いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「死にたい」は「生きたい」だ。

最近の自分を見ていると、まるで「死にたがっている」印象を受ける。無一文になろうとしていて、あるだけの金を使い切ってしまいたくなっている。大事なものほど誰かにあげたくなってしまっているし、事実ほとんどの物を売るか捨てるかプレゼントしている。そのことに後悔はないし、決して自暴自棄になっている訳でもないと自分では思っていて、ただ、死にたがっているみたいだと感じている。

自分の中で「どこまでも昇りつめてみたい願望」と「どこまでも堕ちてみたい願望」が拮抗している。自分はいったい何重人格なんだ?と思ったりする。善いことがしたいと思う。純粋な気持ちでそう思う。そして、それと同じくらい、堕落してみたいと思ったりもする。何もしない、何も生まない、どこまでも堕ち切った生活をしてみたあとに、果たして何が残るのかを見てみたいなどと思うことがある。

ー 「死にたい」は「生きたい」だ。

例えば、私が一週間後に死ぬとする。私が次に会う人は、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。もしもそれが最後になるのだとしたら、そこで交わした最後の言葉が私の遺言になる。このブログが最後の投稿になるとしたら、これが私の遺言になる。遺書ではない、遺言だ。そして、私の所有物は遺産ということになる。決して私は死にたい訳ではない。自死を選ぶつもりもない。ただ、最近の自分の生き方を見ていると、まるで「死にたがっている」ように見えることがある。愛している人には愛していると伝えていたいと思っていて、自分には誰かを憎んでいる時間はないと思っていて、自分が所有しているものよりも、自分が誰かに与えたものだけが自分が死んだ後にも残るのだろうと思っている。

ー まだ何も残せていない。

昔見た夢で、今でも覚えている印象的なものがある。私は高校にいる。周囲の生徒たちが私を見ている。嘲笑を浮かべながら私の噂をしている。私は怯えている。その人達の陰口がまるで矢のようになって、無数の言葉の矢の数々が自分をめがけて飛んでくる。私は逃げる。矢が刺さらないように自分を必死で守りながら、死に物狂いである教室に逃げ込む。逃げこんだ先は美術室だった。美術室にはたくさんの生徒がいた。しかし、そこにいた生徒は誰も私の陰口を言わない。言葉の矢はもう飛んでこない。私は胸を撫で下ろす。言葉の矢から逃れることが出来た安堵感に包まれる。しかし、その安堵感は一瞬にして崩壊する。私の全身を強烈な恐怖が包み込む。なぜか。そこにいた生徒たちの営みを見てしまったからだ。美術室にいた生徒たちは、全員が壁に向かってそれぞれのキャンバスを並べて、自分たちの作品を作っていた。私は美術室に逃げ込んだ。美術室にいなければ、私は言葉の矢の数々に刺されそうになっていた。しかし、美術室ではそこにいる誰もが自分の作品を作っていた。そこでは、何もつくっていないのは自分ひとりだけだった。それは、言葉の矢の数々から逃れようとする苦しみよりも、ずっとずっとずっと深くて強いつらさを持って、私の全身を恐怖で包み込んだ。『そこでは、何もつくっていないのは自分ひとりだけだった』。今にも叫び出しそうな恐怖に包まれて、私は夢から覚めた。

ー そこでは、何もつくっていないのは自分ひとりだけだった。

これが私の恐怖の原型なのかもしれない。誰もが何かを作り出していて、自分ひとりだけが何も作り出すことができないでいる。美術室にいるのは同じなのに、だ。私は私を「死にたがっている」ように感じていて、そのために何かを残そうとしているように感じていて、そして、今のままではまだ死ねないとも思っている。あるいは、一度死んで、新しく蘇りたいと願っているのかもしれない。決して私は死にたい訳ではない。自死を選ぶつもりはない。そして、それとは別の意味で死にたいと思っている。

こういう風に感じる時は、普段なら届いてくるはずのメッセージのほとんどが、まるで心に響いてこなくなる。人に好かれるとか、金を集めるとか、知識を増やすとか、それらがどうでもいい空虚なものとして、私のハートをいともたやすく通過してしまう。それらが私の中に留まることは決してない。ただ、すべてが私をすり抜けて行く訳でも決してない。確かな重みを持ったものだけが、確実に私の中で滞留して、私の血となり肉となり、私の身体の一部となってやがて何かにつながっていく。

すべてに裏と表がある。「死にたい」の裏には「生きたい」があり、「よろこび」の裏には「かなしみ」があり、「ひとりになりたい」の裏には「誰かと一緒に過ごしていたい」がある。大事なものが生まれた瞬間、大事なものを大事だと思う愛情の気持ちが芽生えると同時に、それを失うことの不安や恐怖も発生する。何かを得ることと何かを失うことは表裏一体であり、「死にたがっている」今の自分の真裏には「生きていることを実感したい」という痛切な願いがあるように感じている。

ー 「死にたい」は「生きたい」だ。

すべてに裏と表がある。人生は続く。遺書ではなくて遺言を残そう。

**************************** 
坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya 
****************************