いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【HND-仙台】センスの良い馬鹿にひとは集まる。

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東京の武蔵小山で開催されたイベントに登壇した後に、仙台にはいった。結論から言うと「センスの良い馬鹿にひとは集まる」のだと思った。昔、とある事情で女装をしていた頃に撮影した写真が出てきて、自己顕示欲の醜い炎が燃えた。自分にはこういう一面もあることを晒したくなった。多分、この前のイベントに参加してくれた女性から「坂爪さんは家がないからもっと薄汚れたひとかと思っていました」と言われたからだと思う。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・自分の心を軽く扱う人達を相手にしてはいけない。


自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人から嫌われる方が清々しい。インターネットなどでは特に顕著だけれど、見たことも会ったこともないひとから、批判や罵倒を受けることは頻繁にある。しかし、見たことも会ったこともないひと達の心無い一言を理由に、自分が「これだ」と思ったことを諦めるなんて勿体無い。大切なものは、大切なひと達との時間であり、自分の心を軽く扱うひと達を相手にしてはいけないのだと思う。

2・「ケチ臭い考え方」を捨てる。


家のない生活を続けて実感したことのひとつに「人は優しい」というものがある。様々なひとが、様々な形で優しさを示してくれる。その優しさによって、私は現在も死なずに生きることができている。こういう話をイベントなどですると「それは、優しくしてくれるひとに経済的な余裕があったからだと思います。私も、自分に余裕があったら、同じようにすると思います」というようなことを言われる。

しかし、本当にそうだろうか。私に優しさを示してくれたひとの中には、自身の生活さえも、明日どうなるのかわからないという状態の中で、精一杯のおもてなしをしてくれたひとたちがたくさんいた。経済的に恵まれていたから優しさを示してくれたのではなく、経済的に恵まれてはいなくても、自分の気持ちを伝えるために精一杯の行為を示してくれたひとたちと、ほんとうにたくさん出会った。

そういうひと達の姿に、私の胸は打たれた。純粋な思いに触れた時、感動しないでいられるはずがない。豊かさを測る指数は「金」じゃない。どれだけ多くのものを持っていたとしても、何かひとつでも失うことを恐れ、必死に溜め込もうとする根性は、多分、人間的な卑しさを生む。たくさんのものを持っているひとではなく、たくさんのものを与えることのできるひとが、豊かなのだ。

3・愛情か、打算か。


自分が相手の価値を肩書きや年収で測ろうとする限り、相手も自分を肩書きや年収で測ってくる。裏腹な心で何かをする限り、自分の良心に苦しめられる瞬間が必ず来る。相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心を同時に傷つけている。目の前にいる人間を愛するようにつとめることは、そのまま、自分を愛することにもつながる。境界線はない。世の中は、自分が投げたものが返ってくるようにつくられている。

4・茶室は宇宙。


最近は寒い。家のない身には堪える。屋内に焦がれる。贅沢は言わない。雨風をしのげたら、それだけで天国だと思う。最近は、過去の偉人の(比較的ぶっ飛んだ)生き様に触れることで、元気を貰うことが多い。岡倉天心鴨長明千利休良寛一休宗純も売茶翁も伊藤若冲も、乱暴な言葉でまとめると「頭がおかしい」と思う。そして、頭がおかしいと思う以上に「最高だな」と思う。

5・寂しさが溢れてくる。


私は、どうしてなのだろうか、ひとつの場所に長く留まることができない。「疲れた、疲れた、もうやめたい」などと口にしながら、それでも移動を続ける生活をしている。頻繁に自爆を重ねながら、家がないことの心許なさや、ひとりで過ごすことのさみしさを感じている。さみしさとは何だろうか。避けるべきものなのだろうか、歓迎するべきものなのだろうか、こんなにさみしいはずなのに、ひとりになりたいと思うのはどうしてなのか。


6・誰かといられるほど、強くない。


私が移動を続ける理由に「誰かといられるほどには、強くないからだ」というものがある。酷く惨めで、格好の悪い理由だと思う。私は、思ってもいないことを口にすることができない。愛想笑いを浮かべると、死にたくなる。社交辞令と呼ばれるものが何もできないし、すぐに空気を壊してしまう。他人のエネルギーを勝手に敏感に感じ取っては、即座に弱る。調子が良い時には「俺は俺だ」と胸を張れるが、弱気になった時には「自分はなんて社会不適合者なのだろう」とも思う。誰かといられるほど、私は、まだ強くない。

7・優しさこそ、ほんとうの強さだ。


強くなりたいと願う気持ちと、優しくなりたいと願う気持ちは、非常に似ていると思う。

8・中途半端な未練を断ち切ること。


自分がダメなことくらい、自分がいちばん良くわかっている。しかし、どれだけ嘆いてみたところで、自分にはこの身体とこの精神しかないのだから、これで生きていくしかないのだと思う。これが、今世における、私自身だ。駄目なら駄目で仕方がない。死んだら死んだで、仕方がないのだ。そして、こんな風にしか生きれない自分でも、何処まで行けるのかということが見てみたい。

9・北風よりも太陽になろう。


完全な人間はいない。当たり前のことだ。自分や相手の欠点をあげればきりがない。しかし、自分の欠点を埋め合わせている内に、人生が終わりを告げてしまったら、果たして何のための人生だったのだろうか。ひとりひとりが完璧になる必要はあるのだろうか。北風よりも太陽になろう。私は、この命を、他人に厳しくあるためのものではなく、お互いを元気付けるために使ってこそのものだと思っている。

10・センスの良い馬鹿に人は集まる。


根本的に人間は「楽しみたい」と思っているのだと思う。ああしなさいとか、こうしなさいとか、そういうものは不要だと思う。誰かに何かを強制されなくとも、誰かに何かを説教されなくとも、自分がやりたいことを見つければ、勝手に世界を広げるし、失敗を恐れずに勝手に何度も挑戦するし、陳腐な将来設計を遥かに凌駕する『オリジナルな未来』を実現する。

何が正しいのか、何が間違っているのかなんて、誰にも決めることはできない。そして、何が正しいのかはわらなくても、何が楽しいのかならば、自分の心は感じることができる。「なんだこいつは!」と心の底から思えた時、その人の心は自由を感じている。ひとの心を動かすものは『正しさ』よりも『楽しさ』であり、真面目な人間ではなく、正しい人間でもなく、センスの良い馬鹿に人は集まるのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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