いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

幸せになると決めただけ、幸せになる。

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アピタ新潟西店のキーズカフェにいる。さっき携帯会社a○と揉めた。違約金とかうんこだと思う。実在しない物件をオトリに集客する不動産、不安を煽って稼ぐ保険会社、見栄だけの結婚式場、入場料金とは別途でかかるドリンク代、飲食店のサービス料とか、全部、うんこだ。安く見せかけて、高く取る。これが、まるで商売上手みたいに言われるが「詐欺師と同じ」だと思う。家族を守るためには嫌な仕事も仕方がない、と言う人もいるが、それは「家族を守るためには強盗も仕方がない」と強盗犯が言うことと似ている。思わず「資本家の手先め」と言ってしまった。

 

 

おおまかなスケジュール

8月9日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
9月9日 20時頃 念願の吉祥寺ライブ@曼荼羅(詳細は決まり次第更新します)

SCHEDULE on 
http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

卑怯な人間だけにはなるなよ。

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新潟の空


結婚できるか謎だが、子育てのシミュレーションだけは準備万端だ。「まず、諦めてもらう」ことを大事にしたい。自分のこどもに生まれたことが運の尽き。まず、最初にそう言いたい。学校は、行かないでいい(個人的にランドセルの値段が気に食わない)。iPad一台あればきっと自宅学習は可能だから、あとは「自分で学べ」と言いたい。子育てに平均2000万かかるとか言われているが、従う必要はない。全部、自力で行ける。通常なら20歳で成人するところを、我が家では10歳成人説を採用したい。10歳になったら、一人前の男(女)だ。男なら、元服式をやる。適当な島に放り投げて「生きて帰ってこい」と伝え、野営道具と釣り道具だけを渡し、数日間生き延びてもらう。きっと、帰ってくる頃には顔つきも変わっているだろう。

 

この前、いい話を聞いた。漫画家のYさんは、中学時代に「自分は絵で生きていきたい」と確信した。しかし、学校の先生から「絵でごはんは食べられませんよ」と言われ、まあ、よくある反対をされた。しかし、彼女の母親は違った。14歳のYさんに「これでルーブル美術館を見てこい」と言って、フランスの往復航空券とまとまった金額をYさんに渡した。結果、Yさんは14歳という若さで1ヶ月間の欧州旅行を果たし、いま、漫画家になっている。こういう母親を素敵だと思う。『ドリームキラー』という言葉がある。学校の先生のように、善意の仮面を被って「他人の夢を殺す」人々は多い。ドリームキラーのメカニズムとして、彼らは、自分よりも意識の高い人間を見ると『居心地が悪くなる』という構造がある。目標を低く設定しているひとや、固定観念に縛られているひとは、そうではない人といると居心地が悪くなるのだ。そのため、引き摺り下ろすことに命を燃やす。ドリームキラーに惑わされちゃいけない。我が子には『ドリームキラー・キラー』になって欲しい。

 

人間には素晴らしい創造力と想像力がある。しかし、ダサい年齢の重ね方をすると、言い訳や言い逃れをする時にだけクリエイティブな人間になる。お金がない。時間がない。自信がない。勇気がない。能力がない。そんな言葉を言っているうちに、あっという間に人生は終わる。死に際に「I'm an old man filled with regret waiting to die alone」と言う羽目になる。これは最悪だ。繰り返すが、我が子には『ドリームキラー・キラー』になって欲しい。それは、自分の中にいるドリームキラーをぶっ壊すという意味合いもある。他の誰でもない、自分が自分に「無理だよ」と言うことがある。その言葉を、ぶっ壊してほしいと思う。そのためにも、まず、親自身がそういう生き方をできていなければ、言葉が嘘になる。真剣に生きていないおとなが、一体、こどもになにを教えられると言うのだろうか。おとながかっこよければ、こどもは生きることに希望を見る。おとながかっこわるければ、こどもは生きることに絶望を見る。純粋なこどもの眼差しは、常に、おとなを問う。

 

note.mu

 

幸せになると決めただけ、幸せになる。

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音楽をやっていると思う。手段と目的は、本来、同じものだ。私には、音楽でどこかに行きたいという思いがない。そりゃあ、有名になったら面白いだろうなとか、有名人と知り合えたら面白いだろうなとか、Mステに出演したら面白いだろうなとか、思うことは思う。ただ、それは『おまけ』に過ぎない。音楽をやりたいと思う。そして、音楽をやる。以上。音楽をやりたいと思うことがスタートで、実際に音楽をやることがゴールならば、我々は毎日ゴールをしている。それは、結成したばかりのバンドが、めちゃめちゃ下手くそな状態で最初の一音を合わせた瞬間と、同じだ。あの瞬間の感動。あの瞬間の興奮。『いま』にすべてがある。やりたいと思ったから、やる。ただ、それだけのことだ。御託を並べ始めると、人間はおかしいことになる。携帯を売りたいから携帯を売る。そんな人間はレアだ。金のため、生活のため、上司に言われたから、そういう決まりだから、売ると褒美がもらえるから、売らないと叱られるから、そういう外部的な要因で、人間は簡単にぶれる。

 

俺の人生、所詮、そんなものだ。そう思う男の人生は、所詮、そんなものの人生で終わるだろう。いや、違う。自分には、きっとやれることがある。そう思う男の人生には『可能性』が生まれる。意外と、全部、自分が決めている。自分が「自分は幸せだ」と思えば、自分は幸せになる。自分が「自分は不幸だ」と思えば、どれだけ金があろうが、どれだけ健康だろうが、どれだけ環境に恵まれていようが、簡単に不幸になる。全部、自分が決めている。だからこそ、私は「仕事とはそういうものだ」と、悪い意味で決めつけられているものを見ると腹が立つ。ふざけるな、と、思う。お前の人生は、確かにその程度だったかもしれない。しかし、お前と俺を一緒にするな。過去の統計がどうだったかとか、知らない。その統計のなかに、俺は含まれていない。なぜ、そこに怒りを覚えないのか。なぜ、そんなところで甘んじるのか。怒りを忘れた猿なのか、とか、思うことがある。怒りは、歓迎されない感情だ。しかし、怒りを忘れた猿になるくらいなら、私は「死にたい」と思う。

 

誤解を恐れながら言うと、多くの人々は「人並みであること」に命を燃やしているように見える。要するに『見栄』だ。そして、人生を退屈にさせるものも、同じように『見栄』である。多くの人々が欲しがるものが、自分も欲しいものであるとは限らない。多くの場合、実は、自分はまったく興味がないものだったりする。それを「もっていないと恥ずかしい」みたいな理由で、欲しがる気持ちは精神的に貧しい。もし、いま、なにかに挑戦をしているひとがいたら、そのひとは「悔しさ」や「不安」や「苛立ち」にまみれていると思う。それは、正常な働きだと思う。いま、社会的なあれこれは、あなたに「諦めろ」と言うメッセージを放ち続けている。個人的な夢なんか捨てて、みんなと同じになれば楽になれるよ。みんなと同じになれば安心できるよ。みんなと同じになれば笑顔で生きることができるよ。などなど。しかし、もちろん、そんな言葉は、嘘だ。「みんな」なんていない。もし、自分が、誰かと同じであることを目指すのならば、それは自殺と同じである。どこにもいない『みんな』に合わせて生きるとき、残るものは、平均的な人間になることを成し遂げた自分ではなく、もう、何者でもなくなった『生きる屍』だと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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