いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

好きなひとに好きだと言うために生きている。

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マレーシアを経由してベトナムにはいり、ホーチミンからバスに乗ってダラットという都市に来た。高原に位置するこの都市は、日没後の気温が20度以下ににまで下がるために厚手の長袖が必要になる。1年前、モスクワを訪れたことを思い出した。まるで冬の到来を感じるようなこの気候に、夏と冬のハイブリッド的な一挙両得感を覚えられることが物凄い嬉しい。


ホーチミンの喧騒は自分には合わず、予定を早めて速攻でダラットに逃げた。逃げた先には、天国が広がっていた。多分、何かを好きになるために「自分を擦り減らす」必要はない。私は、ホーチミンを好きになるために努力をしてしまっていた。自分の体に合わない場所に、無理をしてまで長居をする必要はないのだという当たり前のことを実感する。地獄に拘泥するほど、天国を逃す。いまいる場所が合わなければ、ただ、その場所を離れればいいだけの話なのかもしれない。


そういうことを思っている。

好きなひとに好きだと言うために生きている。

今回の移動は、みっつと行動を共にしている。みっつは父親の方針で一切の義務教育を受けずに育ち、日本語も自力で覚えたために文字を読むことはできるけれど書くことはできない。みっつと出会った頃、何かやりたいことはあるかと尋ねたら「何処でもいいからいろいろなところに行ってみたい」と言った。それ以来、タイミングが合う時は一緒に行動を共にするようになった。


みっつと動画配信をした。現在の私の年齢は31歳で、生きる意味は何もわからないけれど、生きたいと思うことの理由ならば、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。安易な言葉になるけれど、しかし、これしかないんじゃないだろうかとさえ思うこともある。ひとを好きになることは、本当に素晴らしいことだ。

あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです。

私は、誰かのことを好きになる時「あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです」という感覚を覚えることがある。大袈裟な言葉になるけれど、私はあなたの代わりに生きていて、あなたは私の代わりに生きているのだという感覚を覚えることがある。別々の命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を生きているのだという感覚を覚えることがある。

先日、あるひとから「さくら」というタイトルの小説を貰った。話の内容は省略するけれど、物語の途中で『神様』という言葉が出てきた。特定の宗教を持たない私は、しかし、神様と呼ばれるものに思いを巡らせることが頻繁にある。私にとって、神様とはどこか遠くにいるものではなく、自分の中に常にいるものであると感じている。神様を信じるということは、自分の中の神様を信じるということだと感じている。それが「自信」と呼ばれるものではないだろうかと感じている。

あなたの中にもいて、私の中にもいて、それは一見すると別々なもののようでいて、同じでもあって、きっと幸せと呼ばれるものは「何か大きなものとの一体感」で、不幸と呼ばれるものは「何か大きなものとの分離感【切り離される痛み】」なんだろうなと思っている。自分の調子がいい時は、世界も開いたものとして映し出される。自分の調子が悪い時は、世界は閉じたものとして映し出される。

幸福は一体感、不幸は分離感。

先月、タイに足を運んだ時に美しい夕日を目にする機会に恵まれた。綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分かち合える関係性は、素晴らしいものだ。


私は、人間関係における幸福は「同じ気持ちを分かち合えた瞬間」に生まれるものだと思っている。自分が笑う時、世界も一緒に笑顔になる。しかし、自分が泣く時は世界にひとりぼっちで泣く。世界は一緒に泣いてはくれない。ただ、稀に世界も一緒に泣いている時がある。世界も一緒に泣いている時、それは幸福な瞬間になるのだと思う。同じ喜びだけではない、同じ涙を流している時、それは、美しくて貴い「幸福な瞬間」なのだと思う。

『さくら』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征中であるためにご紹介のみになるのですが西加奈子著作のロングセラー『さくら』です。巻末のあとがきで、西さんは「結果的に『さくら』は売れ、私の生活を変えてしまう一冊になりましたが、それより、『何かを書くことは?』ということを忘れることが出来るのは、何かを書いている間だけである、ということを教えてくれた一冊でもありました。私は、ずっと書き続けよう、と思います。こんな苦しくて、幸せなことはありません」と言う。きっと、生きるとは何かということを忘れることが出来るのも、生きている間になるのだろう。

でもなぁ、わしのこの目えはな、わしのもんやけど、ああ、わしのもんや無い思たんや。神様に返すんやてなぁ。わしはもう、山も星も見ることは出来へんけど、山の裾野がな、こう、どんな風に曲がってるかを覚えてるし、星のな、その形は見えんでも、光を感じることが出来る。わしは目え見えへんけどなぁ、ぜえんぶわしのもんに出来るし、ぜえんぶ返すことも出来るんや。ー 西加奈子『さくら(P79・公園のおじいさん)』【小学館文庫】


ひとつの大きな命を生きている。

素晴らしい出逢いの中には、いままでの人生をまるごと肯定する素晴らしい力がある。それは、相手に対して「いままで良く生きてきてくれた、あなたが生きていてくれたから、いま、こうして出逢うことができたのだ」と感じる、大きな大きな喜びをもたらす。そして、この言葉は、相手だけでなく実は自分自身にも言っているのだということを知る。相手が生きていてくれたように、自分もこうして生きてきたからこそ、二人は出逢えたのだということを知る。これまでの自分の日々を肯定する、大きな力の存在を知る。


私は、私の好きなひとを通じて「自分の人生を肯定する」ことができているのだと思う。そして、自分はひとりではない【ひとりでは生きられない】ということを知るのだと思う。その感覚は、知るというよりも「思い出す」に近いのだと思う。私は、私の好きなひとを通じて「何か大きなものとの一体感」を思い出しているのだと思う。この感覚を、私は「ひとつの大きな命を生きている」と感じているのだと思う。


私は「好きなひとに好きだと言うために生きている」のだと思う。もう、ただ、それだけなのだと思う。たったそれだけのことの中に、言葉にはならない、幾つもの美しくて貴い光の粒子が凝縮されている。誰かを好きになるということは、自分を好きになるということだ。誰かに好きだと伝えることは、自分に好きだと伝えることだ。別々の命を生きているのではない、この瞬間も、私達は「ひとつの大きな命を生きている」のだと思う。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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