【KIJ-神津島】中途半端な未練を断ち切ること。
1・生き延びようと思うから迷う。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心を入り口に扉を開けるのではなく、勇気をもって開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 9
2・腹で考える。
何かを悩んだり混乱している状態は、自分のチューニングが酷く狂っている。他人の意見や外的な要因に翻弄されて、自分を見失っている。頭ばかりが働いてしまって、自分の腹が落ち着いていない。理想の状態は「頭はクールで、腹はホット」な時であり、自分の腹に集中するのが良いのだろう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 11
3・他人の目線を気にしている時、そのひとは止まっている。
「みんな真面目すぎるんだよ」とか「日本人は何もわかっていない」みたいな言葉遣いをするひととは、出来るだけ距離を置くようにしている。他人の目線や他人の人生を気にしている時、多分、そのひとは止まっている。みんなとか日本人などというのは幻想で、自分と他人の間に境界線はない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 11
4・「言葉」よりも「生き様」
理解を求めたり何かを説明することにエネルギーを使うよりも、自分しか行くことができない場所まで、どんどん足を進めること。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 10
5・みんなと同じであることの安心は、自分であることの喜びを剥奪する。
自分に忠実であろうとするほどに、世間的な常識とは乖離していくものだ。それでも、自分を貫くことを諦めなかった人間が、新しい常識のようなものをつくるのだろう。あらゆるものが何者かに変わることを強要してくる中で、それでも自分として在り続けることは、唯一無二の偉業になると思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 8
6・非常にざっくりとしたことをやりたい。
図書館みたいな、宿泊施設も兼ねる喫茶店のようなものをやりたくなった。基本的な使用料金とかは完全に無料で、珈琲もタダで、料理もタダで、欲しい本があればあげるし、なんなら泊まってくれたひとに百円あげちゃうくらいの場所をつくりたい。有志を集めたら、実現できるものなのだろうか。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 7
7・循環と交換はまったくの別物。
多分、恩は返すものではなくて「次のひとにまわしていくもの」だと思う。それを相手に返すものだと考えてしまうから(または相手に返すことを強要されるから)受け取り辛くなるのだろう。恩や愛情の本質は投げっぱなしジャーマンであり、大切なのは『受け取る力(レシーブ力)』だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 6
8・自分は生かされているという感覚が、謙虚さを生む。
冷静に考えてみると、恩というのは「とてもじゃないけれど返し切れるものではない」ということを実感する。自分が生きているということは、様々な人達の途方もない数々の恩恵の上に成立している。自分は既に恩恵の中を生きているのだという認識は、自分に宿る価値の再認識や、敬虔さを生む。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 6
9・「自分で決めない」ということ。
何かをしなければいけない、何もしていない人間は無価値だとされている世の中で、最大の反逆は「何もしないこと」だと思っている。世間的に良しとされていることは何もしない状態で、静寂の領域を保ち、同時に限定的な境界線を超えて膨れ上がりながら、内面は深く満たされているなら最強だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 6
10・明日のことを思い煩うな。
「明日のことを思い患うな」という言葉が何度も頭をよぎった。どうすることもできない過去や未来と引き換えに、現在を犠牲にしてしまってはいけない。目の前にある今日と言う一日を、思い煩うことなく確実に生き抜くこと。素晴らしい一日の積み重ねが、素晴らしい人生になるのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 5
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心を入り口に扉を開けるのではなく、勇気をもって開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 10月 9