いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【FKS-東京】我輩は「地球のひきこもり」である。ー 何もかも失ったとしても、よろこびに触れる余地は大量に残されているのだから、恐れることなど何もない。

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福島を離れて東京に着いた。自然に囲まれた会津若松から池袋駅に降り立った瞬間、人口密度の激烈な違いに軽い目眩を覚えた。本来であれば人間も自然の一部であるはずだとは思うけれど、東京などの都市部では、人間が快適な生活を送れる密度の限度を超えている(人間が自然ではなく障害物になっている)気がする。

最近思うことをまとめます。

1・我輩は「地球のひきこもり」である。


「坂爪さんは旅が好きなんですね」と聞かれたときは「好きではありません」と答えている。色々なひとに誤解されてしまっているけれど、わたしは「旅が好きだから旅をしている」訳ではなく、同じ場所で同じことを同じひとたちとやり続けると『頭がおかしくなってしまう』だけであり、自分の居場所は何処にもない気がしている。何かこう『地球にひきこもっている』という感覚を覚えることが多い。

2・「旅をする人は不幸なんだ」と話すアメリカの旅人。

名古屋で出会ったバックパッカーのマイケルの話を思い出した。マイケルは28歳のアメリカ人で、リュックひとつで世界を巡っている最中だった。日本に来てから一週間程度が経ち、様々な日本人から「旅ができていいね。いろいろな世界が知れていいね」と言われるのだという。しかし、マイケルは話す。

「私の好きな哲学者は『旅をする人は不幸なんだ』と言っている。旅をせず、自分が暮らしている場所に根を張って、そこに生活を築けた人こそが幸福であり、私のように旅を続けている人間は、何処にも根を張ることができない。多くの人達は旅人を見て羨ましがるけれど、旅をするひとは不幸なんです」

それでも私は旅を続けたいと思います、とマイケルは言った。

3・「自分の知識の範囲内で他人を理解したつもりにならない」こと。


一時的に熱狂的に私の存在を面白がってくれるひとほど、後から「坂爪さんにはがっかりしました」と断りを告げて離れていく。自分のイメージと、実際の坂爪圭吾という人間《リアル》のギャップに戸惑い、期待外れだったと落胆するのだろう。よくある話だ。世界を見る目には《イメージ(知識)先行型》と《リアル(体感)先行型》の二種類があるのだろう。誰かと比べてこうだとか、自分の知識と比べてこうだ、とかではなく「(相対的ではない)絶対的なその人を見る」ことの重要性を感じている。

4・「なぜ生きるのか?」という問いに対して。


一年以上前に印象的な体験をした。東京の渋谷にあるガストで作業をしていた時、突如、さっきまで晴れ渡っていた渋谷の空からゲリラ豪雨が降り注いだ。あまりにも激しく降るものだから、ガストの店内にいた人々も途端にざわつきはじめた。滝のような雨だった。窓の外を見て「帰れるだろうか」などと考えていた私は、ふと、周囲のひとたちのざわつく姿を見回してたあとに、奇妙なうれしさを覚えた。

5・「同じ気持ちになりたい」から生きている。

当たり前のことだけれど、私はガストにいるひとたちのことをなにも知らない。ただ、この瞬間においては「雨がやばい」という点において、この場にいる私達は同じ気持ちになることができている。それが嬉しかった。そして、私は思った。誰かと同じ気持ちになれるということの中には、深いよろこびがあるのだということを感じていた。この瞬間の印象的な出来事が、今でも内側で静かに残っている。

6・何度でも何度でも生まれ変わる五月。


最近は、ことあるごとに「起死回生の五月」と言葉にしている自分がいる。四月は散々な目にあった。何度も何度も「死にたいなあ」とか思いながら、実際のところは図太く生きているのだけれど、何かこう「こころがささくれだっている」瞬間が大量にあった。新緑の季節だ。起死回生の五月になる。

7・人生の主語は「(他人ではなく)自分」にすること。


自分がいいと思うのならば、それがいいのだ。

8・「私たちはすでに許されている」ということ。


ナウシカの大丈夫だよ理論』についての記事でも感じていたことだけれど、自分を押し殺して枠にはめるような生き方をするよりも、自分の不完全さを受容して、未熟なら未熟なりに、未熟なままで飛び出していくということが、いま、生きていることの輝きを取り戻してくれるような気がしている。


9・普通の生活の中にもシンプルな喜びはたくさんある。


移動する生活は一抹の頼りなさやさみしさも道連れにする。だからこそ、より一層深く染み込んでくる音楽や自然や料理の数々に、自分の内側の深いところから慰められることもある。これをしている瞬間には「他には何もいらない」と感じることができる、幾つものシーンがある。ほとんどの場合、これらは何も目新しいものではなく「昔からずっとあったものが、新鮮な輝きを取り戻している」だけに過ぎない。新しい何かを求めるのではなく、目の前にあるものを「味わえている」瞬間に幸福を覚える。

10・何もかも失ったとしても、よろこびに触れる余地は大量に残されている。


当たり前の話だけれど、自分が好きでもないひとと豪華な料理を食べるよりも、自分が好きなひとと囲む安価な鍋の方が圧倒的に美味い。『何をするか』も大事だけれど『誰といるか』もずっと重要になる。どれだけ周囲から価値のあるものだと思われていることをやれていたとしても、自分が好きなひとと一緒に過ごすことができていないのであれば、自分のハートは日に日に乾いたものになってしまう。

何もかも失ったとしても、音楽を聴くとか本を読むとか自然に触れるとか、料理をするとか人と話すとか身体を動かすとか、シンプルな喜びに触れる余地は大量に残されている。そういうことに思いを巡らせていると、ほんとうは、恐れることなど何もないのかもしれないという気持ちになる。

新しい何かを求めるよりも、こうしたものを味わえなくなるほどの『余計なノイズ』を取り払っていく方が、ずっと価値のあるものになるだろう。自分がやりたいと思うことをやる。自分が愛するものを見つけていく。そして、自分が愛するものたちを、自分が愛するひとたちと一緒に共有していこう。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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