いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

人生とは、ファナティッククライシスである。

f:id:ibaya:20170319113750j:image

 

前回の記事で「人生とは、純度の勝負である」と書いた。純度界における最大のライバルは赤ちゃんの頃の自分自身だと思っている。見よ、このクリクリッと麗しい瞳。ぽっちゃりとした頬。ぷるんと艶やかな唇。これから髪の毛を切られようとしている現状に対するまったくの理解のなさと、それに伴う新鮮な驚き。さあ、わたしはコイツよりも可愛くなることができるのだろうか、わたしはコイツよりも世界を透明に見ることができるのだろうか。いまのところは完敗であるものの、けいご坊やの果てしなき挑戦は続く。

 

【過去記事】人生とは、純度の勝負である。 - いばや通信

 

最近は「お金の悩み」的な話を耳にする機会が多い。おそらく、現代に生きる多くの人は大なり小なりお金の悩みを持っているのだと思う。多分、みんな、わたしよりはお金を持っていると思う。わたしは、ついさっきまで所持金202円という軽い経済的なクライシスに見舞われていた(最近いろいろとあって出費が嵩んだ)状態で静岡県で開催されたトークイベントに登壇(?)をしたのだけれど、わたしよりもお金を持っているひとがお金をもっていないわたしに「お金に対する悩みや不安」を相談してくれるという、この現状はちょっとしたギャグみたいなものだと思っている。さあ、お金とはいったいどのようなものなのだろうか。隙間時間ができたのでちょっとだけ考えてみたい(わたしはこのブログ記事を毎回一時間で「うおおおおおお!!」と一気に書くようにしている。暇な時間に書いているのだけれど、19時に予定があるから無事に書き上げられるかちょっと不安である)と思います。

 

「お金がないとやりたいことができない」は真実か?

ひとまえで話す前にわたしは軽い自己紹介をする。内容はこんな感じだ。「家賃を払うために稼がないといけない生活は正直しんどいと思ったので、三年前から家のない生活をはじめました。そのことをブログ記事にして全世界に向けて発信をしたら、非常にありがたいことにいろいろな方が『泊まりにおいでよ』と声をかけてくれました。最初は東京都内の方が、やがては『交通費を出すから◯◯県まで泊まりに来てよ』とか『きみは面白いからイベントに出演してよ』みたいな感じで、あれよあれよというまに一年間で47都道府県を制覇することになりました」

 

「一年後も相変わらず家はなかったのですが、二年目からは『航空券代は出すからわたしが住んでいる国まで来てよ』と、海外からも声がかかるようになって結果的に20カ国くらい行きました。家のない生活も二年目を終えようとしている頃に、熱海に住んでいる方が『さすがに家のない生活は大変でしょう。熱海でもよければ住む家をご用意しますよ』という連絡をくださり、結果的にその方が熱海に家を買ってくれたのがいまから一年前です。みなさまの善意で生かされているので、この家も、自分ひとりで独占するのも違うなと思ったので全開放しながら様々な取り組みを(気が向いた時だけになってしまうのですが)行なっております」

 

「わたしは決して自慢をしたい訳ではなくて、昔は『お金がなければ海外旅行なんていけない』とか『お金がなければ欲しいものも買えない』って思っていたのですが、お金や家や仕事がなくなってからの方が確実に海外旅行にいっているこの現実、お金や家や仕事がなくなってから(フットワークが軽くなったからなのかなんなのか)確実に自分一人の力だけでは味わうことのできなかった体験をさせてもらっている(結果的に家までもらってしまった!0この現実は、いったい、なんなのでしょうか。お金がなければできないと思っていたことは、いったい、どこまでが本当でどこまでがただの思い込みだったのでしょうかなんてことを思うようになりました」みたいな感じの自己紹介をする。

 

「お金がないと死ぬ」のか?

自己紹介は続く。「わたしは家がなければ生きていけないと思っていました。しかし、実際に家をなくしてみたら『意外とどうにかなるばかりか、意外と楽しい!』ということを知りました。そのため、わたしは『こうでなければならないとされていることの、果たしてどこまでが本当にそうで、どこまでが全然そんなことはなかったのか』ということに興味を持つようになり、自分を使っていろいろと試すようになりました。お金も同じような感じで、昔は『お金がなければ死ぬ!』と思っていました。まるで自分の命がお金と密接にリンクをしているみたいで、貯金額が減るほどに自分の命も余命僅かになるような感覚、所持金が減るほどに自分の価値や存在意義まで見失ってしまうような、そんな感覚を覚えていました」

 

「でも、あら不思議。実際にお金をなくしてみると、それでも普通に生きている自分の存在に気がつきます。わたしは『あれ!おかしいなー!』と思いました。お金がないと死ぬはずなのに、お金がないのに平気で生きているこの俺の存在はなんだ。おれは何を恐れていたのだろう。そこでわたしは『ハッ!』と気がつきます。多分、人間を殺してしまうのはお金や家や仕事の欠如ではなくて『恐怖心』なのだということを思いました。自分を開いている限り人間は死なないが、自分を閉じたら【恐怖心に捕まってしまった途端に】死ぬのだと。説明が下手くそで非常に申し訳ないのですが、そういうことを考えている人間です」と、こんな感じのことを話す。

 

お金とはなんなのだろうか。大前提として「わからない」というのがいまのわたしの正直な気持ちである。ただ、最近では「表面的にはお金の問題に見えるようなことでも、実は『安心感の欠如』みたいなものがそのひとの根底にあって、お金を通じて安心感を得ようとしている(欠落感を埋め合わせようとしている)だけなんじゃないだろうか」ということを思う。根底に安心感があれば「お金があれば嬉しいけれど、なければないでどうにかなる」的な心持ちになれるが、世界全体に対する安心感がなければ「お金がなければ死ぬ!」という恐怖心にとらわれてしまう(結果的に、溜めこもうとする気持ちが逆作用をして循環を濁す)。

 

【過去記事】生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。 - いばや通信

 

「お金の問題は安心感の問題」か?

前回の記事で「勇気を出すということは、自分を出すということだ。自分を出すということは、そのときそのときの自分の気持ちを、恐れることなく真っ直ぐに出すということだ」的なことを書いた。この言葉は、我ながら的を得ていると思う。嫌われてしまうことは怖い。できることなら好かれたい。しかし、 言いたいことを言わないでいると病気になる(自分の好き嫌いさえもがわからなくなる)からこそ、勇気を出して自分の思いを口にした時、意外と、世界は優しく受け止めてくれる(本音を口にしてもコミュニケーションは続くのだ)という実体験を通じて、ああ、意外と世界は受け止めてくれるのだという喜びにも似た手応えが、多分、自分を出しても大丈夫なのだという安心感を生む(のだと思う)。

 

わたしの所持金は少ない。しかし、なぜなのだろうか、お金に対する不安がない。なぜ不安がないのだろうか。なぜ、わたしよりもお金をもっているひとがお金の不安を抱えていて、みんなよりもお金を持っていない自分が「お金の悩み」を抱えていないのか。理由はわからない。想像をすることしかできない。だからわたしは想像をする。そして、ひとつの「これかな?」というものに思い当たる。多分、わたしはあらゆる物事を「自分ひとりだけの力で解決しようとしていない」のだと思う。極端な言い方をすると、自分がお金をもっていなくても別の誰かが持っているから大丈夫なのだと思っている。お金というものは誰が持っているかの違いでしかなく、自分がいま持っているこのお金も、たまたま自分の手元にあるだけのものであり、ない時はあるひとに頼ればいいのだと思っている(自分があるときは気前よく出していけばいいのだと思っている)。

 

極論に極論を重ねると、わたしは「(広い意味において)地球にお財布はひとつ!」だと思っている。この感覚は、多分、人類皆兄弟的なニュアンスを含んでいるのだと思う。お金は常に流動を続けているけれど、世界全体の総額は(多分)同じだ。誰が持っているかの違いでしかないのであれば、必ずしも自分が持っている必要はない。言うなれば「あのひとが代わりに持っていてくれる(管理をしてくれている)」くらいの気持ちで、なんだろう、近所のスーパーマーケットを「あれがぼくの冷蔵庫だから」と言っちゃうようなあの感覚に似ているのだろうか、必ずしも自分の手元になくても「自分が必要なときにそこに行けば手に入るもの」くらいの気持ちで思っているのかもしれない(説明が下手くそでごめんなさい!)。

 

『ゆっくり、いそげ』

f:id:ibaya:20170319183313j:image

 

このタイミングでわたり文庫無料郵送のご案内です。今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、影山知明著作『ゆっくり、いそげ《カフェからはじめる人を手段化しない経済》』になります。先日、東京の西国分寺にありますこちらのカフェにご招待をしていただいた際に、カフェの愛用者の方から「この本は(ビジネス本として書かれているけれど)いいよ〜」とわたり文庫に寄贈をいただきました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

経済とは元々、中国の古典に登場する言葉で「経世済人(=世をおさめ、民をすくう)」の意であるとされる。国内でも江戸時代には使われていたようだ。言葉としては、政治屋生活も含めて「社会をつくる」というニュアンスすらそこには感じられる。

 

それがいつからか「ビジネス」という言葉に置き換えられていった。ビジネスの由来は、bising+ness。bisingは古い英語で、ここから派生した形容詞形がbusyだから、「忙しさ」をその語源に持つことになる。時間をかけず、労力をかけず、コストをかけず、できるだけ効率よく商品・サービスを生産し、お金を稼ぐ。「経済」は、「ビジネス」という語を経由して、気が付けば「お金儲け」の意で使われるようにさえなってきた。

 

対局には、「スロー」を旗印としたムーブメントもある。「ファーストフード」に対する形での「スローフード」が火付け役となり、スローライフ、スローシティ等・・・。ベースとしては、進展するグローバル資本主義へのアンチテーゼがあると言っていいだろう。また、少しトーンは違うものの、近年では「降りていく行き方」「減速生活者(ダウンシフターズ)」といった言葉まで登場し、競争社会から離れ、少ない消費で、少ない収入でも等身大の充足感を実現する暮らし方の提唱も起こっている。

 

ぼくは常々、この中間がいいなと思ってきた。

 

影山知明『ゆっくり、いそげ』【大和書房】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫  

 

人生とは、ファナティッククライシスである。

お金について書きたかったのだけれどまとめることが苦手だ。わたしはまだ、お金のなんたるかを知らない。個人的に興味深いと思っていることは「お金がないとできないと思っていたあれこれを、お金がなくなってからのほうが圧倒的な速度でできているこの現象はなんだ???」という、自分自身に対する謎である。先日、東京のイベントに登壇をした際に「これからは所有から共有などと言われていますが、その点についてはどう思いますか」と問われた。わたしは、ちゃんと答えることができるだろうかと緊張をしながら、多分、下記のような返答をした(ような気がする)。

 

「所有の根底には『人間に対する不信感』が、共有には『人間に対する信頼感』があるような気がします。多分、わたしは、およそ二年間の家のない生活を通じて『ひとは優しい』という当たり前のことを、頭ではなく身体で理解することができたのだと思います。わたしを泊めようとしてくれるひと、わたしにご飯をご馳走しようとしてくれるひとは、この世の中にほんとうにたくさんいました。もちろん、人間的に合う・合わないなどはあるとは思いますが、根本的に『みんないいひとなんだ(そのひとなりの優しさを示そうとしているのだ)』ということに変わりはありません。だから、人間に対する視点とでも言えばいいのでしょうか、ひとは優しいのだという共通認識が増えていけば、簡単に世の中は共有へと移行するんじゃないのかなと思います(だって、真の喜びは『喜びを分かち合うこと』の中にこそあるのですから!!)」

 

お金がないとか、家がないとか、仕事がないとか、友達や恋人や家族や身寄りがいないとか、考えようによっては「いくらでも重く考えることはできる話題」だと思う。しかし、必ずしも重く考える必要はないのかもしれないとも思う。よし、この時点でこのブログ記事を書くのに40分程度しかかかっていない。いい調子だ。19時の予定に間に合うぞ。あとは最後に「もっともらしいオチをつけてまとめるだけ」だ。よし、まとめよう。もっともらしいことを言いたいのだけれど、ああ、もっともらしいことが浮かばないまま時が流れてしまいそうだ。わたしが言いたいことは「多分、どうにかなるから大丈夫だよ」という非常に抽象的な一言にまとめることができる。少なくとも、いま、ここにどうにかなっている男がいるということが、(これからどうなるかはわからないけれど、これからどうなるかわからないことはみんな一緒だから)あなたの癒しになれたらうれしいと思う。

 

 

f:id:ibaya:20170329173437j:image

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu