いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない。

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前回の記事で「ごちゃまぜの家の新規入居者を募集します」と書いた。乳児院で働く女性Y様が見学に来てくださり、無事に入居が決定をした。乳児院では、児童(孤児)を入院させて養育をする施設、および退院したこどもたちの相談や援助を行う。ウィキペディアによると「児童虐待や家庭問題による養育者の不在、児童自身の障害」をもったこどもたちを養育する施設になる。その後、乳児院のこどもたちは実の両親や親族に引き取られたり、養子縁組などで里親の元へ引き取られるか、それが無理な場合は児童擁護施設へと措置変更となるのだと聞いた。

 

Y様はこどもが好きだと話す。こどもが好きだと話すY様の姿は生き生きとしていて、ああ、自分が好きなものについて話しているひとの表情は本当に素晴らしいものだと感じた。昨日、入居が決定したあとに「入居の祝いにみんなでごはんを食べましょう!」ということになり、Y様に食事をご馳走していただいた。通常だったら「逆だろ!(ご馳走をするのは坂爪サイドだろう!)」とは思ったのだけれど、お言葉に甘えてご馳走になった。場所は菊名駅前にあるサンロードという名前の洋食屋さん。こちらのお店は料理の味もお店の雰囲気も最高なので、食卓を囲みながら「ようこそ菊名へ!」という気持ちになった。

 

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家族を増やす。

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ごちゃまぜの家シェアルームの、共同参加者の募集もはじまりました。ごちゃまぜの家の2階には、月額1万円で利用することのできる1DKの空間【洋室】があります。文章だけで説明をすることが非常に難しいのですが、利用者の方は「月に三日間、この空間を貸切で利用することができる」という感じになります。利用例としては「東京に来た時に利用したい」とか「昼寝をしたい(布団はご用意しております!)」とか「実家暮らしだけど定期的にひとりになりたい」とか「ごちゃまぜの家に関与をしたい」とか「小規模なイベントやワークショップをしたい」と思っている方々に、利用をしていただけたらいいのかなあと思っています。

 

まだまだはじまったばかりの試みになるので、各種諸々は「応相談!(率直にやりたいと思うことを言っていただければ、実現する可能性は高いです!)」になります。たとえばの話ですが、A様がこの部屋を借りてくださった場合、A様のお友達の方も(月に三日間という範囲内にはなっちゃうけれども)この空間を利用することができます。「なぜ月に三日間という範囲なのか」とか「自分以外にはどのような人間が利用をしているのか」など、ここで説明できる範囲に限界があるために、ちょっと興味があるという方は坂爪圭吾まで直接ご連絡をいただけましたら幸いです(シェアルーム部分の見学も常時受け付けております!!)。

 

連絡先・坂爪圭吾

LINE ID ibaya

keigosakatsume@gmail.com

 

新しい入居者が決まると、家族が増えたような気持ちになる。Y様の引っ越し予定日も決まり、ごちゃまぜの家には車もあることだから「もしよろしければ引っ越しもお手伝いしますよ!」とお伝えしたところ、非常によろこんでもらえて嬉しかった。関係者が増えるということは、家族が増えるような感覚になる。家族が増えることで「自分ひとりのためだけではなく、家族全体のために生きよう」みたいな力を得ることができる。そして思う。現代社会は「自分一人の力でなんでもやれるように」教育をされているというか促されているように感じることも多いけれど、そのことによって孤立を深めてしまう場面は結構ある。しかし、ほんとうのところでは「お互いに支え合って生きていたい」と多くの人々は感じているのではないだろうか。私【坂爪圭吾】にできることには限りがあるけれども、ひとつ屋根のした、生活を共にするひとを大事にしたいと思う。

  

わたり文庫『泥流地帯』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『泥流地帯』です。三浦綾子さんの作品は過去に何度か紹介をしているのですが、こちらの本もすこぶる素晴らしい一冊だと思いました。胸に迫る言葉や場面は大量にあったのですが、小学生のこどもたちが綴り方の授業で「詩」を書く場面が出て来ます。その中で、母親のいない家庭で生きる五郎が書いた「まんま」という詩には、心打たれるものがありました。他にも「朝」や「夕やけ」など、こどもにしか出せない素朴な味わいとでも言うのでしょうか、とにもかくにもみなさまにご一読いただけたら嬉しい作品になります。小説の内容は、大正15年5月、北海道の上富良野で起きた十勝岳大噴火時に生きた家族の物語です。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

「朝」 

 

目がさめた。

起きた。

顔あらった。

めしくった。

学校さ来た。

 

 

「夕やけ」

 

田んぼの水が まっかだ。

窓もまっかだ。

すごい夕やけだなあ、

かあちゃん

 

「まんま」

 

ゆんべ

おれが まんまたいた。

ちょっと こげたけど、

父ちゃん おこらんかった。

あんちゃんも おこらんかった。

みそつけて くった。

うまかったなあ、

おれのたいた まんま。

 

三浦綾子『泥流地帯』【新潮文庫

 

神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない。

ひとつの空間が生まれると、その空間にあわせるように「ひとつのコミュニティ」が築かれる。しかし、私は、この空間【ごちゃまぜの家】はコミュニティを築きあげるものではなく「コミュニティを溶かすもの」でありたいと思う。ひとつのグループをもっているものに対して、多くの場合、グループの外にいるものは批判的になる。反発する感覚を抱き、疎外感を覚え、部外者としての孤独感や分離感を深めていく。「どうせ自分は歓迎をされていないのだ」と感じる気持ちは、そのひとの内部に冷たい感情を残す。この空間は、そんな風になってしまってはいけないのだと思う。ごちゃまぜの家は、あくまでも開かれたものでありたいと思う。固定的なものではなく流動的なものとして、ひととひととの間にある垣根のようなものを、強化させるものではなく『できることならば取り払える空間』にしたいと思っている。

 

 

最近は「不幸とは、出来事のひとつの側面でしかない」ということを思う。人間万事塞翁が馬という言葉もある。自分的にめちゃめちゃ凹む出来事があって「もうダメだ…」と思ったことでさえも、それがきっかけで(振り返って見ると)人生が大きく展開をする最高の契機になっていた、という体験は誰にでもあるのだと思う。私の場合は、家を失うという体験を通じて「家を得る」という体験をしたことがそれにあたるのだと思う。人間が考えることと、自然の摂理がもたらすことには、大きな違いがある。「もうダメだ…」と考えるのはあくまでも人間の頭だけであり、大袈裟な言葉で言えば「神の意思は人間の想像を超えて大きな物語を用意してくれているものだ」ということを思う。

 

 

三浦綾子さんは、その講演の中で「神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない」という言葉を紹介していた。13年間に及ぶ療養生活の中で、三浦綾子さんは「病気の自分は誰の役にも立つことができない。そんな自分は生きていてもしようがない」と何度も何度も感じたと言う(オホーツク海で自殺未遂をはかったこともある)。そのような時に、見舞いに足を運んだキリスト教の牧師さんが、上記の言葉を三浦さんに語ってくれた。神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない。生きている限り、冷たい感情に飲まれてしあうことは誰にでもある。そんなときは、生きることがただただ過酷な営みに思えることもある。それでもなお、生きるということは「生かす」ということなのだと思う。自分に与えられている才能の花を、時間の花を、命の花を、惜しみなく開いていくことなのだと思う。自分の命を生かす中で、人々の心の中にある冷えている感情を、自分の中にある冷えている感情を、少しでもあたたかな方向にもっていくことなのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BepyNMljJb3/

神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない。

  

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu     

 

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