踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。
ベトナムのダナン空港からホーチミンを経由して、バンコクのドンムアン空港に到着した。バンコクに向かう飛行機からの眺めが素晴らしく、しばらくの間見惚れていた。雲の行列が踊りながらパレードをしているような、賑やかな空の風景に心は奪われた。口からは「うわあ」という嘆声が自然に溢れ、窓側に身を乗り出し、目の前に広がる深遠な風景に見惚れていた。
飛行機からの景色に見惚れていた。宇宙規模で考えれば、地球それ自体が小さな宇宙船みたいなもので、この瞬間も私達は(地面を這っているように見えて)宇宙の真っ只中を漂っている。喜びは、置き去りにされた「日常」の中に隠されているみたいだ。 pic.twitter.com/rGNG2HW4Ik
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月20日
風の吹かない狭い屋内に閉ざされていると、自分の視野も狭く限られたものになる。空一面を踊る雲達を眺めながら、ああ、自分は自分を楽しませてやりたいのだということを感じた。もっと自分を楽しませてやりたい。もっと自分を驚かせてやりたい。自分という存在に新しい価値を覚えるほどの『神秘的な景色の広がり』や、いつも目にしているものの中にずっと昔からある『発見されることを待っている奇跡の存在』や、涙が出るほどのよろこびに触れる『何か』を、自分に見せてやりたいのだということを感じていた。
旅【生きること】と同行【従うこと】
みっつという男性と行動を共にするのも今日が最後で、明日からはまたひとりになる。いわゆる『旅』と言われるものは、ひとりで出発するのか複数人で出発するのかによって、その後の様相が大きく変わる。複数人での移動は、食事をシェアできたり宿代が安く済むなどのメリットがあるが、新しい何かとの出会いの機会は圧倒的に減る。そして、何よりも「泣きそうになるほど【頼れるひとが周囲にいない】不安で孤独な場面を、どうにかして切り抜けることができた」記憶を残すことが難しくなる。
私は、いま、反省をしている。頼まれてもいないのに、私は「みっつの親代わり的な役割」を勝手に勤めようとしてしまった。結果的に、みっつはあらゆる局面で私の顔色を伺うようになり、乱暴な言葉で言えば「自分の足で歩き出す機会」を逸した。旅【生きること】と同行【従うこと】は違う。自分では何も決めることはない、誰かに用意された道を歩いているだけでは、生きているのではなく「同行している【従っている】」だけに過ぎない。
そのような考え方にいたり、最終日の今日、私たちははじめて単独行動をすることになった。今夜発の深夜便で日本に戻るために、23時に空港で待ち合わせる。それまでは各自自由、金が必要ならば自力で両替をして、ネットを使いたければ自力でWi-Fiを見つけ出し、空港までの行き方も自力で調べる。どちらかが間に合わなければ、健闘を祈って帰る。言葉にすればひどく当たり前のことに聞こえるけれど、この数日間、みっつは「当たり前のすべて」を剥奪されていた。
馴れ合って足を引っ張り合うよりは、強くなった彼を見送る方がずっといい。
自身の身勝手さを痛感する。私は、多分、徹底的に自己満足を追求したいのだ。「誰かのため」なんて言葉は使いたくない。そのような言葉を使う【使ってしまっている】自分を見た時は、その見栄を、その傲慢さを、その認識の甘さを張り倒してやりたくなる。自分で自分を満足させることのできない【自分で自分を救うことのできない】人間が、他人を使って自分を満足させようとしている【他人を使って自分を救おうとしている】だけに過ぎないのだと、自分で自分を蹴飛ばしたくなる。
日本橋ヨヲコという漫画家の作品に、高校時代、熱病のように犯されていた時期がある。プラスチック解体高校という作品の中に「馴れ合って足を引っ張り合うよりも、強くなった彼を見送る方がずっといい」というような台詞があった。ここ数日間、私は、この言葉を思い出していた。ぬるま湯のような馴れ合いの中にはない「お互いに刺激を与え合うことができる、時には『傷つけ合って覚醒し合う』ような関係性」を、私は求めているのだと思う。
自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。俺はお前にはなれないし、お前は俺にはなることはできない。俺が俺であるほどに、お前はお前でいることができる。お前がお前であるほどに、俺は俺でいることができる。俺が俺であるように、お前はお前になれ。俺は俺で、俺であることを楽しむから、お前はお前で、お前であることを楽しんでくれ。私は、ただ、人間がメタモルフォーゼをする瞬間に触れたかったのだ。
『夜市』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、大阪府羽曳野市古市でカフェを営む店主さんから譲り受けた、恒川光太郎著作『夜市』です。こちらの作品は、ホラー小説という限定的なカテゴライズを超えて「二度と取り戻すことのできない悲しみと美にあふれている」素晴らしい作品でした。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。
ひととひとが共に生きるということは、どういうことなのだろうか。こんなことを言ったら相手にどう思われるだろうか、傷つけてしまうかもしれないし、そのことによって自分が傷ついてしまうかもしれない。面倒なことになるくらいなら、自分が我慢をしてその場をやり過ごせばいい。このような考え方でいれば、きっと、表面的には平穏無事で何事もない日々を送ることができるのだろう。
それぞれが自分の命を開きながら、カオスティックな中にある種の秩序が成立している状態を「調和」と呼ぶのならば、ひとりひとりが本心を押し殺して無難に収めようとしている状態を「予定調和」と呼ぶのだろう。「そういうものだよね」という予定調和の中には、ひとりの人間が大きく傷つくことのない代わりに、各々の本心が徐々に削り取られていく「ゆるやかな諦め【静かな殺人】」の雰囲気が漂っている。
空一面を踊る雲達を眺めながら、ああ、自分は自分を楽しませたいのだということを感じた。もっと自分を楽しませてやりたい。もっと自分を驚かせてやりたい。雲が空を踊るように、命は、この瞬間も踊りたがっている。成功するかはわからない、うまくいかないことの方が多いかもしれない、それでもなお、命の鼓動に殉じること。確かなことは、いつか『踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る』ということだ。
明日死ぬかもしれないんだ。これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている場合じゃない。自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということだ。湧き上がる気持ちを、勇気を、命を、出し惜しみしている場合じゃないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月19日
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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