いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【MNL-マニラ市街地】調子に乗らずに、自由に生きろ。ー 自分なんかダメだと思うのがいちばん良くない。それよりも「自分は宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ」と開き直ろう。

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生まれて初めてフィリピンのマニラに来た。格安航空券のジェットスターを利用したので、関西空港から片道およそ一万円だった。目的のない移動なので、特に何をする訳でもない。宿泊代も千円程度の簡易ホテルで済ませている。強い欲求のひとつに『ゼロになりたい』というものがあって、それがどういうことなのかはわからないけれど、その感覚を僅かでも実感できたらと思いながら訪れた。

マニラで思うことあれこれを、10箇条にしてまとめます。

1・自分は宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。


不思議と、海外に足を運ぶと「日本で勝手に縮こまっていた自分」を感じる。誰に言われた訳でもなく、自分で自分を低く見積もり、勝手に天井を設けて、何かを失うことを極端に恐れたりする。当たり前のことだけれど、自分を否定しても誰も幸せにならない。自分なんかダメだと思い込んで塞ぎ込んでしまうのがいちばん良くない。それよりも「自分は宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ」と開き直るようにしよう。

2・「何もしていない」ことは悪いことじゃない。


世界中から様々なジャンルの人種がゲストハウスには集まる。何故か私はフランス人と韓国人にやたらと遭遇するが、基本的に西洋人は何もしていない人が多い。朝から晩までラウンジで寝転び続けているカップルもいて、「(生きている限り)何かをしなければいけない」というのは幻想なのかもしれないと思う。

3・生きることを悩まない。


「何かをしなければいけない」という強迫観念が行きすぎると、何もしていない自分に対して罪悪感を抱くようになる。存在の価値と功績の価値がごちゃ混ぜになってしまって、何かをしていない限り自分には何の価値もないということになってしまう。必要なのは「存在しているだけで価値がある」ということを深い所から実感することだけれども、これを日本で感じることは非常に難しい。

だから私はマニラまで逃げて来たのかもしれない。乱暴な言葉でまとめると「生きることを悩むフィリピン人」はいない。生きることを悩むというのは、先進国の人間が持つ贅沢な嗜好品なのかもしれない。

4・海外での現地集合も容易に達成できる時代になった。


今回は大学時代からの友人である大胡田真隆さんと行動を共にしている。彼は四年前から台湾で語学留学をはじめ、現在は台湾の会社で働いている。数年前に「いつか海外で現地集合できたらいいね」などと話していたが、今回、無事にマニラで合流することに成功した。

心理的なメカニズムが似通っているためか、大胡田さんと過ごす時間のストレスは限りなく0に近く、何もしない私を温かく見守ってくれた。買い物や観光に興味のない私達は、基本的には食べ歩きも兼ねた散歩をしながら、幾つかの話題について話したりしていた。

5・笑顔に嘘がない。


大胡田さんとマニラの海沿いを歩く。幾人ものフィリピン人とすれ違う。大きな声をあげて笑っている彼らの笑顔を見て、大胡田さんは「笑顔に嘘がない」と言った。私は「わかる」と言った。何かこう、日本でよく見る『笑顔がつらそうな人(笑顔がひん曲がっちゃってる人)』が、まるでいない。

6・大胡田さんの彼女(台湾人)の話。


そして大胡田さんは、現在台湾で同棲している台湾人の彼女について話してくれた。「台湾に来てからいまでも思っていることだけど、とにかくアジア人の『人目を気にしない』ところが本当に羨ましい。同じ服を着てても何も言われないし、僕の彼女も良い意味であまり物事も深く考えないから、『ほんとうはあの人はこんなことを思っているんじゃないのか』みたいな感じで、人付き合いでも余計な推測をしない。見たままで付き合ってくれるし、そこが凄い好きだ」

7・「自分がどうなりたいのかを意識する」ということ。

私達は今年で30歳になる1985年世代の人間であり、これからの日々をどう生きていくのかみたいな話を頻繁にする。私は「自分がどうなりたいのかを意識することはあるか?」みたいな話をふり、それについて色々と話している中で、数ヶ月前に訪れた四国の某所でのエピソードを思い出した。

どんな人間になりたいのかという話をしている時に「多くの人から愛される」的なキャラクターを想像する時があるが、必ずしも愛されることが幸せには繋がらないのではないのかと疑問に感じた出来事がある。

8・発端としての「大声を出して騒ぐだけが楽しいってことじゃないんだよ」発言。

私はトークイベントに呼ばれて四国を訪れていた。イベントは成功して、その後の懇親会で私は謎に不機嫌でいた。そもそもで私は大量の人間が集まる場所が苦手で、飲み会などはその最たる例であり、私は「ミステイクだ。なんでこんなところに行くとか言ってしまったんだ」などと自分の行動を激しく悔いていた。

その場にはひとりの大学生の男子もいて、彼が私に「生きることに悩んでおりまして」と身の上話をはじめた。私は基本的に若い人が好きなので、そういう話こそしようぜみたいな感じで(他にも大量の人間がいるにも関わらず)彼とガチンコで話していた。いよいよ話が盛り上がって来たという頃に、突然、横から酔っ払った人間(女)が「真面目な話ばかりしてないで飲んで楽しもうよー!」みたいなことを言って来たので、私はこういう発言が本当に大嫌いだから「邪魔をしないでください(大声を出して騒ぐだけが楽しいってことじゃないんだよ)」と、率直に伝えた。

9・「どれだけ愛されたか」よりも「どれだけ愛したか」が人生の質を決める。

多分、この発言が良くなかったのだと思う。その後、この女性の旦那さんが(まるで諭すように)「坂爪くんは恵まれているよね、日本全国から声がかかって、会いたいと言ってくれる人がいるというのは何よりも幸せなことだと思うよ」的な言葉を投げてくれた。

正直に言えば、私は違和感を覚えてしまった。この状態は、要するに「多くの人から愛されている」状態なのかもしれない。それなのに、あまりそのことを嬉しいことだとは感じていない自分がいる。

そして思った。どれだけ多くの人に愛されたかよりも、どれだけ多くの人を愛することができたのか、どれだけひとりの人間を深く愛することができたのか、そっちの方がよっぽど重要なんじゃないのだろうかということを思った。愛されたいと望むのはお門違いで、有意義な人生を送りたいと望むのであれば「愛する」ことを望まなければ、何かおかしいんじゃないのだろうか、ということを思った。

自分がどうなりたいのかを意識する時、周囲の人間から何を与えられるかを考えるよりも、自分が周囲の人間に何を与えられるかを考えた方が、根本的な活力につながる。月並みな言い方になるが、溜め込む人間は貧しい人間であり、気前良く与えることが出来る人間が豊かな人間ということになる。

10・『調子に乗らずに、自由に生きろ』 by 神様


今日で五月が終わり、明日から新しい月がはじまる。明日にはマニラを離れてクアラルンプールに向かい、日本に帰国する頃には所持金も限りなく0に近づくことになる。今度こそ死ぬかもしれないし、しぶとく生き続けるのかもしれない。多分(路上生活でもタロット占い師でも奴隷経済でも生きるためなら何でもやりながら)生き続けるのだと思う。

言葉には言霊が宿る。それならば、せっかくならば前向きな言葉を口にしていたい。個人的な予感としては、今年の夏界隈には何らかの形で本を出し、今年の終盤頃には何らかの形で広い世に出る展開が待っているような気がしている。根本的に私はラッキーボーイで、生命力もあるほうだから、いままでの人生がどうにかなってきたように、これからの人生もどうにかなっていくのだろう。

繰り返しになるけれど、自分なんかダメだと思うのがいちばん良くない。これは最大の資源の無駄遣いであり、それよりも「自分は宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ」と開き直ろう。神は『調子に乗らずに、自由に生きろ』と囁いている。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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