いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

「わがままの純度」を磨け。

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今年も納豆にはちみつの季節がやって来ました。わたしの趣味は「珈琲を野外で淹れること。余裕があるときはホットサンドも作ること」 でございまして、適当な食材を買い込んではなんでもかんでも有機のパンに挟みたがる癖があります。現時点では『納豆+クリームチーズ+はちみつ』のコンボが不動の第1位になっているのですが、あり得ないこの美味さを周囲に熱弁をしても「そんなもん美味い訳がないだろう!」的な表情をされてしまうので、ああ、これだから何事も自分で試すということを経由しないで物事を決めつけてしまう人間は嫌いなんだよと悪態をついております(言うほどついていません)。先日、半ば強制的にあるひとに食わせたところ「う、う、まい!!」というリアクションを獲得することに成功をいたしましたので、明日のわたり食堂で提供をさせていただくメニューに加えたいと思いました。

 

 

ごちゃまぜの家をはじめてから勉強になることが多過ぎる。わたしは新潟市内にある海沿いの田舎で育ったために、両親の教育方針も限りなくゆるく、比較的好き勝手に自由にのびのびと育てられた。いま、横浜【菊名】でごちゃまぜの家をはじめたばかりなのだけれど、この場所は土地柄的にも「お厳しい方々」が密集している空気感が漂っていて、わたしのようなヒエラルキーの底辺がその辺をふらふらしていると「民度が下がるのでやめてください」と言われている気持ちになる。近隣の方々に挨拶をしても返事はない(怪訝な表情をされてしまう)。わたしの見てくれに問題があるのかもしれない(多分、問題があるのだと思う)。このままだと「ああ、挨拶をするだけ無駄なんだな」という悲しい結論をくだしてしまいかねないために、よし、これは俺と横浜のキャッチボール【コミュニケーションの勝負】なんだなと思うことで気持ちを持ち直している。

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

「我を通す」センス。

日本では「我を通す」ことはダメだと思われることが多い。そのため、多かれ少なかれ誰もが何かしらの我慢をしながら生きている。しかし、わたしは「我慢と憎しみは比例する」という意見の持ち主であり、我慢をするほど精神的なストレスは蓄積をされてそのひとを精神的・肉体的に蝕む。我慢をしているひとほど肌は乾き、自由に生きているひとを憎むようになり、自分が自由になることよりも「他人の自由を奪うこと」に意識が向かう。そして、最終的には「自分を自由にさせてくれなかった家族や社会や時代」に責任を置き、最後の瞬間まで自分を許す【愛する】ことができないままで冥土に向かう。こんな書き方は極論かもしれないけれど、わたしは「誰もが自己中心的であることに勤めれば、意外と、世界は勝手に調和を保つようにできているのではないだろうか」と思う。少なくとも、誰もが我慢をすることで保たれる調和があるならば、自分は「そんな調和なんていらない」と思うタイプの人間だ。

 

こどものおもちゃを取り上げる。

先日、ごちゃまぜの家に小さなこどもが遊びに来た。その子がおもちゃのピアノで爆音の音楽を流すので、わたしはおもちゃをとりあげて「はい、おしまい」とだけ伝えた。昔の自分だったら、とてもじゃないけれどこんなことはできなかった。自分が不快だ(わたしは根本的に騒音が苦手だ)と思うことでも「でもこの場所は『みんなの家』でもあるのだから、こどもも楽しそうだし自分が我慢をすれば済む話だよな」なんて思ってしまうタイプの人間だった。が、これからは違う。わたしはごちゃまぜの家の発起人ではあるけれど、ごちゃまぜの家の利用者の方々の奴隷でもなければ執事でもない。この家は「誰でも自由に使える」ということになっているけれど、この『誰でも』という言葉の中には(当たり前のことだけれど)わたし自身【坂爪圭吾】も含まれている。お前が自由であるように、俺も自由であることを忘れるなよと言わんばかりにこどものおもちゃを取り上げたものの、その後、こどもとは(電子的なノイズを間に介在させることなく自然な流れで)仲良くなることができたので結果オーライである。

 

気を遣い過ぎると自滅する。

最近の反省は「気を遣い過ぎると自滅する」という一言に尽きる。言いたいことは言う。その時はこころを込めて言う。それだけで人生の大半は清々しく生きることができる。何かしらに停滞感を覚えている時は、大概、自分が言いたいことを言えていないことが多い。先日、4歳と2歳の男の子を子育て中のお母さんが遊びにきた。とても優しいお母さんで「優しいけど、優し過ぎる。これじゃいつかお母さんが破綻する」などと勝手に思った。ので、お母さんに「頑張り過ぎると自滅をするというのが最近のぼくの自論です」的なことを伝えた。すると、お母さんは「ありがとうございます。でも、みんな(他のお母さん)もきっとちゃんとやっていると思うので」的な返答をした。その言葉を聞きながら、ああ、これはつらくなるパターンのやつなんじゃないのかなと思った。

 

うまく説明できるかわからないけれど、わたしは二つのことを思った。ひとつは「みんなって誰だよ!」ということ。わたしは、根本的に『みんな』という言葉を信用していない。みんながそう言っているとか、みんなにとっての幸せになるとか、みんなそうしているとか、得体の知れない『普通【不特定多数】』と呼ばれる概念に囚われて、結果ものすごい不自由になっている(そしてそれを仕方のないことだと受け入れてしまっている)ひとは半端なく多い(気がする)。みんなとかどうでもいいから、まず、自分自身はどう思うのかということの方が五億倍くらい重要なのではないだろうか。わたしは、あらゆるものは食べ物の好き嫌いと同じだと思っている。わたしは『納豆+はちみつ』が好きだ。だから納豆にはちみつをかける。たとえ、あらゆるひとが『納豆+はちみつ』はあり得ないとわたしを糾弾する日が来ても、わたしは納豆にはちみつをかけ続けるだろう。それを「みんなはこうだから」という謎の指標で殺してしまったら、頭がおかしくならない方がおかしいと思う(というのはちょっと言い過ぎかもしれない。ただ、自分の『好きがわからなくなる』ことは目に見えている)。

 

そしてもうひとつは「罪悪感を植え付けるな」ということ。ほかのお母さんもできているのだから、自分もできて当然だと思うことは違う。そもそも「他のお母さんもできている風に見えるだけで、意外と全然できていない」ことの方が現実的だと思うし、それでいいのだと思う。他のお母さんもちゃんとやっているのだから自分も頑張ろう!なんて思い過ぎると、多分、ものすごい疲れる。それができていない自分を責めることになり、結果的に『罪悪感が増幅される』ことになる。人間を動かすものは『罪悪感を植え付けること』か『希望を共有すること』か、多分、そのどちらかになる。北風と太陽の童話で言うところの、強制的にやらせる方向に仕向けることが北風WAYなら、そのひとが進んでそうしたくなるように仕向けることが太陽WAYになる(のだと思う)。自分が自分の北風になってはいけない。北風よりも太陽になろう。人生は楽しむためにある。深刻になってもロクなことはない。人生の醍醐味は、いかに完璧な人間になるのかではなく『いかに(不完全なままだとしても)自分を楽しませ続けることができるか』の勝負なのだとわたしは思っている。

 

【過去記事】殺伐とした世の中が、少しでもほぐれたらいい。 - いばや通信

 

わたり文庫『違う自分になれ!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岩本能史著作『違う自分になれ! ウルトラマラソンの方程式』です。現在、わたしが暮らしている熱海の家は修験道でもお馴染みの伊豆山神社までの道中にあり、数年前まで山伏的なサムシングがこの辺りを往来していた。わたしは修験道という言葉が好きで、家の裏にある物置を改造して『修験堂』という風雪庵を現在絶賛建築中になるのですが、自分を追い込むことは時に最高のよろこびに変わる。女性のことはあまりよくわからないけれど、男性的には「人生に一度は死ぬほど苦しい思いをしてみる」ことは、今後の人生を生きるにあたって「あの頃に比べればマシだ」と思える強さになる。こちらの本は、人間【一匹の動物】の可能性を半端ない形で示してくれる最高にご機嫌な一冊になります。読んでいるだけで、何かこう、伊豆山神社修験道を駆け出したくなる【原始的な何かが疼く】。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、栃木県にわたりました ※※※

 

人はなぜ苦しい思いまでして走るのでしょう。健康、ダイエット、爽快感のため、限界への挑戦……。人それぞれ理由があると思いますが、僕は変身欲だと思っています。今の自分ではないもっと違う自分に変わりたいという欲求は、生きている限り誰にでもあると思うのです。走れば体も変わり、気持ちも変わる、思考も変わる。自分の潜在能力が顕在化する喜び。まさか自分がフルマラソンを完走できるなんて。マラソン経験のある人は、初めて完走したときの震えるような感動をいつまでも鮮明に覚えているものです。

 

過酷なウルトラマラソンのひとつ、アメリカ・デスバレーの「バッドウォーター・ウルトラマラソン」に参戦したときのこと、一緒に行った仲間たちと、あとあとまで話題にのぼるエピソードがありました。

 

前日の選手受付エリアでのことです。どう見てもその場に似つかわしくない太りぎみの中年の女性がいました。選手をサポートするクルーにしても、摂氏56.7度という世界最高気温を記録したこの地で、とうてい30分も耐えられないのではないかと心配してしまうような婦人です。

 

僕は「暑いね!」と声をかけました。

 

彼女は「Piece of cake!(楽勝よ!)」と笑い飛ばしました。

 

ところが、彼女はクルーどころか、このレースの参加者だったのでした。それを知ったのは、レースの制限時間である48時間の直前にゴールをした姿を、仲間たちと目撃したときのことでした。みな一様に感動を抑えられませんでした。

 

217キロを走りきるということは、資質や練習量、戦術だけではないのだということを証明してくれたように思ったからです。彼女は、誰とも闘っていない、自分のことをよく知っている、あきらめない。しなやかな覚悟があった。

 

僕らがウルトラマラソンに、何度でも挑みたくなる理由を教えてくれたように感じました。

 

日々、自分にいい聞かせていたこと。バッドウォーターの相手は地球だ。熾烈な自然環境だ。大自然にまともに向かい合って勝てるわけがない。だから大切なのは自然環境と融合すること。何とも闘わないこと。 ー 岩本能史『違う自分になれ!』【講談社

 

人生とは「ボーナスタイム」である。

ターシャ・テューダーの本を読みながら、ああ、自分が女に生まれて来たらきっとこんな生き方をしたいと思っただろうななんて思う。彼女の瞳は美しく、彼女の自宅も服装も仕草も言葉も何もかもが潤っている。わたしの今回の人生は男としてのものであり、せっかく男に生まれて来たのであれば(女に生まれなかったことを嘆くことはナンセンスだと思うから)男であることを生かしたいと思う。これまで、そんな気持ちで「いばや(『やばい』を逆から読んだだけ)」だの「家のない生活」だの「ごちゃまぜの家」だの「野点カンタービレ」だの「モバイル小学校(通称『モバ小』。これについては今回まったく書けなかったけれど、いま、移動式の小学校【サーカスみたいな教育施設】の準備をはじめている)」だの、身体を張る系の実験を重ねているのだと思う。


 

このタイミングで「モバ小」を軽く説明すると、これからの時代は「固定は古い!これからは流動的で多面的な時代になる!」という鼻息荒めな感じで、少し先の未来を想像した結果ひらめいたものになります。 いまこの瞬間も、ポリアモリーだの多夫多妻制だの、シェア別荘だのクラインガルテン【シェア畑】だの、既存の枠がゆるやかに溶け出している感覚は結構ある。ごちゃまぜの家のテーマは『家族』なら、モバ小のテーマはなにになるのだろうか。『教育』なのだろうか『移動』なのだろうか、多分、生活全般に関わるものなのだと思う。これまでは「ひとつの場所にひとつのもの【家や学校や仕事】を構える」ことがよしとされてきたけれど、これからは「ひとつの場所に縛られるということは、不自由であることの何よりの証明」になるのかもしれない。身軽であること、いつでも移動をできる態勢を整えておくこと、どこにいても生きていることを楽しめるボディ&ソウルを自身の内部に培っておくことは、意外と効果的なのではないだろうか(と思う)。

 

 

現在のわたしは32歳。これまでの人生で「充分生きてきたな」感は結構あるのだけれど、それなのに「まだ生きてていいのですか!うれしい!」と思うことは頻繁にある。32歳と言えば立派な老害。残りの人生は余生【ボーナスタイム!どどーん!】である。若いひとたちの邪魔にならないように、自分は自分が思う「真面目な遊び」を、一緒に楽しめるひとたちとガシガシ愚直に試して生きたいと思う。なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい。何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいい。この世の中に「こうでなければいけない」なんてことは、多分、なにひとつもないのだと思う。自分を縛り上げていたものは「自分の思考」そのものでしかなく、自由になることはほんとうはとても簡単。いまこの瞬間から「自分は自由なんだ」と思うこと、たったそれだけのことで、ひとは簡単に自由になるのだと思う。

 

 

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軽い気持ちで遠くに行こう。。。

 

人生は続く。

 

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