いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

死なないために、生きている訳じゃない。

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湘南江ノ島で開催された「わたり喫茶」があまりにも素晴らしく、ハートに風がびゅんびゅびゅびゅびゅぅんと吹き抜けた。ああ、この瞬間は最高だなと思える瞬間の中には「風が吹いた」よろこびがある。長い間、換気をすることのなかった部屋の窓を開けた時のような、こころのリンパに溜まった老廃物が流れ出すような、新鮮な感覚を覚える。生きていると死にたくなることも結構頻繁にあるなかで、同時に、生きているということは本当に素晴らしいものなのだなあと心の底から思うことができる。

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風が吹き抜けた10の瞬間をまとめます。

1・ちあきさんが素晴らしかった。

誤解を恐れずに言うと、私には「(自分を含めて)人間はクソだな」と思う瞬間がある。生まれたときには綺麗だったはずのヒューマンが、年を重ねるごとにどうしても避けられない汚れを抱えてしまい、やがて、大半の人間は薄汚れてしまう(そして、自覚も同時になくしてしまう)ものなのだろうかと思ってしまう時がある。そこに自分の意識がフォーカスされてしまっている時は、何かこう、人生全般ってクソだなという気持ちにもなってしまうことがある。

私は、自分のことを「表面的にはオープンだけど、実際は非常にクローズドな人間である」ような気がしている。自分でイベントを開催しておきながら、誰よりも早く集団の輪の中を飛び出して、自分の殻の中に閉じこもり、閉じこもっておきながら誰かに声をかけられることを待っていたりもする。そんな自分の面倒臭過ぎる心の扉をノックして「外に出ておいでよ」と寄り添ってくれるものは、たとえば、湘南江ノ島でラムピリカという素晴らしい喫茶店を営むちあきさんのような人間だ。

ちあきさんをはじめて、私は、心の綺麗なひとの存在に物凄いエネルギーで支えられている。自分を含めて人間全般を諦めてしまいそうになるときに、綺麗なままでいてくれるひとがいるということが、そのままで生きていてくれたひとがいるということが、どれだけ、自分の支えになっているのだろうか。具体的に何かをしてくれるという訳ではなく、ただ、そのひとが生きているというそのことが、たまらなくうれしくなる。

2・さとみさんの「ピットイン力」

昨日は、足もみ師のさとみさんもいてくれた。絶対的・相対的に共に弱者である私は、ひとと話しているときに気軽に傷ついてしまうことができるのだけれど、そういう時は「さとみさん、ちょっと聞いてくださいよ」と擦り寄りながら愚痴を吐く。器の大きいさとみさんは、私の話を、うなずきながらしっかりと聞いてくれる。昨日も、ことあるごとに勝手に自爆をしながら周囲を浮遊している私を、さとみさんは優しく受け入れてくれた。

私がF−1の車ならば、さとみさんはピットイン的な存在になる。基本的にギュインギュインとトラックをエンジン全開で爆走する私は、(割と早い段階で)故障かな?と思った瞬間に、さとみさん的な存在にピットインをして軽い修繕を行う。そして、新たな気持ちで再びトラックをギュインギュインと爆走する。ピットイン的な存在がいなければ、私は、路上で爆死をしていたのだろうなあと思う。さとみさんをはじめ、自分には「ピットイン的な存在がいるのだ!」と再認識できたことがうれしかった。

3・葛飾北斎の観察力。

私が「さとみさんは何を思っていたのですか?」と尋ねると、さとみさんは「打ち寄せる波を眺めていたのですが、見れば見るほどに、葛飾北斎の絵とまったく同じように見えてきて、北斎は、ほんとうに対象をじっくりとじっくりと観察をしていたんだなあと思っていました」と話してくれた。どうしてなのだろうか、私には、さとみさんのこの言葉が深く胸に刻まれた。

対象をじっくりと観察すること。いつもよりも、耳を澄ませること。いつもよりも、じっくりと見つめること。ひとも、自然も、見つめれば見つめるほどに『その、存在のすごさ』にハートが圧倒されるはずだったのに、宮本武蔵風も「(目で)見るのではなく(心で)観るのが大切でござる」とおっしゃっていたはずなのに、最近の自分には、そういう時間が足りていなかったことを反省した。

4・ルキノさんと出会えた。

7月9日(土)に大阪のロフトプラスワンで一緒にイベントをやることになっているルキノさんが、はるばる、東京から江ノ島まで遊びに来てくれた。この日が初対面になったのだけれど、私は、とにかくルキノさんと実際に話せたことがうれしかった。この感覚をうまく説明することはできないのだけれど、ルキノさんと同じイベントに出ることが決まった時に「最高の遊びの予定がはいった!」という気持ちになった。

私は、魂が綺麗なひとが好きだ。魂などという言葉を使うと非常に胡散臭いものに響くかもしれないけれど、しかし、現在の自分には「魂」としか言えない部分を感じることが頻繁にある。私は、会ってもいないくせに「ルキノさんは、きっと魂の綺麗なひとなのだろう」と勝手に思っていた。そして、これから自分の予感が確信に変わるまでの時間を、いま、ほんとうに楽しみにしているのだと思う。

5・冬樹さんの「死なないために、生きている訳じゃない」

イベントの途中、男女4人でテーブルを囲みながら話をする時間があった。ひとりの女性が「(非常に乱暴にまとめると)いまの仕事に悩みがあって、ほんとうは好きなことをやりたいんだけど、生活もあるからお金に対する思いを消すこともできない」と話していた。それを聞いていた冬樹さんという男性が、自分の思いなどを交えながら幾つかのたとえ話をしてくれた。

話の詳細は省略するが、その途中で「死なないために、生きている訳じゃないんだ」ということを、冬樹さんは満面の笑みで話していた。その姿が、その表情が、その表情の奥にある冬樹さん自身の過去の実体験や『悲しみを通過した優しさ』から伝わる何かに、私のこころはひどく感じ入ってしまった。死なないために、生きているんじゃない。そうだよな、と、思う。俺たちは、何も、死なないために生きている訳じゃないんだ。



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6・みさとちゃん(仮名)の笑顔。

イベントにみさとちゃん(仮名)という名前の二十代の女の子が遊びに来てくれた。優しくて可愛くて真面目そうなみさとちゃんは「自分には価値があるのだと思えるときもあれば、自分には何も価値がないのだと思うときもあって、自分の中にいる『みさとA』の声と『みさとB』の声にすごい悩まされることがあるのですが、坂爪さんは、そういうときはどうしているのですか」と聞いてくれた。

私は「では、『みさとC』を登場させるのはどうでしょうか?」的なことを答えた。みさとCにはゴリゴリのオラオラ的な所があり、価値があるとか価値がないとかで悩むA&Bに対して「無価値で何が悪い」と、無価値であることを肯定するある種の開き直りを見せる。彼女の口癖は『無駄こそJOY』であり、みさとCは、無意味に意味を覚え、無目的に目的を見出し、無価値に価値を観る。そういうキャラクターを自分の中に培うというのはどうでしょうか??的な話をした。

私の話はどうしようもなく支離滅裂なものになってしまったけれど、みさとちゃんが、私の話を聞きながら笑顔になってくれたことがうれしかった。そして、帰り際に「なんだかいろいろなことがどうでもよくなりました」と声をかけてくれたときに、ああ、いま、確実に俺たちの間に風が吹いているなあといううれしさを覚えた。いろいろなことが、後ろ向きな意味ではなくどうでもいいことのように思えたときに感じるこの気持ちこそが、きっと、自由だ。


7・空海と「俺は、一喜一憂していたいのだ」

最近の私は禅的なサムシングにはまりすぎていて、幸せになりたいと思うから不幸になるのだ、執着があるから、欲望があるから苦しみも生まれる訳であって、自分をなくせば、欲望を消せば楽になれるのだという思考に(非常に短期間ではあったものの)はまりつつあった。しかし、空海の思想にまつわる本を読みながら、ああ、俺はやっぱり(人間の欲望や煩悩や執着をする思いなども含めて)生きているということをまるごと肯定していたいのだ、という思いに立ち返った。

空海は「無我より大我、無欲より大欲」というようなことを言っている。この言葉を私なりに解釈すると「自我を消すなんて無理だよ、同時に、欲望を消すなんて無理だよ、自我や欲望があってこその人間なんだ、大切なことは欲望を消そうとすることよりも、どうせなら『自分のため』だなんていうけち臭いものに囚われるよりも、人類全体が幸福になってしまうようなビッグな欲望を抱けよ」ということになる。

直近の私は「一喜一憂する自分はダサい!もっと落ち着きたい!」などと思っていたけれど、いまでは「ああ、俺はなんだかんだと言いながら、一喜一憂していることを楽しみたいと思っているのだ。感情の揺れがなくなることよりも、感情の荒波に揉まれながら(時には溺れながら)、ああでもないとか、こうでもないとか、死ぬ!とか、生きる!とか、ギャーギャー言っていたいのだ」と思った。

8・「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」

わたり喫茶に参加をしてくれた女性が、終了間際、ほんとうに、ほんとうに楽しそうな表情を浮かべながら「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」と話してくれた。その言葉が、その表情が、ほんとうに嬉しかった。彼女がうれしそうにしてくれたこともうれしかったけれど、自分のよろこびや、自分が感じているうれしさは、決してひとりよがりのものでもなかったのだという事実が、ほんとうに嬉しかった。

誰かのために生きている訳ではないけれど、やはり、自分が楽しいと思うことも他の誰も楽しいと思ってくれることの中には、言葉にすることのできないうれしさがある。たとえば、それが「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」という言葉に象徴されるような形で自分の目の前に差し出されたときに、ああ、人生は捨てたもんじゃないなあ(というか、最高だなあ)という気持ちになる。

9・布施明の『MY WAY』

江ノ島から熱海に戻る車の中で、私が愛してやまない布施明の『MY WAY』を爆音で流しながら熱唱をした。ああ、なんて素晴らしい歌詞なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい声量なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい表情をしながらこのひとは歌を歌うのだろうかと、何がなんだかいろいろなものが「最高だなあ!」という気持ちになり、そして、私の中に新しい夢が生まれた。

自分も布施明のように『MY WAY』をカンツォーネ風に高らかに歌い上げることができたのならば、もう、最高に気持ちいいだろうなあと思った。やりたいことは何もない、夢も目標も具体的なビジョンも何もなかった私にも、それが実現したことを考えるだけでも胸がワクワクするような『夢』ができた。それは、布施明のMY WAYを高らかに歌い上げる日が来ること。隙間時間を見つけては、カンツォーネ的なサムシングの自主練習を日々に取り入れよう。


10・夕陽が綺麗だったこと。

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イベント終了間際に、夕日の光が差し込んできた。


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まるで、1日のご褒美みたいじゃないかと思った。


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夕日に「生きるんだよ」と言われている気がした。


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乱暴な表現になるけれど「この夕日の素晴らしさは、ものをたくさん持っているひとには味わうことはできないのだろうなあ」という気持ちになった。夕日の美しさは、自然の素晴らしさは、多分、なにもないやつほど深く味わうことができる。なにもないからこそ、全体に染み渡ってくる何かを受け取ることができるのだし、なにもないからこそ、目の前にあるものを全力でよろこぶことができる。


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そして、私は、余計なものは捨てていきたいという気持ちになった。まだまだ、いまの自分には、余計なものが身体全体にびっしりとこびりついている。これは、きっと、捨てていける。これはなくても、生きていける。生きていることを、よろこんで行ける。そして、身体の奥の方から、何かに感謝をしたくなる気持ちが湧き出してきた。自分や自分の人生全般を見限りそうになることもあるけれど、心の底では「すべてを肯定していきたいのだ」と思っている、自分を取り戻すことができた1日になった。




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人生は続く。

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流動的な存在であるために。

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東京都国立市で開催されたイベントに登壇(?)した後に、熱海に戻った。職場でも、子育てでも、自分が解決できていないことを他人に教えることはできない。こどもの教育に悩むお母様とお話をする機会があったけれど、(こどもは勝手に学んでいるものだから)無理に何かを教えようとしたり、母親としてしっかりしなければいけないという思いは持たなくてもいいのではないだろうかと思った。


私は親になったことがないためにこどもの気持ちしかわからないが、こどもは、不完全でも構わないから親には楽しそうに生きていて欲しいと思っているのではないだろうか。逆に言えば、両親が常にイライラしたり心の余裕をなくしていたら、こどもは常に萎縮をして、自分の感情を溜め込み、時には「自分がいるから両親はイライラしているのだ」と自分を責め、世界を恐れて、周囲の顔色を伺う人間になる。私の場合、親が非常に適当な人間であったために、自分も適当な人間になることができた。この点は、とても親に感謝をしている。

自分に肩書きを与えない。

適当な人間が功を奏したのか(功を喪失したのか)、いまの自分には社会的な肩書きが何もない。文章は書くが作家ではなく、移動はするが旅人ではなく、わたり文庫やわたり食堂などはやっているが活動家ではなく、呼ばれたイベントなどには出演するが講演家という訳でもない。そのため、自己紹介をする時には非常に困る。多くの場合、ただの胡散臭い人間だと思われてコミュニケーションは終了する。自分を説明する言葉を持ち合わせていないために、ああ、今日もわかってはもらえなかったなあと思うことは多い。

自分に肩書きがあれば説明も楽になるだろうとは思うものの、私は、まだ、自分に肩書きを与えていない。これはある種の反骨精神にも似ていて、私は、人間が「自分の外側に装着しているもの」に対する関心が薄い。大企業の社長だとか、金持ちだとか、著名人であるとか、世界を舞台に活躍をしているとか、巷ではこれだけ話題になっているのだと耳にしたとしても、正直に言えば「だから何なのだろうか?」という気持ちになる。世間的にどのようなポジションにいるのかという相対的なものよりも、そのひと自身が何を感じ、何を思いながら生きているのかという『絶対的なそのひと自身』に興味がある。

だからなのだろうか、あなたはこういうひとですよねというカテゴライズをされてしまった瞬間、私の中にある反骨精神が爆発して「違うし!」と叫びたくなる。固定されてしまうことを、自分の役割を限定づけられてしまうことを、極端に恐れているのかもしれない。固定されたくない。自分の役割を限定づけられたくない。こどもじみた思いかもしれないが、私は、流動的な存在でありたいと思っている。

流動的な存在であるために。

最近は、ことあるごとに「捨てなさい」という言葉が脳裏をよぎる。高級な家や車や家具を所有することの中には自身の欲望を満たす快楽もあるかもしれないが、同時に、傷つくことや失うことを常に恐れる不安定な状態にもなる。目には見えない「見栄」や「プライド」や「世間体な肩書き」なども、それによって自分を律することができる場合もあれば、同時に、それに縛られる(守ろうとする力が働く)ことによって、自身の自由を喪失する場合もある。


家のない生活をはじめた頃から、自然を愛する気持ちが極端に増えた。昔はペットを飼いたいなどとも思っていたが、いまでは、家の前を通る野良猫や野良猿や野良狸(熱海には猿や狸が出る)を眺めているだけで「ある意味で、これもペットだ」という気持ちになる。大都会の街中ですれ違う美女も、かつては自分のものになったらいいなあなどと思うこともあったが、いまでは「眺めているだけでいい【一緒になるのも、一緒にならないのも、ある種の縁だ】」という、野に咲く花を眺めている時のような気持ちになる。


自分は強いのではなく弱いのだと、自分は賢いのではなく愚かなのだと思うようになってから、生きることが楽になった。多くのものを維持できる強さが自分にあれば、捨てずに持ち続ける生き方もできたかもしれない。しかし、今世における私には、そのような余裕は持ち合わせていないみたいだ。流動的な存在でありたければ、余計な見栄やプライドを、ポイっとゴミ箱に捨ててしまうことだ。

雨の日は、沢蟹も出る。

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「おお、また来たか!」と、話しかけている。

『「足もみ」で心も体も超健康になる!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、田辺智美さん著作『「足もみ」で心も体も超健康になる!【王様文庫】』です。この本は、熱海に遊びに来てくれた女性が「これはいいですよー!」とおすすめしてくれた最高の一冊になります。ふくらはぎや足裏は「第二の心臓」とも言われていますが、私も、自分の生活が行き詰まった暁には『ふくらはぎもみ師(ふくらはぎもまれ師)』として、第二の人生を歩みたいと思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、熊本県にわたりました ※※※


アキレス腱の周囲がもったりとして、足首のくびれがほとんどなくなってしまっている状態の人も即、足もみを。

足首が太いのは遺伝や体型のせいではなく、毒素や老廃物が付着しているケースがほとんどです。

しっかり足もみをすれば、必ずキュッとしまった足首になり、全身の肌ツヤもよくなります。



何者でもないからこそ、すべてになることができる。

自分の外側に装着したもので自分を誇るような、そういうものには、もう、あまり興味を持てなくなってしまった。どれだけ金を集めても、どれだけ周囲の評判を集めても、どれだけ高級な装飾に身を包んだとしても、どれだけ立派とされている行為を成し遂げたとしても、根本のところで感じている「虚しさ」をごまかすことはできない。それならば、今世の自分は「(有ではなくて)無に賭ける」しかないのだろうと、自分の外側に装着しているものではなく、何もかもを剥ぎ取った後に残る『裸の自分』で、どこまで行けるのかを見てみたいのだと思っている。


自然のすべてはこの世にひとつしかない天然記念物のようなもので、こどもを、花を、異性を、動物を、あらゆる自然を、檻の中に入れて閉じ込める(カテゴライズをして固定する)ような真似はしたくない。花や女性やこどもを「眺めているだけでいい」と感じている時の自分は、同じように、その対象に対して「生きているだけでいい」と感じている。相手を自由にさせているときに、自分のこころも、同じように自由になることができる。この気持ちを、この感覚を、出来ることならばなくしたくない。


何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時期は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。何者でもないからこそ「何者にでもなることができる」のであり、何者でもないからこそ「すべてになることができる」のだと、私は思う。何者でもなく生きるということは、ただ、そのままの姿でそこにあるということだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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天才とは、システムのエラーである。

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台湾を経由して、いま、三軒茶屋デニーズからこの記事を更新している。帰りの飛行機の中で読んだレイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』という本が面白く、その後、東京で合流した友達とSF的な未来の話をした。私は古典に触れるのが好きで、時代が変化しても変わることのない『普遍的』なサムシングに関心があったものの、いま、普遍的とされてきた前提そのものがまるごと変わろうとしている時期が迫っているのかもしれない。

今回は、対話形式でお送りいたします。

人間が死ななくなる。

坂爪「飛行機の中で『シンギュラリティは近い』っていう(非常に乱暴にまとめると)未来予測的な本を読んでいたんだけど、これが半端なくて、科学技術とかの発達によって近い将来『現在の生物学的年齢から本人が希望する年齢へと若返られるようになる』ようになるらしいの」

男友達「まじか!」

坂爪「少なくとも、現在の10倍は人類は長生きできるようになって、150歳になっても30歳の状態を保つことも可能で、あと、臓器の大部分は不要にすることができるようになるから『トイレに行かなくてもいい身体』とか『何も食べなくても死なない身体(どれだけ食べても太らない身体)』とかにすることもできるらしいの」

男友達「まじか!」

坂爪「だからね、いままで前提とされてきた「人生は短い。いつか必ず終わりの瞬間が来るのだから、いまを大切に生きよう」的なものも(必ずしも)そうではなくなってしまうようになるから、生きようと思えばいつまでも生きられてしまう世の中になってしまうときに、なんていうか『これまで常識とされてきたあらゆるものが揺らぐ』的な気がして、いろいろなことがわからなくなってしまって、なんだかワクワクしてしまいました!」

完全没入型のヴァーチャルリアリティ。

坂爪「あとね、巷で話題の『五感全てを組み込んだ完全没入型のヴァーチャルリアリティ』も出てくる(仮想現実が現実の水準に追いつく)から、たとえば、高い金を出してまで海外に行かなくてもメガネ的なサムシングが進化したものを装着すれば、即座に欧州でも南米でも(多分)月面の上にでも行けてしまうし、リアル社会ではまったくモテなくて彼女ができない男のひとも、バーチャルの世界ではSEXだろうが何だろうがいつでもできるようになるとかならないとか」

男友達「半端ないね」

坂爪「あとね、いままでは、たとえば俺が英語を習得したとしても、英語を話せるようになるのは俺ひとりだけの話だったけど、人類の脳味噌がスマホみたいに進化(リンク)しちゃえば、この世の中の誰かひとりでも何か新しいことができるようになれば『人類全体がそれをできるようになる』というかなんというか」

男友達「半端ないね」

坂爪「スマホにアプリをダウンロードするみたいに、英語を話したければ英語アプリを自分にインストールしたり、日本国憲法をマスターしたければ日本国憲法アプリを自分にインストールすればいいみたいな感じで、なんていうんだろう、何かこう『頑張る』という言葉そのものが死語になりそうな予感がしたよ」

男友達「スポーツの世界でも、いま、パラリンピックに義足で出場している選手の方が健常者よりも早く走るとかいう話を聞いたこともあるし、肉体改造も『どこまでが肉体改造なのか?』とか、いろいろと訳がわからなくなることがあるよ」

「わたし」とは誰なのか。

坂爪「でね、たとえば俺はツイッターをやっているけれど、過去の投稿の傾向とかを機械に読み込ませれば、俺が死んだ後も『坂爪圭吾が投稿しそうなこと』を自分の代わりに投稿してくれるようにもなるし、俺の脳味噌を何かしらの方法で保存をしておけば、俺が死んだ後も『坂爪圭吾そっくりのロボットと一緒に遊んだり、一緒に仕事をすることもできる』ようになるらしいの」

女友達「すごいね」

坂爪「こうなってくるとさ、いよいよ『自分とは何か?生きるとは、どういうことなのか?』みたいな気持ちになります」

女友達「私は、美大に通っていたんだけどね」

坂爪「うん」

女友達「受験の時とかは、ひたすら『上手に絵を描く!』ということだけに集中していればよかったんだけど、大学にはいると『自分を出しなさい!』みたいな風になって、嫌でも自分と向き合わなくちゃいけない時間を過ごすことになるから、それで病むひととかもすごいたくさんいたんだ」

男友達「ただでさえ病みやすい年齢だというのに!」

女友達「自分とは何かとか、考え始めると鬱になるよね」

坂爪「鬱になるときは、なるね!」

いろいろなことがわからなくなる。

坂爪「ブルーハーツの情熱の薔薇っていう曲の中に『見てきたものや / 聞いたこと / いままで覚えた全部 / デタラメだったら面白い / そんな気持ちわかるでしょう』っていう歌詞があるんだけど、まさにこの気分といいますか、俺はもう、何がなんだかいろいろなことがわからなくなってしまいました!」

男友達「これは、わからなくなるね」

坂爪「人間は、いかに生きるべきか」

女友達「謎だね」

坂爪「ただ、俺はこの『わからねえぞ!感』がすごい好きみたいで、なんだかうれしくなってしまう自分がいるし、極論『人生は、何でもありなんだなあ』みたいな気持ちにもなってくるから、わからないって素敵だな、わからないって楽しいな、っていう気持ちになります」

『シンギュラリティは近い』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』です。上記でご紹介した通り、いろいろな意味で面白い一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をさせていただきます。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※


天才とは、システムのエラーである。

スイスの画家であるパウル・クレーの言葉に「天才とは、システムのエラーである」というものがある。私は、この『エラー』という言葉が大好きで、生きとし生けるものは、皆、何かしらのエラーを抱えながら生きているのではないだろうかと睨んでいる。誰もが『一見すると普通に生きている』ように見える中で、実は、そのひとオリジナルの『エラー』をこっそり抱えているものだと睨んでいる。


ものすごい清楚な感じの女の子が両親の目を盗んでロックンロールを愛聴していた事実を知ると、たとえば、私はとっても嬉しくなる。普段はスーツでビシッと決めている真面目で誠実そうな男性も、ストレスが溜まった時は、自宅のココアを粉のままで踊り食う『粉喰い』をしていたのだという事実を知ると、私は、これまたとっても嬉しくなる。皆、何かしらギリギリの状態になりながら【自分なりの方法で必死に自分を保ちながら】生きているのだというその事実に、不思議な癒しを感じてしまう。


私は、いよいよ、いろいろなことがわからなくなった。自分は何者なのか、これからどのような志を胸に抱き、そして、どのような態度でいまという瞬間を生きるべきなのか、など、私は、何も知らない。わかることと言えば、世界はこの瞬間も確実に変化をしているのだということと、こうでなければいけないということなんて、実は、ひとつもないのだということ程度だ。感じることと言えば、沈む夕日を見たときに「夕日が綺麗だ」と感じる自分はまさにここにいるのだということと、そして、自分の中にある『(完璧性ではない)エラー』の部分こそ、抱き締めていきたいのだということだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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もっと遊べ。もっと狂え。

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ヨガマットで眠ると身体が如実に快活になると言い張る女性と出会い、男女三人で熱海の自宅でヨガマットを敷いて眠りに落ちた所、意外と寝れた。という訳で、何があってもいいように携帯用のヨガマットを携えつつ、いま、台湾にいる。今回の遠征に同行している女性は、宿にベッドがあるにも関わらず「これ、いらない!」とマットレスをわざわざ外して、木の板の上に直接ヨガマットを敷いて眠っている。一見すると、ただの苦行に見えるけれど、本人はすこぶる楽しそうだ。おそらく、すべての物事は苦行だと思えば苦行になるし、娯楽だと思えば娯楽になる。要は、つまりはよく言うあれで、本人の捉え方次第になるのだろう。

日本を逃げる。

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最近の自分は、雪国出身の人間独特の「(冬は雪で閉ざされてしまう故に)自分と向き合いすぎちゃう系」の時間を過ごしてしまったために、何かが閉じて行くのを感じていた。環境を言い訳にするのは恥ずかしいことだけれど、今回ばかりは「すべてを他人のせいにしてやろう!日本という環境のせいにしてやろう!」ということで、こころを落ち着かせるために(台湾までの往復航空券が一万円程度だったので)日本を逃げた。

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日本在住の比較的フットワークの軽い友人の皆様に「台湾で一緒に仕事をしましょう!(俺はなにもやることはないけど)」と声をかけた所、男女3名が仲間になり、4人で台湾の高雄や屏東や琉球郷界隈をうろうろしている。こういう時に、一緒に行動を共にしてくれる友人の存在は大きい。夜市を巡り、適当な料理を選んで、酒を飲みたいひとは酒を飲みながら、暑い国で、熱い飯を食うだけで元気になる。

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人混みは嫌いなはずなのに、そこに生命力のようなものを感じるからなのだろうか、アジアの喧騒に触れると元気になる。台湾南部の人柄は非常に柔和で、温暖な気候独特のテキトー具合も調度よく、何もかもを環境のせいばかりにもしていられないけれど「それでもやっぱり環境の影響ってあるよね!」という気持ちになる。

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客を無視してこどもをあやすおばさま。

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胡椒餅40元(約150円)

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「今夜はぼくが奢りますよ!」と、巨大な海老や牡蠣などの豪華な海鮮料理を威勢良く注文していた友人のオーダーがうまく通らず、テーブルの上には結果的に人数分の3倍相当の料理が並んで、彼は破産をした。

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当たり前のことだけれど、日本の常識は日本での常識でしかないのだということを、日本を離れることで実感する。自分が悩んでいることや、自分が直面している問題のことなど、まるで悩みもしなければ問題にさえならない国の人達が、この星の上にはたくさんいる。いまいる場所が世界のすべてではないのだということを、身体を通じて実感することができる。

イベント情報

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【5月24日@TOKYO】坂爪圭吾さんお話会


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【5月28日@ENOSHIMA】わたり喫茶@江の島海岸!


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呼ばれる限り、あらゆるイベントに出演するようにしている。私がイベントに出演する理由は、多分、主張したいことがあるからではなく、有益な何かを広めたいからでもなく、「友達が欲しいから」なのだと思う。尊敬するとか尊敬されるとかではない、ただ、そこに行かなければ出会うことのなかったたったひとりの『誰か』と出会えた時に、自分のこころはうれしさを覚える。友達とは、常に行動を共にする仲間のことではなく「離れていても、そのひとのことを思うだけで元気になる」ひとのことだ。だからなのだろうか、自分が話をすることよりも、来てくれたひとの話を聞きたいと思う。興味のある方は、是非、足を運んでみてください。

『インド人の頭ん中』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、冬野花著作『インド人の頭ん中』です。来月、インドに足を運ぶにあたって「これを読むといいですよ!」と贈呈していただいた、いろいろなことがどうでもよくなるインドの内実(?)を伺い知ることが出来る一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、香川県にわたりました ※※※


インド人の入浴は朝なので、朝シャワーをした後にプージャ(神様に捧げる儀式)をすることが多い。また、プージャのときにホラ貝を吹く人も多く、住宅地では、どこからともなく、ホラ貝の音が聞こえてくるのが、朝の情景だ。毎日、ホラ貝を吹くのは、肺にもいいそうである。

忙しい現代人の中には、通勤の車の中でマントラなどをCDやテープで聞く人も非常に多い。タクシーでも、朝一番に乗ると、そういったテープをかけている場合が多いのだが、テープにとどまらず、車の中でお香までたいてしまうところが、さすがインド。灰が車内に落ちても、へーちゃらなので、客はすごい煙に巻かれ、マントラを聞きながら、朝もやの中を移動することになる。

しかし、いざ日本に帰ると、懐かしく思い出すのは、インドのそんな朝の情景なのである。

冬野花「インド人の頭ん中(中経の文庫)」



もっと遊べ。もっと狂え。

自分の中に神様がいるとしたら、いま、神様は何を言っているのだろうかと考えることがある。私の中には弱い部分もあれば強い部分もあり、繊細な部分もあれば大胆な部分もある。最近の自分は、繊細な部分にばかり目がいってしまっていて、一方の極に偏り過ぎているように感じていた。そして、マイゴッドは「もっと遊べ。もっと狂え」と言っているのではないだろうかと、そんなことを考えていた。


透明になりたいと思う。そして、自分の純度を高めるためには、蛇が脱皮を繰り返すように、古い自分を捨て去る必要があるのだと思う。繊細さに偏ることなく、大胆さに偏ることなく、ここから先を行ってしまうと自分の頭がおかしくなってしまうと感じるギリギリの際を、私は、歩いていたいのだ。良いことも、悪いことも、様々な出来事のシャワーを浴びながら、いちいちダメージをくらっては血を流しつつ、その血を見ては「ああ、自分は生きているのだなあ」と感じたがっているみたいだ。


繊細な部分が前面に出ている時は、罵倒の声に傷つくだけではなく、賞賛の声にも傷ついてしまうこともある。誉められる程に、さみしくなる。また、わかってはもらえなかったなあとひとりになる。自分は誉められたくて生きている訳ではないのだと、ただ、友達が欲しかっただけなのだと、そういうことを思ってしまう。しかし、真の男になるためには、他人に期待をする前に、徹底的に自分に期待をすることだ。何が起きても、誰に何を言われても、自分だけは自分を絶対に見離さないこと、いまの自分に守れる宝は、多分、そのくらいだ。




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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

自然のままの姿が、多分、一番美しい。

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手書きの手紙を受け取ると、うれしくなる。人柄に宿る体温が、文字を通じて伝わってくるからなのだろうか。届いた手紙のすべてに返信をすることはできないけれど、出来る限り、自分も手書きで返事を書くようにしている。手紙を書くことはあまり得意ではないから、代わりに、季節の花を封筒にいれる。ちょっと前は梅の花を、最近ではジャスミンの花を、自宅にいない時は道端の草花を勝手に拝借して、そのまま、封筒の中に投入している。

手紙を書く時間と、荷物を封筒に詰める時間と、手頃な花を見つけるために外をうろついている時間は、自分にとってはとても幸福度の高い時間になる。一年前の自分が、いま、手紙に花を添えて誰かに贈るようになっているだなんて、想像することもできなかった。花を添えるようになったきっかけは、熱海に家を用意してくれたムラキテルミさんが、ことあるごとに花を与えてくれたからだ。花をもらうとうれしくなるという感覚を、この【うれしさのバトン】を、いま、私はムラキテルミさんから受け継いでいるのだと思う。

ローズマリー軟膏

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神奈川県のT様から、新作の自家製ローズマリー軟膏が届きました。添えられていた手紙に、ふわっと、心が軽くなるようなうれしさを覚えた。ひとは優しいということ、そして、優しいT様からこうしてバトンを託されていることに、不思議な縁を感じた。丁寧な時間が流れている。ご希望される方に無料で郵送いたしますので、必要な方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※


圭吾さんへ

こんにちは。今日はいつもより多めに軟膏を送りたいと思います。見た目がフラットになっていないものは、私が知人に差し上げる物用として冷蔵庫内でとっておいたものをスパチュラで入れたものです。

気温も高めなので、やわらかくなりやすいですが、手荒れで困っている方々にプレゼントして下さい。圭吾さんからもらうことで、きっともらった方はさらに嬉しいと思います。

軟膏を使って下さる方々へお伝えください。夏場は涼しい場所に置いて下さい。とてもやわらかくなりますので。

それから、何か不足しているものはありますか。消耗品でも何でも、気がついたものがあれば言って下さいね。

⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎



『夏の森』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、一冊ではなく三冊になります。一冊目は、過去のブログ記事で紹介した銀色夏生さんの最新の詩集『夏の森』です。この本は、数日前に大阪に足を運んだ際に、ご連絡いただいた女性から美々卯のうどんすきをご馳走していただいた(他にも書き尽くせない程の贈り物をいただきました)際に、受け取った本のバトンになります。

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※


幸福な人っていうのは
どんな状況の中でも
どんな景色の中にも
どこかいいところを見つけられる人

そして
どんなにすばらしい景色の中にもある影をうとまない人



『わたしは樹だ』

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二冊目は、新潟市西区内野町でイロハニ堂という素晴らしい喫茶店を営むS野さんから届いた『わたしは樹だ』というタイトルの絵本です。この本を読み終えた瞬間に、ああ、これはわたり文庫のためにある本だと感じてくださった天使S野さんは、即座に熱海に郵送してくださいました。生かしたいひとを生かすために生きる。S野さんは、自分にとって、生かしたいと思う(勝手に「生きていてほしい」と思っている)存在のひとりです。

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※


そうして いつか……、

わたしにも たおれる ひが くるだろう。

生きて 生きて、
そして そのときが きたら、
わたしは ゆっくりと たおれよう。

そして、
つぎに やってくる タネたちの ねどこに なろう。

わたしの いのちは、つぎの 
樹へと、森へと、
つながっていくのだろう。



老子入門』

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三冊目は、移動の際に愛読していた楠山春樹『老子入門』です。「世の思想・教訓の類は、人は何を為すべきか、如何にあるべきか、を説くのが通例である。ところが『老子』は無為に生きよ、自然のままがよいという。もっとも無為といっても、何もしないということではない。無作為、つまりことさらな行為をしない、ということである(本文より引用)」ー ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

聖人は積まず、既く以て人の為にして、己れ愈いよ有り、既く以て人に与えて、己れ愈いよ多し。


得道の聖人は自身にためこまない。何もかも他人の為にしながら、自身はさらに心豊かになっている。何もかも人に与えながら、自身はさらに所有(徳)がふえている。



自然のままの姿が、多分、一番美しい。

私は本が好きで、かつては自宅の本棚に無数の書籍を並べていた。しかし、ある日、ふと冷静になって考えてみると「自分が素晴らしいと思うものたちを、自分の手元に置いておいただけでは、自分以外の誰も楽しむことができないじゃないか」ということを思った。そして、自分が素晴らしいと思うものほど、自分の手元に置いておくのではなく、周囲の「これだ!」と思う人達にばら撒きはじめるようになった。


耐久力のある愛を養うためには、とにかく、種を蒔き続けることなのだと思う。ひとつの場所に固執して与えるのではなく、いつでも、どこでも、何を言われても、誰にも理解されなくても、これだと思った瞬間に種を撒き続けていく。すべての種が芽を出すとは限らないけれど、時折、芽を出す果実(よろこんでくれるひとの存在)にこころが慰められることがある。そういう時は、実らなかった種のことを忘れていられる。自分に浴びせられている、罵倒の数々を忘れていられる。


老子の言葉に『天の道は、利して害せず、聖人の道は、為して争わず(天のやり方は、万物に利益をもたらして害することがない。同じように聖人のやり方は、万民の為をはかって人と争わない)』というものがある。自分を必要以上に大きく見せようとしないこと。同じように、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。自然のままの姿でいることが、多分、一番美しいのだと思う。



いつも
空を見上げているような気持ちでいたい

心の解放が必要だ
人には時々

そして帰るところも


銀色夏生『夏の森(角川文庫)』


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。

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久しぶりに熱海の家に戻ったら、玄関先にあるジャスミンの花が満開になっていた。あまりにも綺麗に咲き誇っていたために、見た瞬間、思わず「うわあ」と声が出た。自分のこころの中にある、柔らかい何かが膨れ上がるような感覚を覚えて、ああ、これは夕日を見た時の気持ちと同じだと思った。それを目にした瞬間、何もかもを放り投げて駆け出してしまう、自分の小さな考え事を吹き飛ばしてくれる力がある。

花を見ると、嬉しくなる。花のゴールは、たぶん、咲くことだ。自分の命を大きく開き、無心に咲き誇る花を見て、勝手に嬉しくなる。この気持ちは、小さなこどもを見ている時に覚える、あの、躍動するような嬉しさに似ている。生きているものを見ると、どうして、これほどまでに嬉しさを覚えるのだろうか。きっと、ひとりひとりのこころの中にも花の蕾は隠されていて、それは、いまこの瞬間にも咲き誇る時を待っている。花を育てる時のように、ひとと付き合っていきたいと思う。

花と月を友にして。

家のない生活をしていた頃、自分を惨めに思うことや、得体の知れない寂しさに襲われることが、頻繁にあった。そういう時に、自分の心を慰めてくれた人物のひとりに「良寛」がいる。托鉢の生活を送りながら、詩作を続けていた良寛の生き様を思い出すだけで、元気が出た。稀に、家のない生活を送る私を見て「坂爪さんは強いですね」と言ってくれるひとがいた。しかし、移動を続ける生活は強さではなく、同じ場所に根をはることができない弱さに支えられているのだと、私は、そのように思っていた。


旅に出る人間は不幸だ。根をはる場所を見つけた人間は幸福で、根をはる場所を探し求めてさまよい続ける自分のような人間は、たぶん、不幸だ。いつでも、どこでも、どこまでも、遠くまで行くことができるという強さではなく、いつまでも同じ場所にいることができない弱さがある。それは、家を与えられたいまも変わらない。どれだけ素晴らしい環境を与えられても、また、すぐに「ひとりになりたがってしまう」弱さが出る。


自分の中にある弱さを認めてから、ああ、本当にそうなのだと、自分には弱い部分が大量にあるのだということを、いまさらのように実感するようになった。生きていれば、いいこともあるし、悪いこともある。賞賛の声が届くこともあれば、批判の声が届くこともある。いまの自分には、まだ、賞賛の声にこころを踊らせる余裕も、批判の声にこころを萎ませている余裕もない。自分のこころが「ここにはいられない」と感じる限り、静かになれる場所を求めて、また、移動を繰り返すのだと思う。

良寛

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、水上勉著作の『良寛(中公文庫)』です。「寺僧の堕落を痛罵し、妻や弟子ももたず、法も説かず、破庵に独り乞食の生涯を果てた大愚良寛。その人間味豊かな真の宗教家の実像を凄まじい気魄で描き尽くした水上文学のエッセンス。毎日芸術賞受賞作【表紙裏・内容紹介より引用】」ー ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

我生何処来
去而何処之
独坐蓬窓下
兀兀静尋思
尋思不知始
焉能知其終
現在亦復然
展転総是空
空中且有我
況有是與非
不知容些子
随縁且従容

独りで生まれ、独りで死に、独りで坐り、独りで思う。そもそもの始まり、それは知られぬ。いよいよの終り、それも知られぬ。この今とは何か。それもまた知られぬもの。展転するものすべて空である。空の流れの中にしばらく我れがいるのだ。だから、是もなければ、非もないはず、そんなふうにわしは悟って、こころゆったりと、時のすぎるにまかせておる。

静夜虚窓下
打坐擁衲衣
臍与鼻孔対
耳当肩頭垂
窓白月初出
雨歇滴猶滋
可怜此時意
寥々只自知 

静かな窓の下で、衣をととのえて坐禅を組んでいる。臍と鼻の穴をまっすぐにおくと、耳が肩までたれてくるではないか。窓が白くなった。月が出たのだ。しずくがひとつひとつ落ちる音がする。雨もやんだ。このひとときの、このこころもち、ああ、たださびしさがあるだけだ。ほかのものは何もありはしない。


ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。

これから、幾つかのイベントが控えている。5月20日(金)からは台湾の高雄に行き、5月24日(火)には東京都国立市で開催されるトークイベントに、28日(土)には神奈川県の江ノ島で開催される『わたり喫茶』に、6月5日(日)にはタイのバンコクで開催される『わたりカフェ』に、6月8日(水)にはタイのチェンマイで開催されるトークイベントに登壇した後に、多分、ラオスに向かう。

ひとりでいたいと思いながら、同時に、ひとりではいられない自分がいる。どこかに行きたいと思いながら、同時に、どこにも行きたくないと思う自分がいる。静かになれる場所を探しながら、同時に、強烈な動を求めている自分がいる。昨日までは「これだ!」と思っていたことに、今日、何も手応えを見出せていない自分がいる。確かなことは何もなく、揺れる思いに身を委ねている。変わらないことは、ただ、自分の中にある弱さやさみしさだけだ。

何かに見惚れているとき、それは、たとえば花の美しさにこころを奪われている間だけは、自分の中にあるさみしさが消える。自分の中にある、弱さを忘れさせてくれる。ひととつながるとき、それは、強さではなく「共通の弱さ」を通じて、表面的な一体感や一時的な楽しさではなく、その根底にある「共通のさみしさ」を通じて、より深く、つながることができるのではないだろうか。弱さが強ければ強いほど、さみしさが強ければ強いほど、同じ弱さ、同じさみしさと出会えた瞬間に感じるよろこびは、大きくなるのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

お願いだから、負けないでくれ。

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愛媛県松山市からしまなみ海道を経由して広島に向かい、尾道迎賓館で開催されたイベントに登壇した後に、いま、兵庫県の三ノ宮にいる。最近、小学校の先生を辞めた(辞めたいと思っている)ひとと、頻繁に出会う。誰が悪いとか、何が悪いとか、そういうことは何もわからないけれど、つらそうに仕事をしている大人に育てられるこどもたちは、可哀想だなと思う。マイナスの感情が連鎖していかなければいいなどと、ひどく曖昧な希望を託すしかない。


私のもとには、稀に、不登校のこどもを抱えた親御さんから悩み相談のようなものが舞い込むことがある。息子が不登校になりました、どうすれば学校に行きたいと思えるでしょうか。何もやりたいことがないと嘆くこどもに、親としてはどういう態度を取ればいいでしょうか。どうすれば、坂爪さんみたいな大人に育つのでしょうか。など。私の最終学歴は高卒で、学生時代は根暗で友達も少なく読書と煙草と音楽に溺れ、現在の職業は(限りなく無職に近い)不定、家があるんだかないんだかよくわからない、呼ばれる場所にはふらふらと足を運び、五年後どころか来週何処にいるのかさえもわからない、人様のお手本になれるような生き方は、とてもじゃないけれどできていない。

言葉に支えられて、生きる。


尾道で開催されたトークイベントで「私は、多分、言葉に支えられているのだと思う」という話をした。家もない、金もない、仕事もないという何もない状態の中で、私を支えてくれたものは『言葉』だった。安定はなくても、保証はなくても、心臓は身体中に血液を巡らせている、生命がある。私は、自分に残されている頭と体と魂を使って、そのときの自分が感じること、思うこと、自分を励ますこと、自分を突き落とすこと、自分の心を震わせていることを、言葉に残した。この作業はいまも続いていて、それは、言葉の中に「自分の生命を注ぎ込む」かのように、言葉を通じて自分が生きているということを確認するかのように、そして、これがなければ生きていけない自分に『言葉のエサ』を与えるように、自分に、見えない何かを与えていた。

そして、この、見えない何かによって現在の自分は生きている【生かされている】ように感じている。普通、それで飯が食えていない人間の生業を『職業』とは言わない。私は言葉を綴るが、言葉が金になることはない。誰かが原稿料をくれる訳でもなければ、何処かから印税がはいる訳でもないし、広告宣伝費を貰える訳でもない。私の言葉は、まず、金にならない。その点において、私を「作家」と呼ぶことはできない。しかし、私は、言葉を残すまさにそのことで生き、言葉を残すまさにそのことで生かされているように感じている。

言い換えるならば、私を支えてくれたものは「自分のこころ」になる。自分のこころを言葉にする。自分の言葉に自分のこころは励まされて、自分のこころは、再び「自分の言葉」を生み出していく。この、繰り返しの営みが自分の内側に無限の熱量を生み、自分自身を回転させるほど、空間に『不思議な磁場』が発生する。この磁場が何なのか、私はまだ何も知らない。私はまだ何も知らないけれど、ただ、この『不思議な磁場』の力によって自分は生かされているように感じている。

モーターサイクルダイアリーズ

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エルネスト・チェ・ゲバラ著作『モーターサイクルダイアリーズ』です。この作品と直接的な関係はないのですが、ボリビアで捕虜となったゲバラが銃撃を躊躇う敵軍兵士に向けて放ったと言われている、最後の言葉が胸を撃つ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

落ち着け、そしてよく狙え。

お前はこれから

一人の人間を殺すのだ。


お願いだから、負けないでくれ。

銀色夏生の詩に「すみわたる夜空のような」という題名のものがある。その内容は「何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいよりも、すみわたる夜空のような孤独を」という、とても短い言葉が織り成している。私の生き方は、人様のお手本になるようなものではない。だからこそ、不登校で悩み苦しむひとに対して、仕事や人間関係で悩み苦しむひとに対して、適切なアドバイスや具体的な指示を出すことはできない。私に出来ることは、同じような苦しみを抱えた過去のある、自分の血で書かれた言葉を綴ることだけだ。


俺はこう思う。俺はこのように生きる。嫌だなあと思うことを受け入れてしまったら、魂が腐る。自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとから嫌われる方がずっといい。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。たとえ、それでメシが食えなくなったとしても、このままダメになってしまうとしても、どこまでも、自分は自分のままでいたいのだ。この思いだけが、この願いだけが、これまでの自分を支え続けてくれたように、これからの自分を支え続けるものになるのだろう。そういうことを、何度も、何度も、震える心臓に刺青を彫るように刻み続けている。


これまでの自分が自分に願い続けてきたように、自分と同じ部分を持つひとを見かけては「お願いだから、負けないでくれ」と、勝手に願う自分がいる。自分にはこの身体とこの精神しかないのだから、このままで生きるしかないじゃないかと、どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きるのだと、顔を上げて、前を見て、何度でも、何度でも、威風堂々と歩き出すのだと、何度でも、何度でも、懲りずに言葉のエサを撒く。そして、過去に自分が励まされた言葉をかき集めては「届け、届け」と願い、放つ。希望とは、強さから生まれる思いではなく、自分を含めた人類全体に対して『生きろ』と願う弱さのバトンであり、あらゆるラインを超えて『永遠にそのままで行け』と願う、そうでもしなければ生きていけない弱さから噴き出した【血と汗と涙の滲み】だ。



「泡になる」

その想いは泡になる
泡になって
消えてしまう
だから
気にしなくていい

この想いも泡になる
泡になって
消えてしまう

消えてしまうだろう



「抜け殻」

二人の関係がよかった頃の言葉を
思い出し つないでも
そんなものには意味がない

二人の関係がよかった頃の言葉は
二人の関係がよかった時にだけ正しく機能する

二人の関係が変わってしまった今では
そんな言葉など
もうとっくに死に果てている
見てみろ
ただの抜け殻だ

おまえが抱いているものは
抜け殻ではないか
力をこめればすぐに壊れてしまうだろう

聞きたくないか
できないと泣くのか
俺が壊してやるがどうだ

愛というものの
なれの果てを
俺が教えてやるが どうだ

愛しき君よ
抜け殻など捨てて
現実の二人を見てみろ
そこに希望があるのが見えないか




「白い空」

羽ばたく鳥の
遠い後ろに
ひろがる空
白い空

散りぢりになる葉っぱ
風の音

憧れたあの人

憧れが
消えていった
消えてしまった
今日

白い空に羽ばたく鳥の
広い背中にひろがる空




「希望」

俺達は
いっせいに
おどろき あこがれた

この空の青さ 広さ
見たこともない
狭い路地の上に広がる
青さ まぶしさ

いまなにか
聞こえた?

なにか
胸が躍るようなものじゃなかった?



「すみわたる夜空のような」

何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいより
すみわたる夜空のような孤独を



「君へ」

君は好きなことを、
好きなふうにやるべきだ。
そのことが他人から見て、どんなに変でも、
損でも、バカだと言われても、
気にするな。
だって彼等は、君の願いを知らない。
君が何をめざし、
何に向かっているのかを知らない。
君は彼等とは違うものを見てるのだから。
あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。
そのことを忘れないで。

他人の説教やからかいなど気にせずに、どんどんやりなさい。
けして周りを見たらダメだ。
仲間はいないんだ。すくなくとも途中には。
君はやりたいように、どんどんやりなさい。
やりたいことを。
好きなやり方で。
その行為が同時に君を救うだろう。
その行為は同時に人をも救うだろう。
そのことを忘れないで。


銀色夏生「すみわたる夜空のような」(角川文庫)


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。

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東京都美術館で開催中の若冲展に足を運んだものの、あまりの人混みに「これは無理だ」と思い、100分待ちの大行列を横目に眺めて退散をした。300年前に生まれた人間が、現代を生きる人間たちの大行列を織り成しているという事実を前に、強い感動を覚えた。5月24日(火)まで開催中の『若冲展』の前売りチケットが、いま、手元に一枚ある。ご希望される方に無料で郵送をいたしますので、必要な方は下記連絡先より坂爪圭吾までご連絡ください。

坂爪圭吾 keigosakatsume
MAIL keigosakatsume@gmail.com

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※

昨夜は空港に泊まり、いま、成田空港の第二ターミナルからこの記事を更新している。今日の昼頃には愛媛県松山空港に到着して、12日(木)に尾道迎賓館で開催されるトークイベントに出た後は、何も予定が決まっていない。中国界隈や関西界隈で時間のある方がいたら、いつでも気軽にご連絡ください。現在の所持金が四桁程度ではあるものの、可能な限り、疾風の如く足を運べるように努めます。

諦観の先に得たもの。

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諦観などという大袈裟な言葉を使うのも恥ずかしいことだけれど、昔、家を持たない生活をしていた頃は「今世においては、自分のような社会不適合者には、普通の家庭とか、普通の暮らしとか、そういったものを手にすることは不可能なのだろう」と思っていた。悲嘆に暮れる訳でもなく、卑屈になっている訳でもなく、ただ、薄ぼんやりとそのように感じていた。そして、いま、不思議なことに(そして、非常にありがたいことに)熱海に自分の家が与えられた。諦めていたはずのものが、いま、まさに自分の掌の中にある。

自分に家が与えられたことを自慢したい訳ではなく、諦めていたはずのことが(諦めてからより一層の加速度を増して)実現しているという事実に、人生の不思議さを覚える。幸せになりたいと思っていた頃は、幸せから随分と遠い所にいた。幸せなんてどうでもいいと思うようになってから、前より心は穏やかになり、周囲に惑わされることも躍起になることも減って、気がつけば「幸せになりたいと思っていた頃よりも、よほど幸せになっている」ように感じている。

そして、いま、与えられたはずの家を飛び出して、再び「擬似的な家のない生活」を始めている。いったい、自分は家を持ちたいのか、家を捨てたいのか、安定したいのか、安定したくないのか、幸せになりたいのか、不幸せをくらいたいのか、自分でも、自分のことがわからなくなる。わかることと言えば、生きているということの実感を覚えたいと思っていること、自分の中に拭い切れないさみしさがあるということ、そして、古い自分の小さな殻を突き破り、新しい世界に飛び出してみたいと胸を焦がしている、未熟で強い【こどものような、獣のような】渇きがあるということだ。


『禅とはなにか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鎌田茂雄著作『禅とはなにか(講談社学術文庫)』です。少しだけ減らすことを考えれば、減らした分だけ、世俗から抜け出すことができる。幸せになりたければ(「幸せ」という言葉が適切なのかはわからないけれど)、多分、捨てることだ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バルセロナにわたりました ※※※

人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。


孤独や無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。

宮沢賢治に『告別』という詩がある。この詩の中に、私の好きな箇所がふたつある。ひとつは「おまえのいまのちからがにぶり / きれいな音が正しい調子とその明るさを失って / ふたたび回復できないならば / おれはおまえをもう見ない / なぜならおれは / すこしぐらいの仕事ができて / そいつに腰をかけているような / そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」であり、ひとつが「みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに / おまえはひとりであの石原の草を狩る / そのさびしさでおまえは音をつくるのだ  / 多くの侮辱や窮状のそれらを噛んで歌うのだ / もしも楽器がなかったら / いいかおまえはおれの弟子なのだ / ちからのかぎり / そらいっぱいの / 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」になる。


私は、多分、自分が自分に見捨てられてしまうことを恐れているのだ。「おまえのいまのちからがにぶり / きれいな音が正しい調子とその明るさを失って / ふたたび回復できないならば / おれはおまえをもう見ない / なぜならおれは / すこしぐらいの仕事ができて / そいつに腰をかけているような / そんな多数をいちばんいやにおもうのだ」ということを、自分以外の誰かではない、その言葉が、自分自身の内側から自分に向けて出てしまうことを恐れている。


自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。「みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに / おまえはひとりであの石原の草を狩る / そのさびしさでおまえは音をつくるのだ  / 多くの侮辱や窮状のそれらを噛んで歌うのだ / もしも楽器がなかったら / いいかおまえはおれの弟子なのだ / ちからのかぎり / そらいっぱいの / 光でできたパイプオルガンを弾くがいい」のだと、嬉しさや楽しさだけではない、悲しみの中にも、苦しみの中にもよろこびはあるということを、孤独や自分の無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘るのだということを、花に水を与えるように、いまはまだ言葉がなければ枯れてしまいそうになる自分の心に、言い聞かせている。



「告別」

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく
天の仕事もするだろう
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村の一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
それらのどの人もまたどの人も
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材というものは
ひとにとどまるものでない
(ひとさえひとにとどまらぬ)

云わなかったが
おれは四月はもう学校にいないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけているような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

宮沢賢治春と修羅 第二集』より


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。

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晴れた日に玄関先の椅子に腰をかけて、海や空を眺めながら漂ってくる花の香りを嗅いでいるだけで多幸感に包まれる。何かをしなければならない、生産的な何か、意義のある何か、価値のある何か、そして自分も何者かにならなければいけないという思いに囚われることもあるけれど、極論、ほんとうは何もしなくてもいいのではないだろうか、と、思うこともある。海が綺麗で、雲も、空も綺麗だ。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・疲れてぶっ倒れるまで散歩をすること。


私は、自分の連絡先を公開しているために、突拍子もなく電話やメールで批判的な連絡が届くことがある。こころのない言葉に触れた瞬間、私の心臓は痛み、露骨にダメージをくらう。しかし、自分の好きなひとの言葉を信じるのか、自分の嫌いなひとの言葉を信じるのか、どちらに自分の意識を向けるのかは、自分の意思で選択できるはずだ。合言葉は「丹田を意識しろ!」であり、鼻呼吸を繰り返すなり、疲れてぶっ倒れるまで夜道を散策すること。それでも収まらない場合は、とっとと眠ることだ。

2・自分を使って相手を幸せにすることが愛情ならば、相手を使って自分を幸せにすることは執着になる。


親子関係に問題を抱えているひとと話す機会が、最近、頻繁にある。親の価値観と自分の価値観はまったくの別物であり、こどもは父親の所有物でもなければ、母親の分身でもない。自分に都合のいい範囲内ではこどもを愛するが、自分に都合の悪い場合はこどもを愛せない【許せない】のであれば、それは「こどもを愛している」のではなく「こどもを使って自分を愛している」だけに過ぎない。多分、自分を使って相手を幸せにすることが愛情ならば、相手を使って自分を幸せにすることは執着になる。

3・自分を大切に扱うということは、言葉を大切に扱うということだ。


自嘲的な言葉を安易に使うと、いつの間にか、自身が卑屈な存在に成り下がる。言葉の汚さは精神の汚さを生み、周囲に汚れた人間をかき集める。私は、醜い言葉を多用するひととは距離を置きたいと思っている。人間は、多分、言葉通りの人間になる。自分を大切に扱うということは、言葉を大切に扱うということだ。美しくなりたければ、美しい言葉を使った方がいい。そのための教養であり、そのための知性だ。自分を大切に扱えないひとに、私は、他者を大切に扱えるとは思えない。

4・死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。


ふとした瞬間に死にたくなることがある、毎朝、目覚めた瞬間に途方もないむなしさとさみしさに包まれてどうしようもなくなるということが頻繁にある。先日出会った女性が、そのようなことを話してくれた。私は、過去に肉体と精神をぶち壊して半年間寝たきりの生活をしていた時期があるが、この気持ちが、なんとなくわかる。なんとなくわかるような気がしたからこそ、実際は「死にたい」のではなく「温もりに触れたい」ということなのではないだろうか、ということを同時に思った。

5・誰かを抱き締める時、同時に、自分も抱き締められている。


目の前にいるひとの悲しみは、そのまま、自分自身の悲しみになる。目の前のいるひとの悲しみを慰めることは、そのまま、自分自身の悲しみを慰めることになる。誰かを抱き締める時【誰かに抱き締められる時】、同時に、自分も抱き締められている【抱き締めている】。境界線はない。自分を開けば世界も開き、自分を閉ざせば世界も閉じる。あらゆるものは自分であり、世界は、自分が投げたものが返ってくるように出来ている。

6・何もしない優しさ。


自然が優しいのは、何もしないからだ。

7・きっと、すべては流れている。


空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動することを「行雲流水」と言う。一箇所にとどまることなく、形を変えて、絶えることなく流れ続けるその在り方に、憧れにも似た思いを抱く。きっと、すべては流れている。1年前の感動も、1週間前の感動も、いまの感動ではないのだ。変わらないものがあるとすれば、それは「変わり続ける」ということだけなのかもしれない。それならば、変わり続けよう。空をゆく雲と川を流れる水のように、流れ続けよう。

8・天を相手にし、人を相手にするな。


昨年、数年振りに降り立った佐渡ヶ島に着いた時、私は「この島は人間には見限られているかもしれないが、神には見限られてはいない」という感覚を覚えた。生きていれば、いろいろなことがある。禍福は糾える縄の如しではないけれど、いいこともあれば、悪いこともある。その中で、最後の最後に残る自由「どのような態度を選択するのか」だけは、常にひとりひとりの掌中にある。多分、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。一生懸命に生きるということは、他人の顔色や世間的な評価を気にすることではなく、どれだけ周囲の人間から馬鹿にされたとしても、天に恥じない生き方をするということだ。


9・毎日が出発で、毎日がゴールだ。



問答無用で、絶品です。

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、本ではなくて(前回のブログ記事で紹介した)石川蒟蒻工場様の『大とろ風さしみこんにゃく』です。あろうことか「郵送代金がないから困った!」的な投稿をしたところ、私が送料代金を負担しますよという神様的な男性が登場した(!)ために、ご希望される方々に【自分が食べる用と、誰かにあげる用の2袋】を無料で郵送します。問答無用で、絶品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。抽選の結果、御当選(?)された方には24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

10・他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に、飛翔する翼がある。


他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に、飛翔する翼がある。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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大切なのは、出発することだ。

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家や風呂やお布団のありがたみを思い出すために、GWはキャンプ道具一式をバイクに積んで『家に帰らない生活』を送っている。固い地面に眠り続けた日々のあとに、柔らかい布団で横になれた時の幸福は大きい。多分、幸福と不幸はワンセットだ。寝袋で眠ることは時にしんどい思いも与えるが、確実に、布団で眠れるよろこびを増幅させる。そして、屋内ではなかなか感じることの難しい、大地の深遠な広がりを感じさせてくれる。

世界各地を転々としている女性から「航空券代などは負担するので、来月、一緒にインドを巡りませんか?」という非常に魅力的なお誘いが届いた。インドにはまだ行ったことがないので、私は、快諾した。まだやったことのないこと、まだ行ったことのない場所に行く前に感じる、この、ワクワクする胸の高鳴りが大好きだ。どんなにささやかなものでも構わないから、一日にひとつ(それは「新しい料理のレシピを覚えた」という程度のものでも構わないから)、自分を更新するように、生まれてはじめての経験を重ねる日々を過ごしたい。

ローズマリー軟膏』

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神奈川県在住のT様から、自家製ローズマリー軟膏の新作が届いた。ご希望される方に無料で郵送(あるいは手渡し)いたしますので、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。過去に贈り届けた方々からも喜びの報告が相次いでおり、そんなにすごいものなのかと思って私も自分に使ってみたところ、その、絶大な効果に度肝を抜かれました。作り方も簡単みたいなので、手荒れに悩む方など、是非、近所のホームセンターで苗を購買することをおすすめいたします。

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※


『大とろ風さしみこんにゃく【feat.酢みそ】』

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あまりにも素晴らしいこんにゃくと出会い、私は、所持金のすべてを投げ打って『大とろ風さしみこんにゃく』を100個発注した。言葉を失うほどに美味い(付属する『酢みそ』のタレが半端ない)ので、無料で人々に郵送しまくるために発注した。が、よくよく考えてみたら100人に贈り届けるための郵送代が自分にはないことに(25キロのこんにゃくが届いてから)気がついた。が、そんなことはどうでもいいのだ。大切なことは『生かしたいひとを生かすために生きる』ことであり、私は、これほどまでに美味しいこんにゃくを製造し続けてくれた石川蒟蒻工場様を生かすために生きたいのだと思ったのだ。大量のこんにゃくをどのように展開させていくのかは未定ですが、是非、ご賞味ください(熱海に来たひとには無料であげます)。


長い旅の途上

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫長い旅の途上』になります。本に限らず、ひとやものやことには【外に連れ出してくれる力】がある。新しい靴を買えば外に出かけたくなるし、キャンプ道具を買えば自然の中でキャンプをしたくなるし、素晴らしい言葉に触れることができれば、素晴らしい人生を送りたくなる。星野道夫さんの言葉には、小さな世界を飛び出して、広い世界に連れ出してくれる力がある。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。

人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。

僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。

バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。

偶然の一致に意味を見出すか、
それとも一笑に付すか、
それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。

その大切な何かが、
たましいというものだった。

一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。
もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい

寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。

人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。

大切なのは、出発することだ。

この世に生きるすべてのものは

いつか土に帰り、また旅が始まる。


大切なのは、出発することだ。

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来月はインドに行くが、五月は11日に愛媛県行きの航空券があるだけ(実際に足を運ぶかは未定)で、何もすることがない。自分の予定を自分で決めるのも良いけれど、自分の予定を自分以外の他人に決めてもらうことも、多分、素晴らしい。自分では発想し得ない角度の依頼が舞い込み、場合によっては、インドにも行ける。自分自身を奴隷として解放して自由に好き勝手に使ってもらう『奴隷経済』というものを過去にやっていたのですが、再び、五月限定でこれを再開したいと思います。


同じように、熱海の家も『誰もいない期間』が増えてきた。善意のカタマリでもあるこの家も、何か、素敵な化学反応の場にしていきたいと思っている。私は、多分、数年前から「自分で決める」ということを放棄してしまっている。目には見えない大きな流れの中に身を委ね、そこで起きた出来事や、そこで手にしたものやことを、再び、大きな流れの中に投げ出していく。自分ではなく、自由に委ねる。多分、生きるということは「どうにかする」ということ【自分でコントロールできるもの】ではなく「どうにかなる」ということ【自分のコントロールを超えたもの】だと思う。

初夏を迎え、大地は賑やかになってきた。草木は芽吹き、虫達は這い回り、鳥達は飛び、蜂は蜜を運び、猫は寝転び、蟹は沢を歩く。ありのまま、そのままの姿で命を燃焼させる姿を見せてくれるのは、必ずしも、人間ばかりではない。ひとりきりの時間が多いけれど、これだけ賑やかな空間にいると「ひとりではない」という気持ちにもなる。五月だ。空に、雲に、海に、風に、大地に、外に連れ出す力が充溢している。大切なのは、出発することだ。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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この一瞬のために生きていた。

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高円寺の小杉湯を経由して、国立市で開催されたイベントを終えた後、山梨県都留市在住の女性から「国立まで車で迎えに行くので、都留市に遊びに来てください」と連絡をいただき、都留市を経由した後に熱海まで車で送っていただいた。この連休は何も予定がないので、適当なキャンプ道具をバイクに積んで、伊豆半島を周遊した。五月だ。美しい風景に触れた時、ああ、自分はこの一瞬に触れたくて生きていたのだということを思う。


自然を前に、自分が消える。

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自然を目の前にすると、「俺は、俺は」と自分を主張することが、恥ずかしいことのように思える。私は、多分、暇で、さみしいのだ。連日、懲りることなく移動を続ける日々を過ごしているのは、移動が好きであること以上に「暇で、さみしいから」なのだと思う。そして、私は、ここに自分の弱さを見る。同じ場所にいることができない自分の弱さを、懲りることなく移動を続けている自分の弱さを、自然は、何も言わずに受け入れてくれる。

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自分のことを「ダメだな、ダメだな」と思うことは頻繁にある。バイクを走らせながらも、海岸沿いの心地良い風を浴びながらも、必ずしも気分は常に清々しいだけのものではない。ただ、どうすることもできないやるせなさを抱きながら、為す術もないままにバイクを走らせる。そして、ふと目にはいってくる美しい風景に「あっ!」と心を奪われている瞬間だけ、その瞬間だけは「自分の弱さに対する不甲斐なさ」を忘れることができる。

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見晴らしの良い崖の上で、持参した珈琲を淹れた後に、適当なシートを敷いて昼寝をした。この瞬間だけは、心の底から「いいな」と思える瞬間だった。諸々の不甲斐なさを抱えながら、それでも、こういう瞬間があるからこそ「ここに来てよかった。バイクを走らせてよかった。大袈裟だけど、生きていてよかった」と思う。弱い人間は、大袈裟な言葉を求めるのだろう。生きていて良かったと思える瞬間を栄養分に育つ草花のように、頻繁に、そういう思いを自分に与える必要があるのだろう。

若冲展@東京都美術館

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、本ではなくて美術館の入場券【わたりチケット】になります。こちらのチケットは、東京都在住の女性が「無理やりにでも観てもらいたい展示があるので、わたりチケットとして送ります!」と連絡をくださり、先日、熱海の家に届いた。私には、まだ、若冲の類稀なる素晴らしさを語る言葉がない。是非!としか言えない。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※


この一瞬のために生きている。

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東京の国立市で開催されたトークイベントに、大学時代の友達である女性が遊びに来てくれた。既に結婚をしている彼女には、一歳になる小さなこどもがいる。帰り際、彼女は「前に、けいごが『わたり子育て【みんなで育てる】』をやりたいみたいなことを言っていたけど、あのね、私、多分、けいごは既にそれをやっていると思ったんだ。この前にブログで紹介してくれた『奈々子に』っていう詩も、間接的に子育てをめっちゃしているような気がして、だから、今日はそのことを伝えに来たんだよ」と話してくれた。


彼女曰く「私がこどもを生んだとき、私みたいな人間が親になってもいいものなのか、こどもに『頼みもしないのに、どうして生んだんだ!』みたいな風に思われたらどうしよう、みたいな気持ちになることがあったんだけど、けいごのブログを読んだりしながら、私も『こんなに不完全でも楽しそうに生きれるんだよ』ってことを伝えられたらいいなあとか思ったりして、これって、変な言い方になるけれど一緒に子育てをしているようなものだって思ったんだ」と話してくれた。

彼女の言葉を通じて、私は、この日、この場にいることができる幸運に感謝をした。大袈裟な言葉になるけれど、自分の生き方も間違ってはいなかったのだということの、ひとつの証左をもらえたような、そういう気持ちになった。イベント参加者の別の女性から、その後、一通のメールが届いた。この瞬間は最高だった。そう思える瞬間に、自分はどれだけ支えられて来たのだろうか。この一瞬のために生きていた。そう思える瞬間を重ねて行こう。特別なことはしなくても、特別な人間になろうとはしなくても、自分の心が「いいな」と思える瞬間を重ねた先に、多分、特別な人生はあるのだろう。


こんばんわ!⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。
今日はお話会、ありがとうございました‼︎
覚えてていただけた事、当たり前じゃないですか!のお言葉に感謝感激、ありがたき幸せです!
圭吾さんのお話会ってどんなんだろう?と思い参加させていただいたのですが、色んな方がいらっしゃるんですね。皆さんすごいなぁと思いました。

私はあの中で圭吾さんのお友達が言われた
わたり子育てしてくれてありがとう!がとても響きました。
わたり子育てについて私はよく理解出来ていなかったのですが
菜々子への言葉も、圭吾さんのブログも子育てになってると聞いてすごく面白く感じ
確かに、お母さんを通じて圭吾さんを知って奮闘するお子さんたちの話をブログで読んではなんだかすごく嬉しくなり、それは圭吾さんを通じて育っているという事なんだなと感じました。

見方が違うとこんなにも素敵な事に気付けるんですね!楽しかった^ ^

またどこかでお会いできればと思います。
ありがとうございました‼︎

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人生は続く。

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奈々子に。

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熱海に戻り、いま、眠る前に読んでいた吉野弘の詩『奈々子に』が心に響いた。素晴らしい作品に触れると、ひとりでも多くのひとに伝えたい気持ちになる。久しぶりの再開になる「わたり文庫無料郵送の一冊」は、こちらの詩集(ハルキ文庫)になります。言葉はただの感情で、人間の心の動きと一致した瞬間に『言葉は音楽【詩】になる』のだと思う。この詩が、いま、この詩を必要とする誰かに届いたらほんとうにうれしい。ご希望される方は、ブログ記事末尾にある各種連絡先より、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

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※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※


奈々子に 

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

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人生は続く。

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真善美の光を追い求めること。

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大分県でピックアップした車をかっ飛ばして、いま、兵庫県の神戸界隈にいる。福岡空港から大分市内までの道のりは、福岡在住の女性二人組が(レンタカーを借りてまで!高速料金を負担してまで!)送り届けてくれた。初日の夜は2000円で購買したキャンプに寝袋を敷いて、美しい朝日が望めそうなポイントで野営をした。翌日の夜は、広島県尾道市在住の女性のご自宅に泊めていただき、帰り際には「下道は大変だと思うので、高速代に使ってください」と、お布施まで頂戴をしてしまった私は慟哭した。


昔、家のない生活を送っていた(家賃を払う経済的な余裕がなかった)頃、洞窟にテントを張って暮らしていたことがある。通常は屋内でするようなことを、ただ、屋外でやるだけでも楽しさや発見が増幅するから不思議だ。金もなければ仕事もない、何もない惨めな自分を憐れみかけていた時期もあるが、波の音を子守唄に、鳥のさえずりをモーニングコールにする生活にはそれなりの新鮮な潤いがあり、この時期、私は生まれてはじめて「朝日はこれほどまでに美しいものなのか!」ということを知った。


それ以来、私は、適当な場所を見つけては勝手に野営を営むことが趣味になった。スタバで飲む珈琲も美味いし、ヒルトンホテルのラウンジで飲む珈琲も美味い。しかし、海岸沿いのテントの中で淹れた珈琲を飲むのも、これはこれで、相当に美味い。誰もひとがいないことは、多分、最高の贅沢になる。「贅沢な珈琲を飲む」ではなく「珈琲を贅沢に飲む」ことが、私のような『貧民でも人生をフルスロットルで楽しむための、生きた知恵になるのではないだろうか』みたいなことを思っている。

有漏路より 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け【一休宗純

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数日前、野営をするために静岡県熱海市初島に行った。周囲4キロの初島は、徒歩で一周できる手頃な広さで、島の中には珍しい南国の植物が群生している。最近は、花とこどもに癒される日々を過ごしていた。花は、自分を主張することなくただ咲き誇り、こどもは無償で、無目的に、何の見返りも求めずにいまという瞬間に最大限のエネルギーを投入する。その姿を見ていると「俺も、まだまだだなあ」という気持ちになる。

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花の王様「キング・プロテア」

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島猫が登場した。

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花と猫。

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最終的に異様になついた猫に「お前もひとりなのか」と語りかける、私。猫も植物も小さなこどもも、多分、人間の言葉を理解しているのではないだろうかと思うことがある。かわいいねえと話しかければ、それに応えるかのように猫も植物もこどももすくすくと育ち、無視をしたり、無機質な扱いをすれば、それに応えるかのように猫も植物もこどもも無機質で乾いたものになる。


自然が優しいのは、多分、何もしないからだ。

真善美の光を追い求めること。

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車を走らせながら、珈琲を飲みながら、テントの中から星を眺めながら、なんのために人間は生きているのだろうかということを考えていた。いままで生きてきて30年余り、とてもじゃないけれど「誰かのお手本になるような生き方」なんて出来なかった。普通に働いていた時期もあったが、葛藤の苦しみは常につきまとい、何をしていても「生活のために生きるのは虚しい」という思いを拭い去ることはできなかった。


昔は素敵だと思っていたひとも、いまでは「お前も金か!」とツッコミをいれたくなる場面が増えている。生活のためとか、家族のためとか、将来のためとか、これらのすべては「金のため」を言い換えているだけにしか見えなかった。金銭の価値を否定したい訳ではなく、本来はただの手段であるはずの金が、いつの間にか最優先の目的になっているひとの姿を見ることが悲しかった。限りのあるこの命を、たった一度きりのこの命を、金のためだけに終わらせてしまうことが、私には「本当の生き方」だとは思えなかった。

それでは、本当の生き方とは何だろうか。究極のところ、金のためでもなく、世間的な評価のためでもなく、ただ、そのひとが見た『真善美の光を追い求めること』ではないだろうか。自分にとっての真実を、自分が善いと思うことを、自分の心が美しいと思える瞬間を、命のある限り追い求めようとしているその姿に、私は、憧れにも似た強い共感を覚えている。生活のためではなく、生命のために生きてこその人生だ。金も名誉も世間的な評価も二の次で、ただ、この世にひとつだけの小さな命を「これでもか!これでもか!」と燃やし尽くそうとしているその姿に、私は、強い感動を覚えているのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ロックンロールが大好きです。

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新潟県から福島&栃木&東京を経由して初島に向かい、いま、成田空港の第2ターミナルで軽くボロボロになっている。福島県会津の山奥でバイクのタイヤがパンクをして、JAFのレッカー車で60キロの道程を運ばれた後に高額な料金の請求が届いて死んだ。今夜は成田空港に泊まり、明日の朝には福岡空港に到着した後に、大分県にある車を下道で熱海まで運ぶミッションが控えている。初島の空は綺麗だった。人生は、予測不可能な出来事の連続である。しかし、ボロボロになるのは嫌いではない。私は、多分、逆転ホームランを打ちたいのだ。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・言葉は音楽【詩】になる。


私は「ひとと話をしたい」と思っているけれど、ひとと話していても「ひとと話している気がしない」ように感じることが頻繁にある。そういう時、私は、ひとりでいる時よりもよっぽど悪質な孤独を覚えることになる。コミュニケーションの基本は「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」だと思う。言葉はただの容れ物で、自分の感情と合致した瞬間に『言葉は音楽【詩】になる』のだと思う。

2・言葉を粗雑に扱うひとは、自分を粗雑に扱うひとだ。


私は、言葉を大切に扱うひとが好きだ。言葉を大切に扱おうとしている、そのひと自身の真摯な態度が好きだ。言葉を粗雑に扱うひとは、自分を粗雑に扱うひとだ。自分を粗雑に扱うひとは、他人を粗雑に扱うひとだ。他人を粗雑に扱うひとは、世界を粗雑に扱うひとだ。そして、世界は自分が投げたものが返ってくるようにできているのだと思う。世界を変えたいと願うのならば、言葉の扱い方を変えることだ。

3・被害者意識ほど醜いものはない。


被害者意識ほど醜いものはない。あいつが悪いとか、職場が悪いとか、家庭環境が悪いとか、いまの世の中が悪いとか、常に何かのせいにしようとしているひとに足りないものは「自分の中にある悪い部分を直視する強さ」だと思う。誰かを悪いと言えるほど、自分はいいと思っているのだろうか。聖書の中に出てくる、罪をおかしたことのないひとだけが、罪人に対して石を投げることができるという逸話を思い出す。他人の生き方にああだこうだと口を出す前に、徹底的に自分を真面目に生きれば、大概の問題はなくなると思う。

4・はじまりの終わり【終わりのはじまり】


あるひとから「別れたいひとがいるのだけれど、このひとと別れてしまったら自分がダメになってしまうんじゃないかと思うとこわくて別れることができないんです」という話を聞いた。これがダメになったらおしまいだ、という恐怖が自分の決意に二の足を踏ませることになるのだろう。しかし、これでおしまいだなんてことは、この世にひとつもないのだと思う。終わりもはじまりも同じことで、何かを終わらせることができない限り、何かをはじめることも永遠にできないのだと思う。

5・DO【何をやるか】よりBE【どのようにあるか】


やりたいことがわからないなんていう悩みほど、この世の中にくだらないものはないと思う。「何をやるか」なんていうことよりも「どのようにあるか」の方が、私には、よほど大切なことであると思っている。自分のあり方が定まれば、どのような自分でありたいのかということが定まれば、いま、この瞬間から、いつかなんていう言葉と一緒に何かを先送りすることなく、自分自身のど真ん中を生きることができる。

6・中途半端な未練を断ち切ること。


中途半端な未練を断ち切ること。

7・自分の人生を取り戻すこと。


誰のせいにしなくても、自分には力があるのだということを、自分には誰の力を借りなくても本当は自分だけの力でいくらでも道を打開していくことができるのだということを、「自分には力があるのだということ」を、認めることを恐れないこと。被害者意識を捨てることは、多分、自分以外の誰かに預けてしまっていた自分の人生を、再び自分の手元に取り戻すことだ。

8・自分の好きなように生きればいいのだ。


誰の顔色も伺わなくていいから、誰の意見も気にすることはないから、自分がやりたいと思ったことを、ただ、自分のやりたいように思う存分にやればいいのだ。うまくいくとか、うまくいかないとかは関係なく、失敗してもいいから、馬鹿にされてもいいから、どんなにダメでも実際にやってしまうというまさにそのことの中に、自分であるということの手応えがあるのだ。

9・タンポポの綿毛のようなフットワーク。


真剣になることと深刻になることは別物で、ひとりだけの時間に何かを深く考え込んでしまうと、勝手に深刻になってしまうことがある。深刻になると身体も思考も重くなり、人生全体に暗雲が立ち込めてしまう。合言葉は「タンポポの綿毛のようなフットワーク」で、多分、人生で最も大切なもののひとつは『軽やかさ』だ。軽薄な意味での『軽さ』ではなく、軽快という意味での『軽やかさ』だと思う。

10・ロックンロールが大好きです。


ブルーハーツの『1000のバイオリン』という曲の中に「誰かに金を貸してた気がする」という私の大好きな歌詞がある。その歌詞の後には「そんなことはもうどうでもいいのだ」という言葉が続くのだけれど、私は、この言葉の中にロックンロールのすべてが詰まっていると言っても過言ではないと思っている。私にとって、ロックンロールとは、人生のあらゆることに対して『そんなことはもう、どうでもいいじゃないか』と言ってくれるものだった。

金がないとか、夢がないとか、自信がないとか、勇気がないとか、仕事ができないとか、勉強ができないとか、友達が少ないとか、恋人がいないとか、もう、そんなことはどうでもいいじゃないか、と、優しく吹き飛ばしてくれるものがロックンロールだった。いまも昔も、多分、私はこの『どうでもいいじゃないか』という精神に強く支えられていて、ともすると小さなことで簡単に悩みがちな自分のケツを叩いて来ることができたのだと思う。

先日、宿を提供していただいた女性から一通のメールが届いた。ロックンロールとは音楽のジャンルではなく、自分を貫く個人の生き様みたいなものだと思っている。私は、逆転ホームランを打ちたいのだ。どれだけ大差をつけられたとしても、どれだけボコボコにされていたとしても、それでも、常に逆転ホームランを狙う姿勢だけは絶対に失うことのない弱者のあり方に、私は、強い共感を覚える人間なのだ。そして、逆転ホームランは、負けている者にしか打つことはできない。いつの日か「逆転ホームランを打てる日が来るかもしれない」という思いが、連日の野営でボロボロの自分を支えている。


坂爪圭吾さん

こんにちは
××の⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。
昨日××に戻りました。
その後もブログ興味深く読ませていただいています。

物や人に呼ばれて、地球上を移動されている坂爪さんが動いた後が
地図上に赤い線で、記録され
ある地点は濃密でぐちゃぐちゃとなっていて、
ある地点は直線的で、という図が
浮かんできて、それは私をものすごく楽しくさせます。

私は坂爪さんと過ごさせていただいて、坂爪さんがつぶやきのように
時折発せられる言葉のいくつかが、深く残っています。

坂爪さん自身への問いであり、私や世界への投げかけのような。

その中のひとつに
「僕は人生もロックンロールってあるとおもうんですよね」
という言葉があります。

私もロックンロールは大好きで、私のする仕事はすべて
ロックでありたいな、と常々思っているのですが、

坂爪さんをみていて思ったのは、
ロックンロールとは

常にぎりぎりであること、

ぎりぎりの縁、端、にいること、

リーディングエッジに

自らを立たせるということ。

目的があってそうするわけでなく、
本人すらも先を予想していない。

その結果、生み出されるものは
常に最先端であり、前代未聞。

私は坂爪さんと夜車に向かう時
ふたりで並んで歩いていた時に

坂爪さんからというか左側から
圧倒的なyes を感じたんですよね。

ものすごくすがすがしかった。

すがすがしさを味あわせていただいて
ありがとうございました。

私も⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎と友達の家を転々としていて
××の家は同居人が守ってくれているので
坂爪さんがブログに書かれていた、家は女性(または女性生のある男性)に任せて、というのが本当にそうだな〜、って感じています。

自分が何をしているのか、したいとおもっているのかが
坂爪さんと過ごして少しわかりました。

私もエッジに自らを立たせて
前代未聞をやっていきたいとおもいます。

そして縁(ふち)は縁(えん)という言葉でもあるという
不思議。
そんなことを今思っています。

とても貴重な時間でした。

ありがとうございました。
心から。
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

満足した豚に、狼の孤独は歌えない。

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愛媛県を経由して成田空港に飛び、東京駅から上越新幹線に乗って故郷の新潟駅に到着した。恐竜の日でもお馴染みの4月17日(日)は、非常にエポックメイキングな一日となったために正座でツイキャス配信をした。昔、笑う犬の生活というお笑い番組の中で「生きてるってなんだろう??生きてるってなあに??」ということを繰り返し続けるコントがあったが、いま、そのような心境にいる。坂爪圭吾が坂爪圭吾のままでいる時間も、あと、残り少ないものになるのかもしれない。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・「生に対する執着」が消えた。


ここ最近は「一回死ね」とか「死ぬ前に死ね」とか「死に慣れるしかない」的なことばかりを繰り返し言い続けていたが、精神的に死に続けることを通じて『生に対する執着が消えた』ように感じている。生に対する執着が消えると、死に対する恐怖も薄らぐ。ひとりでもいいという覚悟を決めてから「自分はひとりではない」ということを思うようになり、死んでもいいという覚悟を決めてから「自分は生きているのだ」ということを強く実感するようになった。これは【山伏の死生観】とも似ているらしい。

2・居場所とは、場所ではなくて人間だ。


ツイキャス配信で話した内容の詳細は割愛するが、私にとって、熱海にひとつの居場所ができた。それは、熱海が温暖で暮らしやすい気候だからということではなく、ムラキテルミさんという『そのひとのことを思うだけでもこころが尋常ではなくあったかくなるひと』がいるからです。数日前まで四国で【家を拾うまで帰れま10】をやっていた最中も、ブログには書けないような愛と苦しみの時間は続いていた。しかし、私には帰る場所がある。居場所とは、場所ではなくて人間だ。自分の居場所がある限り、多分、男はいくらでも安心してボロボロになることができる。

3・美しくないものは排除する。


先日、熱海の家に遊びに来た女性が「ここって誰でも無料で泊まれるんですよねえ??それなら、あたしも泊まってってもいいですかあ??」みたいなことを言った。確かに、私は熱海の家を完全に開放している。しかし、正直なことを言えば「下品なひとには泊まってもらいたくない」と思っている。そのことを正直に相手に真っ向勝負で伝えたら、一時的に軽く衝突したものの、衝突している最中に『彼女の中にある美しい部分』を感じることができたために、結果的に和解した。

4・根本的な人間の力に大差はない。


私の父親は、過去に二回ガンを経験している。数年前に大腸ガンを患った父親は、医者から「タバコをやめろ」と言われた。しかし、父親は懲りずにタバコを吸い続けた。母親が「タバコはダメでしょ!」と言うと、父親は、驚いたことに母親に向かってあっかんべえをしたのだということを、昨日、母親から聞いた。そして、大腸ガンを患った1年後に肺ガンになり、結果的にタバコをやめた。

5・捨てなさい。


昔、山本周五郎賞を受賞した『ゴサインタン』という小説を読んだ。その作品内では神的なポジションにいる女性が登場するのだけれど、彼女は、ことあるごとに「捨てなさい」という言葉を連呼する。自分の所有物が多い人間ほど、失った時のダメージは大きい。時には「再起不能です!」というレベルのダメージを負うこともあるが、持たざる者には「喪失のダメージ」もない。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福になるのかもしれない。

6・自分の目で見たものを信じるひとと、自分は一緒にいたいと思う。


このような投稿をしたら、科学者もどきの男性から「自分の主観ほどあてにならないものはないというのは、科学の世界では常識ですよ」的なレスポンスが舞い降りた。自分は客観的なものの見方を大切にしているのですよ的なことを言いたかったのだろうとは思うのだけれど、私は、自分の主観を完全に排するなんて無理だろ!【客観的だと思うことは主観だろ!】と思う以上に「きっとこの男性はモテないんだろうなあ」と思ったので、無視をした。

7・好きなひとに出会うことは、好きな自分に出逢うことだ。



好きなひとを失うことは、好きな自分を失うことだ。

8・生もよし、死もよし。


「大丈夫だよ!」という言葉を使うひとの意味合いには、多分、二種類ある。ひとつは「いまは不安でも、いつか必ず安定する時が来るから大丈夫だよ【雨はあがる】」的な意味合いであり、もうひとつは「安定もよし、不安定もよし、どちらにしても大丈夫なのだ【雨もよし!】」的な意味合いになる。これらの二つは、似ているけれども全然違う。前者の「大丈夫だよ!」は、実は、現時点のあなたはまるで大丈夫じゃないということを暗に伝えている。後者の器は大きい。現在の状態にまるごとOKを出している。

9・大切にされたければ、絶滅しろ。


絶滅危惧種は大切にされる。自分自身に「大切にされたければ、絶滅しろ!」と思うことがある。どこにでもいるような生き方をしていたら、自分ひとりでも思い煩うことなく増殖を繰り返すことができるような生き方では、絶滅危惧種のような高待遇を受けることはできない。私は、絶滅危惧種のようなレアでピュアな人間が好きだ。このひとでもいいかなと思うひとではなく、この絶滅危惧種のような希少性と純度を携えたひとと同じ時間を過ごしたい【同じ時代を生きていたい】と思っている。

10・満足した豚に、狼の孤独は歌えない。


過去に、岐阜県でお会いした女性が「夢に岡本太郎が出てきたんです」と話してくれた。現在の彼女は、会社員を務めながら趣味の点描アートを行っていて、最近では仕事の依頼も舞い込むようになり、個展の予定もはいり、贅沢はできないにしても生活はそれなりに安定していて、点描に集中している時間はほんとうに幸せで、ああ、自分は幸せな日々を過ごしているなあと思っていた。そんな中、彼女の夢に登場した岡本太郎は「お前は、この程度の生き方で満足をしているのか」と言ったのだという。

彼女は、岡本太郎のひとことに衝撃を受けた。そして「このままじゃ、アカン!」と思った彼女は俄然奮起し、現在は、誰に頼まれるでもなく、誰に評価されるでもなく、いままでに挑戦したこともない特大サイズの作品の制作をはじめたのだと言う。誰かの命令ではなく自分自身の命令に耳を傾ける彼女を、誰かの評価ではなく自分自身の絶対的な評価を求めてキャンバスに挑む彼女を見て、私は、心の底から素晴らしいと思った。そして、これは彼女の話であると同時に、彼女だけの話ではない【自分自身の話でもある】のだと思った。要するに、自分自身の生き方を「生温い」と激烈に恥じた。

お前は、この程度の生き方で満足をしているのかという言葉の裏には、目の前の人間に対する強い信頼がある。それは「お前はこの程度の人間じゃないだろう」という信頼であり、自分の奥の方に眠る何かを、このひとだけはしっかりと見据えてくれているという嬉しさがある。ああ、ほんとうは、自分はもっと激しく生きたかったのだと焦がれている、胸の奥に眠る生命の存在に気付く。自分を守ろうとするのではなく、自分をダメにしてやろう。自分を投げ出してやろう。うまくやろうとするのではなく「よし、失敗してやろう。傷ついてやろう」と思う時に、自分の命が踊る感覚がある。幸も不幸もどんと来い。満足した豚に、狼の孤独は歌えない。ギリギリの道を行くものにだけ宿る魅力があるのだと思う。

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人生は続く。

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