いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【FSZ-表参道】プロの定義は「飯が食えていること」なんかではなく、食えなくとも、それで生きると決めた人間の覚悟だ。

f:id:ibaya:20150908113523j:plain

静岡県の伊豆を経由して、東京の表参道で開催されたイベントに出演し、上越新幹線に乗って新潟市内に戻った。最近は、覚悟について考えさせられている。そして、それに伴った「前提の違い」について考えさせられる機会が多い。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・「前提の違い」ー 生活のために生きるのか、生命のために生きるのか。


表参道で開催されたイベントに出演した際、酔っ払ったおじさんが「坂爪さんはどうしてそんなにイケメンなんですか〜!?」と比較的大きな声で叫んできた。正直に言えば、私は、下劣な人間だなと思った。そして「腹を括っているからだと思います」と答えた。少なくとも、お前よりはずっと腹を括って生きているからだと思いますよ、と、内心では密かに思っていた。

多分、人間の生き方には二種類ある。生活のために生きるのか。生命のために生きるのか。食べるために生きるのか。生きるために食べるのか。私は、前者の生き方には興味が湧かない。その人が何に自分の命を燃やしているのか、など、そういうことに強い興味を覚える。

2・真価が問われているのは「使い方」になる。


金や知識や命の守り方は「生活のため」の要素が強い。金や知識や命の使い方は「生命のため」の要素を帯びる。多分、命は守るためにあるのではなく、使うためにある。あらゆるものは、その守り方や溜め込み方ではなく「使い方」に真価が問われているのだと思っている。

「ただ生きる」ことと「善く生きる」ことは別物だ。ただ生きる、ただ年齢を重ねることには、何の努力も意思も高貴な精神も必要ない。年齢を重ねているだけでは、その人を尊敬する理由にはならない。尊敬するに値するのは「善い年を重ねた」人間であり、善く生きるためには、何かしらの意思や思想や高貴な精神が必要になる。

3・「自分のままでは通用しない」という嘘。


多分、何処かしらのタイミングで、それは自分が好意を寄せていた相手から嫌われたり裏切られてしまった経験や、周囲の人間の期待に応えることができない自分を見た時に、ひとは「自分のままでは通用しない」というような感覚を抱く。そして、自分以外の何者かの要素を、自分の外側や内側に取り入れようとする。

しかし、どれだけ豊富な知識や財産を持っていたとしても、すごいのは知識や財産であって、その人自身ではない。どれだけ豊富な人脈を持っていたとしても、すごいのは自分以外の他人であって、その人自身にはならない。「自分のままでは通用しない」という思いから取り入れたすべてのものは、自分を、自分自身から遠く引き離していく。その人がその人であることの必然性がなくなり、その人自身の実態が消える。

4・自分の価値は自分で決める。


いま、あらゆるものの価値が「金」に代表される外部の価値基準で測られている。自分の生活のために有利になる話は求められるが、金になるかどうかもわからないことは「非生産的」な話として、避けられがちになる。この傾向は、私がイベントなどで尋ねられる多くの質問からも垣間見ることができる。

「どうすれば金がなくても生きていけるのですか」とか「どうすればアクセス数を集める発信をすることができるのですか」とか「どうすれば自分に自信を持つことができるのですか」とか「どうすれば自由になることができるのですか」とか「どうすれば坂爪さんのように、周囲に人が集まってくるような人間になれるのですか」とか。

自分の価値は自分が決める。当たり前のことだ。周囲の人間がどれだけ良いと言おうとも、自分自身がそれを「善い」と思えなければ、抱える虚しさが消えることはない。誰かのせいで不幸になる人間はいない。自分を幸福にしている(不幸にしている)当事者は、自分自身だ。

5・損得勘定を超える。


生活のために生きるのか。生命のために生きるのか。食べるために生きるのか。生きるために食べるのか。自分がこれから進む道を選ぶとき、有利か不利か、損か得かで選ぶのか。それとも、それ以外の「何か重要な自分自身の価値観」をもとに選ぶのか。

このひととなら幸せになれるかもしれないという結び付きよりも、このひととなら別に不幸になっても構わないと思える結び付きの方が、多分、強い。自分の幸せなんてどうでもいい(別に不幸になっても構わない)と思っているその時に、もしかしたら、その人は幸せのど真ん中にいるのかもしれない。

6・「他人の批判」よりも「自分の内省」が先。


批判の9割は嫉妬の場合が多い。誰かの中に「悪」を見出す時、それは、自分自身の中にある悪を相手に投影しているだけに過ぎない。そういう場合が頻繁にある。自分の悪を棚に上げて、他人の悪をああだこうだというのは「在り方」としてダサい。

他人の生き方に口を出している暇があるのならば、自分の人生に集中する。誰かが不幸になったからといって、自分が幸福になれる訳ではない。否、他人の不幸を望んでいる時点で「精神的に卑劣」な存在に成り下がる。自分で自分の価値を下げる必要はない。他人の批判よりも、自分の内省が先だ。

7・自分の嫌いなひとではなく、自分の好きなひとのために使ってこその命だ。


自分の理想は「今日も生きた」と思って毎日眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、自分の人生に幕を下ろすことだ。私は、自分が嫌いなひとといる時の自分よりも、自分が好きなひとといる時の自分が好きだ。そして、自分が好きなヒト・モノ・コトの中に自分を深く没入させることができた時に「今日も生きた」と思うことができる。

8・何かを憎んだり、何かを恐れたり、自分が嫌いなものにエネルギーを注いでいる場合ではない。


自分の嫌いなひとではなく、自分の好きなひとのために使ってこその命だ。

9・これだけは「どうでもよくない」と思えることを、残された日々の中でしっかりと掴むこと。


自分にとって大事なことを知ることと同じくらい、自分にとってはどうでもいいことを知ることも重要だと思う。どうでもいいことにはどうでもいいと言う中で、それでも、これだけはどうでもよくないと思えるものだけは、残された日々の中でしっかりと掴んでいきたいと思っている。


10・プロの定義は「飯が食えていること」なんかではなく、食えなくとも、それで生きると決めた人間の覚悟だ。


私は「生活のために生きる」ことよりも「生命のために生きる」在り方を優先させていきたいと思っている。そんなんじゃ生きていけないよと言われても、周囲の人間からどれだけ散々に罵倒されても、仕方がない、自分にはこうすることしかできなかったのだという『必然性』の中に、自分として生まれたことの喜びを見出していきたい。

プロの定義は「飯が食えていること」なんかではなく、食えなくとも、それで生きると決めた人間の覚悟だ。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com