いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KIJ-日本海】努力は暴力。ー 『正しさ』よりも『楽しさ』が人を動かす。

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暇で発狂しそうだったので、とある著名人の講演動画を海岸で見ていたら違和感に満ち溢れた。その男性は大学卒業生に対して「これから世の中は大きく変わります」「常識が通用しなくなります」「勝ち組と負け組に大きく分かれます」「のんびり生きている奴はダメになります」みたいなことを話していた。

最終的な結論は「努力をしろ」というものだった。私には、いままでの人生で努力をしてきた記憶がない。だから、この男性が何を言いたいのかが最初はわからなかった。努力とは何だろうか。しばらく考えたあとに『努力は(自分や他人に対する)暴力と似ている』と思った。

1・努力は「思い上がりの暴力」である。


講演をしていた男性は世間的にも成功しているっぽい人なので、そういう人が『努力をしなさい』と言い始めたら、聞いているひとはぐうの音も出ない。黙って耳を傾けるしかない。しかし、会場に漂っている雰囲気は非常に堅苦しく、聴衆の人達がまるで説教を受けているこどものように見えた。

2・人間を動かすのは「正しさ」よりも「楽しさ」である。


人間を動かすのは「正しさ」よりも「楽しさ」だと思う。ああしなさいとかこうしなさいとか、そういうものはもう本当にどうでもいいのだと思う。大事なのは「ああしたくなる」とか「こうしたくなる」ような、(他人から強制されるんじゃなくて)自分から動き出したくなるような空気感で、そうじゃないと、自分の行動を他人の責任にしてしまう。

3・「俺を認めろ!そしてお前もやれ!」という押し付け。


私には、この男性が「俺を認めろ!そしてお前も俺のようになれ!」と言っているように見えた。私は、自分のことを立派な人間だと思っている人間が苦手だ。「なんぼのもんじゃい!」というツッコミをいれたくなる。努力という言葉には、ある種の強迫観念にも似た思い上がりを感じることが多い。

多分、こうしなさいとかああしなさいとか、自分の価値観を押し付ける人は人間的に未成熟で、本当の意味で立派な人は「(私の場合は)こうやったらうまくいったよ」というような、新しい選択肢を提示するような話し方をする。そこには(自分も何かをやってみたくなるような)自由の風が吹く。

4・幸せになるのには別に誰の許可も要らない。


私が愛するハイロウズ「幸せになるのには別に誰の許可も要らない」と歌っている。幸福は許可制ではなく、自分はこれをしたから幸せになれるとか、自分はこれをしていないから幸せを感じる資格はないとか、そういうものではないと思う。

5・諸悪の根源は「無理をする」こと。


諸悪の根源は「無理をする」ことだと思う。世の中には大量の『こうあるべき』に溢れているが、こうあるべきというルールを決めたのは自分以外の他人になる。決められた枠に強制的に自分を押し込めるような生き方は苦しい。努力には「自分以外の何者かになろうとする」逼迫した苦しさを覚える。

6・自分の価値観を持つことは素晴らしいけれど、他人に押し付けた瞬間にそれは暴力になる。


私はこの「いばや通信」というブログを運営している。自分の感情を言語化出来た瞬間にはスカッとする喜びがあるが、まるで言語化がうまくいかずに四時間も五時間も悶絶しながら四苦八苦している時もある。そんな時は「俺はいったい何をしているんだ…」という気持ちにもなるが、別に自分が努力をしているとは思わない。やりたくてやっていることで、悶絶したくて悶絶しているのだと思っている。

もしも私が「私は努力家である!」などと勘違いをしていたら、ひどくダサいことを口走るような気がする。「お前も悶絶しろ!」とか「四苦八苦してこそ人生だ!」とか、意味不明なことを口走る気がする。自分の価値観や信念を持つことは素晴らしいが、他人に押し付けた瞬間にそれは暴力になる。

7・思ったことを思ったように言うのは、爽快である。


逆に言えば、思ったことを思ったように言えないことは不快である。おそらく、私がブログを書き続けるのは「爽快感を味わいたいから」であり、中途半端なスキルでは中途半端な爽快感しか味わうことができないからこそ、悶絶しながらも懲りずにこうしてブログを書き続けているのだろう。

8・人生とは、自分を楽しませることである。


多分、自分を楽しませることが出来ていないときに、人間は「努力をしなければいけない」というガチガチの固苦しい状態に陥ってしまう。そして、最悪の場合は努力が出来ていない自分を責めたり、努力が出来ていない他人を責めたくなるような非常に心の狭い状態にもなったりするのだろう。

しかし、私のゴールは『爽快感を味わうこと(単純に気持ち良くなること)』である。そのための悶絶であり、悶絶のための悶絶ではない。人生とは、自分を楽しませることである。自分を楽しませることが出来ていないときに、「努力が足りない」などという言葉を(自分や他人に)放ち始めるのだろう。


9・北風よりも太陽になろう。


人間が行動のモチベーションにできるのは「不安」か「希望」だと思う。社会の厳しさを語るひとはたくさんいるけれど、社会の素晴らしさを語るひとは少ない。努力の問題点は「努力をしていない自分を責める(他人を責める)」ことであり、最悪の場合は人生がまるごと萎縮してしまう。

10・大前提として「生きているだけでいい」のである。


努力とは、強制するものでもなければ他人と競い合うものでもなく、やりたいことをやりたいようにやっている人が、その対象に『熱中』したり『没頭』している姿を見た周囲の人々によって、結果的に「あの人は物凄い努力家だね」みたいな感じで使われる、ある種の誤解(?)を伴った言葉だと思う。

繰り返しになるけれど、私のゴールは『涙が出る程の爽快感』であり、大事なのは「ああしたくなる」とか「こうしたくなる」ような(他人から強制されるのではなく)自分から動き出したくなるような空気感だと思っている。


人を動かすのは「正しさ」よりも「楽しさ」であり、人生は苦しむためにあるのではなく、楽しむためにあるということ。自分が熱中できるものが見つかれば、誰に強制されなくとも「勝手に努力をしてしまう(ように見える)」のが人間であり、厳罰的な北風よりも寛容的な太陽でありたいと思いました。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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