いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

人生はどすこい相撲である。

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吾輩はクズである。小さな頃、私は父親からクズと呼ばれて育った。健気な私は「おい、クズ」と呼ばれるたびに「はーい!」と元気にお返事をしていた。泣ける話である。油断をしていると私はすぐに堕落をする。家でYOUTUBEばかり見てしまう。無駄に眠る。ここ数日、ごちゃまぜの家に滞在している。なにもしていない自分はここにいる価値はない。穀潰しである。だから、ブログを書いてビリーズブートキャンプをやることで「少しは俺もこの場所に貢献をしている。士気を低くする方向ではなく高める方向に貢献をしている!」と思うことで自分を保っている。

 

 

過去記事でごちゃまぜの家の規律について書き過ぎた。書けば書くほど「来て欲しい人々は遠ざかり、来て欲しくない人々ほどやってくる」矛盾や葛藤を抱えることになる。なぜか。もとから緊張感のあるひとは「やばい…ごちゃまぜの家にいく時は気をつけなきゃ!」と思うが、そうではないひとは私が書いていることを平気で飛び越えてへらへら足を運び続ける。村上龍の作品に『ダメな女』というエッセイがある。そこには「このタイトルにどきっとした女は、ダメな女ではない」と書かれていた。めっちゃわかる。自分で自分を疑うことができる人間は正常だと思う。重度の精神病患者は、自分が精神病であることを自分で認識することができない。

 

ibaya.hatenablog.com

 

自立するために『他人』がいる。

色々能書きを垂れているが、根本的に誰でも来ていただきたいと思う。全部ネタになる。人間理解も深まるし、調子に乗っていた自分の鼻がへし折られる機会にもなる。村上龍の『最後の家族』がまじでよかった。そこに「他人との出会いはそれだけで別の人生の可能性なのだ」という一文があった。まさにその通りだと思う。ホープレス生活満喫中のUTMさんの登場のおかげで、ごちゃまぜの家は劇的に開墾され、無限の可能性を発掘した。最後の家族には、印象深い数々のフレーズがあった。物語の中で、主人公の男性(引きこもりの21歳)がDV被害者の女性と会う。その女性を救うために訪れた弁護士事務所で、彼はこのような言葉を言われた。

 

女性を救いたいというのは、DVの第一歩なんです。救いたいという思いは、案外簡単に暴力につながります。それは、相手を、対等な人間として見ていないからです。対等な人間関係には、救いたいというような欲求はありません。彼女は可哀想な人だ。だから僕が救わなければいけない。ぼくがいないと彼女は不幸なままだ。僕がいないと彼女はダメになる。ぼくがいるから彼女は生きていける。ぼくがいなければ彼女は生きていけない。

そういう風に思うのは、他人を支配したいという欲求があるからなんです。そういう欲求がですね、ぼくがいなければ生きていけないくせに、あいつのあの態度はなんだ、という風に変わるのは時間の問題なんですよ。他人を救いたいという欲求と、支配したいという欲求は、実は同じです。そういう欲求を持つ人は、その人自身も深く傷ついている場合がほとんどです。そういう人は、相手を救うことで、救われようとします。でも、その人自身が、心の深いところで、自分は救われるはずがないと思っている場合がほとんどなのです。自分は救われることがないという思いが、他人への依存に変わるんです。

 

これは私も気をつけなければならない話だ。『他人を救いたいという欲求と、支配したいという欲求は、実は同じです』とは要注意である。最近、UTMさんを見ていると「この人は神様なんじゃないだろうか」と思う瞬間がたびたびある。昨夜、深夜1時に突然ごちゃまぜの家にやってきた女性にも、実は似たようなことを感じていた。かつての私は「こいつはなんだ!俺が説教をしてやる!」みたいな上から目線の対峙をしていた。坂爪さんはすごいですねと言われても、俺だって色々苦労してここまで来たのだから、何かに憧れるのならばお前もしっかりと苦労をしろと、そういうロジックで相手を『責めて』いた。しかし、最近はちょっと変わった。彼らは、私になにか重要なことを教えるためにここに派遣をされた天国の使者なのではないだろうか。と。では、私がここから学ぶべきことはいったいなになのか。なにを学ぶことによって私は『より一層素敵な自分』になれちゃうのだろうか。と。

 

「内山さんは、誰かに救われたことがあるでしょう」

田崎の口調が変わった。かすかに笑みを浮かべている。どうしてそんなことを聞くのだろう。

「救われたことがない。自分でそう思っている人は、あなたみたいに、正直になれないんですよ。必ず否定しますし、嘘をつきます。内山さんは、誰かに救われた、という思いがあるんじゃないですか」

「あります」

秀樹は言った。

「母です」

母親が精神科医やカウンセラーに通うようになって、それがなぜなのかはわからないが、気持ちが楽になった。そういう話をした。

「おかあさんですね」

「そうです」

「おかあさんは、内山さんを救いたいんだと誰かに言ったり、あなたを救うんだと言って、無理やりどこかに連れて行ったりしましたか?」

「いいえ。していません。逆に、ぼくに干渉しなくなりました」

「おかあさんは、どうやってあなたを救ったんでしょうか」

「わかりません」

「おかあさんは、あなたのためにいろいろな人と話すうちに、自立したんじゃないでしょうか。親しい人の自立は、その近くにいる人を救うんです。一人で生きていけるようになること。それだけが、誰か親しい人を結果的に救うんです」 村上龍『最後の家族』【幻冬舎文庫

 

私は「俺も我慢しているのだからお前も我慢しろ」と言う人を軽蔑している。しかし、冷静になると自分も同じことをしてしまっていたのではないだろうか。自分が「こいつは失礼な人間だな」と感じる人々は、実は、自分が「そうしたいと思っているのに我慢をしていて、それを実際にやってのけてしまうからむかついているのではないだろうか」と思った。UTMさんや岐阜県の女性に共通していることは、底抜けに素直なことだ。私が彼らから学ぶべきことは、一般的な社会常識を盾に「お前は間違っている」と自分の正当性を主張することではない。彼らが素直であることと同じように、自分も裸一貫素直になること。そして、正面突破の『どすこい相撲』を展開することである。ごちゃまぜの家がある種の道場ならば、出会いはおけいこである。正否の勝負ではない。素直さ(熱量)の勝負をすることだと思った。

 

gochamaze.hatenablog.com

 

人生はどすこい相撲である。

ミユ様という素晴らしい女性がいる。私が、noteで『ホームをレスした話(全18話)』を書くきっかけを与えてくれた、お師匠様的存在である。お師匠様は、数日前、ご自身のnoteにて非常に素晴らしい内容を書かれていた。私はえらく感銘を受けてしまって「これだからお師匠様は最高だなあ!」と抑えきれない興奮を覚えた。何かを好きになる時、多分、同時に「それを好きになる自分のセンスを好きになっている」のだと思う。自分と切り離された存在として対象を崇めるのではなく、対象と同等のものが自分にも『すでにある』ことを知りながら、対象を崇める営みが尊いのである。ミユ様は、ご自身のnoteでこのようなことを書かれていた。

 

92日目にして、このところ感じていた毎日投稿への心の拠り所感が大好きだとハッキリと思った。
わたしは何かに依存するのがとても好きで、それに対する罪悪感や不安はない。
依存心は良くないと言われるけれど、少しもそう思わないのだ…いざその依存する物や人がなくなったら、大変なのは自分だよと言われてもぜーんぜん気にしない。大変な目に遭えばいいと思う。
そうやって、ありがたかったと思い知ったり自分の弱さと対面して泣けばいいんじゃないかな。

わたしは何にも依存しないというのが強いのか弱いのかわからないけれど、寂しいことだと思う。


本当の自立というのは、何かを失くしたときの辛さに用心してなににも頼らずにいるよりも、何かを心に招き入れてそれを愛するほうを選ぶことなのかもしれないな、と思った。
失くしたときの辛さを超えられるという信頼が、自分にあると思うから…

note.mu

 

お師匠様ー!好きだー!と、私は天空に向かって吼えていた。とりわけ『本当の自立というのは、何かを失くしたときの辛さに用心してなににも頼らずにいるよりも、何かを心に招き入れてそれを愛するほうを選ぶことなのかもしれないな、と思った。』という部分には爆裂な感動を覚えた。このひとにはかなわないなと思った。誤解を恐れずに言えば母性に包まれてしまった的な敗北感を覚えた。敗北感は、実は、とっても気持ち良いものだ。私は、ごちゃまぜの家をやりながら「道場破りを待っている」のかもしれない。私は、頻繁に、訪問者を斬る。それは「斬りたいから斬る」というよりも、斬らずにはいられない自分を「誰か斬ってくれ」と何処かで願っているからだと思う。ミユ様は、私を斬る。ちっぽけな私をズサッと斬り落としてくれる。そして、そこから『新しい自分』がリボーンするのである。

 

支配にならないように、依存にならないように、用心をしながらびくびく生きるより「支配になってもOK!依存になってもOK!人生はどすこい相撲である。お互いにぶつかりあいながら、お互いを研磨して、お互いに覚醒し合っていけたら最高じゃないか」ということを思う。ダイヤモンドがダイヤモンドでしか磨けないように、人間は人間でしか磨けない。自立するために必要なものは『他人』である。そのためのごちゃまぜの家であり、そのための坂爪圭吾である。年末年始の予定は晴れやかに皆無である。ごちゃまぜの家でもいいし、呼ばれれば何処にでも行きたい気持ちはある。必要とあれば、是非、この家を(そして坂爪圭吾という人間を)使っていただきたいと思う。おけいこしましょ。人間関係のおけいこを。人生はどすこい相撲である。その時に生まれる摩擦熱が、ボディを、世界を温めるのである。

 

 

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We never close

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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