いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【SIN-クアラルンプール】傷つく前に傷つくな。

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シンガポールを経由してクアラルンプールに入った。クアラルンプールは多様な人種の動物園のようだ。イスラム教徒やヒンズー教徒や仏教徒などが混在しているために、東洋的混沌に満ち溢れている。隙間時間に、バトゥ洞窟にあるヒンズー教徒の聖地に足を運んだ。其処では「神は静けさを好む」ということを思った。


クアラルンプールで思うことあれこれをまとめます。


1・真っ向から自分の意見を否定されても、それでも、自分が好きなものには好きだと言えるか。


自分を持つということは、自分が好きなものを持つということと似ている。そして、自分の生き方を見失っているときは、自分が好きなものを見失っている場合が多い。自分の価値を決めるのは、多分、自分がどれだけ愛されているかという受動的なものではない。愛されているから価値があるのではなく、自分から愛を生み出していけるから能動的な側面に価値は宿る。自分が嫌いなものにエネルギーを奪われてしまうと、自分が好きなものを見失ってしまう。自分を持つということは、真っ向から自分の意見を否定されても、それでもなお、自分が好きなものには好きだと言える強さだ。


2・本来、人間の衝動は説明不可能なものだ。


周囲の理解を求めたり、何かを説明することにエネルギーを注ぐことで、自分が本来やりたいと思っていたことに対するエネルギーが枯渇してしまうのは本末転倒だ。エネルギーの最適な使い道は、周囲の理解を求めるためでも、何かを説明したり、自分の正当性を主張することでもなく、自分がやりたいと思うことに脇目も振らずに全身全霊を注ぐことだ。その姿勢が、その後ろ姿が、その生き様が最大の説得力になり、触れるひとの心を動かす。


3・「よし、失敗してやろう。駄目になってやろう」と覚悟を決める。


何かをやりたい、しかし、自信が足りない。何かがこわくて次の一歩を踏み出せない。そういう時は、大抵「失敗を恐れている」だけに過ぎない。しかし、失敗とは何だろうか。最大の失敗とは、失敗することを恐れて、やりたいと思っていたことを何もやれずに後悔する日々を過ごすことではないだろうか。駄目なら駄目でも構わない。駄目だからこそ面白いんだと腹を括って、成功するためではなく失敗するために飛び込んでみる。そう決めた時に、自分の内側から不思議な力が湧いてくる。



4・自分が駄目だと思う道は、自分が行きたい道なのだ。


人間が行動のモチベーションにできるのは「不安」か「希望」のどちらかだと思う。そして、多くの場合は不安がベースになってしまう。損をしないために、不利にならないために、失敗しないために、自分や家族や大切な何かを守るために、失うことを恐れる「不安」をベースに次の行動を決めてしまっては、永遠に不安から自由になることはできない。

人間は不思議なものだと思う。不安をベースに行動をしても、常に「このままでいいのだろうか」という不安を感じてしまう。これは、多くの人々にとって「生活のためだけに生きるのは虚しい」と感じる何かが隠されているということではないだろうか。本当は、もっと張り裂けるような日々のど真ん中を生きてみたい。心の底から「いまの自分は生きている」と実感できる何かを求めている。こっちの道は危険だ。自分が駄目になってしまうかもしれない。しかし、どうしても自分をごまかすことができない。自分の気持ちに嘘はつけない。自分が駄目だと思う道は、自分が行きたい道なのだ。


5・駄目なら駄目でも構わない。


様々な環境要因が「お前の選択は大丈夫じゃない」というメッセージを放っている。そんな生き方が通用するはずがない、いまのままの自分では通用しない、お前は足りていないところばかりで、自分ひとりでは何も守ることはできないなど、常に欠落を煽って人間の可能性に蓋をする。しかし、これさえあれば自分は大丈夫だと思える何かはあるのだろうか。これができれば次の一歩を踏み出せるけれど、これができなければ次の一歩を踏み出すことができないということが、この世の中になにかひとつでも存在しているのだろうか。

自分に限界を設けているのは、多分、他の誰でもない自分自身だ。自分が自分に「大丈夫じゃない」というメッセージを放ち続けている限り、永遠に現在を抜け出すことはできない。自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいと思ったからやる、そういう決意の凄味の先に、自分オリジナルの魅力が宿るのだろう。駄目なら駄目でも構わない。重要なのは「潔く、清々しくあること」だと思っている。


6・傷つく前に傷つくな。


失敗を恐れるとか、誰かに嫌われることを恐れるとか、食えなくなることを恐れるとか、人間の行動を抑圧する最大の原因は「傷つきたくない」という恐怖心であり、傷つくことを恐れて身動きがとれなくなっている時、その人は既に「恐怖心」によって自分を酷く傷つけてしまっている。傷つきたくないという自分の恐怖心によって、自分を傷つけてしまってはいけない。


7・自分が嫌いなものではなく、自分が好きなものに使ってこそのエネルギーだ。


自分は駄目だと思うことに何の価値も意味もない。そして、自分は駄目だという声は、常に自分の外部から聞こえているはずだ。自分の内側から「自分は駄目だ」という声が聞こえてくるはずがない。そういう声はノイズであり、自分が嫌いなものに自分の貴重なエネルギーが奪われてしまっている証拠になる。自分が嫌いなものにではなく、自分が好きだと思うものに使ってこそのエネルギーだ。使い道を間違ってしまってはいけない。


8・自分を守ろうとするから弱くなる。


自分には力がないというのは簡単だ。しかし、そう言うのは卑怯だ。多分、この世の中に「力」のある人間なんていない。届きそうな何かに手を伸ばし続けている人間と、手を伸ばすことを諦めた人間がいるだけだ。誰もが無力で、誰もが弱く、誰もが小さい。自分を守りはじめた瞬間から弱くなる。それが人間だと思う。そんな時は「小さい!小さい!」と、小さな自分を笑い飛ばす、笑い飛ばすことが難しい場合は「たかがこんな自分は」と、弱い自分を蹴飛ばしてみる。自分を守るのではなく、自分を壊す。自分を壊すことで、パアッと開く命がある。


9・自分が嫌いなものではなく、自分が好きなものに使ってこその命だ。


自分の生命を注ぎこむに値する何かと出会ったとき、もう、自分の命がどうなるかとか、安定した生活がどうだとか、誰かに笑われるとか嫌われるとか馬鹿にされるとか、そういうことがどうでもよくなる。ただ、自分の残された命を、このために使っていきたいという思いになる。楽しくもないのに楽しい振りをしたり、笑いたくもないときに愛想笑いを浮かべたり、やりたくもないことをやらなければいけない、そういう自分を擦り減らす努力をしている時間は、自分が進む道の間違いを指摘している。


10・神は賑やかな場所を好まない。ー 自分の中に静寂を養うこと。


世の中には様々なノイズが溢れている。これらのノイズ達は「お前は大丈夫じゃない」とか「お前の選択は間違っている」とか「お前のままでは通用しない」とか、様々な言葉で様々なストッパーをかけてくる。自信を奪い、迷い、立ち止まらせる。しかし、こうした声は常に自分の外側から聞こえてくるものであり、決して自分の内側から湧き出してくる言葉ではない。

自分を取り戻せる言葉には、多分、正しさだけではない「嬉しさ」がある。それは自分が愛する風景を眺めている時のような、自分が愛する人たちと過ごす時間の中に流れている空気のような、自分が愛する物事に取り組んでいる時に感じる無心のような、独特の静けさがある。バトゥ洞窟で「神は静けさと共にある」ということを思った。神は賑やかな場所を好まない。必要なものは既に備わっている。自分の中に静寂を養うこと。余計なものを付け足していく「足し算」的な思考ではなく、余分なものを削ぎ落とした先に残るもの、それが自分自身になるのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com