【北風よりも太陽になろう】自分の価値観や経験(苦労や感動)も、他人に押し付けた瞬間にそれは暴力になる。
私は海が大好きなのでひとりで頻繁に足を運ぶ。日の光が照りつける海面はキラキラと輝き、思わず「おおお…」という吐息が漏れる。自然に触れていると思考がクリアになる。余計なノイズが周囲から消えるために、自分自身と徹底的に(それでいてリラックスした状態で)向き合うことが出来る。
【私が最近感じている10のこと】
1・自然は誰のものだろうか。私は海を所有していない。しかし、私は海をいつでも楽しむことが出来る。自分が綺麗と思えるものは、(自分で一人占めしようとしない限り)何でも自分のものになる。青い空も、紅葉が終わりかけている山の景色も、風も、森も、星も、私の所有物ではない。「所有」とは何だろうか。それは「独り占めしている」状態と同じなんじゃないだろうか、と思った。
2・人間が感じる普遍的な喜びのひとつに「喜びを他の誰かと分かち合う」というものがあるという。喜びは、分かち合うことで増幅する。何かを「独り占めしている状態」で味わえる満足度はたかが知れており、美味しい料理も「美味しいね」と言い合える誰かがいてこそ、増幅していく美味しさがある。
3・「よろこびを分かち合える仲間を増やすこと」が、人生の充足度を決めるのではないだろうか。私は、私が心から素晴らしいと思えるものを、同じように素晴らしいと思える人たちと出会っていきたい。それは「同じ憎しみ(不安や問題や共通の敵)」を共有できる人たちではなく、「同じ素晴らしさ(希望やよろこびや共通の味方)」を共有できる人たちであり、その結びつきには「愛」がある。
4・人生は短い。あっという間に時間は過ぎ去って行く。他人を憎んでいる暇もなければ、やりたくないことをやっている時間も「なんとなく」生きている暇もない。私は「これでもいいか(この人でもいいか)」という生半可な感覚で自分の生きる道を決めたくはない。「こうしていきたい(この人と同じ時間を過ごしたい)」という自分の内側から湧き出す前向きな気持ちを、常に大事にしていたい。
5・自分の価値観や経験(苦労や感動)も、他人に押し付けた瞬間にそれは暴力になる。「こうあるべき」という枠にお互いを押し込めるように生きるよりも、「こうしていきたい」という前向きな感情をお互いに生み出していけた方が、今よりもずっと自由で寛容な「優しい社会」になると思う。
6・私は「こうあるべき」という表現を使いたくない。本当の意味で自由に生きている人は、それを見ている人の心まで自由にする力がある。それは「自由になるべき」という強制的な表現を介することなく、それを見ている人が自発的に「自分もそうしたくてたまらなくなる」類のものだと思う。それは北風と太陽の童話で言うところの「太陽的なアプローチ」であり、(北風は「強制的に何かをすることを他人に強いる」のに対して)太陽は「自らが輝くことを通じて」自発的に動き出したくなる人間を増やしていく。
7・自然に囲まれていると、私は「私は地球に愛されている」という感覚を取り戻すことが出来る。本来であれば、動物である人間も自然の一部であるはずなのに、いつしか「都市」と「自然」という形で両者は見事に切り離されてしまった。自然の圧倒的なスケールを目の前にすると、自分の存在の小ささが身に染みてわかる。自然の反対は「人工」であり、人工的な環境に囲まれている中で「私は地球に愛されている」と感じることは難しい。「人間として自然な姿」とは、果たしてどのようなものだろうか。
8・自分が満ち足りていなければ、他人に何かを与えることはできない。先日投稿したブログ記事「よろしくやってんじゃねえよ理論(批判の9割は嫉妬)」は10万アクセスを越えて、多くの人から様々なコメントが届いた。好意的なものもあれば、目に見える悪意を向けられていると感じる箇所もあった。
9・この世で一番悲しいことは、自分が自分の批評家になってしまうことだと思う。「やってみなければわからない」ことを、やる前から諦めてしまっては、永遠に今の状態を抜け出すことは出来ない。ひとりの人間が持つ可能性は無限大であり、今までの人生がどうであったかということと、これからの人生がどういうものになっていくのかということには、まるで関係がない。大切なのは「自分はどういう人間になりたいのか(自分はどういう人間にはなりたくないのか)」という問いに対する、自分なりの『答えを生きる』ことだと思う。私は(北風よりも)太陽のように生きていたい。
10・今までの私は「ひとりじゃない」なんて言葉は大嘘だと思っていた。人間はみんなひとりであり、人間と人間がわかりあうことは出来ない、もしもわかりあえるものがあるとしたら、それは「わかりあえないという点においてのみ、人間はわかりあうことが出来る」程度のものだと思っていた。
しかし、事実は異なるように思えてきた。
私は自然を愛している。そして、海を愛する人と話す時、私たちは「どちらも海を愛している」という点において、確実にわかりあうことが出来ている。「どちらがより深く海を愛しているのか」「どちらがより多くの海の魅力を知っているか」という相対的な評価は必要ではなく、「(ただただ)海が好きだ」という絶対的な一致がそこにはある。これだけで充分なのではないだろうかと思うようになった。
「海が好きだ」と思える時、私は「自分はひとりではない」という感覚を得ることが出来る。それは「私は地球に愛されている」という感覚に似ているのかもしれない。自分が愛するものを通じて、自分はひとりではない(自分以外の何かと確実に繋がっている)という感覚を覚える。
「愛」という言葉には人の数だけ解釈があり、同じ言葉を使っているのにまるで異なるものとして届いてしまうことがある。非常に胡散臭く響く時もあれば、ダイレクトに心に響いてくる時もある。愛の代わりに「思いやり」「優しさ」「貢献」「自己犠牲」という言葉を使う人もいる。
いろいろな人がいろいろなことを言う。多くの情報が飛び交う中で、果たして何を自分の軸にして行けば良いのか迷うことも頻繁にあるが、極論、「愛があれば大丈夫」なのだと思うようになった。自分がこれからやろうとしていることに、自分なりの愛情が込められているものであれば(たとえすべてがうまくいくとは限らないとしても)最後には必ず何かが結実するように出来ているのだと感じている。
私は「こうするべき」という北風的なアプローチよりも、「こうしていきたい」と自発的に動き出せるように自分を仕向ける太陽的なアプローチを続けていきたい。自分自身が輝くことに専念することで、結果として周囲の人たちも勝手に動き出してしまいたくなるような世の中になったら素敵だ。憎しみは新しい憎しみを呼ぶだけであり、憎しみで憎しみを消し去ることは出来ない。自分自身が輝くことで周囲も一緒に照らしていく、太陽のように暮らしていこう。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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