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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。

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本家24時間テレビ【愛は地球を救う】の裏の裏の番組として、いばやでは『70万時間テレビ【まずは自分を救え】』を絶賛開催中である。人間の平均的な生涯が80年ならば、時間に直すとおよそ70万時間になる。出演者と視聴者の垣根を越えて、ひとりひとりの人間が「いまなら大往生できる」と感じた瞬間が70万時間テレビの終了であり、要するに70万時間テレビとは『ひとりひとりの人間の一生』でもある。


いばやの保科さんが、ある日、介護関係の仕事のお手伝いをしていた。そこでは「あのひとも90歳まで生きたのだから、大往生だよね」的な会話が飛び交っていた。それを聞いた保科さんは「本当にそうなのかな??」と思った。大往生であるかどうかは相対的な年齢や他人の評価で決められるものではなく、自分で決めることができるんじゃないのかなというひとつの問いが、この企画のはじまりになる。

まずは自分を救え。

愛は地球を救うとか言っている場合ではない、まずは自分を救え。70万時間の人生の中で、ああ、たとえこの瞬間に死んでしまったとしても、立派な大往生だと胸を張って言える瞬間のど真ん中を生きているひとの姿は美しい。私達(少なくとも坂爪圭吾自身)は、この70万時間テレビを通じて、お互いに「生きていることを目撃し合っている」ような感覚を得られたら激烈にうれしいと思っている。

稀に「あなたは詩人ですね」と言ってくださるひとと出会う。私は、そのことをとても嬉しく思う。そして、同時に「あなたが私を詩人にしてくれたのだ」と思う。書くひとがいて、読むひとがいて、はじめて『詩』は成立する。どれだけ多くの詩を書いたとしても、それを読んでくれるひとがいなければ詩人になることはできない。私を詩人にしてくれるものは、私の詩を発見【目撃】してくれたひとの存在だ。

多分、人間が生きるということも同じだ。それを見てくれているひとがいて、はじめて『人生』は成立する。書くひとがいて、読むひとがいて、はじめて『詩』は成立するように、ひとが生きるということは「生きていることを目撃してくれる」他者の眼差しが不可欠になる。自分は生きているのだというエネルギーを放出する主体と、あなたは生きているのだねというエネルギーを受け取る客体、これらが溶け出して混ざり合った【主体を共有する】時に、ひとつの作品【ひとつの詩=UNIVERSE】は完成する。

生きていることを目撃し合っている。

私は、なぜ、言葉を綴るのだろうか。言いたいことや伝えたいことがある訳でもなく、声高に主張をしたいと思うことや実現したいと願う理念や理想がある訳でもない。それなのになぜ、私は、こうして言葉を綴り続けるのだろうか。なぜ、日記帳やメモ帳などの個人的な場所ではなく、ブログ記事という「誰もが目にすることができる場所」に、自分の存在を晒し続ける(他人の眼差しを求める)のだろうか。

それは、生きていることを目撃し合いたいと願うからだ。私は、多分、言葉を綴るという行為を通じて「自分は生きているのだ」という生命のエネルギーを無条件に全方位に向けて放出する。これは、無人島に漂着をした人間が発見をされることを願いながらSOS【アイアムヒア!(私はここにいる!)】のサインを出すことと似ている。SOSのサインを出す時、そこには「どこかで自分のサインを受信してくれる【自分を見つけ出してくれる】ひとがいるはずだ」という、人間に対する希望がある。

無人島に漂着をした人間を助け出す時、救う側にも、救われる側にも、同じように「生きていてよかった」という思いが生まれる。救う側は「ひとりきりでも、お前が生きていてよかった」と、救われる側は「お前が生きていて、ここに来てくれてよかった」と、生きていることに対する強烈な感動の念が湧き上がる。お互いに、生きているものの存在を目撃し合う時、そこには「生きている」ということの感動がある。

ひとりの人間に思いを馳せるということ。

ひとりの人間に思いを馳せるということは、多分、そのひと自身の70万時間に思いを馳せるということだ。生まれてきて、生きている、その間にあった諸々の出来事がそのひと自身のいまの姿を構成している、その「諸々の出来事」について最大限の想像力と一緒に思いを馳せるということが、ひとりの人間を超えた『人類全体に対する理解』につながるのだと私は思う。


ひとりの人間に対してどうしようもない怒りや憎しみを覚えてしまう時、もしかしたら、私達は大切な何かを見落としてしまっているのかもしれない。すべてを知れば、すべてを許せるという言葉がある。ひとりの人間に対して何か許せないことがあるということは、まだ、そのひとについて知らない何かがあるということなのかもしれない。すべてを知れば、そこには善も悪もない、加害者も被害者もいない、ただ「同じ人間がいるだけだ」ということに気付くのだと思う。


ひとりひとりの70万時間のほんの一部分だけでも、このような形で分かち合うことのできる嬉しさを思う。いまを生きているひとがいて、いまを生きているひとを目撃しているひとがいる。与える側も、受け取る側も、そのどちらもが分け隔てなく尊く、そして、そのどちらもが生きていることに対する賛美歌を歌っている。ひとりの人間に思いを馳せるということは、多分、そのひと自身の70万時間に思いを馳せるということだ。

『人はなんで生きるか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、トルストイ民話集『人はなんで生きるか』です。こちらの本は、過去に非常にお世話になっている方から「物語の主人公が坂爪さんに似ていると思って」という言葉と共にプレゼントをしてくれました。物語に触れるだけでも、透明な気持ちを思い出すことができる、とても素晴らしい内容です。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

ここに収められた五つの短編はトルストイ(1828-1910)晩年の執筆になるもの。作者はこの時期いちじるしく宗教的・道徳的傾向を深めていた。そして苦悩に満ちた実生活を代価としてあがなったかけがえのない真実が、幾多の民話となって結晶していったのである。これらの作品には、素朴な人間の善意に対する確かな信頼が息づいている。ー トルストイ民話集「人はなんで生きるか(表紙文章より引用)【岩波文庫】」


どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。

そのひとがそのひとであるほどに、見るひとのこころを勇気付けることがある。たとえ周囲のひとたちとは生き方が異なっていたとしても、大切に思うひとたちからの無理解に苦しむ時期があったとしても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも「そのひとがそのひとでいてくれたこと」が、それに触れたひとのこころに強い勇気を与えることがある。


弱気になりそうな時、周囲との違いに負けそうになってしまう時、自分は自分に言い聞かせている。顔をあげろ。前を見ろ。どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。自分は自分であるということに、誇りを持って生きるんだ。恥じることなく、躊躇うことなく、思い煩うことなく、自分は自分であることを続けるんだ。憎むことなく、恨むことなく、僻むことなく、堂々と、進め、進め、進め!


相手の意見を尊重することの100倍くらい、多分、私たちは自分の意見を尊重してもいいのだと思う。自分の存在を受け入れることができた分だけ、きっと、相手の存在も受け入れることができる。自分の存在を受け入れようとするひとの姿を通じて、私たちは「自分の存在を受け入れようとする」ことができる。世界を救うためにできること、それは「まずは自分を救うこと」だと思っている。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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