いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【ナウシカの「大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね。)」理論】憎しみで憎しみを消し去ることはできない。それができるのは『ナウシカの大丈夫だよ(以下略)理論』だけだ。

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私は頻繁に罵倒される。この前も罵倒された。罵倒されると言い返したくなる。しかし、そんな時はグッと我慢だ。私は幼い。先日も福島県で開催されたチャリティーイベントに登壇した際に聴衆の皆様からボッコボコにされた。私は「家を持たない生活」をしている。そのライフスタイルについて壇上で軽く説明したら、ご高齢の方々から「お前は社会を舐め切っている」的なことを爆発的に言われた。

あまりにも罵倒されるものだから「なぜ罵倒されるのか」を考えてみた。そして導き出された最高の解決策が『ナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』になる。憎しみを憎しみで消し去ることはできない。それができるのはナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』だけになる

1・ナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』のはじまり。


大前提として、私は自分のことを欠陥人間だと思っている。そんな人間が、現在「家がなくても人間の生活は成り立つのか」というひとつの実験をしていて、自分の身体を使って試している。安定した収入もない。家もなければ所持品も少ない。貯金だってもちろんない。このような不安定な生き方をしていると、周囲の大人たちから「お前はバカなんじゃないのか」と怒られる機会が頻繁におとずれる。

先日も、イベントに登壇した際に「お前には感謝が足りていない」とか「おとなとしての自覚がないのか」とか「周囲に迷惑をかけているだけじゃないか」とか「そんなんで会社の共同代表とか恥ずかしくないのか」とか「親の顔が見てみたい」とか、比較的散々なことを言われた。

要するに「もっとちゃんとしなさい」と怒られるのだけれど、私の性格はねじ曲がっているために「ちゃんとしなさいの『ちゃんと』って何よ!」と思ってしまう。これは小さい頃から同じだった。みんなと同じであることが「ちゃんとしている」ことであるならば、学校生活にまったく馴染むことができなかったわたしは小さな頃から「ちゃんとしていない」ダメな子として大きくなった。

しかし、ダメな子でも(生まれたからには)生きていかなければいけない。だから、私は「私みたいな人間がひとりくらいいてもいいだろう」と開き直ることにした。そして、自分と同じように周囲とうまく馴染めない欠陥に悩まされているひとがいたら、こんな私をみて「どうしようもないバカでも比較的元気にやれていますよ。だからあなたも大丈夫!」みたいな感じで、ある種の気休めとして機能してもらえたら嬉しいと思うようになった。

2ナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』では、愛されたいと望むことよりも愛したいと望むことを優先する


私は頻繁に罵倒される。しかし、私を罵倒する人の表情をよくよく観察してみると、あまり幸せそうではないことに気がついた。ああ、あなたも案外苦しくてつらい日々を過ごしているのですね、などと思わされる機会は意外と多い。私に「感謝しろ!」とか「謝罪しろ!」と声高に叫ぶひとは、日常的にあまり他人から優しくされたり感謝されたことがないのだろうな、と思うようになった。

そこで『ナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』が生まれた。名称が長過ぎるので「ナウシカ大丈夫だよ理論」と呼ぶ。何かの心理学の本に書いてあったが、人間の行動原理は「愛」か「恐れ」のどちらかになるらしい。これを言い換えると「愛したい」のか「愛されたい(という悲痛な叫び声をあげている)」のかの違いになる。

3・ナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』を通じて、愛情が枯渇して砂漠で暮らす人々に愛のシャワーを浴びせる精神的な余裕が宿る。


そういうことなんじゃないのかと思った。常に怒りに溢れている人は、要するに愛情不足なのだ。「愛してちょーだい!愛してちょーだい!」と叫んでいるのだ。そう思えば、届く批判の数々にいちいちへこむ必要もなくなるし、あなたもさみしいのだね的な感じで歩み寄ることも(しないけど)できる。

4・憎しみで憎しみを消し去ることはできない。それが出来るのは『ナウシカの大丈夫だよ理論』だけだ。


そこで生まれたのが「ナウシカの大丈夫だよ理論」になります。風の谷のナウシカを見たことがある人ならわかると思うが、ナウシカは物語の途中で「テト」という名前のキツネリスに出会う。野生のキツネリスは凶暴で、ナウシカと出会った瞬間には猛烈に威嚇していた。ナウシカが「こっちにおいで」と腕を差し出すと、テトは思い切りナウシカの指を噛む。しかし、ナウシカはまったくへこたれない。

指を噛むまれてもなお「大丈夫だよ」と念じ続けるナウシカの厚い愛情におされ、テトの凶暴性はなりを潜め、結果的に猛烈になつく。そしてナウシカは言う。「ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね」と。私は、これを見た時に「これだ」と思った。憎しみを憎しみで消し去ることはできない。それができるのは「愛(ナウシカの大丈夫だよ理論)」だけなのだ、と思うようになった

5・ナウシカの大丈夫だよ(ほらね、怖くない。ね?怯えていただけなんだよね)理論』を通じて、トータルで抱き締める圧倒的肯定力で楽しく生きよう。


何かこう適当な記事を書いてしまった感がすごいけれど、現代社会における最大の問題点は『愛情不足』にあるんじゃないのかと私は睨んでいる。愛されたいと望む人は大量にいるけれど、実際に愛してくれる人が限りなく少ない。言い換えるならば「深刻なナウシカ不足」であり、自らが率先してナウシカになれるひとを時代が求めている。

いま、私は福島県会津若松から車で福島市まで来た。天気が最高で、すでに夏が到来しているかのような錯覚を覚える。天気がいいと、いろいろなことがどうでもよくなる。一緒に過ごしている人がほんとうに魅力的で会話もものすごく盛り上がり、大きな多幸感に包まれてしまっている。もっとしっかりとブログ記事を書きたいなあと思いながら、そういうことがどうでもよくなってしまっている

冒頭でも述べたように「ちゃんとしなさいの『ちゃんと』ってなによ!」という違和感を覚えることが多い。ちゃんとしている人がいたら連れて来てほしいと思う。人間の本質は「どうしようもなくダメな95%と、捨てたもんじゃない5%」で構成されていると思う。善意が他人を傷つけることもあるし、エゴを捨て去ることも不可能で、基本的には欲望や執着にまみれているけれど、それでも存在していられるのは「何かに許されているから」なのだろう。私たちは(何かを許す前に)すでに許されているのだ。

ちゃんとしているということは「みんなと同じである」だけの場合が大半で、みんなと同じであることの「安心」だけを求めてしまうと、自分であることの「幸福」は遠ざかってしまう。人間は根本的に不完全な存在であり、完璧な人間はひとりもいない。自分にも他人にも完璧を求めるのはあまりにも酷だから、お互いの不完全さを許容しあう『ナウシカの大丈夫だよ理論』が蔓延したらきっとハッピーだ。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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