いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【MMJ-上田市】「みんなと仲良くしなければいけない」という嘘。

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長野県上田市で開催されるイベントに登壇するために、去年、佐賀県出身の男性から譲り受けたバイクに乗って新潟経由で参上した。夏の海辺をバイクでかっ飛ばす瞬間は極上の多幸感に包まれるけれど、軽い熱中症になって少しだけ困った。最近思うことあれこれについて、10か条(?)でまとめます。

1・トイレットペーパーがなくても人間は死なない。


私には特定の家もなければ金もなく、現在の所持金は2000円程度になってしまった。このようなことを書くと「不安になることはないのですか?」的なことを行く先々で尋ねられる。正直に答えると、あまり不安になることはない。どうしてなのだろうかと考えて、ひとつの結論(?)が出た。

多分、わたしは「金がないこと」を軽く捉えている。トイレットペーパーが切れた時くらいの感覚で、ああ、ないなあ、程度にしか思っていない。しかし、多くの人にとっては「トイレットペーパーがないこと(金がないこと)」は死活問題になるのだろう。だからこそ、ああ、死ぬ、死んでしまう、トイレットペーパーを手に入れなければ自分は即座に死に絶えてしまう、みたいなことになるのだろう。

極端な例かもしれないけれど、トイレットペーパーがなければティッシュを使えばいいし、他人のトイレを借りてもいいし、多分、代案は幾らでもある。トイレットペーパーがなくても人間は死なない。ひとつの出来事を「重く捉える」人もいれば「軽く捉える」人もいる。自分は事実だけを見ていたい。

2・笑顔の中に泣き顔がある。


イベント等に呼ばれて登壇する日々を過ごしていると、本当に様々な人と出会う。それなりの場数を踏み続けていると、ああ、この人は、いま、とても無理をしているなあと感じる自分の精度が高まっているのを感じる。愛想笑いが過剰だったり、自分を良く見せることに必死だったり、必要以上に自分を卑下している人を見ると、ああ、辛そうだなあ、という気持ちになる。笑顔の中に泣き顔がある。

3・「みんなと仲良くしなければいけない」という言葉の裏側には「みんなと同じでなければいけない」という謎の同調圧力が隠されている。


「みんなと仲良くしなければいけない」という言葉の裏側には「みんなと同じでなければいけない」という謎の同調圧力が隠されている。これは嘘だ。私の細胞は謎に信じている。人間はバラバラなままで共存することが出来る。逆に、自分と同じであることを他人に強制することは、価値観の暴力になる。

4・「このひとたちといる時の自分が、一番好きだと思えるひとたち」と一緒にいよう。


嫌いなひとにエネルギーを使うよりも、私は、好きなひとにエネルギーを使いたいと思っている。恋愛で例えると分かり易いかもしれないけれど、多分、相手を好きになる努力をしている時点で「二人の関係は終わっている」ような気がする。恋人に「自分を好きになる努力」をされたら、自分は切ない。

私たちがやっている「いばや」という団体には複数名のメンバーがいるけれど、私は彼らが大好きだ。彼らの共通点をあげてみると「バカであること」「損得感情で生きていないこと」「面白いかどうかが非常に重要であること」「根本的に明るいこと」「金がないこと」「異常にフットワークが軽いこと」「自分の将来のことは何も考えていないこと」「謎にカラッとしていること」などが思い浮かぶ。

私は、彼らを好きになるための努力をしていない。彼らの何かをコントロールしたいとも思わないし、自分にコントロールできるとも思っていない。そんなことよりも「いつまでもそのままでいてくれよな!」的な感覚を持つことが多い。そして、私が彼らに感じる最大の魅力は『一緒にいると元気になる』ということだ。このひとたちと一緒にいる時の自分が、一番好きだと思えるひとたちなのだ。

5・潜在的な「家出ボーイズ&ガールズ」


Twitterで「お米ください」発言をしたら、イベントに参加してくださった女性がお米と梅干しとのりをくれた。同時に、飛騨高山から来てくれた別の女性がお肉をくれた。これは、神様が「米を炊け(そしておかずを食え)」と言っているような気がしたので、私たちは都市部の空き地に身を隠しながら、こっそりと飯盒炊飯を行い、蒸らす間、横になりながら夏の星空を見上げたりしていた。

私は自分の連絡先やスケジュールをブログ記事の末尾に公開している。それを見たひとから、様々な連絡をもらう。多分、私と過ごす時間は印象深いものになると思う。これは決して「自分は偉い人間だ」と言いたい訳ではないのだけれど、興味のあるひとは連絡をください。


6・大前提として「生きているだけでいい」


この世の中にはほんとうに色々な人がいる。普通のひとなんて実際はひとりもおらず、蓋を開けてみれば、誰もが何かしら(良い意味でも悪い意味でも)狂った部分を抱えている。ただ、それでも生きていることに変わりはなく、それは「それでもいままで生きてこれた」ことの最大の証明でもある。

大前提として「生きているだけでいい」のだと思う。それ以外(金持ちになるとか偉業を達成するとか充実した日々を過ごすとか)はおまけみたいなものだから、何かをやらなくちゃいけないとか、何者かにならなくちゃいけないとかじゃなくて、やりたいようにやればいいのだと思っている。


7・ざっくりやることに、ざっくりお金をもらいたい。


いばやの仮説のひとつに「自分たちがやっていることが未来にとって必要なものであれば、それを見ているひとたちが『こいつらを餓死させてはいけない!』ということになって、必ず助けてくれるはずだ」というものがある。

誤解を恐れずに言うと、いばやは、お金を稼ぎたいとは思っていない。ただ、お金をもらいたいとは思っている。限定的なモノやサービスを売ってお金を稼ぐことには違和感があるために、モノやサービス(いばやの活動や存在)は基本的に無償で世界に提供して、それを面白いと思ってくれたひとたちが「こいつらを餓死させてはいけない!(こいつらの活動や存在を絶やしてはいけない!)」みたいな感覚になって、ざっくりとやることに、ざっくりとお金を与えてくれたらうれしいと思っている。

8・坂爪圭吾は「今世はバグろう」と思っている。


私のような生き方をしていると、様々なひとから様々な説教を受ける。「そんなんで生きていけると思うのか?」とか「いつまでこんな生活を続けるつもりだ?」とか「ひとさまに迷惑をかけて恥ずかしくないのか?」とか「結婚はどうするのか?」とか「具体的な目標はあるのか?」とか、要するに『もっとちゃんとしなさい!(ドーン!)』と言われてしまう。

そして、最近の自分は「今世はバグろう」と思っている。多分、もう、自分には普通の生活なんて無理なんだと思う。それならば、普通の生活は「来世におまかせ」という感じで、今世においては思い切りバグるのも悪くはないなあ、と感じている。いまはシステムの外に出る時代だ。思い煩うことなく、今世はバグろう。

9・自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということ。


私は三人兄弟の末っ子であり、母親も「こどもも三人いたら、ひとりくらいはバグるものだ」と諦めている。非常にありがたい話である。私は、過去に、幾つもの(思い出すだけでも)恥ずかしい体験をしてきた。母親はそれを見ている。それを見ているからこそ「こいつは、多分、何を言っても無駄なんだな。自分を変えるつもりは毛頭ないみたいだ」ということを、細胞レベルで実感している。

自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をすることと、多分、同じだ。自分が書いた過去の記事を見ると恥ずかしく感じるように、半年後の自分も、この記事を読みながら「こいつは恥ずかしい奴だ」と思ったりするのだろう。

10・すぐ忘れちゃうけど何回も思い出そう!


極論、私には「みんなと仲良くしている」時間がない。そんなことよりも、自分がやりたいと思ったことをやるための時間や、自分が好きだと思うひとと過ごす時間を大切にしたい。謎の他人を憎む時間があるなら、周囲の人間を愛する時間に使いたいし、自分を不幸にすることよりも、自分をハッピーにさせてくれる瞬間を求めて「(男の子的な)もぞもぞ感と共に去りぬ」日々を過ごしていたい。

多分、集中すべき事象は「他人」ではなく「自分」であり、過去でも未来でもない「現在」である。生きているのはいまだけであり、やがて、当然のことだけれど『人は必ず死ぬ』。これが自然の摂理であり、生まれてきて、そして、死ぬということ。この一点において、私達は非常にフェアな存在である。

それならば、自分が嫌だなあと思うことを嫌々やりながら暮らすよりも、自分がやりたいと思うことをグワアとやって、結果的に灰になったら本望である。自分が「幸せ」かどうかを決めるのは、常に現在の自分なのだ。日本の梅雨も明けて、夏が来た。最高の季節が到来した。


人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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