたのだということを知る。これまでの自分の日々を肯定する、大きな力の存在を知る。


私は、私の好きなひとを通じて「自分の人生を肯定する」ことができているのだと思う。そして、自分はひとりではない【ひとりでは生きられない】ということを知るのだと思う。その感覚は、知るというよりも「思い出す」に近いのだと思う。私は、私の好きなひとを通じて「何か大きなものとの一体感」を思い出しているのだと思う。この感覚を、私は「ひとつの大きな命を生きている」と感じているのだと思う。


私は「好きなひとに好きだと言うために生きている」のだと思う。もう、ただ、それだけなのだと思う。たったそれだけのことの中に、言葉にはならない、幾つもの美しくて貴い光の粒子が凝縮されている。誰かを好きになるということは、自分を好きになるということだ。誰かに好きだと伝えることは、自分に好きだと伝えることだ。別々の命を生きているのではない、この瞬間も、私達は「ひとつの大きな命を生きている」のだと思う。


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人生は続く。

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