誰もいないところに、神様はいる。
私には4歳年上の兄がいる。複数の著作を残しているため、ご存知の方も多いかもしれない。兄に対する尊敬を深めたエピソードがある。当時、まだ、知名度もなにもなかった兄は、地域センターのような場所を借りて毎週学習会を開いていた。しかし、どれだけ告知を重ねても、どれだけ精魂込めた準備をしても、最初の頃はおとずれるひとは0人だった。しかし、それでも兄は、まるで目の前に大勢の人々が集まっているときと同じように、たったひとり、誰もいない空間で講座を続けていたのだという。
自分にいいものを食わせてやれ。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年9月5日
自分にいい景色を見せ、自分にいい服を着せ、自分にいい音楽を聞かせ、自分にいい環境を整え、自分に快適な暮らしを与えてやれ。
自分のこどもを愛するように、自分自身の面倒を見ろ。
星に願いを。生活に祈りを。 - いばや通信 https://t.co/bAh228IDBD
兄が準備に傾ける情熱は、はたから見ていてもすごいものだった。大量の書籍を読み、家のなかをあちこち歩き、講座で話す予定の内容をぶつぶつぶつぶつ延々と繰り返す。その姿は、まるで自分の精神に見えない刺青を彫っているようにも見えた。誰も来ないかもしれない講座に、なぜ、これほどまでの情熱を傾けられるのかと私は不思議だった。しかし、同時に、心を打たれずにはいられないなにかを感じていた。結果、兄の講座には何ヶ月も来場者0人の日々が続いた。しかし、兄は、諦めることなく講座の準備を続けていた。
生き甲斐となりえるもの。
三日間、熱海で無料【0円】の食堂を開いた。誰も来ないかもしれないという不安も抱きながら、同時に、誰も来なくても構わないという思いで実験的に開催をした。兄の影響も大きかったのかもしれない。量的な価値以上に、質的な価値を大事にしたい。結果、三日間でそれなりの数の人々と会うことができた。大阪からはるばる新幹線で来てくれたひともいた。参加できない代わりに「これをみんなで食べてください」と、小包を郵送してくれた方もいた。ひとの優しさ、まごころのようなものに触れると心が打たれる。いろいろなことを感じたが、総じて「熱海食堂をやってよかった」と思った。
愛に生きるひとは、相手に感謝されようとされまいと、相手の生のために自分が必要とされていることを感じるときに、生きるはりあいを強く感じる。これまた反響への欲求の大きな満足であろう。そういう意味では、親は子に感謝しなければならないわけである。ひとは自分が世話になったひとよりも世話をしてやったひとのほうをこころよく思うものだ。(「生きがいについて」神谷美恵子)
熱海食堂に来てくれた方が、もっと、ひとりひとりがのびのびと生きられる世の中になればいいという思いを話してくれた。心理学者・神谷美恵子は、その著作『生きがいについて(みすず書房)』の中でこのように言う。「わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない。」と。人間から生きがいをうばうことほど残酷なことはなく、人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない。かみごたえのある言葉だと思う。凄い言葉だと思う。
「私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのであります。」(パール・バック)(「生きがいについて」神谷美恵子)
生き甲斐となりえるもの。それはなんだろうか。思い浮かぶキーワードに『利他』というものがある。これは『奉仕』とも言い換えることができるかもしれない。私は、奉仕にも似た気持ちで熱海食堂を開催した。しかし、未熟な私は、すぐに「このひとには優しくしたいけど、このひとには優しくしたくない」という心理が働く。ひとといたいと思いながら、同時に、すぐにひとりになりたいと思う自分がいる。まだまだだなと思う。ただひとつ、思うことは「ひとはひとによって疲れるが、ひとはひとによって元気になる」ということだ。だから、私は、懲りずにこのような活動を続けているのだと思う。
わたり文庫『思うとおりに歩めばいいのよ』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ターシャ・テューダー著作『思うとおりに歩めばいいのよ』です。言葉も素晴らしいですが、なにより掲載されている写真が素晴らしいです。理想とする生活を過ごすことは、そんなに難しいことなのだろうか。ただ、自分が、自分に「好きなように生きる」ことを許可することさえできれば、実は、いますぐにでも実現することができるのではないだろうか。と、そのようなことを思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
みんなが本当に欲しいのは、物ではなく心の充足です。幸福になりたいと言うのは、心が充たされたいということでしょう。わたしは、ここの何もかもに満足しています。家にも庭にも、動物達にも天気にも、バーモントのすべてに。
家族でおもしろ半分に、スティルウォーター教という宗教を作りました。スティルウォーター(じっと動かない水)と名づけたのは、ストレスのない平安な生活を信捧する、という意味。スティルウォーター教徒は、生活を楽しみます。重荷にしてはいけません。第一の戒律は、フラ・ジョバンニの言葉「世の中の憂鬱は影に過ぎない。その後ろ、手の届くところに喜びがある。喜びをつかみなさい」
これまで、よくやってきたと思いますが、みなさんにお伝えするようなメッセージはありません。もし、わたしに人生哲学のようなものがあるとすれば、ソローの言葉がいちばんよく代弁しています。「夢に向かって自信をもって進み、思い描いた人生を生きようと努力するなら、思わぬ成功を手にするだろう」まったくそのとおりです。この言葉は、わたしの人生そのものです。
ターシャ・テューダー『思うとおりに歩めばいいのよ』【メディアファクトリー】
ごちゃまぜの家日誌もよろしくお願いします。
はい!5日目!更新しました!
— ごちゃまぜ太郎 (@GochamazeKikuna) 2018年9月6日
9月30日(日)にはわたり食堂【0円食堂】@GOCHAMAZE no IEも開催します。ごちゃまぜの家を気にかけてくださっている方は是非・・・🔥✨✨✨https://t.co/7DU69YUQ0r
【9月5日】涙ちょちょぎれる手紙(さかつめ) - ごちゃまぜの家日誌 https://t.co/vVHyAZr8hG
誰もいないところに、神様はいる。
ごちゃまぜの家が活動を続けて居られるのも、周囲の人々の支えによるところが大きい。ごちゃまぜの家管理人を無償で務めてくれている稲村彰人の存在や、仕事で疲れているにもかかわらず惜しみない献身を捧げてくれるよしえさんの存在。ごちゃまぜの家の住人の方々や、管理などの負担を請け負ってくれる不動産の方々。様々な手土産などと一緒に足を運んでくれる方々や、家の掃除や料理などを手伝ってくださる方々や支援者の方々。そしてもちろん、いま、この記事を読んでくれているあなた(そう、目の前のあなた!)の存在。
「わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくとも、じっと眺める眼、細かく感じとる心さえあれば、一生おなじところで静かに暮らしていても、全然退屈しないでいられる。エミリー・ブロンテは一生同じところで変化に乏しい生涯を送ったが、あの烈しい情熱と波瀾に富む「嵐が丘」を創り上げる心の世界をもっていた。」(「生きがいについて」神谷美恵子)
実は今、1年数ヶ月活動を続けて来たごちゃまぜの家が、存続の危機に瀕しています。詳細はまだちょっと書けないのですが(時が来たら書きます!)、この記事を読んでくださっているあなたに祈りのお願いをさせてください。みなさまにとって必要なものであれば続き、必要とされなければ終わるまでのこと。そう思って、ごちゃまぜの家の活動を続けて来ました。いま、ちょっとした危機に瀕しているごちゃまぜの家が、続くべきものならば続くことを、滅びるべきものならば滅びることを、坂爪圭吾というひとりの人間が、つまらない保身のために生きるのではなく、真理のために生きることができるように、祈っていただけたらうれしいです。
「ひとは死が無理に断ち切るであろうもろもろの絆を、あらかじめみずからの心のなかで断ち切ることを学ぶ。それができれば、その瞬間に身もかるがるとする。そしてひとびととの残るわずかの共存期間は、その覚悟ゆえにいっそうその内容のゆたかさを増す。」 (「生きがいについて」神谷美恵子)
あるかないかわからないものより、目に見えるものにひとは集まる。自分自身もまた、それによって惑わされる。もし、お金を稼ぐ講義と、精神性を磨く講義があれば、ひとは前者の講義に集まるだろう。美しくなる講義、異性から好かれる講義に、目に見える結果が期待できる講義に、ひとは集まるだろう。でも、私は、見えないものを見る力を養いたい。収入の大小、集客の大小より、質的な大小を問題にしたい。誰もいない空間で、誠心誠意を込められる人間になりたい。見るひとがたくさんいるとか、それだけじゃない。そこに、どれだけ自分の誠意が込められているか、そこに、どれだけ見えないものを見ようとする意思を込めることができるか、が、そこにある聖性を導き出すことになるのだと思う。誰もいないところに、神様はいる。誠心誠意を込めることによって、道は開くのだと思う。
道に迷った時は、損得感情じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。自暴自棄にはならないこと。希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2017年7月13日
親愛なる坂爪さんへ
こんにちは!先日はごちゃまぜの家にお邪魔しました。
坂爪さんにお会いできてとても嬉しかったです!
ごちゃまぜの家の素晴らしさは、あの場所へ行った人にしか理解し得ないものだと、本当に心底ド肝を抜かれた気持ちです。(あぁ〜どうしても気持ちを言葉にできない!!!もどかしさで悶えます💧)
まず、菊名の駅からごちゃまぜの家に辿り着くことがあれ程困難とは思いませんでした。地図にはあるのに、行けない!?と同じ道を行ったり来たりしました。なんんだか、ごちゃまぜの家の守り神さまに〝お前はここへ来られるか?〟と試されているような気がして笑えました。
ああ、これはきっと、目だけ頭だけで探すな、ということだと気づきまして、一生懸命Googleマップで探している同行者の放置して(○○さん、ごめんなさい!!笑)、こどもと2人で風を辿りました。〝神さまがいるとしたら何処だろう?〟そう思って見上げた先に、鎮守の森のような不思議な空間を感じました。それがごちゃまぜの家だったんですね。何と言うか、まるで下界から天界を見上げているような感覚でした。
一段一段、階段を踏む度に、
生きていて良かった!
生まれて来て良かった!!
ここへ来れて良かった!!!
そんな喜びに満たされていきました。
暑くて汗は吹き出し、歩き回って息はあがっているのに、この上なく幸せな気持ちに包まれていたんです。そして数時間ですが、滞在させていただいて、初めてお伺いしたお家にもかかわらず、懐かしくて、優しくて、安心できる、おっきな〝おかあさん〟に抱かれて守られている子供のように、たくさんの愛をいただきました。このような経験は生まれて初めてでした。(わたしはこの世に生まれてから、極々最近まで、愛されたと感じた経験がなく、愛するということも理解できずに生きてきました。)
こどもという素晴らしい命を預かって、愛するということはどういうことだろう・・・?と日々思い巡らせてきましたが、ごちゃまぜの家はそのままのわたしを受け入れてくれました。彰人さんも、坂爪さんも、ただ、そこに居てくださいました。
「何もありませんが」と坂爪さんはおっしゃいますけど、わたしはそうは思いません。
ごちゃまぜの家には、余分なものは何もないかもしれないですが、優しさや赦し、受け入れてもらえる安心感、そのまんまありのままでいいんだと思える勇気、そういった生きていく上で大切なものが全てそこにある気がします。偉大なる母のようです。
逢初庵は(まだお伺いしたことないですけど)偉大なる父のような気がします。ごちゃまぜの家はどんな人でもそのまま受け入れてくれる空間で、逢初庵は誰でも行って良い空間ではないというか、畏敬の念を持って粛々と訪れる空間のような気がします。きっと逢初庵の方から、訪れる人を選ぶのかもしれません。(勝手な想像ですけど。笑)
次回は逢初庵に受け入れていただけるよう、日々やりたいことをやりたいだけやって、今日を生きようと思います!!最後になりましたが、わざわざタイミングを合わせてくださって、帰りは駅まで送っていただいて、本当にありがとうございました!!
どうぞ坂爪さんとごちゃまぜファミリーのみなさまに神のご加護がありますように!!
お祈りしています!
それでは。また。
〇〇
崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。#atami #rainbow #lifeisgood
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu