愛想笑いはF◯CKですよ。
ごちゃまぜの家の候補地をバンコクで探している。クラウドファンディングで「100万円の支援者【神様】があらわれてくださった暁には二件目を探します!」と言った手前、引っ込みがつかなくなっている。探すとか言っておきながら「不動産を巡る」的な営みはあまり得意ではないので、奇跡的な出来事が舞い込むことを願う『積極的受け身』スタイルを採用している。先日、沖縄県南城市にある有名な湧水をご案内していただき、ああ、水源のある場所は最高に豊かだなあと思った。日本に戻ったら、この夏は「日本の水源巡りツアー(仮)」をやりたい。聞いた話によると「太陽光【生のエネルギー】で食材を温めるとガス【死のエネルギー】で温めるよりも(太陽光の力が食材に宿るから)五億倍は美味い!」らしいので、太陽光で湧水を沸かして珈琲を飲む(場合によってはそのまま野営!)とかできたら、ああ、いい感じのサマーになりそうだなあと思う。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
家のない生活を通じて確信したことのひとつに「坂爪圭吾という人間は、お米を買うことは(お金がないから)苦手だ。お米をつくることも(甲斐性がないから)苦手だ。でも、お米をもらうことなら得意かもしれない!」というものがある。こんなことを言うと「調子に乗るな!」と怒られてしまいそうだけど、家も金も仕事も何もなかった(現在も仕事はない)わたしには食糧を買う余裕はあまりなかった。それなのに、多分、わたしが家のない可哀想な青年に見えたからなのだと思うのだけれど、様々な方々がほんっっっっっっとうに様々な食糧をもらった。なんなら、家がある頃よりも食生活は豊かだった。わたしは「なんでなくなってからの方が豊かになるんだろう」と不思議に思った。坂爪圭吾という人間を面白がってくれた海外在住者の方々からも「航空券を出すからこっちに来てよ」というご連絡を相次いでいただき、結果的に20カ国くらい巡った。この現象はなんなのだろうか。毎月月末に開催しているわたり食堂【0円食堂】というイベントは、自分なりの罪滅ぼし(?)になる。恩は返すものでもあり、多分、次のひとにまわして行くものでもあるのだと思う。
【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】
奇跡は余白に舞い込む【ひとみの偉業編】
普通、わたしのような平民は「海外に行くためには三ヶ月はアルバイトをしてお金を貯めないと無理!」なものだと思っていた。が、家がなくなっていろいろなことが自分でやるのは無理!となり、みなさまに助けを求める(自分を徹底的に開示する)ようになってから、いつの間にか「自力で稼いでいては絶対に成し遂げられないハイスピードで海外に行っている」自分はいったいなんなのだろうかと思っていた。あの頃は、一ヶ月に一回は海外に足を運んでいた。しかも、交通費は現地の方々がご負担をしてくださったのでわたしはホイホイ足を運ぶだけでよかった。声をかけてくださる方々は基本的に『超絶やさしい』方々が大半で、現地でのアテンドも務めてくださる方もいた。わたしは、それらの恩恵を全身で受けながら「なんでこんなことになっているのだろう」とすっごい不思議に思っていた。誤解されると困るが、わたしは自分の置かれていた状態を自慢したい訳ではない。ただ、あらゆることは自分の力でできて一人前(誰かに頼るのは半人前のやることだ)とされている風なこの世の中において、自分には無理だとある種のサレンダー【降伏】を決めた瞬間から謎に人生が好転をしている坂爪圭吾という現象を、同じ時代を生きるみなさまと共有できたらうれしいと思う。
降伏こそ幸福である!とかくだらない駄洒落を言ってしまう前に、ひとみさんという女性の現象を紹介したい。名古屋生まれのひとみさんは現在24歳、数ヶ月前に一年間務めた仕事を辞めたために現在は無職。「お金はないけどエネルギーはあります!」とのことだったので、なう、ごちゃまぜの家の管理人をお願いしている。ごちゃまぜの家はそれなりに人の出入りがある【風通しは良い】ために、ひとみさんは様々な方々と出会う。一応、管理人をお願いしていたはずなのに、彼女は現在沖縄県の宮古島にいる。聞いたところによると、ごちゃまぜの家に遊びに来てくれた方が「これから沖縄に行くんだけど、もしよかったらひとみちゃんも一緒にいく?航空券くらいなら出すよ✨」という奇跡的なお誘いを受けたらしい。所持金四桁のひとみさんが宮古島にいくことは事実上不可能だったはずなのに、彼女はいま、宮古島の風を浴びながらフレッシュジュースを飲んでいる。突発的な誘いに乗る瞬発力も素晴らしいし、与えられた『管理人の職務』を簡単に投げ出してしまう奔放な精神も「当事者としては困っちゃう部分もあるけれど、根本的にイイネ!」と思う。
ここ数年の日々の中で「奇跡は余白に舞い込む」ということを実感する。仮に、宮古島に誘われたとしても自分が時間的&精神的に無理な場合は誘いに乗ることはできない。自分に余白があるからこそ、キャッチできる奇跡がある。これを、いばや界隈では『余白力』と呼んでいるのだけれど、余白力のあるひとは稀に面白い展開を(自身の生き様を通じて)見せてくれるから存在がエンターテイメント的だ。しかし、余白があるだけでは足りない。余白がある時こそ、自分を『ある程度の視聴率がある場所(ひとの出入りがある場所)』に置くことがキモなのだと思う。家の中に永遠に引きこもって漫画やアニメを見ていても、多分、奇跡に出会う確率は低い。ごちゃまぜの家的な『ある程度のひとの出入りがある場所』があることで、ひとみの偉業は達成されたのだと睨んでいる。ひとみさんのバカンスを邪魔する(おれも宮古島に行きたかったという悔しさがある)ために彼女のLINE連絡先を公開します。是非、ご覧のみなさまも彼女のバカンスを邪魔してみてください!!
TPD48【鉄砲玉48】の現在。
基本的に呼ばれたことには無償で応える捨て駒の集合体でお馴染みTPD48【鉄砲玉48】も、わたしの知らないところで順調な活躍を見せていた(らしい)。わたしは思う。多分、お金を稼ぐことがなんとなく苦手なひとは自分だけではないのだと思う。わたしが思う仮説のひとつに「自分の存在【自分がやっていること】が未来にとって必要なものであれば、それをみた人が『こいつらを餓死させてはいけない!』となって何かしらの方法で生かされるだろう)」というものがある。TPD48の活動は、多分、その実験と検証なのだと思う。彼らは自分の体を張ってあらゆる依頼に応え続け、現状、とりあえず死なないで生きている。多分、彼らも身近な人間(親とか)から「そんなんで生きていけると思うなよ」的な説教を受けまくっている人種だと思う。しかし、彼らの気持ちを私が勝手に代弁すると「そんなんでは生きていけないと言われても、事実、そんなんで生きているのですが!」ということになる。もちろん、これまでは良くても「これからどうなるのか」はわからない。しかし、これからどうなるかわからないのは鉄砲玉も公務員も大企業の社員も自営業者も気ままなフリーターもまったく同じことであり、そこはお互いさま(あくまでもフェア!)なのだと思う。
【セルフ鉄砲玉】爪切りを借りに茨城(片道3時間)へ行ってきた 2017.7.12 - 私は鉄砲玉。
鉄砲玉は現在も新メンバーを募集している。先日、愛知県豊橋市在住のひろきさんが新メンバーに加わった。彼は「とりあえず菊名のひとみさんに挨拶してきてよ。鉄砲玉のことは彼女が詳しいから!」というわたしの無茶振りに、ヒッチハイクで応えた。数ヶ月前までバングラデシュで働いていただけあって、日本国内は(多分)どこでも近所なのだと思う。他にも、ボロボロになって帰ってきた鉄砲玉のメンバーを労う『女子マネージャー的な存在』も募集をしています(もうちょっとしたらわたしも菊名の家に戻るので、興味のある方は直接あっていろいろ話したりしましょう!!)。先日、神奈川県在住のニューハーフのA様から「鉄砲玉も女子マネも両方いけます!」というご連絡をいただいた。その後、実際にお会いさせていただいたのですがA様の人柄が素晴らしすぎて音速で大好きになってしまった。鉄砲玉は、なう、とても良い感じに撹拌をされている(のだと思う)。もしも、何かしら鉄砲玉にお願いをしたいことがある方は、いつでもお気軽に彼らに直接ご連絡をしてみてください。きっと、数時間以内に彼らから何かしらの返信があると思います(連絡先は彼らのブログ記事をご覧ください!!)。
ふじわらひろき - 優しさの循環の回転速度が高い日 - Powered by LINE
撹拌。好きな言葉だ。わたしは「いろいろなものをかきまわしたい」と思っているのかもしれない。こうでなければいけないとされていることがあるとしたら、その内側の世界ではなく、その外側の世界に関心がある。あらゆる物事をかき混ぜて、境界線がわからなくなるほどにかき混ぜてみた結果、どのようなことが起こるのかを見てみたい。家族もしかり。生き方もしかり。働き方もしかり。年齢や性別や国籍もしかり。ごちゃまぜという言葉には「カオスティックな中で保たれる調和」というニュアンスがある。いろいろなひとがいてもいいのだと思う。いろいろな生き方があってもいいのだと思う。いろいろなひとがいてこその社会であり、いろいろなひとがいてこその世界なのだと思う。偏っちゃいけない。閉鎖的&排他的になったらつまらない。風通しが悪くなったら精神にカビが生える。わたし自身【坂爪圭吾】や鉄砲玉のメンバーのような生き方を認めてくれとは言わないけれど、一緒に面白がってもらえたらうれしいと思う。
【過去記事】世界の秘密を知ってしまった。 - いばや通信
わたり文庫『モリー先生との火曜日』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ミッチ・アルボム著作『モリー先生との火曜日』です。この本はズバリ素晴らしい。正直なひとが正直な言葉で話す時、話している内容はどのようなものであれ、聞くひとの心を打つ。モリー先生の言葉には、正直なひとにだけ宿る力が秘められまくっているように思いました。これは無理やりにでも読んでもらいたい。そして、この本に書かれていることを一緒に話したりなんだりできたらいい時間になりそうだなあと、そんなことを思いました(こちらの本を譲ってくれた広島県広島市在住のC様、ありがとうございます!!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※
「この国では一種の洗脳が行われている」とモリーは嘆く。「洗脳ってどんな風にやるか知っているだろ?同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。この国でやっているのはまさにそれだよ。物を持つのはいいことだ。かねは多いほうがいい。財産は多いほうがいい。商売っ気もそう。何もかも多いほうがいい。多いほうがいい。みんなそれをくり返し口にしー くり返し聞かされー ついには、めんどうくさくなってほかの考えを持たなくなる。ふつうの人間は頭が朦朧として、何がほんとうに大事なのか見境がつかないというわけさ。
今までいく先々で、何か新しいものをがつがつ買いたがる人にぶつかってきた。やれ新車だ、やれ新しい地所だ、やれ新しいおもちゃだ。それをまた人に言いふらしたがるんだな。『ねえねえ、何買ったと思う、何買ったと思う?』
これには私流の解釈があってね。この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。だけど、それはうまくいかない。物質的なものは愛ややさしさの代わりにはならない、友情の代わりにはならない。
かねはやさしさの代わりにはならない。権力もそう。死を目の前に控えてここに座っている私に言えることは、かねや権力をいくら持っていても、そんなものはさがし求めている感情を与えてくれはしないっていうこと。それをいちばん必要としているときにね。」
ミッチ・アルボム『モリー先生との火曜日』【NHK出版】
愛想笑いはF◯CKですよ。
最近は「遊ぶ」という概念について考える。遊ぶという行為には「ふざけている」とか「生産的じゃない」というネガティブなイメージも付き纏うけれど、しかし、遊ぶという行為ほど高尚なものはないのではないだろうかと思うこともある。油断をしていると、ついつい物事を真面目に深刻に考え込んでしまう自分がいる。そして、多くの場合、偏った自己解釈によって勝手にダメージを受けたり自爆をする場面は多い(ような気がする)。わたしたちはなぜ生きるのか。極論、それは『遊ぶため』なのではないだろうか。仕事が遊びになるとき、家事が遊びになるとき、目の前にあることが遊びになるとき、わたしたちは自由を感じるようにできている(そして、それに触れたひとのこころまで自由にさせる力がある)。
迷惑をかけてはいけないのではなく、どれだけ楽しい迷惑をかけられるかの勝負だと思う。ひとを動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」で、本当はみんな(間違っててもいいから)楽しみたいのだと思う。踊りたいのだと思う。子供の仕事が遊ぶことならば、大人の仕事は『もっと遊ぶこと』なのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月6日
タイ人の笑顔は穏やかで自然だ。笑いたいときにだけ笑い、笑いたくないときには笑わない(ように見える)。自然な笑顔に触れると、こちらも自然と笑顔になる。日本にいると、笑顔が苦しそうなひとを見る。ああ、このひとは無理をして笑っているのだろうなあと思うことがある。そんな時は、ああ、笑いたいときにだけ笑ってくれたらいいのになと思う。愛想笑いをすると死にたくなるし、愛想笑いをしているひとをみると、ああ、このひとは愛想笑いをしているんだなと(なんだか嘘をつかれているみたいで)苦しくなる。わたしは思う。多分、幸福と自然は同義である。自然なものに触れた時、ひとは幸福を覚えるようにできている(ような気がする)。自然とは、なにも緑が豊かだとかそういうことだけではなく、ひとの中にある自然、自然にこぼれる笑顔であったり、自然と湧き上がる共感であったり、そういったものに触れたときに「嬉しさ」は芽生える。
貧しさとは、金がないことではない。多分、人間的な温もりに飢えている状態なのだと思う。どれだけ多くのもので着飾っても、そのひとの『乾き』は表情に出る。ひとをひととして扱わない【扱われない】日々が続くと、精神性が枯渇する。人間に上も下もないのだから、ただ、フェアに立ち合いたいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月8日
真の笑顔と嘘の笑顔、多分、笑顔には二種類ある。嘘の笑顔には無理があり、真の笑顔には無理がない。どうせ生きるのならば、愛想笑いをしないで済む生涯を送りたい。笑おうとして笑っているのではなく、いつのまにか「笑顔になっちゃっている」瞬間の中に、幸福のヒントは隠されている(のだと思う)。夕日を見つけたら思わず駆け出し『ちゃう』あの感じ、好きなひとを見つけたら思わず抱き締め『ちゃう』あの感じ、自分でも気がつかないうちに思わず笑顔になっ『ちゃう』あの感じ、この『ちゃうちゃう感』こそ護りたい。バンコクでは気が狂ったみたいに果物を食べていた。一日に5回足を運んだ果物屋のおじさんは、5回目の来訪の時に「また来たのか!」と右腕を振り回しながら最高の笑顔を見せてくれた。わたしも、この日一番の笑顔でそれに応えた。そのやりとりが、なんだか、ものすごいよかった。嘘の笑顔で自分を傷つけることをやめること。笑いたいときだけ笑うこと。笑いたくないときには笑わないこと。笑顔の純度を保つこと。ひとから好かれるための笑顔ではない、みんなと仲良くするための笑顔ではない、同調圧力に屈した時の敗北的な笑顔でもない、自分でも気がつかないうちに思わず自分が笑顔になっ『ちゃう』あの瞬間、その瞬間の中にこそ、自分という人間はめちゃめちゃ凝縮されている【真の自分を発見する】のだと思う。
大人になるということは、子供ではなくなることではないと思う。32歳の自分は、3歳のように世界を眺めることも、14歳のような衝動に駆られることも、32歳なりの冷静さを抱くこともある。年齢を重ねるということは、これまで生きてきたどの年齢にもなれる『年齢の可動域を増やすこと』だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月14日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu