東京を経由して新潟に入り、来月行く予定のロシアに入国するために、ロシア領事館でビザ取得の手続きを済ませた。本来であれば、今日から台湾に行ける予定だったはずが、ビザの申請のために一時的にパスポートを預ける形になってしまい、あろうことか、台湾行きがオジャンになってしまった。
結果的に、8月いっぱいはまるごと予定が空いてしまった。どなたか(もしいらっしゃれば)大量の時間を持て余している坂爪圭吾を召喚してください。日本国内であれば、基本的には何処でも行きます。所持金が数千円しかないために諸々の制限はかかってしまうのですが、ご連絡お待ちしております。
1・宮城県でいばやのイベントを企画してくださる方を募集しています。
奇跡的な出来事は連続しておこるもので、前々回のブログ記事でも紹介させていただいた仙台のRさんから「
宮城県の桂島から見える朝日がほんとうに素晴らしいので、
ホテルも手配するので、時間さえあればいばやの皆さんで是非遊びにいらしてください」というご連絡をいただいた。
時期は9月2日から4日界隈
を予定しているのですが、いばやには夢があります。それは「いばやのみんなで全国ツアーをしたい!」というもので、6月に新潟県で開催した大感謝祭があまりにも楽しかったもので、こうしたイベントを全国各地でやれたらいいなあと思うようになりました。
具体的には、9月4日(金)の夜辺りに、仙台界隈で何かを開催してくださる方がいてくださると非常にうれしいです。いままでが「続きはWEBで」だとしたら、これからは「続きはリアルで」というものになるのだと思います。もしもいばやに関心を持ってくださる方がいらっしゃいましたら、是非、お気軽にお声かけください。
2・(宮城県と言わず)全国各地からのオファーをお待ちしております。
ポイントは交通費で、悲しいことにいばやのメンバーは誰ひとりとしてまともな所持金を兼ね添えていません。今回は、仙台の女神R様の存在により、仙台界隈までは足を運べることになりました。「せっかくみんなで仙台まで行けるのだから、何かしら打ち上げて帰りたい!」というのが本心です。
そのためには、非常に気前の良いひとの存在が必要になります。「まったく仕方がないなあ、よし、ここは俺(私)がひと肌脱いで、多少の会場代金は自分(自分達)が負担してやるよ」と言ってくれるひとの存在が必要になるのです。
「いばやを呼びたい!(いばやをこねくりまわしたい!)」と思ってくださる方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。連絡先はブログ末尾に記載されています。しかし、この男、人間的な欠損を多大に抱えているために、返信が遅い(あるいは返信をしない)場合もありますが、何卒、ご理解いただけましたら幸いです。
3・単純に坂爪圭吾が暇をしています。
冒頭でも述べた通り、まさかの展開で8月いっぱいがど暇になってしまいました。現在は
新潟県にいるのですが、
9月以降は海外遠征(?)に出かけてしまうために、なかなかひっつかまえることが難しくなる坂爪圭吾という人間を、是非、この機会にご利用(?)ください。
個人的な希望を綴ると、現在は新潟県にいるのですが「県外からのゲストが新潟県まで来てくれることが頻繁にあるのですが、美味しい料理が食べられる店を何も知らないので非常に困っています。しかし、所持金が少ないために、美味しい料理を出してくれる店を開拓する余裕もない。そこで、坂爪圭吾に『あそこの料理は最高に美味いから、お前にも知ってもらえたら嬉しいし、ご馳走してやるぜ!(そして県外からのゲストが来たときは、是非ここを紹介してやってくれ!)』という展開になったら、どれほど素晴らしいことになるだろうか…!!!」などと思っています。
4・新潟県には「何もない」がある。
おかげさまで、現在では様々な方々がいばやに会うため(?)に
新潟県まで足を運んでくれるようになり
ました。これはもう新潟市からも助成金をもらっていいレベルなんじゃないだろうか、とも思っているのですが、そのような気配が生まれることはなく、身内で粛々と回しています。
新潟には何もないけれど、何もないということが最大の魅力になるのかもしれない。日本海に沈む夕日を眺めながら、ただ座っているだけでもそれなりの多幸感を味わえます。テントを張ってBBQをしてもいいし、読書でも、ギターを弾いても、踊っても自由で、最近は「野営で食べるしゃぶしゃぶが(片付けも非常に楽で)かなり美味い」ということを発見しました。
5・自分の身体は自分は好きなもののために使おう。
夕日を眺めながら、当たり前のことだけれど「五感には賞味期限があるのだ」ということを思いました。最近、わたしは、非常に人間的な魅力を覚えるひとと出会いました。いままでの自分だったら「なんて素晴らしいひとがいるんだ!」と、相手の存在に感謝するような気持ちになっていたのですが、今回の出会いはちょっと違いました。
大袈裟な表現ですが、そのひとと出会うことで、まるで「自分の身体の価値が向上する」ような感覚を覚えたのです。そのひとの笑顔を見ることができるのは私に視力があるからで、そのひとの声を聞くことができるのは私に聴力があるからで、私に日本語を話せる能力があるからこそ、そのひとと会話を交わすことができる。
そして、私は「自分の身体は自分が好きだと思えるものに使おう」というようなことを思いました。そう思えたときに、自分の身体には価値があるのだということをはっきりと実感したのです。
6・「おかしいのは自分なんだ」と思ってしまうと鬱病になる。
私は自分の連絡先を公開しているために、様々な方々から連絡が届きます。一日に平均して20件から30件程度の連絡をいただいているために、すべてのメールに返信をすることが難しいのですが、ひとつひとつはしっかりと目を通しています。
連絡をくださる方々の中には、過去に
鬱病で悩んでいた方や、現在も精神的な問題と格闘を続けている方もいて、
鬱病というものについて考える時間がちょっとだけ増えてきました。私自身も過去に
統合失調症と
躁鬱病と
椎間板ヘルニアのトリプルパンチをくらって半年間寝たきりになったものの、貧乏性とビリーズブートキャンプのマリアージュによって、奇跡の復活を果たした経験があります。
7・レールを踏み外したとしても、大地はある。
わたしは、このいばや通信というブログの最後を、いつも「人生は続く」という言葉と共に締めていいます
。これは「ここはまだ途中である」ということなどを意味しているのですが、これは鴨長明の方丈記マインドを勝手に継承している(行く川のながれは絶えずして的な)つもりで書いています。
所詮、この世は
諸行無常。
変わらないことは何もなく、そのことが悲しく響くこともあれば、そのことによって救われることもたくさんあると思います。ただ、ひとつだけ変わらないことは「でも、生きている」ということなんじゃないだろうかと思っています。
レールを踏み外したとしても、大地はある。大地はあるからこそ、こうして生きることができている。生きることができているということは、どうにかなっているということの最大の証明であり、乱暴にまとめるならば「大丈夫だ」ということになるのだと思っています。
8・大前提として「生きているだけでいい」
レールの上を歩くことができて、はじめて人間としての価値が認められるというのは、順番が逆なんじゃないだろうかと思います。大前提として「生きているだけでいい」のであり、人間としての価値が認められようが、世間から冷たい視線を浴び続けていようが、生きていることに変わりはありません。
生きているだけでは足りないと思ったときに、ひとは、ほかのもので何かを埋め合わせようとするのだと思います。しかし、そういうときは欠落感というか「もっと、もっと」というマインドに容易く侵されてしまう為に、非常に不健全な状態(出口のない迷路)に迷い込んでしまっているのではないかと思います。
9・必要なものは既に備わっている。
多分、大切なことは「自分にないもの」よりも「自分にあるもの」であり、必要なものは既に備わっている。言葉は感情の容れ物で、どのような気持ちを込めるのかで、それを聞く人のこころにも様々な感情を生み出すものになるのだろうと思います。
10・五感には賞味期限がある。
謎の富豪が現れて「君は家がないんだろ?君の視力と引き換えに、東京に豪邸を買ってあげよう」的なことを言われたとしても、私は豪邸よりもこの両目が好きなので、当たり前のことだけれど、お断りすると思います。
自分の両親と引き換えに絶対的な権力を与えると言われてもお断りするし、同じように、自分の聴力と引き換えに100億円をあげると言われても、私は100億円よりは自分の聴力の方が好きなのでお断りすると思います。
そのように考えると、既に、自分にはとてもじゃないけれども金に換えられない価値が備わっているのだということを知ることができます。そして、自分の身体を「(自分ではない)自分が好きなもの」のために使い果たして死にたいと思った時に、不思議と、自由の風が吹いたような気がしました。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya keigosakatsume@
gmail.com