この世界に立ち向かう勇気。
東京駅国立市で開催されたトークイベントに登壇した後に、そのまま大阪に向かう予定だったはずの流れが爆発して、いま、再び熱海にいる。予定が二転三転することはままあることで、今回も様々な方々にご迷惑をかけてしまった。笑って許してくださる方もいれば、怒りのメガトンパンチをお見舞いしてくださる方もいて、日本昔話の「人間っていいな」が脳内を流れた。
トークイベントでは、最近感銘を受けたインドの思想家・サティシュクマールさんの逸話を軽く紹介した。クマールさんは、お金を一円も持たないで歩いて世界を一周する「ピースウォーク」を達成した男性で、それにまつわる逸話が半端ない。私は、過去に家を持たない生活を二年間ほど続けていたけれど、クマールさんの経歴を前に月とお米粒(最近はこの言い回しにはまっている)ほどの違いを感じている。
清々しい敗北感のど真ん中。
自分はなんてちっぽけな存在なんだ!と痛感させられる人間の存在【清々しい敗北感のど真ん中】には、不思議な嬉しさがある。クマールさんは、ある日、平和のために歩いて世界を一周しようと思い立つ。そのことを師匠的な存在のひとに伝えると、あろうことか、師匠は「それならば、お金を一円も持たないで出発するといいですよ」というぶっ飛んだ提案をする。クマールさんはびびる。まじかよ。たまにはお茶とか飲みたいじゃないか。だがしかし、師匠の教えは絶対なのでクマールさんは「わかりました」と言って、財布の中にあったお金を全部取り出してからインドを出発をした。
パキスタンとの国境まで歩いたとき、クマールさんの友達や親戚が駆けつけた。インドとパキスタンの間柄は最悪で、過去に三度の戦争をしているほどには荒れている。彼らは説得をする。クマールよ、パキスタンに行くのは自殺行為だ。しかも徒歩で、無一文で行くなんてアホ過ぎる。やめろ。いますぐ私たちの元に帰るんだ。全力で説得を行う彼らに、クマールさんは言う。俺は行く。私は大丈夫だ。たとえ死ぬことがあったとしても、平和の為に死ぬのなら本望であると。
友達や親戚は諦めた。その代わりに、クマールさんに3日分の食糧を渡そうとする。しかし、クマールさんはこれさえも拒否をする。もしも私がこの食糧を受け取ってしまったら、パキスタンで私を受け入れてくれたひとになんて言えばいいんだ。パキスタンのひとは誰も泊めてくれないだろうと思ったので、私はこの食糧を持ってきたのだとでも言えというのか。この食糧は、パキスタン人への不信感にほかならない。だから、この食糧はいらないのだとクマールさんは拒否をする。
敵が味方になる。
パキスタンの国境を越えてしばらく歩くと、すぐにパキスタン人【友達や親戚が言うところの「敵」であるひと】から声をかけられた。あなたがクマールさんですか、新聞であなたが平和の為に歩いていることを知りました。私も、インドとパキスタンの戦争は無意味だと思っています。よろしければ、是非、我が家に泊まってください。私の友達にも同じ考えの人間がいるので、みんなを集めて、平和について語りあいたいです。
この体験を通じて、クマールさんはひとつのことを実感する。もしも、自分がインド人として来たのであればパキスタン人【敵】と出会うのであろう。もしも、自分がヒンズー教徒として来たのであればイスラム教徒【異教徒】と出会うのであろう。しかし、自分が人間として来たのであれば、そこには人間としての出会いがあるのだということを。そして、クマールさんは「その時に私は、この世界に立ち向かっていく勇気をもったのです」と言う。
私は、この一連のエピソードに強い感銘を受けた。敵が味方になるという体験は、二年間の家なし生活の中で自分の身に起きた最も大きなパラダイムシフト内のひとつになる。いままで、私にとって他人とは「張り合う対象【ライバル的な存在】」であり、ひとは優しいのだということを実感レベルで強く思い知らされることの少ない人生を生きていた。この考え方を大きく変えてくれたのが家のない生活であり、私は、ホームをレスするのと同時に世界に対する不信感もレスしていったのだと思う。
この世界に立ち向かう勇気。
私が家を持たない生活をはじめた動機は、クマールさんのように立派なものではなく、単純に「同棲していた彼女に振られたから」である。昔から、日本の家賃は高すぎる!これじゃ家賃を払う為に生きているみたいなものじゃないか!と思っていた私は、これはちょうどいいタイミングだということで「家がなくても人間って生きれるのかな??」という純然な興味を軸に、自分を使って実験的に試していた。そして、その様子をこのブログ記事を通じて(暇を持て余していたので)書き綴った。
結果的に、二年間の家なし生活は「熱海に家を用意してくれた女神様の降臨」によって終焉を迎えることになる(いまも、その家からこのブログ記事を更新している)のだけれど、私は、この二年間の家なし生活を通じて「世界に立ち向かう勇気」を知らず知らずの内に得たのだと思う。他人とは張り合う対象であるばかりではなく、時には仲間になり得ることを、救世主になり得るのだということを、できることならばお互いに助け合って生きていきたいと思っている生き物なのだということを、家のない生活は教えてくれた。
前回の記事を読んでくれた読者の方から、一通の連絡が届いた。そこには「あなたの命を生きることが、私の喜びになる」と書かれていた。ひとりの人間が世界に立ち向かう勇気を獲得した時、それは、きっと「人類全体が世界に立ち向かう勇気を得た」瞬間になるのだと思う。クマールさんというひとりの人間が獲得した勇気を、決してクマールさんひとりだけのものとして終わらせてしまわないように、繋げていきたいと思う。私は、多分、悲しみや恐れではない「この世界に立ち向かう勇気」をリレーしていきたいのだ。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月27日
圭吾さん、こんにちわ!○○○○です
いつもブログ読ませていただいてます^ ^
圭吾さんのブログを読んだ後、あーいいなぁ〜って爽やかな風が吹くんですけど、これなんなんだろうなって考えた時ふと思った事があったのでメールを送らせてください。
今回のブログで書かれてた
与えられたこの命は、ひとつだけのこの命だけは、精一杯に生かしてやりたいと思う。そう思う時に、私は言葉を綴りたいと思う。そして、これからも言葉を綴っていきたいと思う。
この誰かのためでなく!徹底的に自分のために書かれた真っ直ぐな言葉たち
自分のために生きる姿にあーいいなぁって感じていて
誰かのために!と生きていた時の私は
あなたの為なら多少無理してもいい!自己犠牲が美しい!それが愛‼︎と思い込んでいました
それは今思えば決して楽ではなく、そんな自分を本当の意味で好きではなかったんだなと。
圭吾さんや自分のために生きる人たちの姿や言葉には、以前クレイジーハウスダラットを観た時に書かれてた
「この世の中にこうでなきゃいけないということなんて、本当は何もないのだ」
という風が私にも吹いて気持ちを楽にさせてくれる、好きなように生きていい、
それでいいのか〜っていう爽やかな風を感じるんだな…と思いました。
それで、そこから芋づるのようにつながって思ったんですけど
なんかそういう気持ちを楽にしてくれるものを見ると自分は無性に嬉しくなるんです。
そんな嬉しい気持ちの自分自身が私は好きで
自分を好きになる(満たされる?)と人に優しい気持ちになったりして
毎日生きてく中で常に前向きなんて無理で、嫌な感情も汚い思いも後悔もあるけど
その瞬間、自分を好きになって、人もまた同じように好きになれるのかなって。
誰も、私の代わりに私の命を生きることはできないけど
あなた(私)の命を生きることが私(あなた)の喜びになることはできるのかな…
なんて思いました^ ^
そんな気持ちにさせてくれた圭吾さんに大感謝です!
本当にいつもありがとうございます‼︎
私はこれからも自分を生きる喜びで爆発させていきます
長々失礼しました!
圭吾さんにとって素敵に躍り狂う日々でありますように!
ありがとうございました^ ^
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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