いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きててもいいよ。

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兵庫県三宮駅前のドトールにいる。電車内で、女子が化粧をしていた。化粧は美しくなるための行為なのに、なぜ、化粧をしている姿はあんなにも醜いのだろうか。誤解されると困るが、私は電車で化粧をする女性をディスりたい訳ではない。ただ「化粧をした女性は綺麗だが、化粧をしている女性は醜い」と思っただけだ。そんな話を(私が綺麗だと思う)女性に話したら「電車で化粧をしなければならない余裕の欠如が、既に美しくない」と一刀両断。彼女の言葉に、吹き出してしまった。

 

 

おおまかなスケジュール

7月25日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
7月27日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

男の生理。

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京都でエレキギターを譲り受けた。ギブソンレスポールで、色は「チェリーサンバースト」と言うらしい。さくらんぼ。太陽。爆発。燃える炎のイメージ。これで、自分をどこまで引き出せるのだろう。ギターから「遠慮するなよ」と言われた気がした。思い切りかき鳴らしたい。しかし、エレキのことは全然わからない。アンプがないと音は出ないらしい。エフェクターがないと、音を変えることはできないらしい。楽器屋に行くのが筋なのだろうが、私は『店員さん恐怖症』なのでお買い物ができない。必然、あるもの(舞い込んできたもの)で勝負になる。誰か、使っていないアンプなどなどありましたら、お譲りいただけましたら超絶幸いです。

 

音楽をはじめて数ヶ月。いまでは「1日ギターを触らない日があると、もぞもぞする」程度には、ギター愛が芽生えた。これまでギターなしで生きていたのが不思議だ。ギター自体は、高校生の頃から触っていた。が、正直、ギターなんて大嫌いだった。理由は「うまく弾かなければならない」と思っていたからだ。うまく弾かなければならないという思い込みと、うまく弾けない自分との乖離に毎回「うぎゃー!」となって、投げ出していた。だが、いまは、違う。ギターは楽しむための道具であり、自分を表現するための道具である。言葉も音楽も似ている。いい言葉(いい音楽)を作ろうとすると、苦しくなる。だが、青臭い表現だが「ありのままの自分を表現する」ために使うと、最高のお友達になる。叫びたいなら、叫ぶ。暴れたいなら、暴れる。泣きたいなら、泣く。その時、音楽は最高のお友達になる。


私たちはすでに許されている。最近、そんなことを思う。たとえば、誰かに認められるために音楽を利用してしまうことがある。すごい曲を作りたいと思う。誰かを楽しませたいと思う。それが前向きに働く時期はよいが、変なふうに作用をすると「音楽が、自分の欠落を埋めるための道具」になる。これはよくないと思う。少なくとも、私は、こういう付き合い方をしたいとは思わない。私たちはすでに許されていて、私たちはすでに認められている。すでに認められている上で、それでもなおやりたいと思うもの。それが、音楽だ。共有したいものは素晴らしさであり、この感覚は、うまく言えないが自分という個人を超えている。自分という個人を超えて「人間賛歌」みたいなものを歌えたら、最高に気持ちいいだろうなあ。と、思う。欠落なんて、あると思えばあるが、ないと思えばないのだ。もっと言えば、欠落があろうがなかろうが、金があろうがなかろうが、才能があろうがなかろうが、人間は(それとはまったく関係ないところで)歓びを感じることができるのだ。

 

note.mu

 

わたり文庫『イニュニック

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、星野道夫著作『イニュニック』です。こちらの本は、長崎県五島列島在住の男性が「わたり文庫に是非」と寄贈をしてくださった一冊です。最近、ハワイ島で野営をしながら過ごした日々を頻繁に思い出します。夢のような日々で、ああ、この瞬間もハワイ島では穏やかな時間が流れているのだなあと思うと、安らかな気持ちになります。死にたくなったら、ハワイ島に行こう。あるいは、アラスカに行こう。ユーコン川を筏でくだろう。いまいる場所だけが世界ではないのだ。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、京都府にわたりました ※※※

 

1946年の冬、23歳のシリアがたった一人で小型飛行機を操縦し、アメリカ本土からアラスカへ飛んできた時から始まる彼女の軌跡は、そのままこの土地の歴史の一端を語ることになるだろう。僕はシリアとジニーから、できるだけたくさんの古い物語を聞いておきたかった。もう年老いた二人なのに、彼女らと会うたび、僕はある豊かさをもらっている。それを言いかえれば、限られた一生の中で何を大切にしてゆくかということだろう。シリアの口ぐせで、僕の好きな言葉があった。

Life is what happens to you while you are making other plans.
(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)

波乱の人生を生きたシリアの口からこぼれると、その言葉は暖かかった。

星野道夫イニュニック』【新潮文庫

 

生きててもいいよ。

あらゆる能力は、使い方を誤ると「自分を殺す」道具になる。私は(自分で言うのも変だが)敏感な人間で、社交辞令とか愛想笑いとか表面的な言葉を聞くと、毎回ダメージを負う。しっかり傷つく。前にバイトをしていたときは「心を殺せばいいんだよ」と助言されたが、だったら死んだ方がマシだと思った。結果、こんな生き方になってしまった。鈍感力を身につけられたらどれだけ楽か、などと思った時期もあるが、自分の敏感さを愛したいと思う。敏感さを愛するには、敏感さを「許す」方向に使わないと、死ぬ。他者に向けられた鋭敏な洞察力の矢は、必ず、自分自身にも向かう。処罰的な洞察力は、いつか、自分を殺める。深い洞察力は、人間を許す方向に使ってこそ、真価を発揮する。言葉も同じだ。自分の闇を表現するのは構わない。だが、最終的に「許す」方向に舵を取らなければ、言葉に殺される。

 

私は「音楽とユーモア」に救われたと思っている。地元新潟で暗黒時代を過ごしていた時期、自宅に引きこもりお笑い番組を見るか音楽を聞くかしていた。これがなかったらとっくの昔に自殺をしていたと思う。音楽。ユーモア。これらに共通するものは『許し』だと思う。自分が好きだと思う音楽は、大袈裟だが、私に「生きててもいいよ」と言ってくれている気がした。その言葉は温かく、どうしようもなく嬉しいものだった。ユーモアも似ている。それは、どうしようもない自分に「ダメでもいいよ」と言ってくれている気がした。ダメでもいい。ダメならダメなほどいい。そういう世界があるのだということを、教えてくれた。生きててもいいよ。ダメでもいいよ。だから、胸を張るんだ。自分が生きていることを、卑屈に思うんじゃなくて、ダメならダメなまま、胸を張って生きるんだ。そういうことを、言ってもらえているような気がした。「嘘でも構わない」と思った。死ぬまで騙されていたい嘘を、死ぬまで騙されたいたい光を、私は、あの瞬間に見ていたのだと思う。 

 

そういう光のために、生きてこそだと思う。ひとつの嫌な出来事があると、そればかりにとらわれて、まるで人生全体が嫌なことばかりに見える夜もある。だが、自分がこれまで生きてこれたのは、紛れもなく「なにかに許されてきた」からだ。いま、生きている。それは「生きていきたい」と思わせてくれるものが、確実にあったからだ。それは、母親の胎内にいた遠い記憶とも、つながっているのかもしれない。生きていれば、また、ぬくもりに触れることができるかもしれない。そういう思いが、人間を「生きたい」と思わせる方向に向かわせる。生きなければ、という義務的な感覚ではない。それは「生きたい」と思う、前向きな意思になる。希望になる。あらゆる能力は、使い方を誤ると「自分を殺す」道具になる。しかし、正しい使い方をできたとき、それらは「人間を生かす」最高の道具になる。道具をもっていない人間はいない。ただ、正しい使い方をできない時期が、誰にでもあるだけだ。正しい使い方とは、人間を許す方向に向かわせる、生きたいと思う方向に向かわせる、慈悲を感じさせるものだ。それを、日本人は「愛」と呼んだのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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