【超ひも理論2.0】必要な物は既に備わっている。ー 特定の女性から養ってもらおうとするのが「ヒモ」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想が「超ひも理論2.0」だ。
年末年始を佐渡ヶ島で過ごした為に、私の所持金はまたしても三桁(319円)になってしまった。2014年の2月から衝動的に「家も金も定期的な収入も持たない暮らし」を実体験にはじめ、およそ一年の月日が流れようとしている。その中で様々な恩恵を被ることになり、私はこの現象を「超ひも理論2.0」と名付けた。
超ひも理論2.0とは何か?
特定の女性から養って貰っている状態が「ヒモ」ならば、宇宙(人間社会全体)から養ってもらおうとする発想を「超ひも理論2.0」と呼ぶ。私は、2014年の2月に諸事情により東京のホームをレスした。本来であれば自分で新しい家を借りるなりするのが筋なのだろうが、当時の私にはまるで金がなかった。最初は友達の家を転々とする日々を過ごしていたが、友人の少ない私には即座に限界が訪れた。この瞬間、私には二つの道がつきつけられた。それは、家も金もない状態を「泣く道を選ぶ」のか、それとも「笑う道を選ぶのか」という二者択一であり、泣いても仕方がないと思った私は「笑う道」を選んだ。
具体的には「Facebookなどの各種SNSで自分の現状をつぶさに晒し、成り行きを見守る」という方法を私は選んだ。「家がないので誰か泊めてください」程度の懇願では、誰も泊めてはくれないだろうなと思った。そこで、自分はどういう人間性の持ち主で、どのような事情で家を失ったのか、所持金はいくらで、連絡先はこれで、実際的に明日の宿にも困っているということを詳細に書いた。
すると、面白い現象が起こった。
Facebookには「シェア」という便利な機能がある。私の投稿がまたたく間に拡散されまくり、自分の友人の範囲を越えて、まだ会ったこともない人からも「我が家に泊まりにこないか?」という連絡が立て続けに結果になった。この際、私が気をつけたのは「悲壮感を漂わせないこと」であり、誰も辛く悲しそうに過ごしている人間と同じ時間を過ごしたいとは思わないだろうなと睨み、自分自身を可能な限りポップでラブリーな存在であるように投稿した。これが功を奏したのかもしれない。
家を失ったら、家が増えた。
謎の現象は加速度を増し、いつしか「坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態」が発生(!)し、私は想像を越える出来事の連続にアゴを外す日々を送った。私は「家がなければ生きていけない」と思っていたが、家を失ったら(いつでも泊まれる)家が増えた。私を泊めてくれる人々はおしなべて優しい方ばかりで、帰り際には「困ったらまたいつでも来い」と言ってくれる。食料を持たせてくれる人もいれば、餞別をくれる人まで現れて、私は人間の優しさにイグナスの涙を流した。
私は、こうした現象の連続に混乱すると同時に、もしかしたらこうした「家を持たない生活」に何かしら未来のヒントがあるような気がして、実験的に「家のない生活」をはじめることにした。人々の家にお世話になりながら、自分の身に起きていることをブログやSNSを通じて言語化(翻訳)する。すると、面白い現象は連続した。私のブログを面白いと思ってくれた人から「交通費を出すから泊まりに来ないか?」という、謎の依頼が舞い込むようになったのだ。最初は佐賀県武雄市に足を運び、そこから派生するように九州全般を回るようになり、いつしか「可能であれば講演をしていただけませんか?」という奇跡の依頼まで舞い込むようになった。家を失った当初は、まさか自分自身にこのような展開が待っているだなんて微塵も想像出来なかった。私は自分の都合のつく限り全国各地に赴くようになり、振り返ってみれば日本各地に知り合いが増えて、定期的に足を運ぶ場所も飛躍的に増幅した。
ゼロになることと全体になることは似ている。
「坂爪さんはどうやって生活しているのですか?」と、行く先々で頻繁に尋ねられる。定期的な収入のない私は、今でも頻繁に経済難に陥っている。全国各地で開催されるトークセッションに招待される日々を過ごしていたが、基本的には主催者の方からも交通費程度しか頂戴していなかったので、自分の所持金が増えることは滅多になかった。しかし、人生は摩訶不思議なもので、自分が窮地に陥ると必ず何処かから救いの手が差し伸べられる。具体的には「少ないけれど使ってくれ」という心ある人からの餞別をいただくこともあれば、「謝礼を払いますので講演をしてください」とか「コラムの執筆をお願いします」などの依頼が舞い込む形を通じて、私は九死に一生を得続ける日々を過ごしてきた。
もちろん、このような生活をしていると多くの批判も集まる。「お前は逃げているだけだ」とか「社会的責任を果たせ」とか「今は若いから良いけど、これからどうするつもりだ」とか「よろしくやってんじゃねえよ」とか「死ね」とか「消えろ」とか、今でも散々なことを言われている。私に批判や説教をしてくる人達の言葉にはある種の共通性があり、要するに「そんなんじゃ生きていけないよ」と言いたいのだろうと思う。しかし、一度だけ冷静に考えて見て欲しい。事実、私は「そんなんでも生きてきてしまっている」のであり、こうした経験を通じて自分なりの経験値や考察を深め、何よりも「面白い体験を積む」ことに成功している。もちろん、これから先もこうした状態が続くとは思わない。しかし、それは安定した職業に就いている人も同じであり、何が起こるかわからないのはお互い様ではないのだろうか。
人とのつながりがあれば人間は死なない。
ここ一年間の私は、超ひも理論2.0の原則に基づいたライフスタイルを軸に生きてきた。それは「人々からの施しを受ける日々」であり、言葉を変えるならば「人とのつながりだけで人間は生きていくことができるのか?」を自分自身を使って試す実験の日々でもあった。現状の答えは「YES」であり、人とのつながりがあれば人間は死なないことが判明した。このような日々を過ごす中で、私にとって最大のセフティネットとは「安定した仕事につくことでも、銀行にたくさんの金を集めておくことでもなく、自分にもしものことがあった時に助けてくれる人がどれだけいるかなのだ」と思うようになった。
人間にとっての最大の地獄とは、過酷な状況に陥ることではなく、その状況の中で、自分を助けてくれる人が誰ひとりとして存在しない状況を指すのではないのだろうかと私は思う。私は、奇跡的にこうした生活を通じて「何かあればここに逃げろ!」的な空間を幾つか確保することに成功した。誤解されると困るが、私は「誰もが私のように家のない(他人に迷惑をかけることを主体とする)生活を送るべきだ」と主張したい訳ではない。このような生き方にはリスクがあるし、誰もが前向きなエネルギーを獲得できるとは思わない。人間には向き不向きがある。私が主張したいのは「自分のことは何もかも自分でやる必要があるのか」ということであり、単純に「お互いに助け合った方が(お互いに出来ることを持ち合い、足りない所は補い合った方が)暮らしやすい世の中になるのではないのか」ということである。
2014年の夏、私はある人からテントをもらった。また別の場所では寝袋をもらい、また別の場所ではスーパーカブ(原付自転車)をもらった。この三点を客観的に眺めて見たとき、「これがあれば充分に生きていけるのではないか」と思った私は、実験的に試してみた。夏という時期の助けもあり、私はバイクにテントと寝袋を積んで日々を過ごした。まるで問題はなかった。何も高い家賃を払ってマンションに住む必要も、30年ローンを組んで一軒家を買う必要もなく、雨風が凌げて、有る程度の寝るスペースさえあれば、人間は意外と図太く生き抜いていけるのだということを自分の身体を通じて実感した。
「自分のことは自分でやって一人前(誰かに頼るのは半人前)」か、否か。
私の生活に必要なものは、基本的にすべて「(自分以外の)他人からの施し」による。生活に必要な荷物は少なく、人間が生きるために必要なものはそれほど多くないことを知った。もちろん、私の真似をする必要は微塵もなく、基本的には自分が望むようなライフスタイルを各自で送ればいいのだと思っている。私がこの投稿で主張したいのは「特定の女性から養ってもらうのが「ヒモ」ならば、宇宙(人間社会全体)から養ってもらうのが『超ひも理論2.0』だ!」というものであり、乱暴にまとめれば「人生は、意外とどうにかなるように出来ているぞ!」ということを(自分の生き様を通じて)伝えることだと思っている。
《超ひも理論2.0》を要約する。
2・必要なものは既に備わっている。私と共に活動しているメンバーに生じた出来事も含めると、今まで貰ったものは「家」「車」「金」「バイク」「テント」「寝袋」「iPadAIR」「航空券」「食糧」「漁業権(!)」など多岐に渡る。これらを与えてくれた方々は、決して「鼻血が出るほど無理をして提供してくれた」訳ではなく、自分が使わないで余っていたものを、気前良く我々に差し出してくれた場合が圧倒的に多い。我々の責務は「余分な資源を有効活用すること」であり、必要なものは基本的に必ず何処かで余っている。
3・「自分のことは自分でやって一人前」という価値観では、お互いに助け合う機会が限りなく減少する。卑近な例で申し訳ないが、自分で金を貯めて何かを買うよりも、余っている人(管理に困っている人など)から譲り受けた方が、圧倒的な速度で双方の問題を解決できる場合が大量にある。
超ひも理論2.0とは非常にPOPな概念であり、別に正解はない。真面目臭い顔をして語り合う内容の類でもないし、何気なく笑い飛ばしてもらえたらそれだけで書き手冥利に尽きるのだが、もしかしたら「未来を生きるヒント」も僅かだが詰まっているのではないだろうかと睨んでいる。2015年がスタートした。個人的に、2015年は「荒れる」と思っている。何がどのように荒れていくのかを、自分の五感を通じてしっかりと捉えていきたい。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》