いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きる力を爆発させること。

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東京と大阪と京都で開催されたイベントを経由して、いま、京都の出町柳にいる。様々な人種のひとたちと出会う日々の中にいると、稀に、相手の邪気をモロに受け取って除草剤を撒かれた草みたいな気持ちになる。しかし、今回は久しぶりに行動を共にしているみっつの存在に救われた。みっつがいなければ、今頃、私は鴨川を揺蕩う水死体になっていたかもしれない。


このままの流れで、7月11日(火)からみっつと一緒にマレーシアのクアラルンプールを経由して、ベトナムホーチミンに行きます。その後の予定は未定ですが、7月22日(金)の夜にタイのバンコクから成田に戻るまでの間、基本的に暇をしています。奇跡的にお会いできる方がいらっしゃいましたら、気軽にご連絡いただければ嬉しいです。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・アドバイスの裏側にある嘘。


稀に、何かあるとすぐに(頼まれてもいないのに)アドバイスをしたがるひとと出会う。誤解を恐れずに言うと、私は、説教やアドバイスをしたがるひとが嫌いだ。アドバイスとは、要するに「俺みたいになれ」ということになるのだと思う。その態度に、その自惚れに、ある種の傲慢さ【お前はひとにアドバイスをできるほど、偉い人間なのか?という疑問】を感じてしまうのだと思う。自分を偉いと思っているひとに、多分、偉いひとはいない。

2・人間関係の不幸の原因の9割は「過干渉(余計な御世話)」


聞く方も、聞く方で、様々な人の意見に思い切り惑わされているのを見ることが多い。ひとの意見を聞くことも時には大事だとは思うが、でも、何よりも大事なことは「自分の声」を聞くことではないだろうか。極論、自分が「ああ、自分はこのひとのことが大好きだ!」と感じるひと以外の声は、聞かない方がいいと思う。他人にアドバイスをしたがるひとほど、単純に、承認欲求に飢えている【そのひと自身があまり幸せではない】だけの場合が多い。

3・怒りの裏側には甘えがある。


何かあると、すぐに怒り出すひとがいる。怒りの裏側には「現実が思う通りにならないことが許せない、そのひと自身の幼児的な甘え」があるような気がする。多くの場合は、両親との関係で長年患っている一悶着があって、未だにその心理的な問題【本当は抱き締めてもらいたかった的なサムシング】が解決できていないのだと思う。私は、怒りの感情に触れるのが苦手なために、即座に逃げる。これはこのひと自身の問題であって、【例え自分が怒られていたとしても】自分の問題ではないのだと認定して、逃げる。

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4・大阪の居酒屋にて。


関西在住のYさんから、もし良かったら会えませんかと連絡をもらい、大阪の居酒屋で初対面を果たした。Yさんは、自分ひとりだけで話を聞くのもあれだと思ったそうで、友達二人にも声をかけた。そのため、私のことをよく知っているYさんと、私のことは何も知らないけれどとりあえずYさんに呼ばれたから来たという女性二人と、私を含めて四人でご飯を食べることになった。

5・愛情か、打算か。


私は、タクシードライバーや飲食店の従業員などに冷たく対応するひとが嫌いだ。Yさんの友達がそういう感じのひとで、私は、露骨に機嫌が悪くなってしまった。しかし、理性では「いかん!いかん!初対面のひとを前に、こんなことで機嫌を悪くしているようではダメだ!」と思ったので、頑張って自分のご機嫌を伺ってはみたけれど、ダメなものはダメだった。潔く、嫌われてしまおうと思った私は無口になり、早々とその場を退散した。

6・自信よりも「自分」


帰り際、Yさんに「なぜ、この二人を呼んだのですか」と尋ねた。Yさんの人柄は非常に柔和で素晴らしく、多分、二人きりで出会っていたらしっかりと話をすることができた気がした。私は、勝手に「Yさんは、もしかしたら自分に自信がないのかもしれない。だから、自分ひとりで坂爪さんの時間を奪うのは申し訳ないから、友達を呼んで少しでも誰かの役に立てばいいなとか思っているんじゃないのだろうか」と勘繰って、その旨を伝えた。

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7・対等に話がしたいだけだ。


Yさんは「そうです」と答えた。私は、では、今度はタイマン勝負で会いましょうと言った。そして「お願いだから、自分のことを低く見積もらないでください。あなたが自分のことを卑下するほどに、あなたが私のことを褒めるほどに、私とあなたの間に距離が生まれる。距離が生まれるほどに、この場が退屈なものになる。私の願いは、あなたと対等に話をすることです。私は、褒められたくて来た訳じゃないし、接待を受けたくて来た訳じゃない、ただ、あなたと対等に話がしたいだけだ」という旨を伝えた。

8・瞬間を肯定する。


うまく伝えられたのかはわからないが、私は、自分が感じたことのすべてを出し切ることができたので、心残りは何もなかった。その時自分が感じたことを、無様でも、不器用でも、溜め込むことなく自分の外側に出し切ること。私には、出し切るということがとても大事なことなのだと思う。言いたいことを言う、やりたいことをやる、それができた時に感じる清々しさの中には「瞬間を肯定する」力がある。

9・全身全霊のカメハメ波。


溜め込まないこと。出し切ること。言いたいことがあるならば、やりたいことがあるならば、他人にどう思われるかということは一回無視して、自分の外側に出し切ること。中途半端に小出しをしながら「察してください」などと相手に期待を寄せるのではなく、カメハメ波を打つくらいの気持ちで、何もかもを、この瞬間に全開する。小出しにするのではなく、全部出す。出し切る。出し尽くす。これができた時に感じることができる絶対的な爽快感は、格別だ。

『現代暴力論』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『現代暴力論』です。表紙帯にある「気分はもう、焼き打ち」のフレーズが最高だなあと思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ。(中略)生きのびるということは、死んだように生きるのとおなじことだ。他人によって生かされるのではなく、自分の生を生きていきたい。どうしたらいいか。暴力だ、暴力しかない。ー 栗原康『現代暴力論(表紙裏の帯より引用)』【角川新書】


10・生きる力を爆発させること。


昨日、大阪のロフトプラスワンで開催されたルキノさんとのイベントが良かった。ルキノさんの魅力は、持ち前の美貌や歌や踊りのセンスだけではない「徹底的に自分を生き抜く」その生き様なのだということを思った。そのひとがそのひとで在り続けるということが、こんなにも見るひとの心を元気付けるものなのかということを思った。

人気があるからすごいとか、金を稼いでいるからすごいとかではない、ただ、自分の内側から湧き上がってくるエネルギーを思う存分に出し切ること。その姿勢に、その生命力に、まるで【自分の命も共鳴している】ような嬉しさを覚えるのだろう。この生命力は、あるひとにはあるけれど、ないひとにはないという類のものではない。生きている限り、すべてのひとに備わっている本来的な「生きようとする力」だと思う。

生きる力を爆発させること。自分の力を誰かに預けてしまうのではなく、誰かに自分の人生をどうにかしてもらうことを期待するのではなく、自分には既に力があるのだと思い出すこと。不安を軸に動くのではなく、身体が感じる喜びを軸に動くこと。自分の胸を高鳴らせるものに出逢った時は、時期を選ばず、場所を選ばず、結果に対する執着を振り払って、そのままの姿で突き進むこと。閉塞感や停滞感を突破するものは「俺はやった」時に感じる清々しさ、潔さだと思う。

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人生は続く。

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