京橋駅前のサンマルクカフェにいる。今日、明日、関西でおはなを配る。成功者になりたいわけじゃない。ただ、挑戦者ではありたい。闘って負けることと、闘わないで負けることの間には、天地の差がある。他人の視線以上に、自分が、自分を軽蔑する視線に耐えられない。私は、なにもしようとしない自分を、軽蔑する。血と汗と涙を流す自分を、いい感じだなと思う。そういうことを、昨日、考えていた。
人生は、他人を蹴落とすなんてけち臭いものじゃない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年5月10日
長所は人の役に立つ為に、短所は愛される為に。自然を美しいと思うとき、それは「そのままの姿でそこに在る」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。
目に見える成果と、目に見えない成果。 - いばや通信 https://t.co/BsliIhy0hD
おおまかなスケジュール
5月15日-16日 おはなをあげる@関西【おはな希望者募集中!】
5月17日 【満員御礼】EVENT@東京都杉並区西荻窪「hana」
5月18日以降、FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 15時 EVENT@千葉県千葉市「N-HOTEL」
SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu
That's Entertainment.
牛肉が好きだ。肉ばかり食っていると「野菜も食え」と言われる。牛は、草食だ。草食動物を食えば俺も草を食べたことになるじゃないか、と言うと「お前はバカか」と言われる。バカはどちらなのだろう。やはり、俺に、なるのだろう。先日、埼玉県にある三芳サービスエリアで定食を食べた。定食には、サラダとか、味噌汁とか、ついてくる。当たり前のように、最初にサラダを食べる自分を見て「つまらない人間になったな」と自分を軽蔑した。消化的にも、最初はサラダがいいと言われる。しかし、幼少期、わたしはサラダなんか嫌いだった。しかし、いまは、最初にサラダを食べ、なんなら「健康にいいと言われていることをやっている自分って素敵」とか、思ったりする。そこに、頭で食べる(頭で生きる)退屈さを覚えた。
大げさな話になるが「奴隷根性」という言葉がある。例えば、就職の問題。正社員である自分はしっかり生きている人間だ、という前提がある限り「働いていない人間は無価値」とか「この年齢で日雇い労働者はやばい」とか「当たり前ができないことに罪悪感を覚える」みたいな現象が生まれる。私は思う。世間的に良いとされていることをして『誇り』を抱いたり、世間的に悪いとされていることをして『自分をすり減らす』こと、など、これ、全部、奴隷根性ではないだろうか。自分はダメな人間だ。とか。自分は自分に自信がない。とか。自分が悪い。とか。これらは、本当に自分が悪いのか、ただ、自分が悪いと思い込まされているだけなのか。
生きてるだけで金がかかる。正直、こういった現状に、この年齢になっても苛立ちを覚える。苛立ちを感じるのは、自分が、ガキンチョだからなのか。苛立ちを押し殺し、苛立ちを受け入れ、世の中とうまく折り合いをつけることが、大人になるということか。どちらが正しいかは、わからない。しかし、自分のハートは、確実に憤りを覚えている。なにかがおかしいと思う。おかしいと思うことを「おかしい」と言うと、大概、たしなめられる。だって、仕方がないじゃないか。世の中は、そういう風にできているのだから。と。なにが正しいかは、知らない。しかし、なにが楽しいのか、ならば、わかる。私は、案外、怒りという感情が好きだ。怒りは、生きる力になる。最下層の人間に残された、最後の、エンターテイメントになる。
わたり文庫『旅へ』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、野田知佑著作『旅へ』です。人間は、さみしい生き物だと思う。だから、なにかを好きになれたときに、ああ、生きててよかったなと思うことができる。野田さんが好きだ。音楽が好きだ。旅が好きだ。野営が好きだ。熱海が好きだ。かっこいい人が好きだ。かわいい人が好きだ。楯突く人が好きだ。葛藤を抱えている人が好きだ。しがらみを抱えたクソガキが、時折かいま見せる摩擦熱が好きだ。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※
あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。狭いベッドの上でぼくは遠い日本の大人たちを想い浮かべ、しきりに腹を立てた。あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い眼で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ。誰にも迷惑をかけず、必死で生きる道を模索しているぼくに「真面目になって就職しろ」としかいえない奴ら。俺はあいつらより何倍も何十倍も真面目だぞ ーーー それから二十数年経った現在でも、ぼくはその頃の大人たちに怒っていて、決して許さんぞ、と思っている。当時、ぼくをバイキンのように見ていた親類の者に会うことがある。彼等は今や年老い(ぼくと余り年齢は違わないのだが)、病気の動物のような哀しい顔と眼つきをしてヨボヨボという形容がぴったりである。ザマ見ろ。
野田知佑『旅へ 新・放浪記1』【文春文庫】
無難に生きるより、やりたいことをやって死のうよ。
私たちはきっと勘違いをしている。人並み外れたエネルギーがあるから、なにかをやれるんじゃない。なにかをやるから、エネルギーが湧き出すのだ。何かをやろうと決意するから、具体的に動き出すから、エネルギーが生まれるのだ。自信があるからやるのではない。自信なんかない。だが、とにかくやる。そこからはじまる。エネルギーを強くする方法なんかない。必要なものは、自分の目の前を絶えず飛び散る、エネルギーの源を狩猟する『瞬発力』だ。実際にやる。成否なんか問わない。成功すればラッキーだし、失敗すれば、何かを学ぶ。どう転んでも、何かを得る。成功者になることが目的ではない。ただ、挑戦者でありたいだけなのである。
おととい、バイク乗りの女性に出会った。私は、原チャに乗っていた。ひょんなきっかけで一緒に走ることになり、原チャ乗りの私は「ついてきな」と話すライダースジャケットが最高に似合う女性がかっ飛ばすバイクのうしろに、必死に喰らいついた。法定速度を微塵も気にしない彼女の後ろ姿を眺めながら、ああ、なんてかっこういいのだと思った。誰にも届かない声で「あねごー!」と叫んだ。あねごの後ろ姿は本当にかっこよかった。ああ、俺に、かっこいいと思わせてくれてありがとうと思った。シンプルな話だ。男は、かっこういいものに惹かれる。かっこういいものに出会い、ああ、自分もこんな感じの人間になりたいと思えるとき、グイッ!っと潜在能力が引き出される。願望と、潜在能力は、セットだ。そこに正しさなんか微塵もなくとも、震えさせてくれるものがあれば、人間は「生きたい」と思う。
誤解を恐れながら言えば、いま、足りないものは『かっこよさ』だと思う。世の中が合理的になればなるほど、どうすれば得か、どうすれば儲かるか、どうすれば安心安全か、みたいなことばかりが語られる。手垢まみれの『ラブ&ピース(あるいはエコ的な暮らし)』が横行し、空々しい概念ばかりが宙を舞う。愛とはなにか、とか、正しさとはなにか、とか、そういうものでは吹き飛ばせない憂鬱が、現代人(というか、自分自身)のこころに堆積している。私は、悩みやすいタイプの人間だから、しばしば「生きるとはなにか」みたいなことを考える。しかし、最終的に着地する地点は、いつも同じだ。それは『無難に生きるより、やりたいことをやって死のうよ』という、ひどく単純で、ひどく頭の悪い言葉で、表現することができる。損得勘定と呼ばれているものの、得は、本当に得なのか。わたしには、わからない。損の中に、最大の得が眠っている。そのように感じることは、頻繁にある。
道に迷った時は、損得感情じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。自暴自棄にはならないこと。希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月13日
大学を辞める時に「辞めて何をするの?」と五億回問われた。やりたいことがあるから辞めるのではなく、やりたくないから辞めるのだと答えた。理解されることは少なかったけれど、あの時に辞めて良かったと心から思う。嫌なことを辞めるのは、無責任な行為ではない。真逆で、責任を帯びる行為だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年6月27日
優しいひとほど、その優しさによって「自分自身を傷つけている」と思う。自分が我慢をすることで保たれる平和なら、そんな平和は偽りだと思う。自分を丁寧に扱えないひとが、ひとに優しくできるとは思えない。もっと自分を出して見ろと思う。誤解を恐れずに言えば「いい子ぶってんじゃないよ」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年5月23日
嫌われないために生きるのではなく、潔く、嫌われてしまおう。傷つかないために生きるのではなく、潔く、傷ついてしまおう。ダメならダメでいいから、格好悪いなら格好悪いままでいいから、自分のまま、正々堂々と生きること。その清々しさ、潔さ、明朗な態度が『自分を信用する』糧になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年5月19日
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、これ以上に優先するべき事柄はあるだろうか。理想の日々は「今日も生きた」と思いながら毎晩眠りにつくことであり、死ぬ間際、「おれは生きた」と思いながら、遊び疲れた子供が眠りに落ちるように、自分の人生に静かに幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月13日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu