いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

束縛からの自由。

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バイク移動をしていると、どうしてもアメリカ映画『イージーライダー』を思い出す。自由と、自由であることの代償が描かれている有名な映画だ。映画の中に、こんな感じのセリフが出てくる。アメリカという国は、こどもから老人まで『自由』『自由』と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。と。この言葉を聞いた時は衝撃を覚えた。映画のラストで、自由奔放に生きる主人公たちは最終的に(自由を愛する一般的なアメリカ人たちによって)撃ち殺される。

 

 

昨日は長野県佐久市にある空き家を見学させていただいた。掃除さえすればすぐに使える状態だと言う。いまは安曇野にいて、これから大町にある空き地を見学させていただく。昨日、佐久市にある温泉にはいった。湯質は最高だったが、客層のほとんどがオーバー70歳で「ここにいたら生気が吸われる」と感じた。全国、どこに行ってもこんな感じだ。高齢化が蔓延をしている。誤解を恐れずに言えば、おじいちゃんの9割は死んだ魚の目をしていた。残り1割は「いい感じの表情(生きている顔)」をしていた。女風呂からは、おしゃべりが盛り上がっているおばあちゃん達の声が聞こえる。年齢を重ねても女は元気だ。問題は男だ。やることをなくした男は、生気を失い、愚痴が増え、毎日テレビばかりを見るようになって、急速に老ける。

 

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自由と、自由であることの代償

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風光明媚だが。。ダムはファック。。


バイクを走らせながら「愛は女に任せた。俺は自由を求める」的なことを思った。なぜだろう、最近『愛』というワードを聞くたびに違和感を覚える。数年前、愛する(は!私も『愛』を使ってしまった!)三森正道さんが「男は真理を求めて生きているような気がするけれど、女性は真理そのものを生きているのだと思う」と言っていた。これは半端ないコメントだと思った。感覚的に、愛を考え始めると湿る。なよなよする。振り返った時に「ああ、あれは愛だったんだな」などと思う瞬間は好きだ。しかし、愛を求めたり、愛をどうのこうのと考え始めてしまった時、私はなんだか自分を生かせていない感覚を覚える。

 

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紅葉を迎える山々。


幼き頃、母親の愛情がうざくて「俺は、愛よりも自由を選ぶ」と反抗期に突撃した時期があった。男には、愛よりも自由を選びたいときがあるのだ(女性もそうだとは思うけど)。イージーライダーを評する際、井筒監督は「自由には二種類ある」と話した。ひとつはリバティ【liberty】で、ひとつはフリーダム【freedom】。libertyには「選択の自由」という意味合いがあり、freedomには「束縛からの自由」という意味合いがある。イージーライダーが描き出そうとした自由は完全にフリーダムの方で、社会が認める自由がリバティならば、あらゆる一切の制約を超えて自由でありたいと願う姿、それに手を伸ばす姿、そのど真ん中を生きる姿、その状態がフリーダムになる。結果、フリーダム愛好家たち(映画の主人公たち)はリバティ愛好家(一般人)の手によって射殺される。

 

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燃える炎に安寧を見出す。

 

映画『イージーライダー』のキャッチコピーは「彼らはアメリカ(自由)を見つけに旅に出た。しかし、そんなものはどこにもなかった。」というものになる。真の自由を求める旅に出た果てに、射殺をされた彼らは間違っていたのだろうか。10代の頃、はじめてこの映画を見たとき、私は「間違いでもいい」と思った。アメリカという国は、こどもから老人まで『自由』『自由』と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。これは、日本だって同じことだ。もしかすると、自由であることの代償と、愛を選ぶことの代償は似ているのかもしれない。誰もがそれを欲しいと思いながら、実際に手にしているひとを見ると怖くてたまらなくなる。そして、そいつを世の中から抹殺する。『自由』『自由』と言いながら、『愛』『愛』と言いながら、それを手にした人を見ると殺したくなる。そういう心理が人間にはあるのだろう。それでもなお、自由に舵をとるか。愛に舵をとるか。否か。崇高な精神は、たとえば、こういう時に宿るものだと思う。

 

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月を望む。

 

束縛からの自由。

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清澄な自然に囲まれれば、薄汚れた自分も少しは清澄になれるだろうか。そう思って自然の中を滑走している。自然の素晴らしさは「朝は朝!」とか「夜は夜!」とか、四季や昼夜の変化をモロに体感できることだ。夜は夜だから暗い。だから夜を楽しめる。焚き火。星空。虫の声。朝は朝だから明るい。あれだけ暗かった世の中が、途端に光に包まれる。小鳥のさえずりが1日のはじまりを告げる。朝だ。さあ、新しい1日がはじまるのだ。気持ちの切り替えがビシッ!とできる。太陽を拝みたい気持ちにもなる。思わず「神様ありがとう」とか口にしてしまう。実際に拝む。自分以上のなにか大きなものに降伏することの幸福を思ったりする。

 

穏やかさに包まれると、気持ちにもゆとりが生まれる。私は、頻繁に物事を二者択一の二元論で考えてしまう。リバティかフリーダムか。愛か自由か。自分軸か他人軸か。個性か社会性か。善か悪か。白か黒か。など。きっと、これらの概念は両立できるものだ。自分を生きることが、すなわち「俗世から離れて生きる」とか「変質者になること」とか「周囲の迷惑になること」にはならない。自分を生きながら、同時に社会からも歓迎されるようなあり方。そういうあり方を、生きとし生けるものすべての生命が見出すことができたならば、ひとりひとりがもっとのびのびと生きれる世の中になればいい、などと思いながら朝日を眺めていた。

 

紅葉の山々を走りながら「コンクリートジャングルにお住いのみなさま。世界は、いま、こんなにも綺麗な景色を見せてくれますよ!」と大声で叫びたくなった。言葉にできない素晴らしさだ。できることならば、いますぐ予定帳を開いて「この日は紅葉を見に行く!」と早速予定を固めちゃって欲しい。車ではなくバイクか自転車で、紅葉の山々を走り回って見て欲しい。きっといろいろなことがどうでもよくなるはずだ。善人だろうが、悪人だろうが、きっと「うわあ」と思わず声をあげてしまうような風景に出会えると思う。そう、この世の中の素晴らしいものは、善人だろうが、悪人だろうが、そういう垣根を吹っ飛ばして『人間を』感動をさせてしまう力がある。私が欲しいと思う力は、例えば、そういう類のものなのである。 

 

 

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紅葉の山々を駆け抜ける喜び。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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