【FKS-東京】我輩は「地球のひきこもり」である。ー 何もかも失ったとしても、よろこびに触れる余地は大量に残されているのだから、恐れることなど何もない。
1・我輩は「地球のひきこもり」である。
これだけ移動する生活をしておきながら、自分の本質は「ひきこもり体質」にあるような気がしている。家にいると頭がおかしくなっちゃうから懲りずに外に飛び出しているだけで、自分の居場所は何処にもない気がしているし、何かこう『地球にひきこもっている』という感覚を覚えることが多い。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 29
2・「旅をする人は不幸なんだ」と話すアメリカの旅人。
3・「自分の知識の範囲内で他人を理解したつもりにならない」こと。
「君ってこういうひとだよね」みたいな感じでカテゴライズされるのは誰だってイヤだし何か可能性の余地を奪われるように感じるものだと思うけれど、自分は世の中を知っていると勘違いしている人ほど「自分の知識の範囲内で他人を括ろうとする(理解したつもりになる)」傾向がある気がする。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 2
4・「なぜ生きるのか?」という問いに対して。
「なぜ生きるのか?」という問いに対して、最近は「ひとつになりたいから」なんじゃないのかなと思うようになった。根本的にはわかり合うことなんて不可能だからこそ、一瞬でも(それがたとえ幻想だとしても)ひとつになれたと感じる瞬間に、内側から湧く静謐で強烈な喜びを覚えるのだろう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 30
5・「同じ気持ちになりたい」から生きている。
6・何度でも何度でも生まれ変わる五月。
起死回生の五月。 https://t.co/HdCB08U8kt
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 30
7・人生の主語は「(他人ではなく)自分」にすること。
自分がどう思うかよりも他人がどう思うかばかりを優先してしまうと、永遠に「他人軸」で生きなければならなくなる。自分の欲求をしっかりと捉えないと、結果的に周囲の人たちにもフラストレーションを与えることになってしまうから、人生の主語は「(他人ではなく)自分」でありたいものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 3
8・「私たちはすでに許されている」ということ。
人間の構成要素は「どうしようもなくダメな95%と、捨てたもんじゃない5%」で成り立っていると思う。善意が他人を傷つけることもあるし、エゴを捨て去ることも不可能で、基本的には欲望や執着にまみれているけれど、それでも存在していられるのは「何かに許されている」からなのだろう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 30
9・普通の生活の中にもシンプルな喜びはたくさんある。
音楽を聴くとか本を読むとか自然に触れるとか、料理をするとか人と話すとか身体を動かすとか、普通の生活の中にもシンプルな喜びはたくさんある。新しい何かを求めるよりも、こうしたものを味わえなくなるほどの『余計なノイズ』を取り払っていく方が、ずっと大切なんだろうなと思いました。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 3
10・何もかも失ったとしても、よろこびに触れる余地は大量に残されている。
何もかも失ったとしても、自然も音楽も本も料理も身体を動かす喜びも人と話す余地も大量に残されているのだから、恐れることなど何もないのかもしれない。 pic.twitter.com/SdRVNCCyhc
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 3