いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

弱いから、やっちゃだめってことはない。

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バンコクのオンヌット駅前にいる。よく使われる前置きに「これは別に批判をしているわけじゃないんだけどね」みたいな表現がある。私は、それ、普通に批判をしているじゃんと思う。はっきりそう言えばいいのに、と思う。ストレートに行こうぜ、と。もっと言えば「理解あるひとぶってんじゃないよ」と思う。優しさと、卑怯さは紙一重だ。本当に優しいひとは、傷つく覚悟がある印象を覚える。優しいっぽいひとは、自分は土俵に上がらないままで、他人のことをああだこうだと言う。

 

 

おおまかなスケジュール

7月15日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月18日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

踏み込む勇気。

巷では「自立した人間になりましょう」などと言われる。恋愛も、自分が自立をしているからこそ楽しめるものであって、依存になってはいけない。とか。あなたがいなければ生きていけないと思うことは依存の最たるものであり、それは弱さだ。まずは自分でしっかり立ちなさい。ひとりで生きる強さを持ちなさい。とか。私は、こうした意見に「異議あり」と言いたい。別にどっちでもいいじゃないか、と、思う。依存をしたければ思い切りすればいい。それで死ぬことになったとしても、思い切り誰かを愛して、それによって死ぬなら本望じゃないか、と、思う。

 

人間は矛盾した生き物だと思う。自立したいと思う自分もいれば、誰かとぐちゃぐちゃになるほど混ざり合ってみたいと思う生き物でもあると思う。依存はダメ。これは、多分、正解だ。しかし、正解だけでは満たされない心の部分がある。依存しないように、依存しないように、腫れ物を扱うような付き合いでは、心の一部はさみしいままだ。 私は、単刀直入に「それは、生き方としてさみしくないか?」と思う。あなたはあなた。自分は自分。よく、心理学などで「それは相手の課題だから自分が気にすることはない」などと言われるが、これは本当だろうか。自分と他人を、明確に区別することなんてできるのだろうか。区別するほど、自立はできるかもしれないが、同時に、境界を深めるさみしさを培うことにはならないだろうか。

 

他人の領域に踏み込まないように、自分の領域だけを守る。それは、やはり、さみしい気がする。余計なお世話という言葉がある。他人の領域に踏み込むことは、おそらく『無礼』にあたるのだろう。だが、他人に踏み込むことをせず、他人から踏み込まれることを拒む日々に、充実はあるのだろうか。年齢を重ねるほど、誰も、本当のことを言わなくなる。あなたはあなた。自分は自分。あなたにはあなたの人生があり、自分には自分の人生がある。これらはまったくの別物で、だから、他人がああだこうだと言えることではないということ。これは、最もな意見だと思う。だが、同時に「それはさみしすぎるだろ」とも、思う。依存はいけません。執着はいけません。自立しましょう。誰にも頼らないで生きていける人間になりましょう。これらは、全部、正解だ。ただ、退屈な正解だ。教科書みたいな正解だ。血の通っていない正解だ。かしこくなるほど、さみしくなる。そういう種類の正解だ。

 

note.mu

 

弱いから、やっちゃだめってことはない。

自分を弱いと感じることがある。強くなりたいと思う。よくなりたいと思う向上心は大事だ。しかし「弱い自分は存在をしていけはいけない」などと思ったら、大間違いだ。弱い自分を責める。それは仕方のないことだ。ただ、弱いからといって「生きていけはいけない」なんてことはない。強くなってはじめて生きる権利を得るなんてことはない。だから、強くなってからなにかをやろうとするんじゃなくて、弱いなら、弱いまま、やる。弱さを克服してからやろうとするのではなく、弱いなら、弱いまま、やる。弱いからと言って、なにかをやっちゃだめってことはない。ビビる自分を変えようとするのではなく、ビビる自分のまま、生きる。弱いまま生きる。ビビりながら生きる。永遠に弱いまま生きる。そっちの方が爽やかだ。

 

どうすれば強くなれるか。そんなことは考えないでいいのだと思う。弱いなら、弱いままで生きる。恐れながらぶつかって、恐れながら清濁を併せ飲み、恐れながら手応えを覚える。きっと、その繰り返しだと思う。そして、振り返ったときに、確かに生きてきた自分と出会う。昔より強くなっている自分や、昔より汚れている自分や、昔となにも変わらない自分と出会う。色々なことを覚えてきたようで、実は、何も変わっていない『自分』という存在。人間の価値は、不増不減だ。誰かが褒めたから増えるものでもないし、誰かがけなしたから減るものでもない。自分は、常に、自分のまま。自分の価値も、常に、自分のまま。誰かが褒めても自分は自分。誰かがけなしても自分は自分。なにかを覚えても自分は自分。なにかを忘れても自分は自分。常に、自分はそこにあり続ける。弱かろうが、強かろうが、それが自分であることに代わりはない。だから、この自分で生きる。そう思えたとき、自分という存在に対して『健やかな誇り』のようなものを、抱けるのだと思う。

 

生きていればいろいろなことがある。痛い。苦しい。悲しい。切ない。人間関係が広がるほど、様々な感情に縛られる。家にひとりでいれば、少しはましになるだろう。それでも、なぜ、ひとと交わることをやめないのか。それは「簡単には傷つかない自分を知るため」だと思う。痛い。苦しい。悲しい。切ない。傷を受けることは頻繁にある。しかし、同時に、まったく傷ついていない部分を知る。どんな目にあっても、絶対に傷つくことのない『自分』という部分。自分の尊厳。自分の魂。自分の価値。人間の価値。生命の価値。言葉はなんでもいい。本当に大事なものは、どれだけ肉体は傷ついても、ひとつも傷つかないまま、自分の中に残り続ける。弱いから、なにかをやっちゃだめってことはない。弱いなら、弱いからこそ、弱いままで生きる。簡単には傷つかない自分を知るために、生きるのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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