いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「等価交換」から「贈与交換」へ。ー 自分が余っているものを(それを必要としている人に)無償で差し出す。受け取った人はその経験に感動して、世の中に優しさを循環させていく。

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私は今年のバレンタインデーにホームをレスしてから、基本的に家のない生活を送っている。自分でテントを張ってそこに眠るか、友人の家(時には初対面の方の家)にお世話になるか、最悪の場合は新潟の実家に戻ってコンディションを整えている。私は、家がなければ人間は生きていけないものだと思っていた。この価値観が見事に崩れ去ったことが今年一番の収穫で、意外とどうにかなることを知った。


ざっと今年の流れをまとめると、2月に家を失い、友達の家を転々とするものの(私には友達が少ないので)すぐにあてがなくなり、各種SNSで「誰か私を泊めてください」とお願いしたらその投稿がシェアされて見知らぬ人までが私の存在を面白がってくれるようになり、初対面にも関わらずご飯をご馳走してくれる方や私を泊めてくれる人が大量に現れ、日本全国からもそのような人が現れ、私は「家がなくてもどうにかなるばかりか、なんだか楽しい」と呑気に浮かれ、いつしか「坂爪さんのライフスタイルは面白いから実際に会って話してくれ」というような講演会の依頼まで頻繁に来るようになった。

このような生活を続けていると価値観が崩壊する。「家がなければ生きていけない」と思っていた私は、実際に家を失うことで私を泊めてくれるたくさんの人と出会い(生きていけることを知り)、その方達は別れ際に「困ったらまたいつでも来なね」と言ってくれる。乱暴にまとめると「私は家を失うことで、たくさんの家を獲得することが出来た」と言っても過言ではない。なんだこれはと私は混乱した。家を失うことで(いつでも泊まれる)家が増えた。これは今世紀最大のパラダイムシフトだった。

私は、この世は等価交換であると思っていた。何かサービスを受けるには、必ず一定の対価を支払わなければいけないものだと思っていた。この価値観が崩れた。私は家もなければ金もない。金のない人間は最底辺の人生を送るしかない。そういうものだと私は思っていた。しかし現実は違った。私に何も見返りを求めずに、(ただ面白いからという理由だけで)私にご飯をご馳走してくれたり私を泊めてくれる人がたくさん現れた。私にはまるで意味がわからなかった。どうしてこれほどまで優しくしてくれるのかがまるで分からなかったけれど、私は根本が図々しいので世の人々の恩恵に授かりまくってきた。

人に優しくされると心が震える。見返りを必要としない一方的な贈与を受けると、とにもかくにも感動する。感動はその人の心を動かして、自分も何か出来る限りの恩返しをしたいと強く思ったり、心の底から「ありがとうございます」と思えたり、誰か困っている人を見た時に自分が出来る範囲の助力を差し出したいと思えるようになる。自分が優しくされたように、誰かにも優しくしたいと思うようになる。これは「必要な対価を支払う」等価交換とは異なる原理が働いていて、言い換えるならば「もらった優しさを次の相手に循環させて行く」贈与交換の原理が働いていると実感した。

「あなたはこれをくれた。代わりに私はこれを差し出した。これで私たちの関係はフェアだ」というのは、合理的だけど人間味に欠ける。最悪の場合は「私はこれだけしているのに、あなたはこれしかしてくれない」というような恨みの感情を引き起こしたり、本当に必要としている人に必要なものが届かなかったりする。これが等価交換を前提としている世の中であり、私はこうした世の中を「そういうものなんだろう、そういうものなんだから強く生きるしかない」と勝手に何かを諦めていた。しかし、現実はそれだけではない(贈与交換という名の)新しいレイヤーがあった。

よくよく考えて見れば、自然界そのものが「贈与」で成り立っていることに気づく。太陽は何の見返りも求めずに光を注ぎ続けるし、海水浴をするのに海は入場料を徴収しないし、空気を吸うための許可を得る必要はなく、川の水を飲むのに一定の月額使用料金を払う必要もない。自然の摂理は(等価交換ではない)贈与交換の原理で成り立っていて、すべてが循環するように上手いこと出来ている。

等価交換は関係の清算であり、贈与交換は関係の継続である。例えるなら、私が仮にホテルに金を払って宿泊した場合、それは等価交換であるからホテルの従業員と人間的な交友を築くことは滅多にない。これが清算だ。逆に、周囲の人から無償で宿を提供してもらった場合、私は何も見返りを払ってはいないから「一方的な贈与を受けた」だけであり、人間関係が清算されることがない。何か恩返しを出来る機会があればそれをしたいと思うようになるし、あるいは、その人ではない別の誰かに(その人に優しくしてもらったように)優しさを循環させていきたいと思うようになる。これが関係の継続になる。

最近では「お金を稼ぐこと」に対する違和感を抱えている人が増えているように思う。しかし、その違和感の本質は「お金」に対して抱いているものではなく、実は「等価交換」という一般的な社会システムに対して抱いているものなのではないのかと私は思う。等価交換は圧倒的にフェアだが、そこに人間的な感動はない。そこにあるのは商取引であり、人間的な繋がりや優しさを感じることは難しい。お金の代わりに物々交換やスキル交換などの試みをはじめる人たちもいるけれど、『等価交換』という点においては同じことだと思う。何かを出来る人や何かを持っている人は恩恵を受けることができるけれど、何も持たない人は何も得ることが出来ない。置き去りにされてしまう人たちを発生させてしまう。

誤解されると困るが、私は決してお金の価値や等価交換という社会システムを真っ向から否定したい訳ではない。私が感じているのは『交換』に限らず『贈与』も素晴らしいんじゃないのかということであり、自分が余っているものを(それを必要としている人に)無償で差し出す。受け取った人はその経験に感動して、受け取った優しさを循環させていく。自分の出来る範囲からで構わないから、自分が差し出せるものを差し出していく。関係を清算するのではなく、継続させていく。

『等価交換から贈与交換へ』ー 生活のすべてをある日突然変えるのは難しいが、生活の一部だけでもそのような試みをはじめることによって、新しい時代への突破口を感じていくことが出来る。殺伐とした世の中を明るく照らすのは「人間的な温もり」や「優しさ」であり、それは規模を問わない。ふとすれ違う人から柔かな微笑みを受けるだけでも、殺伐とした心に前向きな風が吹き込むことが頻繁にある。

冷静に世の中を眺めてみた時に、自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人いる世の中はとてもじゃないけれどまともとは言えない。必要なのは「(比較的生き辛い)今の社会に自分を無理矢理適応させていくこと」ではなく、「自分が行きたいと思う未来の根拠に自分自身がなる」ことであると思っている。周囲の人間から嘲笑されることがあったとしても、自分が心の底から「そういう世の中にして行きたい」と望むイメージがあるのならば、他人の目線を気にしてはいけないのだと思う。誰かがはじめなければ何も変わらず、いつの時代も周囲から嘲笑われてきた人たちこそが、新しい時代の常識を実現させてきたということだけは、忘れてしまってはいけないのだと思う。太陽のように生きよう。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume / ibaya
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