いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KIJ-神津島】中途半端な未練を断ち切ること。

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新潟を経由して、東京から南に180キロの地点にある、伊豆諸島の神津島にはいった。現地でゲストハウスを運営している女性から「良かったら遊びに来てください」と声をかけてもらったことがきっかけとなり、結果的に極上のおもてなしを受けてしまった。神津島はグッドだ。浜松町(竹芝桟橋)から高速船で片道四時間弱で、青い海や満点の星空を堪能できる。島の焼酎「盛若」も美味で、基本的には何もしない時間を過ごした。

神津島で思うことあれこれをまとめます。

1・生き延びようと思うから迷う。


最近のわたしは「一回死ぬ」ことに可能性を覚えている。極論、死ぬしかないとさえ思っている。人間は、生き延びようとするからから迷うのだ。それでは、坂爪圭吾が言うところの「一回死ぬ」とは、どういう意味だろうか。それは、多分、中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心を入り口に扉を開けるのではなく、勇気をもって開くこと。

2・腹で考える。


人間は三つの臓器を使って思考している。「頭」と「心」と「腹」の三種類だ。頭は「こうするべき(こうするべきではない)」という正・不正的な思考をする。自分はどうするべきなのか、何が正解で、何が間違いなのかということを気にしている。心は「こうしたい(こうしたくない)」という快・不快的な思考をする。自分はどうしたいのか、何が快適で、何が不快なのかということを気にしている。

それらに対して、腹は「腹に落ちる(腹に落ちない)」という落・不落的な思考をする。これは、答え合わせの感覚に似ている。何かを悩んだり混乱している状態は、自分のチューニングが酷く狂っている。他人の意見や外的な要因に翻弄されて、自分を見失っている。自分とは、多分、腹だ。腹がチューニングの機能を果たしている。中途半端な思考では、まだ、腹がざわついている。思考と腹が一致した時、腹が据わる。この「腹が据わる」という感覚が重要であり、腹がおざなりになると自分の軸は定まることなくぶれ続ける。

3・他人の目線を気にしている時、そのひとは止まっている。


私は「自分は偉い人間だ」と思っている人間が苦手だ。自分は偉いと思っている人間は、基本的に「お前も自分みたいになれ」というメッセージを周囲に対して発している。多分、自分と違うやり方が許せないのだろう。そして、私は「自分は偉い人間だ」と思っている人間を見ると、なんぼのもんじゃい、という気持ちになる。「自分みたいになれ」みたいなことを言われると、脊髄反射で「お前みたいにはなりたくない」という反発の感情を抱く。

他人の目線や他人の人生を気にしている時、多分、そのひとは止まっている。周囲の人間のチューニングを狂わせる、不協和音を発している。自分に集中している人間は、自分以外の他人の生き方をああだこうだとは言わない。自分を正しいとも思わない代わりに、自分が間違っているとも思っていない。ただ、自分のベストを更新することに集中している印象を受ける。私は、そういう人間が好きだ。

4・「言葉」よりも「生き様」


人間関係における不幸の原因の9割は「過干渉」だと思っている。他人の人生に口出しをしたり、他人の目線を気にしてみたり、他人の理解を求めたり何かを説明することにエネルギーを使うことは、多分、過干渉のリスクを含んでいる。それよりも、理解を求めたり何かを説明することよりも、自分しか行けない場所まで、どんどん足を進めること。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、言葉を超える。

5・みんなと同じであることの安心は、自分であることの喜びを剥奪する。


みんなと同じであることが何よりも優先される環境においては、自分に忠実であろうとするほどに、周囲の人たちから遠く離れてしまう。しかし、みんなと同じであることの安心は、自分であることの喜びを剥奪する。あらゆるものが自分以外の何者かに変わることを強要してくる中で、それでも自分として在り続けることは、唯一無二の偉業になる。そして、理想的な調和とは「みんなが同じことをしている状態」ではなく「みんながバラバラのことをしていながら、それでも全体の調和が取れている状態」だと思っている。

6・非常にざっくりとしたことをやりたい。


非常にざっくりとしたことをやりたいと思っている。そして、非常に気前の良いことをやりたいと思っている。図書館みたいな、宿泊施設も兼ねる喫茶店のようなものをやりたくなった。基本的な使用料金とかは完全に無料で、珈琲もタダで、料理もタダで、欲しい本があればあげるし、なんなら泊まってくれたひとに百円あげちゃうくらいの場所をつくってみたい。合理性や採算性を度外視したい。経済原理を軽やかに飛び越えてみたい。そんな愚かなシステムが、果たしてどれだけの期間維持することができるのか、そういうところを見てみたい。

7・循環と交換はまったくの別物。


最近は「循環」という言葉がキーワードのようになっている。逆に言えば、循環していない状態(何かを溜め込んでしまっている状態)は不健全であるように感じている。たとえば「恩」と呼ばれるものがある。多分、恩は返すものではなく「次のひとにまわしていくもの」だと思う。それを相手に返すものだと考えてしまうから(または相手に返すことを強要されるから)受け取り辛くなるのだろう。そして、恩や愛情の本質は投げっぱなしジャーマンであり、大切なのは「受け取る力(レシーブ力)」になる。循環と交換は別物であり、何かを受け取るということは、自分のものにするということではなく、次のひとにまわしていく役割を担うということになる。

8・自分は生かされているという感覚が、謙虚さを生む。


当たり前のことだけれど、自分たちが自動車や電車に乗れるのも、WEBサービスを利用できるのも、毎日の食事が摂れていることも、誰かがそれをつくってくれているからに他ならない。生きているということは「生かされている」ということであり、いまの自分の生活は途方もない数々の人たちの恩恵の上に成立しているのだという認識は、ある種の敬虔さを生むと同時に、自分に宿る価値の再認識にも繋がる。

9・「自分で決めない」ということ。


現在の私は東京都にいて、明日から関西&岡山方面に足を運ぶ。そして、私は自分の連絡先とスケジュールをブログ記事の末尾に公開している。連絡が来たひとと会い、連絡がなければ適当に時間を潰している。今月のテーマは「自分で決めない」ということで、これからしばらくは「何も予定が入っていない」期間が続く。明日の自分が何処にいて、明日の自分が何をしているのかもわからないし、明日の自分が何処にいるのかもわからない。

自分で決めるということを投げ出した私に残るものは「どうする」ではなく「どうなる」になる。どうするという言葉の主語は『自分』になる。自分で何をするのかを決めて、そのための手段や方法を自分で確保し、基本的にはあらゆることを自分の力で成し遂げていこうとする態度が「どうする」には宿る。自分で決めることのリスクは、自分で決められる範囲内の出来事しか起こらないということだ。

それに対して、どうなるという言葉の主語は『世界』になる。別に卑屈になる訳でもなく、自分をオープンにしたままの状態で自分を世界に放り投げる。ピンボールのように弾き飛ばされながら、予測不可能な場所に運ばれていくことを楽しむ姿勢が「どうなる」には宿る。自分で決めないことのリスクは、何が起こるかわからないということだ。いまは「どうする」よりも「どうなる」のかわからない状態を、楽しんでみたいと思っている。

10・明日のことを思い煩うな。


どうにもできない過去や未来に縛られて、現在を犠牲にしてしまってはいけない。細かいことを気にするには、人生はあまりにも短い。あるのはこの瞬間だけであり、目の前にある今日という一日を、思い煩うことなく確実に生き抜くこと。明日のことは明日に任せて、昨日のことは昨日に任せて、他人のことは他人に任せて、自分の命を生きること。素晴らしいと思える一日の積み重ねが、素晴らしいと思える人生になるのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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