『You are what you eat(あなたは食べるものでできている)』とか大嘘だと思う。健康食おたくほど不健康そうに見える。不健康そうなヨガの先生も多い。そういう人々には、感覚的に『冷たさ』を覚える。私は猫カフェが嫌いだ。猫カフェは冷たい。多分、猫は大好きだけど人間は大嫌いなオーナーが多いからだと思う。反原発を唱える人々や、各種SNSで「安倍死ね」などと言っている人々にも同様の冷たさを覚える。彼らは憎しみを食べて生きている。だから冷えを感じるのだろう。
自己否定も傲慢だ。それは調子に乗っている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年12月26日
誰かのためとか言い始めたら1アウト。「こんなに頑張っているのに」とか思ったら2アウト。やりたいからやっていますと言えなくなったら3アウト。チェンジ。生き方を変える合図だ。
調子に乗ったら即死する。 - いばや通信 https://t.co/P6zDVz1DSP
冷え性の改善策として「半身浴がいい」とか「生姜を食べろ」とか「運動をしよう」とかあるが、これじゃ弱い。体の冷えは『言いたいことを言えていない』精神的な問題だと思う。逆に言えば、嫌いな人に「私はあなたが嫌いです」とダイレクトに伝えるだけで、多分、体温はグッとあがる。人間に対する憎しみを蓄積すると、体は冷える。昨日、深夜一時に突然の来客がごちゃまぜの家にやってきた。非常に非常識な時間帯だと思った。岐阜の多治見から来たと話す彼女に、私は「泊まってもいいけれどもれなく私の説教がついてきますよ」とストレートに伝えた。
言えるは『癒える』
私はもう、言いたいことは全部言うことに決めた。言いたいことを言わないと病気になる。重要なのは言いたいことを堪える力ではなく『言いたいことをクリティカルに伝える力』だ。彼女の雰囲気から、私は、勝手ながら「この女性は、誰にも本当のことを言ってもらえていないのだろう」と思った。だからという訳じゃないが、私が率先をして彼女を詰めた。誰かを詰める時の、私なりのルールがある。それは『根底に愛を込める』ことだ。それは、言い方を変えるなら『お前はそんなものじゃないだろう』という、その人のあるべき姿を信じながら殴りつけることだ。
私は、女性と対峙する時は「お前はもっとかわいくなれる!」的な気持ちで説教をする。男性と対峙する時は「お前はもっとかっこよくなれる!」的な気持ちで説教をする。相手のダサさを指摘して、お前はなにをやっているのだと詰める。多くの場合、変な感じでやってくる人々は「周囲の目線を気にするあまりに自意識が暴走をして、結果的に毎回最悪の状態に着地をする」場合が多い。彼らは、決して悪い人間なのではない。ただ、これまでの人生でうまくいかないことがあまりにも多くて、うまくいくイメージをなにひとつもてないままここまで来てしまったのだろう。嫌な言い方になるが、彼らを見ていると「これはもうひとりの自分である」と思う。私も、環境が環境ならばこうなっていたのだろうなあと思う。だから、どこか他人事ではなくなる。結果、私は「このひとともコミュニケーションがとれたら、俺はいよいよ最強になれるな」的な心持ちでコミュニケーションを楽しむ。
私はこどもが大好きだ。だから子連れのお母さんが来てくれたら最高に嬉しい。昨日、横浜在住の女性が「大掃除に来ました」と言って7歳の超絶可愛い女子と遊びに来てくれた。私は激烈に感動した。なんて素晴らしい女性なのだろうと思った。お母さんが掃除中、私は7歳の女子と戯れた。私は、彼女に向かって「お母さんを大切にするんだよ」と言った。すると、彼女は「私はママを大切にしているよ。でもね、ママはママを大切にしていないんだよ」と無垢な笑顔で言った。私は、うおお、子供はそういうところを見抜いているものなのだなあと震えた。この発言をお母様に伝えると、お母様は「うへぇ、参りました」的な微笑を浮かべた。その後、7歳の女子からトワイスというアイドルの踊りを小一時間習った。彼女は発狂したように踊り続け、トイレに行く時間も惜しむあまり、最終的におもらしをした。
わたり文庫『最後の家族』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、村上龍著作『最後の家族』です。こちらの本は、引きこもりのこどもを抱える家族の『残酷で幸福な最後の物語』になります。私は、村上龍が大好きです。この本の中に「引きこもりは家族だけでは解決できないということだ。家族の結びつきや愛情だけでは、解決はおろか、引きこもりについて考えることさえできない。しかも、誰かが介入してくれるのを待っているわけにはいかない。だからいずれにせよ問題をオープンにする必要がある」という文章が出てきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※
あるとき知美は気づいた。中学のときだった。体育の時間が終わると、ボールペンの赤いインクで制服のシャツがまだら模様に汚れていた。誰がやったかだいたい見当がついた。吉本佳織という名前の金持ちの娘だ。吉本佳織は不細工で頭も悪かった。赤く汚れた制服を見たとき、知美は、からだの奥から力が湧いてくるのがわかった。どうしてそういう力が湧いたのかわからない。怒りと力がうまく結びついたような感じだった。こちらを見ていた吉本佳織の制服を奪い、教科書もノートも鞄ごと奪って、クラス中の生徒が見ている中、校庭の端の焼却炉に投げ込んだ。今度何かやったらあんたを焼き殺してやるからね。そう言ったら吉本佳織は泣き出した。
そのときは親が呼ばれたりして大変だったが、あれから人生が変わった。強い人が何かするのだと思っていたが、そうではないと思うようになった。何かすることで、否応なく強くなる場合もある。知美をいじめる者は誰もいなくなった。やりたいことはやっていいのだとわかった。父親にも言いたいことは言うようにした。トモちゃんのことはよくわからない。いつもママはそう言う。
村上龍『最後の家族』【幻冬舎文庫】
人間はなにでできているか。
先日、大阪で出会った女性がこんなエピソードを話してくれた。私が坂爪さんのブログを読むようになったのは数年前からのことで、その頃、私は人生で一番しんどい時期を過ごしていた。私はタバコを吸うのだけれど、この日もベランダに出てタバコを吸っていた。ここから飛び降りたら死ねるんだよなあという思いに一瞬自分の体全部がのみこまれそうになって、もう、いっそのことここから飛び降りてしまおうかなと思ったときに『でも、ここで死んだら坂爪さんのこれからを読むことができなくなるんだよな』と思って、死ぬことをやめました。坂爪圭吾という物語の完結を見届けたいと思う気持ちが、死にたいと思う気持ちに勝ったのです。と。
これはめちゃめちゃ感動的な話である。私にも死にたい時期があったからよくわかる。暗黒の高校時代を過ごしていた頃、毎日毎日「死にたい、死にたい」と腐っていた時期が自分にもあったが、しかし、死んでしまったら大好きな漫画家・日本橋ヨヲコの新刊本を読むことができない。その思いが、私を生きる方向に舵を取らせた。死にたいと思うことと、死にたいと思わされることはまったくの別物だ。冷静に考えてみよう。自己否定の言葉の数々は、全部、自分の外側から来ているはずだ。誰かになにかを言われたから、ただ、その言葉を真に受けて「自分は生きている値打ちのない人間なんだ」と思い込まされているだけだ。しかし、冷静に考えてみよう。自分の好きなものたちは、自分に「生きててもいいよ」と言ってくれるものたちではなかっただろうか。自分の好きなものたちは、自分に「お前は無価値な人間だ」とか「生きていることに希望なんてない」みたいなことは言わない。自分に「生きててもいいよ」と言ってくれるものたちを、この世界は生きるに値するものだと思わせてくれるものたちを、私たちは『好き』になってきたはずだ。
人間はなにででてきているか。私は『人間は、自分の好きなものでできてる』と言いたい。なにかを好きになるということ。好きなひとに好きだと伝えること。これ以上に尊いことなんてこの世の中にあるだろうか。間違っても、自分が嫌いだと思うものに自分の人生を奪われてしまってはいけない。嫌いなもののために死ぬ(生きる)なんてクソだ。それでは体は冷えたままだ。生きているということは、熱があるということだ。熱があるということは、その熱を誰かに伝えることができるということだ。なにかを好きになるということが、世界を動かす力になる。なにかを好きになるということが、世界の体温をあげるのだ。嫌いなものにとらわれて、自分の好きを見失ってはいけない。いま、生きているということは、自分の『好き』があったからだ。それがなければ、いまのいままで生きることなんてできなかったはずだ。だからこそ、自分の好きを取り戻そう。嫌いなもののために生きるのではなく、好きなもののために生きていこう。自分の好きを貫く物語が、また、別の誰かの『好き』を貫く物語を生み出していく。今こそ、好きに殉死をする時である。
この世で一番大切な仕事は、自分自身のご機嫌を守ることだと思う。ご機嫌の威力は尋常じゃない。自分の機嫌が良いと、勝手に周囲もご機嫌になる。誰かに何かをしてもらうことを待たないで、今、自分がしてもらいたいことを「自分が自分にしてあげる」「自分が自分に許可を出してあげる」ことだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年9月17日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu