いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【FUK-武雄神社】死ぬことばかり考えていた高校時代と、生きていく理由。ー 『死にたい』という言葉でしか『生きたい』と言えなかった。

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佐賀県の武雄神社を経由して熊本県に入った。いまは阿蘇にあるゲストハウスにいる。私は初対面の人間が大勢いる場所が苦手で、旅人たちが集まって一緒に飯を食べる、みたいな空間も非常に苦手でひとりでいる。弁当をトイレで食べている人達の気持ちが、痛い程に分かる。

死ぬことばかりを考えていた高校時代と、生きていく理由。


不思議と学生時代のことを思い出していた。私は中学から高校にかけて灰色の時期を過ごしていて、常に死ぬことばかりを考えていた。知り合いは多かったが友達は少なく、身近な人間と「話したいことを話せる」関係性を築くことが出来なかった。何をしていてもむなしかったし、生きていても仕方がないと思っていた。

ただ、自分が好きな音楽を聴いている時間や、自分が好きな漫画家が書いている本を読んでいる時間だけは、そうした思いから自由になることが出来た。当時から、私は日本橋ヨヲコという漫画家の作品が大好きだった。日本橋ヨヲコが紡ぐ物語が大好きで、その物語の続きが読みたいから、生きていたいと思っていた。

ひとりの人間の存在が、ひとりの人間が紡ぐ物語の続きを読みたいと思えることが、自分が死なずに生きていくことの理由になっていた。


月日は流れて、私も30歳になった。昔ほど死にたいと思うことは少なくなったが、昔の自分が思っていたほど「大人」になることは出来ていない。30歳とは、もっとしっかりしている人間だと思っていた。何をもって「しっかりしている」というのは謎だが、現在の自分は、とてもじゃないけれど大人とは呼べない。

青臭い悩みにとらわれ続けて、自分が何者であるのかもはっきりと掴めず、消えない悔しさを抱えながら、いまに見てろよと呟いたり、誰もいない空間で「畜生、畜生」と繰り返しながら拳を握り締めていることも頻繁にある。

高校時代と変わっていないことがあるとすれば、それは「消えない悔しさを抱えていること」と「ほんとうの意味で生きていたいと願っていること」のふたつで、泣いても喚いても自分にはこの身体しかないのだから、うまく付き合っていくしかないのだろうと思っている。


私の中にはよろこびや感謝や愛情だけではない、黒くドロドロとした感情がある。それは醜さとも呼べるもので、何かに対する「憤り」でもある。私には、どうしても見逃せないものがある。それはごまかしであったり嘘であったり言い逃れであったり「人間の誇りを剥奪するもの」を感じ取った時に、どうしても見逃すことが出来ずに反応してしまう自分がいる。

怒りと無力感はリンクしている。何かに怒りを覚えるということは、それに対して何もすることができない自分自身に対する怒りを確実に含んでいる。私は「自分で自分に限界を設けてしまって、狭い枠の中に閉じ込めてしまっているような思考や態度」を見ると、どうしても見逃すことができなくなる。その枠をぶち壊したいと思ってしまう、自分自身のエゴが出現する。

何かを言い訳に、自分が自分として輝くことができないと嘆いている場面に遭遇すると、「そんなことはない」と自身の存在を賭けて全力で否定をしたくなる。


私はきっと、長い間、自分自身に対して言い逃れをしてきたのだと思う。だからこそ、何かを諦めようとしたり、自分で自分に限界を設けて、狭い枠の中に閉じ込めようとするものを見ると、強烈な憤りとも呼べる感情を抱いてしまう。自分で自分を許すことが出来なかった私自身が、他人の中に自分を投影して「そんなことはない」と自身の存在を賭けて否定をしたくなってしまうのだろう。

みんなと同じであることの安心を求めるほどに、自分が自分であることのよろこびは遠ざかってしまう。私が欲しいのは「生きている」という手応えであり、私が苦しんでいたのは「周囲にうまく馴染めない」ことだった。


私が文章を綴る最大の理由は明確で、それは「私が弱い人間」だからだ。自分が自分であることに胸を張りたいと願い、それがまるでうまくいかないことに苦しみ、そんな自分の背中を押すために、自分自身を肯定するために、そして、何度でも自分の希望を取り戻すために、私は懲りずに文章を綴っている。それは何よりも弱い自分自身のためであり、また、自分のような人間に向けてであり、私が人間である限り、それは人間全体に向けて綴られたものになる。

幾つになっても青臭い悩みにとらわれている。消えない悔しさを抱えながら、ほんとうの意味で生きていたいと痛切に願っている。自分で自分が許せない、こんなんじゃ生きているとは言えない、そんな風に思い続ける日々を過ごすのはつらい。それならば「生きる」しかない。駄目だと分かっていても自分自身を投げ出して、損か得か、有利か不利か、合理的かどうかの判断も飛び越えて、ぶつかり合うことで生まれる摩擦熱と波紋の中に身を投じて行くしかない。

自分はいい加減に生きておきながら、周囲には過度の期待を寄せるなんて図々しい。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。過去の私が日本橋ヨヲコの物語に生きたいと思う理由を見出したように、自分自身の物語に生きたいと思う理由を見出せるように、自分のこれからに期待できる物語の中を「自分が」生きていこう。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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