いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

居場所とは、場所ではなくて人間だ。

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Envelope【無料の喫茶店】初日を終えた。空間を開放するメリットは、滞りがちになる思考や空間に「風」が吹くことだ。不特定多数のひとを迎え入れることによって、熱海の自宅は見えない進化を続けている。貴重な食糧を持参してくださる方々の存在により、所持金2000円程度の私でも非常にありがたいことに餓死FREEだ。庭の草取りや小屋の修繕作業【別荘を作っている】に力を貸してもらえることも嬉しい。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。


ツイッター経由で「優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいかを分析するのは遠回り」という言葉を教えてもらった。苦しい仕事や人間関係に耐えて「これも修行だ」とマゾヒスティックに生きる日々にもそれなりの妙味はあるのかもしれないけれど、多分、私には無理だ。私がやりたいと思っていることは、ネガティブな感情の共有ではない「幸福感の伝達」だ。


2・生き延びることよりも「生きたいと思う」こと。


みっつの文章が素晴らしかった。生きるためには必要ないけれど、生きていることを実感するためには必要なものがある。その最たるものが芸術【アート】であり、私は、自分自身がアーティスティックなものに触れることができた瞬間に無上のよろこびを覚える。素晴らしい芸術作品は「特別なアーティストがいるのではなく、ひとりひとりが特別なアーティストなのだ」ということを思い出させてくれる。

自分に問いを突きつけられた時は嬉しくなる。今ある答えに満足するだけではなく、今ある答えを進化させるために問いが必要なのだと思う。自分に問いを突きつけられた時、自分を進化させるために考えたり悩んだり苦しんだりするのだろう。その時、心の奥底では「もっと生きていたい」という気持ちが爆発している。
自分に「もっと生きていたい」と思わせてくれるものは、全てにおいて「アート」であり、「問い」だ。自分はもっと問いに出会いたくて、生きている。
アートはいつだって、もっと生きたいと思わせてくれるものだ。


3・おかしいと思う自分がおかしいのだろうか。


昔から、誰もが当たり前にできることが自分にはひどく難しいと感じる場面が大量にあった。楽しいとされている場面で自分だけは楽しむことができない、正しいとされている場面で自分だけは正しいと思うことができない。そういう時に、私は「おかしいと思う自分がおかしいのだろうか」と、過去に何度も自分を責めた。生きるためには心を殺さなければならないのだろうか。生きるためには様々なことを諦めて、自分の心が美しくないと感じるものも受け入れていかなければならないのだろうか。それが大人になるということなのだろうか。それが生きるということなのだろうか。みんなと同じ気持ちになれたのならば、自分の心を殺すことができたのならば、どれだけ楽になれるのだろうかと思い悩み苦しんでいた。

4・自分を殺さないで良かった。


そしていま、「自分を殺さないで良かった」と強く思っている自分がいる。自分が自分のままでいたからこそ、いま、自分が心の底から好きだと思えるひと【自分のままで生きてきてくれたひと】と同じ時間を過ごすことができている。自分は自分のままでは通用しないのだから、自分以外の何者かにならなければいけないのだという声に耳を傾けることなく、「自分は自分でいいのだ」と自分のど真ん中を貫いて生きてきたひとびとに対して、いま、最大限の賛辞の言葉と祝福を贈りたくなる瞬間が大量にある。

5・幸福は全体感、不幸は分離感。


最近では「幸福は全体感、不幸は分離感」ということを考えている。生きるのが苦痛にまみれていた10代後半から20代にかけて、私は、自分の存在を主張することなしには生きていることの実感を得ることはできないと思っていた。何もしていない自分には何の価値もないものだと思い込んでしまっていた私は、からっぽの自分に価値を与えるかのように、付け焼き刃の正当性を声高に叫んでいた。そして、自分の正当性を主張すればするほどに、まるで世界から切り離されていくような痛みと分離感を覚えていた。

6・自分を強く主張するほど、惨めになる。


乱暴な言葉でまとめると、小物は「俺はすごい人間だ」と、自分の功績や正当性を主張する。自分の功績や正当性を主張するほどに、そのひと自身は世界から切り離される痛みと分離感を蓄積する【孤立する惨めさを生む】。故に、小物になる。大物は「人間はすごい存在だ」と、人類全体の可能性を表現する。人類全体の可能性を表現するほどに、そのひと自身はより一層の全体感を見に纏う。主体は全体に溶け出した『人間』になる【天才は、それに触れるひとの天才を導き出す】。故に、大物になる。

7・何者でもなく生きる姿勢が、自分の中心を生きる軸になる。


やりたいことをやる勇気と同じくらい、やりたくないことはやらない勇気の中に、誇り高い人間の尊さを見る。何かをやることの強さと同じくらい、何もしないでいることの強さの中に、誇り高い人間の気高さを見る。何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何者かになろうとするのではなく、何者でもなく生きる姿勢が、自分の中心を生きる軸になる。

8・ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。


私は、あらゆるひとに対して「そうしたくなった、その気持ちを大切にしてください。しなきゃ、に負けないでください」と願っている。何かをしなければいけないというある種の脅迫的な感情に従うのではなく、これをやりたい、こうしていきたいと思う前向きな感情に従って欲しいと願っている。不安や恐怖を動機に何かをするのではなく、衝動や喜びを動機に生きていて欲しいと願っている。


9・無様でも、不器用でも、愛情を表現していこう。


私達は、多分、大丈夫だ。

『イリュージョン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、リチャードバック著作『イリュージョン』です。最後に紹介されているリチャードバックの言葉が非常に素晴らしいので、長文になりますが全文を引用します。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

「人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ」

「人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の二本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、二本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ」

「人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り物にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ」

「どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ」

「これからの『神』というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている」

『イリュージョン』【集英社文庫】リチャード・バック村上龍・訳)より引用


10・居場所とは、場所ではなくて人間だ。


綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。過去の自分は、好きなひとに好きだと言えることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分け合える関係性は、何よりも素晴らしいものだ。

私の存在は、きっと、私が好きだと思うひとやものやことの存在によって強く肯定されているのだと思う。認められることや受け入れられること、愛されることばかりを求めていた頃には感じることのできなかった力強さを、私が好きだと思うひとやものやことの存在は、途絶えることなく心の種に水を注ぎ続けている。

居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。其処で、忘れていた記憶を思い出すのだろう。自分の存在は遥か昔から許されていたのだということを、既に認められていたのだということを、既に受け入れられていたのだということ【自分は既に愛されていたのだということ】を、思い出すのだろう。

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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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