自分を責める必要はない。
先程収録をした音声配信を公開しました。今回のハイライトは「鬱病と乙病は紙一重」「働かざる者食うべからズ(坂爪&三森)」「世の中カレーは世知辛いぜ」の三本です。通勤途中の車内や眠る前など、暇な時に聞いていただけたら嬉しいです。https://t.co/GMOD2ZmSqp
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月14日
「働かざる者食うべからず」という嘘。
自立と依存は紙一重。
自分を支えるものは「他者」である。
クレイジーハウスダラット
ロシアで建築を学んだベトナム人女性が現在も建設を続けている、ダラットのクレイジーハウスに来ました。バリアフリーの概念を無視した『バリアフリーフリー』の構造が面白く、作者曰く「とにかく奇抜な建物を建ててみたい」とのこと。宿泊も可能!! pic.twitter.com/sC0I9qZYFN
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月14日
ダラットの空
そしてこの空である。 pic.twitter.com/VmTTRzCqJE
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月14日
自分を責める必要はない。
心配をすることは「あなたには力がない」ということを伝える否定的な力があり、信頼をすることは「あなたには力がある」ということを伝える肯定的な力がある。心配よりも信頼をしよう。自分を信頼することは相手を信頼することに、人間を信頼することは人生を信頼することになるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月11日
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
何もしていない自分には価値がないと感じる時、生きているだけではいいと思えなくなる。生きているだけではダメになり、生きていることそのものが負い目になる。しかし、私達が自然を美しいと思うとき、それは「自然のままでそこにある」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月15日
好きなひとに好きだと言うために生きている。
嫌いなひととの付き合い方とか、嫌いな仕事との付き合い方とか、嫌なことを無理をしてでも好きになるための努力論が溢れているけど、本当は『好きなひとと過ごすこと』と『好きな仕事を追求すること』の方が圧倒的に重要で、好きなことをやるのに自分を擦り減らす努力なんて要らないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年2月1日
好きなひとに好きだと言うために生きている。
先程、みっつ@mitzparty と配信をした動画を公開しました。素晴らしい出逢いの中には、いままでの人生をまるごと肯定する素晴らしい力がある。大袈裟な言葉だけれど、自分は「好きなひとに好きだと言うために生きている」のだと思いました。https://t.co/O4KsW7w27M
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月12日
あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです。
幸福は一体感、不幸は分離感。
綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分かち合える関係性は、素晴らしいものだ。 pic.twitter.com/wVgxIErkxy
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月4日
『さくら』
でもなぁ、わしのこの目えはな、わしのもんやけど、ああ、わしのもんや無い思たんや。神様に返すんやてなぁ。わしはもう、山も星も見ることは出来へんけど、山の裾野がな、こう、どんな風に曲がってるかを覚えてるし、星のな、その形は見えんでも、光を感じることが出来る。わしは目え見えへんけどなぁ、ぜえんぶわしのもんに出来るし、ぜえんぶ返すことも出来るんや。ー 西加奈子『さくら(P79・公園のおじいさん)』【小学館文庫】
ひとつの大きな命を生きている。
確信!生きるということは「好きなひとに好きだということ」だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月12日
色々なことがあるけれど「いま、生きている」というこの事実に、大きな信頼を寄せてもいいのだと思う。どのような生き方であっても揺るがない、いま、生きているということは「大丈夫である」ということの最高の証明だ。生きているということは、あなたも、私も、大丈夫であるということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月13日
心配をすることは「あなたには力がない」ということを伝える否定的な力があり、信頼をすることは「あなたには力がある」ということを伝える肯定的な力がある。心配よりも信頼をしよう。自分を信頼することは相手を信頼することに、人間を信頼することは人生を信頼することになるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月11日
生きる力を爆発させること。
1・アドバイスの裏側にある嘘。
2・人間関係の不幸の原因の9割は「過干渉(余計な御世話)」
人間関係の不幸の原因の9割は「過干渉(余計なお世話)」だと思う。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。他人の生き方にああだこうだと口を出すより、自分の日々に集中すること。周囲に期待することをやめた瞬間から、みんなが幸せになるような気がする。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月7日
3・怒りの裏側には甘えがある。
誰かのせいで不幸になったと考える人間は、同じように、誰かの力を剥奪することで自分を幸福にしようとする。自分を苦しめているのは自分の考え方だということを考えたことがない人間は、現実が思うようにならないという幼児的な怒りを抱えていて、常に、自分が甘えられる対象を探している。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月7日
4・大阪の居酒屋にて。
自分を好きになれない代わりに、誰かを好きになろうとするひとがいる。自分のことを考えられない代わりに、職場の同僚、恋人、家族や友達のことを常に気にするひとがいる。でも、まずは、自分なのだと思う。自分の足で立たなければ、多分、真の人間関係をはじめることはできないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月23日
5・愛情か、打算か。
結婚の動機も、就職の動機も、人間関係を続ける動機も、ほとんどの動機は愛情か打算のどちらかになるのだろう。打算が悪いとは言わないけれど、自分は打算的な行動をする度に「自分が死ぬ」感覚を覚える。愛情か、打算か、これらの違いは「結果に対するコントロールがあるか否か」だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
6・自信よりも「自分」
深刻にならないこと。人間の想像力には翼があって、いつでも、何処にでも自分の好きな場所に行くことができる。目の前にあることは軽くもなければ重くもない、ただ、そうであるだけに過ぎないのだと思う。大切なことは、綿毛のような「軽やかさ」だ。 pic.twitter.com/OzY4ZJ05fN
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月30日
7・対等に話がしたいだけだ。
そのひとがそのひとで在り続けるということが、こんなにも見るひとを元気付けるものなのか。他人の評価に合わせて何者かになろうとするのではなく、自分は自分でいいのだと腹を据えて生きているひととの時間は潔く、清々しい。言葉はいらないから、ただ、永遠にそのままでいて欲しいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月9日
8・瞬間を肯定する。
不安をベースにして生きるのか、喜びをベースとして生きるのか、そのすべてを喜びに変えることは難しいとしても、でも、不安や恐怖や疑う感情に負けないで欲しいと思う。この瞬間は自分のものだということを、自分の心の中に芽生えた「やりたい」と思ったその声を、殺さないで欲しいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月9日
9・全身全霊のカメハメ波。
無敵とは「敵がいない」ことだ。相対的な比較や競争に加わると、自分以外が敵になる。完璧主義を貫くと、不完全な自分自身が敵になる。比較をすることで優劣が生まれ、競争をすることで勝敗が生まれる。比べなければ、争わなければ、人間は無敵だ。 pic.twitter.com/GhAvkQby2B
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月2日
『現代暴力論』
いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ。(中略)生きのびるということは、死んだように生きるのとおなじことだ。他人によって生かされるのではなく、自分の生を生きていきたい。どうしたらいいか。暴力だ、暴力しかない。ー 栗原康『現代暴力論(表紙裏の帯より引用)』【角川新書】
10・生きる力を爆発させること。
いま、この瞬間に、喜びをもってやれることを実際にやってしまうこと。自分の胸を高鳴らせるものに出逢った時は、時期を選ばず、場所を選ばず、結果に対する執着を振り払って、そのままの姿で突き進むこと。閉塞感や停滞感を突破するものは「俺はやった」時に感じる清々しさ、潔さだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月25日
わがままこそ最高の美徳。
無料の喫茶店をやりたい。
図書館みたいな、宿泊施設も兼ねる喫茶店のようなものをやりたくなった。基本的な使用料金とかは完全に無料で、珈琲もタダで、料理もタダで、欲しい本があればあげるし、なんなら泊まってくれたひとに百円あげちゃうくらいの場所をつくりたい。有志を集めたら、実現できるものなのだろうか。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015年10月7日
自宅を開放するリスクと魔法。
奇跡は余白に舞い込む。
『わがままこそ最高の美徳』
人生の下劣さに対抗する最良の武器は、勇気と、わがままと、忍耐です。勇気は私たちを強くし、わがままは愉しさを生み出し、忍耐は平安をもたらしてくれます。ー ヘルマン・ヘッセ『わがままこそ最高の美徳』【草思社】
「正しさ」より「楽しさ」
結婚の動機も、就職の動機も、人間関係を続ける動機も、ほとんどの動機は愛情か打算のどちらかになるのだろう。打算が悪いとは言わないけれど、自分は打算的な行動をする度に「自分が死ぬ」感覚を覚える。愛情か、打算か、これらの違いは「結果に対するコントロールがあるか否か」だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
自分で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだと思う。人生を信頼して身を委ねていけば、きっと、日々は幾つもの輝きに溢れた瞬間を見せてくれる。 pic.twitter.com/cuxsfLnnHp
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
正しさを探し求めると重くなる。楽しさを探し求めると軽くなる。多分、人の心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。どれだけ正しいことを言えるひとでも、一緒にいる時間が楽しくなければ、こころは簡単に疲れてしまう。大切なものは、完璧さよりも「人柄【可愛げがあること】」だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月6日
こんにちは。そろそろ熱海のご自宅へ戻られた頃でしょうか?先日、といってもしばらく経ってしまいましたが、わたり文庫で銀色夏生さんの「夏の森」を送って頂いた○○です。わたり文庫、ほんとうにありがとうございました。お花や、葉っぱの手紙や、いろいろ一緒にはいっていて受け取って嬉しくてたまらなくなりました。夏の森、読んでいます。銀色夏生さんの本はたくさんは読んでいないのですが、「とにかく あてもなくても このドアをあけようよ」という詩集が大好きで、でも「夏の森」もやっぱりすごくいいなと思いました。詩集というのは他のものでもそうかもしれませんが、読む時によって書いてある言葉の受け取り方や、心に響く言葉が変わってくるのがすごくおもしろいというか、不思議だなあと思います。雨ふりの午後にゆっくりと読みたくなる本だなと思いました。またこの本もわたらせていけたらなと思います。そして、ブログをいつも読ませて頂いて、元気というか「あ、これでいいんだ」「私でいいんだ」感をいつもたくさんもらっています。どうしたらいいのかつまった時、すごく孤独を感じている時、おもしろみを感じられない時。そんなときにブログを読むと、ふと私の中の根本の自分にかえっていくような気がするのです。そこにはどっしりと構えてる自分がいて、その自分を発見すると、ああ、別にこれでいいんだと安心する。全然うまく言えませんが。そして、少し新しい考え方や感じ方も出てきて、現状は何も変わってなくても、なんか前に進んでいる気もする。本当に、いつも、ありがとうございます。これからも体にはご慈愛していただきながら、坂爪さんのますますの「生」を、ブログ等を通じて感じさせてください。いよいよ夏がやってきますね!!
命よ、踊れ。
帰る場所があるということ。
ああ、自分はつらかったんだな。
忘れたものを探すため。
『悲しみの秘儀』
かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」だけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っている。人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。 ー 若松英輔「悲しみの秘儀(表紙帯の文章より)」【ナナロク社】
命は踊りたがっている。
答えは自分の内側にあるのなら、なぜ、他人を必要とするのだろうか。なぜ、喪うことが悲しみになるのだろうか。誰かに会いたいと願う時、多分、誰かを通じて引き出される自分自身に会いたいのだ。好きな人に会うことは好きな自分に会うことで、好きな人を喪うことは好きな自分を喪うことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月30日
無敵とは「敵がいない」ことだ。相対的な比較や競争に加わると、自分以外が敵になる。完璧主義を貫くと、不完全な自分自身が敵になる。比較をすることで優劣が生まれ、競争をすることで勝敗が生まれる。比べなければ、争わなければ、人間は無敵だ。 pic.twitter.com/GhAvkQby2B
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月2日
深刻にならないこと。人間の想像力には翼があって、いつでも、何処にでも自分の好きな場所に行くことができる。目の前にあることは軽くもなければ重くもない、ただ、そうであるだけに過ぎないのだと思う。大切なことは、綿毛のような「軽やかさ」だ。 pic.twitter.com/OzY4ZJ05fN
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月30日
命よ、踊れ。
生き方の是非を問うことよりも。
答えよりも「応え」
大切なことは、答えではなく「応え」だと思う。日々に答えを求めるのではなく、日々の問いに真摯に応えようとすることの中に、その姿に、そのひと自身の光は宿るのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月28日
坂爪圭吾さんのお話会より・・・ - 日々の変化に成長あり!!! https://t.co/hrqt1vaWRo
いまを生きることしかできない弱さ。
結婚の動機も、就職の動機も、人間関係を続ける動機も、ほとんどの動機は愛情か打算のどちらかになるのだろう。打算が悪いとは言わないけれど、自分は打算的な行動をする度に「自分が死ぬ」感覚を覚える。愛情か、打算か、これらの違いは「結果に対するコントロールがあるか否か」だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
過去も未来も背負えない、夢も目標も背負えない、家族も恋人も気の合う仲間も背負えない、そんな自分がこれだけは背負うことのできるものが「この瞬間だけ」なのだと思う。いまを生きることができるのは強さではなく、いまを生きることしかできない弱さに、私は支えられているのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月28日
『良寛の生きかた』
形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋は紅葉ば(『良寛全歌集』一〇五九)
訳)わたしが亡くなった後の思い出の品として、残せるものは何もない。しかし、春は梅や桜の花が咲き、夏はホトトギスの鳴き声がある。秋はもみじの葉がひらひらと散る。わたしの死後も自然はなお美しい。これがただ、わたしがこの世に残す形見になってくれるだろう。
生き方の是非を問うことよりも。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。弱い自分は、苦手だなと感じるひとと同じ空間にいるだけで、露骨に胃腸が痛くなる。自分で自分を護ることが難しくなる。ひとりの時間を好むことは、孤独に耐える強さではなく、そうでもしなければ生きていけない自分の弱さだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月8日
やりたいことを見つけないといけないとか、あの人を忘れないといけないとか、自分を受け入れなければいけないとか、みんなと仲良くしなければいけないとか、常に元気でいなければいけないとか、充実した時間を過ごさないといけないとか、しなきゃいけないことなんて本当は何ひとつないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月10日
自分で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだと思う。人生を信頼して身を委ねていけば、きっと、日々は幾つもの輝きに溢れた瞬間を見せてくれる。 pic.twitter.com/cuxsfLnnHp
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月27日
初めまして。
Facebookでフォローさせていただいてます。
○○と申します。
いつもブログを拝見していて、感じたことをお伝えしたくなるのですが、ふと、思い立ってメールさせていただいてます。
坂爪さんのブログを読むと、いつも、「生きてる」って思います。
坂爪さんも、私も。
坂爪さんの言葉は、坂爪さんのものだけれど、私のものの時もあります。
そういう時、私は
「こういう風に感じ、考えるのは私だけじゃなかった」
と嬉しく思うし
「その感じ、考えをこう表現できるのはすごい」
とも思います。
そして、そう感じながら坂爪さんのブログを読んでいる人は、きっと他にもいて、それを思うと、なんだかにやりと不思議な気持ちになったりもします。
今日の東京は少し冷たい雨が降っています。
坂爪さんがいらっしゃるところは、どんなお天気なのでしょうか。
これからもブログ、楽しみにしています。
坂爪さんの生き様、楽しみにしています。
私も、今日も明日も生きていきます。
○○○○○
讃められるために生きている訳じゃない。
1・「自分みたいになれ」とは思わない。
自分らしくという言葉が、昔から苦手だった。社会的に歓迎される部分だけが許容される、明るさの牢獄に閉じ込められるような感覚を覚えていた。多分、自分らしさを大切にするほど、自分自身からは遠く離れていく。自分らしさを大切にするほど、自分らしさを大切にするたくさんのひとたちと同じになる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月19日
2・私は「触媒」でありたい。
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
3・自分の宝を互いに掘り合う。
真実の響きはきっと、そのひとが言葉にしたことではなく、そのひとが言葉にすることのできなかった部分に宿るものだと思う。言っている(書いている)ことだけではなく「そのひとが言い切れなかった(書き切れなかった)部分」にまで寄り添おうとすることを、思いやりと呼ぶのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
4・自分の中にある「尊い部分」の声を聞くこと。
ひとつの事がうまくいかなかったからといって、すべてがダメになる訳じゃない。ひとりに嫌われたからといって、すべてのひとに嫌われた訳じゃない。ひとと同じであることが、自分を磨り減らすことだけが人生じゃない。レールを外れても、大地は残る。 pic.twitter.com/cNAF0yymM7
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月15日
5・鏡は、濁りの少ない方がいい。
生きる気力を失った時、
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月16日
・ものをつくる
・身体を動かす
・自然に触れる
これに、強く支えられました。
本気で死にたいと思ってから、始めて生きられるようになるのかもしれない - 人生リセット読本〜Life Reset Text〜 https://t.co/R5NDLZuBv2
6・私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。
無理をするということは、まるで自分を雑巾のように扱うことで、最後の一滴が出なくなるまで、絞り出して、絞り出して、最後には絞りカスになってしまうまで自分を苦しく締め付けてしまう。きっと、純粋な幸福感や動機は『絞り出すものではなく、溢れ出すもの』なんじゃないのかな、と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月9日
7・自分以上も、以下もない。
素晴らしいことを言っているはずなのに、何も胸に響いてこない言葉がある。多分、言葉はその人の生き様と密接に繋がっていて、言葉に生き方が追いついていない時、聞くひとの心には何も届かない。自分を大きく見せるでもなく、自分を小さく見せるでもなく、ただ、等身大の言葉で話すことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月7日
8・「無」に賭ける。
自分を好きになれない代わりに、誰かを好きになろうとするひとがいる。自分のことを考えられない代わりに、職場の同僚、恋人、家族や友達のことを常に気にするひとがいる。でも、まずは、自分なのだと思う。自分の足で立たなければ、多分、真の人間関係をはじめることはできないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月23日
9・自分みたいになるな。
皆が、意味に進む中で無意味に進み、価値に進む中で無価値に進み、利益に進む中で無利益に進み、所有に進む中で無所有に進み、自己に進む中で無自己に進み、強さに進む中で弱さに進み、賢者に群がる中で愚者を貫き、有益に生きる中で無駄に死ぬ。無駄に賭ける。無駄に生きて、無駄に消える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月25日
『村に火をつけ、白痴になれ』
私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめてくれます。私がどんなに苦しんでいるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持ちです。ですけど不思議にも私はますますおとなしくならざるを得ません。やさしくならずにはいられません。
私には1日だって、今日こそ自分の日だと思って、幸福を感じた日は一日もありません。私は私のかぶっている殻をいやだいやだと思いながらそれにかじりついて、それにいじめられながら死ぬのです。私にはいつまでもその殻がつきまといます。それに身動きがとれないのです。
あなたは何にも拘束されない強者として活きてください。それだけがお願いです。屈従ということは、本当に自覚ある者のやることじゃありません。私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願いします。忘れないでください。他人に讃められるということは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生きがいのあることでないということを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自身に対してだけは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。私のいうことはそれだけです。私は、もう何にも考えません。 ー 村に火をつけ、白痴になれ【岩波書店】
10・讃められるために生きている訳じゃない。
いま、この瞬間に、喜びをもってやれることを実際にやってしまうこと。自分の胸を高鳴らせるものに出逢った時は、時期を選ばず、場所を選ばず、結果に対する執着を振り払って、そのままの姿で突き進むこと。閉塞感や停滞感を突破するものは「俺はやった」時に感じる清々しさ、潔さだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月25日
瞬間をぶちまけて輝くこと。
変なことを考えていたら、酔った。
「BUT, I LOVE YOU」の魔法。
美しい街「パーイ」
タイの北東部にある、パーイという小さな街に来ました。あたりは山と森に囲まれていて、夜にはホタルが飛び交う、素晴らしい場所です。何もない、何もしないということが、最高の贅沢になるということを、思う。雲が流れるように、時間が流れていく。 pic.twitter.com/A7UbmAireP
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月22日
ひとは、幸せなときに誰かを批判したいとは思わない。
瞬間をぶちまけて輝くこと。
いつまでも朝のままでいることはできないけれど、朝が来るということに変わりはない。変わらないものの中で、変わり続けるものたちがいまも、終わりのない巡環を続けている。過去でも未来でもない、夢でも目標でもない、瞬間をぶちまけて輝いている。 pic.twitter.com/ZpOGJJU7u9
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月22日
自分を好きになれない代わりに、誰かを好きになろうとするひとがいる。自分のことを考えられない代わりに、職場の同僚、恋人、家族や友達のことを常に気にするひとがいる。でも、まずは、自分なのだと思う。自分の足で立たなければ、多分、真の人間関係をはじめることはできないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月23日
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月3日
観光とは「光を観る」こと。
バンガロール在住の日本人女性。
有為に対する「無為」に賭ける。
アルゼンチン「空を見る話」
最高の観光名所は「人間」だ。
最高の観光名所は「人間」だ。 pic.twitter.com/HxAsj7vnak
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月19日
観光とは「光を観る」こと。
ある一定の話題について、信頼できるひとに話をするというよりも「ひとを信頼して」話をすればいいのかもしれない。難しい場合もあるけれど、先に、自分から信頼を寄せること。すぐに気持ちは伝わらなくても、心のこもった言葉は聞く人の土壌に種を蒔き、長い時間を経た後に咲く花もある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
真実の響きはきっと、そのひとが言葉にしたことではなく、そのひとが言葉にすることのできなかった部分に宿るものだと思う。言っている(書いている)ことだけではなく「そのひとが言い切れなかった(書き切れなかった)部分」にまで寄り添おうとすることを、思いやりと呼ぶのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月17日
コミュニケーションは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」の方が、多分、何億倍も大切だと思う。心のない言葉はどれだけ正論でも空疎に響くし、無様でも、心のある言葉には真実の響きが宿る。言葉はただの容れ物で、感情と合致した瞬間に『言葉は音楽になる』のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月21日
圭吾さんバンガロールというのはどこだろうと、探してみるとインドの南のほうなんですね。日本からインドへ一瞬でメールが届くのは改めて考えると不思議な感じです。日本の実家に戻って3年間やってきたことに違和感を感じ、自分がそれを演じてるような気がしてきて、引っ越しを機に全てを捨てようとしたところ、引っ越しできなくなり、これは神様がちゃんと向き合えと言ってるのね、と観念し、正直に辞めたいということと辞めたい理由を言いました。みんな引いてるだろうなと思いつつ帰ったところ、あるメンバーから「カミングアウトに立ち会えたことが、うれしい」とメッセージがあり、ああ、ちゃんと言ってよかったなあと思いました。圭吾さんが言っていた「ひとを信頼して話すこと」、これがちょっと腑に落ちた気がします。どうせ分かってもらえないだろうと適当に話したりごまかしたりしないで、きちんと気持ちを話せば、分かってくれる人はいるんだなあと。もういい歳なのですが、今までずっとずっと「どうせ分かってくれないどうせ私になんて興味が無い」と思って生きてきた気がします。だから目の前の人に、言葉をにごして答えたり、適当にごまかしたり。でも最近ちょっとそれをやめてみようと思って、銀行の外貨両替の窓口などでも、今までなら「ちょっと旅行に」くらいでにごしていたのを「今度モンゴルに行くんで、ドルの小銭がいるって書いてあって」と正直に話すと、窓口の人と話が盛り上がったり。そんなことが、うれしかったり。昔、修学旅行の班や文化祭などで、自分の班だけはつまらないと思ってきました。でも、つまらなくしていたのは私だったんですね。自分を開けば相手も開く、自分が楽しんでいたら、きっとみんなも楽しんだはず。そんなあれやこれやを、遅まきながら圭吾さんに教わって実験して実感して、そんな感じの昨今です。圭吾さんの言葉に出会えてよかったと本当に思います。さっきまで出ていた月は隠れてしまいました。
ストックはないけれど、フローはある。
シェムリアップの奇跡。
自分をオープンにするということ。
ストックはないけれど、フローはある。
心配を投影するか、信頼を投影するか。
カンボジアのこどもたち。
カンボジアのこどもたち。 pic.twitter.com/ZqPDDl2qN2
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月14日
レールはないけれど、大地はある。
朝焼けのアンコールワット pic.twitter.com/lj4EpNgK4L
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月15日
ひとつの事がうまくいかなかったからといって、すべてがダメになる訳じゃない。ひとりに嫌われたからといって、すべてのひとに嫌われた訳じゃない。ひとと同じであることが、自分を磨り減らすことだけが人生じゃない。レールを外れても、大地は残る。 pic.twitter.com/cNAF0yymM7
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月15日
相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心を同時に傷つけている。目の前にいる人間を愛するようにつとめることは、同時に自分を愛することにも繋がる。自分の心を開けば世界も開くし、自分が閉じると世界も閉じる。この世の中は、多分、自分が投げたものが返ってくるように作られている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月11日
夜分に恐れ入ります。坂爪さんのTwitterをいつからだったでしょうか、毎日拝見しております。今、一番にお伝えしたいことは、とにかく「有難う、生きていてくれて、存在してくれて有難う」という言葉です。坂爪さんは誰かに感謝されようと発信してらっしゃるわけではないと思いますが、数々の言葉に、写真に、救われたり、背中をおされたり、寄り添ってもらったりして、感謝の気持ちを抱いている方は多くいらっしゃるように感じます。ここ暫くの間、理不尽なことや言い様のない哀しみを感じたりした時に、夜空を見上げながら坂爪さんの言葉や存在を思い、それだけで心を支えて頂きました。と同時に、事情は違ってもいま私と同じように、坂爪さんの存在に涙している人もいるだろうと思いました。こんなことを言うのはおこがましいですが、ブログを拝見しておりますと“私と感覚や考え方が同じだなぁ”と思うことがあります。そして、ブログの内容が今の自分に丁度タイムリーなものであることもしばしばで、確か以前にも他にも同じように仰る方が居られることをブログで拝見したような気がします。坂爪さんを中心に繋がっているような、不思議な糸を感じます。坂爪さんのブログで、特に私にとって大切なものは、瞬間日記というアプリに保存しております!!今まで感謝の気持ちをお伝えしようと思いながら、なかなかメッセージを送れずにおりましたが、勢いで書いてしまい、纏まりのない文章で申し訳ございません。でも、何が起こるかわからない人生。あと数時間後に100%生きているとも言えません。だからこそ、こうしてお伝えできて良かったです。動物や植物、あらゆる自然に包まれながら、心身ともに健康で過ごすことができるように祈っております。深夜のガストにて…○○○
ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
シェムリアップ散歩
知識を増やしてはいけない。
川を眺めていたら「知識【経験】を増やしてはいけない」と言われた気がした。多ければ多いほどに良いと思っていた知識【経験】だけれど、それに依ることで、ある種の自在さを失ってしまうこともある。自然は、何もないまま、平気で、満ち足りている。 pic.twitter.com/yDifKt0gXO
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月12日
ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。
俺が、俺が、となるほどに、世界から自分が引き剥がされていくような感覚を覚える。美しい景観を目の当たりにした時、目的もなく歩き続ける時、ひとつの何かに集中する時、自分が溶けてなくなって、世界と一体化するような感覚を覚える。自分を強く主張するほど、多分、人間は寂しくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
認めてほしい気持ちは悪くない!ただ、見てほしい相手を間違えてた。「人」に認めてほしいと思ってやっちゃだめなんだなー。にごりの元。でも天に向かってならいいんだ。こんなに楽しく生きてるよー!と。そして、出して出して楽しんでいると、天はちゃんと見ていて、人を通してサインをくれる。
— masami (@mamithai2014) 2016年6月7日
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
坂爪さんこんにちは!今頃はカンボジアの風に吹かれている頃でしょうか?先週は本当にありがとうございました。坂爪さんたちと別れた夜には、また別のお客様が日本から来て、バタバタと過ごした1週間でした。バタバタだけが要因でなく、自分に起こっていることをなかなか言葉にできずにおりました。しかし、その合間にも、いろんな方が感想を伝えてくださったり、ブログにかいてくださったり、あの日出会った方とお茶をする約束をしたりと、後からもたくさんのギフトをいただけた1週間でした。「わたりカフェ」、企画しだした当初は、実はちょっと「やらねば」という気持ちがありました。しかし、「うまくやろうと思わず、楽しんでやろう!」と思えたところから、ようやくワクワクが始まった気がします。「楽しく」は、私の課題なんです(笑)皆さんと会うまでは、いろいろ話をしたいと思っていたのですが、始まって、いらっしゃった方たちの様子をみてたら、なんか良い意味で「どーでもよく」なっていました。(笑)坂爪さんとちょっと離れたキッチンからの眺めを一緒に見て、幸せな気持ちを共有させてもらえた、あの瞬間だけで私の気持ちは「満腹」だったんじゃないかと思います。満腹だと、あとは全部溢れていきますね(笑)結果的に、皆さんがいろんな気づきを持って帰って下さったり、良い気持ちになってくださったり。それを後日伝えていただいたことで、時間の経過につれ減ってくるお腹を、また満たしてもらえました。^ ^なんという循環!!!これが「わたりカフェかー!!!」と、身をもって体験しました。お話会では、「稼ぐの苦手なんで」と、テヘヘと笑う皆さんの様子を見て衝撃を受けました。私もそうなんですが、こういうのすごく抵抗があったんです。でも!いいのかー!!!苦手なんでって、いっちゃえばいいのかー!!!すごく気が楽になりました。今、1週間経っても、思い出すと、すごく幸せな空気に包まれているのを感じます。日本に帰っても、この幸せな感じを忘れたくないです。親子共々。本当に素敵な時間をありがとうございました!ではではまた日本でお会いできる日を楽しみにしております。それまでは、濁らずこのままいけるように、残りのバンコク生活楽しみたいと思います!それでは、良い旅を!まさみ
歩き出す前が、一番疲れている。
ルアンパパーンの托鉢僧。
歩き出す前が、一番疲れている。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。ー 鴨長明「方丈記」
絞り出すではなく、溢れ出す。
坂爪さん、遅い時間に失礼致します。今日、いばやトークに参加させていただいた○○○○です。興奮冷めやらず、こんな時間にラインしてしまっています、お許しください。今日はお会いできて、本当に楽しかったです。今まで坂爪さんの言葉に沢山の勇気をいただいてきましたが、今日直接お会いして、同じ場所で同じ空気を感じることの凄さ、素晴らしさを改めて感じました。やっぱり、リアルにかなうものなし!です。言葉ではなく、感覚でたくさんのことを教えていただいた気がします。いいとか悪いではなく、ただそこに坂爪さんとして『在る』『在ろうとしている』んだなあと思いました。私も私の全てを今のまま、受け入れていきたいです。このような機会を与えてくださった全てに感謝しています。そして、このような行動を起こせた自分にも、拍手したいです。おやすみなさい。またどこかでお会いできることを楽しみにしています。
まさかのご連絡とても嬉しいですこちらこそチェンマイまで来るナイスなきっかけになりました実際に payacaさんに出向いた事でけいごさんを はじめ普段じゃまず出会えない様々な環境、考えの方達との交流、、サイコーでしたタイに来て数時間にて旅の醍醐味はほぼ満たされました笑少し勇気を出しメールを送りチェンマイへ行ってみてよかったですけいごさんありがとうございました皆さんにもありがとうと言いたいですではเราจะได้เห็นคุณอีกครั้ง
無理をするということは、まるで自分を雑巾のように扱うことで、最後の一滴が出なくなるまで、絞り出して、絞り出して、最後には絞りカスになってしまうまで自分を苦しく締め付けてしまう。きっと、純粋な幸福感や動機は『絞り出すものではなく、溢れ出すもの』なんじゃないのかな、と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月9日
人生とは、ボーナスタイムである。
人生とは、ボーナスタイムである。
日本に生まれた恩恵を。
離れた時間が、会えない距離が、人間を近付けることもあるみたいだ。 pic.twitter.com/gEafwy4H8j
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月6日
出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい。
素晴らしいことを言っているはずなのに、何も胸に響いてこない言葉がある。多分、言葉はその人の生き様と密接に繋がっていて、言葉に生き方が追いついていない時、聞くひとの心には何も届かない。自分を大きく見せるでもなく、自分を小さく見せるでもなく、ただ、等身大の言葉で話すことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月7日
バンコクわたりカフェに赤ちゃん連れで参加した○○○○です^^一瞬の出会いでしたが、わたしなりにことばにしたい思いに駆られました。
子どもと育つ世界にどっぷりの日々のわたしにとって、坂爪さんと、team0のお二人のまとう空気感はどこまでも眩しく、20代のお二人の笑い声さえも、とてつもなく懐かしく遠くに感じ入ってました(笑)
子どもがいるせいか、お三方も子どもに見え(笑)どーやったらこんな風にどこまでも生きる力がつくのか、3人3様の生き様に一瞬でもクロスし、エッセンスを貰ったような気がします。会場にいて、こんなに『ありがとうございます』と言う人を初めて見ました。坂爪さんから発せられる『ありがとうございます』は、相手を通り越して自分に返しているかのような、透明なことば。
いやー、これこそが、長年の生活の重みなのかと、聴き入ってしまいました。わたくし、日本では家族一緒に暮らし、タイに赴任して週末同居の単身赴任となり、家族とはなんぞや?という問いが頭の中にずっとありました。消しても消しても。心にぽっかりと穴があいた時がしばらく流れいました。
わたりカフェを後にして、階下に下りると、『おかあーさーん』と2人の子どもが駆け寄ってきて、(たった)2時間ぶりの再会なのに、両手を広げて求め合い、この瞬間、言葉にはならない(家族とはなんぞや?)の答えがからだの隅々まで入ってきてグァーンと満たされました。
答えは感覚としてしかないけれど、一瞬で何かがやってきて、もう充分だよの思いが溢れてきました。凛とした生身の坂爪さんに、まさか!のバンコクでお会いできて、眼差しをみれただけで、わたしは語ることもなくいっぱいいっぱいだったようで。坂爪さんの『ありがとうございます』の風が今でも心地よく吹いています。
何もかもが充分満たされている。言葉ではなく、思いで満たされた日曜日の夕方。
果てしない偶然が続くことを祈って。よき旅となりますように。○○○○
どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。
1・自分を開けば、世界も開く。
バンコクのわたりカフェにお越しいただいた皆様、ありがとうございました!!こんなに来てくれるとは思わなんだ!!何かをやらなければいけないというよりも、自然に「何かをやりたくなってしまう」その姿に、可愛さは宿るのだと思いました。多謝!! pic.twitter.com/y7mvbgdqbC
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
2・悪を糾弾する心も、同じように悪である。
悪を糾弾する心も同じように悪であり、多分、何かを責めているひとの心は静かでもなければ自由でもない。聖書にある「罪のない者だけが石を投げよ」にある様に、他人がした事やしなかった事を見るのではなく、ただ、自分がした事やしなかった事に集中することが「自分を整える」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月31日
3・ヘタクソなままでいいし、ヘタクソなままがいい。
自分を必要以上に大きく見せようとしないこと。同じように、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。最低限の言葉を選んで、相手に伝わるように、ゆっくり、静かに話すこと。大切に言葉を扱えば、多分、何かを伝えることは難しくない。 https://t.co/nqYAznXSfG
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月2日
4・自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。
自分の良い部分を肯定することは簡単なのに、自分のダメな部分を否定することも簡単なのに、自分のダメな部分を肯定していくことは、なぜ、こんなにも難しいことなのだろう。多分、弱さとは「自分の弱さを認められない弱さ」のことだ。自分の弱さを認めた分だけ、きっと、優しい人間になる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月2日
5・一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。
あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。特別な人間になろうとはしなくても、ただ、自分の心が「いいな」と思える瞬間を積み重ねた先に、特別な人生は築かれていくのだと思う。 pic.twitter.com/296LieKJKA
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月2日
6・自分が溶け出していくこと。
俺が、俺が、となるほどに、世界から自分が引き剥がされていくような感覚を覚える。美しい景観を目の当たりにした時、目的もなく歩き続ける時、ひとつの何かに集中する時、自分が溶けてなくなって、世界と一体化するような感覚を覚える。自分を強く主張するほど、多分、人間は寂しくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月5日
7・何度でも、宝物を探しに行こう。
これが真理だ!と、まるで悟りを開いたような気持ちになっても、数日も経てばまた同じようなことを悩み始める。ひとつの答えを常に胸に抱き続けることは、人間には、とても難しいことだ。多分、答えはひとつだけじゃない。だからこそ、僕達は、生きている限り見つける楽しさを喜んで行ける。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月3日
8・無理をすることは、ガチガチの固体。
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
9・同じ気持ちを分かち合う。
綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分かち合える関係性は、素晴らしいものだ。 pic.twitter.com/wVgxIErkxy
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月4日
10・どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、行きたい場所に行くということ以上に、優先するべきことはあるだろうか。自分の理想は今日も生きたと思って毎晩眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、人生に幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月29日
海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。
近江八幡「日牟禮八幡宮」
尾賀商店「(坂爪史上最高の)近江牛カレー」
近江八幡「ラコリーナ」
大津駅「琵琶湖」
コップに半分の水。
カテゴライズされることへの違和感。
海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。
天国みたいな滋賀県の朝だ。 pic.twitter.com/xsNO66she8
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年6月1日
悪を糾弾する心も同じように悪であり、多分、何かを責めているひとの心は静かでもなければ自由でもない。聖書にある「罪のない者だけが石を投げよ」にある様に、他人がした事やしなかった事を見るのではなく、ただ、自分がした事やしなかった事に集中することが「自分を整える」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月31日
自分を必要以上に大きく見せようとしないこと。同じように、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。最低限の言葉を選んで、相手に伝わるように、ゆっくり、静かに話すこと。大切に言葉を扱えば、多分、何かを伝えることは難しくない。 pic.twitter.com/Acnrq2adO4
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月26日