いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

乙武さんと出逢えた奇跡。ー 楽しく生きるためにはルールがある。それは「悲壮感を漂わせないこと」であり、明るいバカに人は集まる。悲壮感を漂わせはじめたら人生が終わる。

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私の人生に奇跡が起きた。奇跡は得てして予期せぬ時に起こるもので、私は自身のツイッターに電話番号を掲載しているのですが、ある日(佐賀県武雄市にいた時)知らない電話番号から着信があり、誰だろうと電話に出てみたら相手は驚愕の国民的アイドル・乙武洋匡さんでした。

「坂爪さん? 乙武です。坂爪さん面白いね」

私は突然の出来事を受け入れることが出来ず「えー!(なにこれきゃー!)」と悲鳴をあげたのちに、人生の何が起こるかわからなさに爆笑した。国民的有名人の方から直接連絡をいただき、私のテンションは過去最大の瞬間最大風速を叩き出し、天国への会談を昇りはじめた私に乙武さんは重ねました。

「東京にくる時があれば話しませんか?」

きゃー!人生の何が起こるかわからなさ、きゃー!という訳で、先日の金曜日に念願の初対面を果たしました。結論から言えば、坂爪史上最高に感動的な時間になった。生きていてよかったと心の底から思うことが出来た。素晴らしい人との出会いは今までの人生をまるごと肯定する。私の「家がなければ金もない生活」や「周囲から受ける嘲笑や罵詈雑言の数々」のすべてが一瞬にして洗い流されました。


私は頻繁にミステイクをおかすのですが、この日も待ち合わせ場所のカフェを間違えるという史上最低の醜態をさらす形でスタートした。「死にたい…」と思ったものの、乙武さんは嫌な顔ひとつせずに超絶爽やかなスマイルで私を迎えてくれました。実際に対面して話す乙武さんはテレビで受ける印象の800倍以上素晴らしい人柄で、私の自殺願望は霧消し、時折織り交ぜるジョークのエッジも半端なく、この日の乙武さんからも印象的な名言がいくつも飛び出した。以下、覚えている限り列挙していきます。

乙武語録1・「坂爪さんはブログ記事で『五体満足で衣食住があれば人間は死なない』と書いているけれど、僕の場合は五体不満足でも平気で生きているから斜め上を行けている気がする」

乙武語録2・「坂爪さんは家と金がなくて、僕は腕と足がなくて、どちらも人間が生きていくために比較的致命的なものが欠けているという点において似ていると思うんだけど、逆にそれが強味になっているから面白いよね」

乙武語録3・「逃げちゃダメだみたいな雰囲気が世の中にはあるけど、ダメになったら逃げちゃうのも僕は全然ありだと思う。ダメになったら一回休んで、元気になったらもう一度やり直せばいいんじゃないかな。逃げることを禁止するよりも、ダメになった後でも何度でもやり直せる世の中の方が僕は良いと思うけどなあ」

本当に乙武さんの言う通りで、「理解されなければいけない」「成功しなければいけない」「うまくやらなければいけない」という空気感以上に、必要なのは「間違ってもいい」という空気感だと私は思う。この空気感がなければいつの日か窒息してしまう可能性が高くなるし、常に緊張状態に置かれたまま生活を続けなければいけなくなってしまう。現在の私は家もなければ金もない生活を送っていて、逆に言えば「それでも生きて行けるとしたら生き方の選択肢が増えてワンダフルだ」というある種の希望に支えられて生きている訳だが、生きるためには希望が必要で、希望を維持するためには「一度や二度の失敗なんて当たり前だ」という前提を自分の中に培えていないとなかなか持続することはできない。

とりわけ、乙武さんと話していて目から鱗だったのは『普通の人には当然にあるものが、自分たちには圧倒的に欠落しているからこそ、周囲から注目を集めている』という点の一致だった。これは本当に興味深い視点だと思った。「これがなければ生きていけない」と思われていたものを、(圧倒的な程度の差こそあれ)私も乙武さんも所有していない。しかし、それでもなお、私たちはいまでもこうして平気な顔をして生きているばかりか、謎に元気だ。これはいったいどういうことなのだろうか。

私は私の実体験から獲得した教訓しか話すことしかできない。しかし、家のない生活を送っていると自分がどんどん世の中の常識と離れた世界を生きている、ということを感じることがある。そのひとつが「等価交換から贈与交換の世界観」であり、私は人間社会の人工的な摂理よりも自然の摂理に近い世界を生きている。


しかし、本来であれば人間も自然の一部であるはずで、だがしかし今は世の中が良い感じにバグっているから自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人発生してしまっていたりする。私の場合は「バレンタインデーにホームをレスする」という突拍子もない出来事をきっかけに一般社会の枠から突如として外れた生き方をはじめざるを得なくなった訳だが、一度レールを外れてみると、今まで自分が当たり前だと思って生きてきた世の中を客観的に眺めることができる。すると、面白い発見を重ねることが出来る。

「こうあるべき」とされているほとんどのことは実際はそうではなく、「こういう生き方があってもいいんじゃないか」という新しい選択肢を自分の中に取り入れていくことが出来る。そうなると人生の自由度があがる。必ずしも他人と同じ生活を続ける理由もなく、やりたければやればいいし、やりたくなければやらなければいいし、こうしたいと思うことがあればそれをやってみればいいだけの話だったりする。うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。しかし、実際にはじめてみることの最大のメリットは、うまくいくかどうかではなく「そういう生き方をしている」という生き様が世の中の人々にゆっくりと伝染していって少しずつ広まっていくことを通じて、私のようなソーシャル浮浪者でさえも乙武さんという国民的な有名人と同じ時間を過ごすことができるという予測不可能性の高すぎる奇跡を味わうことができるという、素晴らしい人生の恩恵に授かることができるということだ。

自分の枠を超えた世界を生きると、自分の枠を超えた出会いに恵まれる。これは常々実感していて、今では私の生き方を面白がってくれる方から「実際にあって話してくれ」という連絡ももらうようになり、10月27日には東京の国分寺でイベントを、10月28日には徳島の美波町へ、10月31日には岡山県の廃校になった小学校へ、11月1日には神戸に出向いてそこに住む方々と話をする機会をいただいている。

謎だ。圧倒的に謎だ。私は家を失うことで多くの機会を得た。何かがあるから何かを得たのではなく、比較的致命的なものを失ったことで『今までの人生をまるごと肯定する』ような素晴らしい出会いに恵まれている。今の世の中を客観的に眺める機会も与えられているし、こうしてブログ記事にして自分が感じていることを広く伝える手段も与えられている。そして、今も平気な顔をして無事に生きている。

人生は何が起こるかわからない。そして、奇跡とも呼べる機会はすべて「何かを失った時」に与えられている。これは面白い現象だと思う。普通、幸せになるためには「新しい何かが必要だ」と考える。しかし、もしかしたら「幸せになるためには新しい何かを捨てる(失う)必要がある」という方が、真実に近いのかもしれない。何かを失うと何かを得る。それは失ったものを遥かに超える実りをもたらす。

人生は予測不可能な出来事の連続で、こうした出来事が「生きている醍醐味」を私の人生に与えてくれる。乙武さんは本当に素晴らしい人柄の持ち主で、実際に体験してきた出来事の幅も半端ないために、常に私を励ましたり勇気付けてくれるような言葉を自然な形で与え続けてくれた。まるで太陽のような人だと思った。素晴らしい出会いは人生を肯定する。私の人生は乙武さんによって全部が肯定された。

私が得た教訓は以下の3つ。

1・素晴らしい出会いは人生を肯定する。
2・何かを失うことで何かを得る。幸せになるためには「新しい何かを得る必要がある」というよりも「新しい何かを捨てる(失う)必要がある」のかもしれない。
3・(色々あるけれど)生きていればいいことがある。

楽しく生きるためにルールがあるとすれば、それは「悲壮感を漂わせないこと」だと思う。明るいバカに人は集まる。誰だって悲壮感に満ち溢れた人や、常に誰かを恨んだり悲しみに暮れ続けている人と同じ時間を過ごしたいとは思わないし、基本的には深刻なバカよりも明るいバカと一緒にいたいと思うはずだ。乙武さんは圧倒的に晴れやかだった。晴れやかな人といると一緒にいる自分まで晴れやかになれる。今の時代に必要なのは「晴れやかな人」であり、言い換えるならば太陽みたいに明るい人だ。

悲壮感を漂わせないで明るく生きる。すべてがうまく行くわけではないけれど、すべてがうまくいかないわけでもない。私はおかげさまでこのように半端なく貴重な機会に恵まれることができた。これは本当に嬉しいことだ。明るく前向きに生きるに限る。太陽みたいに明るく生きよう。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume / ibaya
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