いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ちゃんとしなさいの「ちゃんと」とは何か。

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静岡県浜松市在住のお母様から「こどもと一緒に遊んでください!」というご依頼をいただいた。今回のポイントは「こどもの面倒を見てください!」とは言われていないことで、こどもの世話をすることはできないけれどこどもと一緒に遊ぶことはできると盛り上がったわたしは「是非!」と応え、非常に素晴らしい時間を過ごすことができた。こどもを見ていると「こいつらは視聴率さえあれば勝手にテンションがあがってはしゃぎ回るのだな(俺と同じだな)」ということを知り、体力的に限界なときは必ずしも一緒に遊ぶ必要はなく、ただ「見てますよ〜、あなたのことを見てますよ〜」的な雰囲気を醸し出すことにさえ成功すれば、あとは意外とどうにかなるのだということを学んだ。

 

誰かが自分のことを見ていてくれる、ただ、それだけのことが力になることがある。これは大人も同じことだと思う。逆に言えば「誰も自分のことを見てくれるひとがいない【自分は誰にも必要とされていない・何もつながりを感じることができない】」と感じる時に、ひとは精神的な不調をきたしたり、最悪の場合は自殺を考えてしまったりするのだと思う。昨夜、生まれてはじめて(あまりにも暇でさみしかったために)「ひとりきりのツイキャス動画配信」を行なった。最初はすぐに自意識の限界を迎えておじゃんになるだろうと思っていたけれど、視聴者のみなさまの存在に支えて一時間程度も続けることができた(ご覧いただきありがとうございました!)。 

 

【孤高の動画配信はこちら!】本音はエンタメになるのか? 〜察してより「殺して」〜【前半】 - TwitCasting

 

嫌いなものには嫌いだと言う。

こどもを見ていて「いいな」と思う瞬間のひとつに、彼らは一様に「やりたくないことに対しては『やりたくない』と言う明確な意思を示す」ことがある。わたしは、好きなものを好きだと言うことと同じくらい「嫌いなものには嫌いだということ」が非常に重要だと思っているタイプの人間で、コミュニケーションに失敗をする(自分のこころが「いやだな」と思うことを受け入れてしまう)と、自分の行きたくない場所に連れていかれてしまうものだと思う。もっと言えば、自分のこころが「いやだな」と感じることを受け入れてしまうと、自分でも気がつかない内に、自分自身が醜い存在(昔の自分が「こんな人間にはなりたくない」と思っていたような人間に)成り下がり、最悪の場合は「魂が腐る」ように感じている。

 

数日前、10名近くが集まる食事会に招待をされた。最初にみんなが自己紹介をする時間があり、わたしは最後に自己紹介をするという流れになった。みんなの自己紹介を聞けば聞くほどに、わたしの中で「こいつら全員嘘つきだな」という気持ちが蓄積された。多分、わたしは嘘と見栄と驕りに対して物凄い敏感に反応をしてしまう人間で、(現時点では)どうしてもある種の嫌悪感を覚えてしまう。そのため、自分の出番がまわってきた時に「ここにいるひとたちは、全員嘘つきだなと思いました」と話した。

 

わたしの信条のひとつに「本音はエンタメになる」というものがある。どんなにつまらない空間においても(たとえば、退屈な話を延々と続ける校長先生の話を聞かされている時など)、ひとりの生徒が「校長先生、話が長いです」というある種の本音をさらっと空間全体にぶちまけた瞬間、つまらなかったはずの空間は一気に面白いものになる。周囲の生徒たちは「あいつ、言いやがった!」的な状態になってアガり、周囲の先生たちは「まー!なんてことを!(でも、わたしのクラスの生徒じゃないから責任もないし、校長先生のことは超絶嫌いだから気持ちいい!)」的な状態になってアガり、校長先生も「なぬー!こんなことを言われちゃうのは初めて!」的な状態になってアガる。ひとりの人間の本音が、一瞬にして空間全体の空気を変えることがあり、わたしの役割は「ほんとうのことを言うこと」だと思っている。

 

本音はエンタメになる。

昨日、浜松市でお会いした男性K様が、K様の車でわたしを温泉に連れて行ってくださり、風呂上りに焼肉をご馳走してくださった後に、あろうことかその日のホテルまで予約をしてくれた。わたしが「なんでそんなによくしてくれるのですか!」と問うと、K様は菩薩のような笑みを浮かべて「いえいえ、坂爪さんのブログから元気を勝手にいただいているので、わたしの方が先にもらっているのですよ」 とのこと。浜松にも神様はいるのだと思った。車中、K様は「さかつめさんは毎日のように初対面のひとたちと会い続けいるけれど、疲れることはないのですか」と問うてくれた。わたしは、そういうえばあんまり疲れることはなくなったなあと思い、どうしてそんなに疲れなくなったのだろうかと考えてちょっとだけわかった。

 

多分、疲れには「良い疲れ」と「悪い疲れ」の二種類がある。悪い疲れとは、多くの場合「言いたいことが言えなかった」時に溜まるものだとわたしは思う。逆に言えば、自分が苦手だなと思う相手に対して「わたしはあなたのこういうところが苦手です」とはっきり口にして伝えることができた時、たとえ嫌われてしまうことがあったとしても、少なくとも「自分の気持ちを言葉にすることができた」ことによる清々しさは残る。そして、多くの場合、本音を口にしても嫌われることは少ない(そこから本当の会話がはじまり、逆に仲良くなることの方が多い)と思う。逆に言えば、他人に嫌われないように本心を押し隠して相手に媚びたり周囲に合わせてばかりいるひとの方が、よっぽど嫌われてしまう【信頼に値しない】ものだとわたしは思う。

 

自己紹介の時に「みんな嘘つきだなと思いました」と言った後、瞬間的に空間全体の空気がぴっきーんと凍りついた。しかし、その発言をきっかけに数名の方々とリアルにこころを通わせることができた(気がする)。わたしは、あらゆるものを取り去った先に残る「そのひと自身」に興味がある。逆に言えば、そのひとの外側に張り付いているもの【社会的な肩書きなど】にはまるで興味が持てないでいる。金持ちだからすごいとか、経営者だからすごいとか、こんな知り合いがいるからすごいとか、それは「すごいのは〇〇(あなた以外の何か)であって、お前ではないだろう」という気持ちになる。だからこそ、嘘や見栄や驕りを取り去ったあとに残る「そのひと自身」と話をすることができた時に、ああ、自分は人間と会話をすることができたのだといううれしさを覚える。

 

【過去記事】人生とは、ファナティッククライシスである。 - いばや通信

 

『お金のいらない国』

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ここに来て、突然のわたり文庫のご紹介になります。今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、長島龍人著作『お金のいらない国』です。こちらの本は、数日前に東京の恵比寿でお会いした麗しき女性M様から「これって、愛だと思うんです」という言葉と共に託された稀有なる一冊になります。わたしも読みました。愛だ…愛た…非常に素晴らしい全人類必読の一冊だと思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※

 

「でも、あなたの国でも、この紙きれや金属を食べたりしている人はいないわけでしょう?要するに、このお金というものは、ものの価値をみんなが共通して認識するためのモノサシでしかないわけです。ですから、たとえば今あなたの国で、このお金がいっせいにパッと消えてしまったとしても、皆がそのまま仕事を続けていれば社会は回っていくはずなんですよ。それに、ちょっと想像してみてください。あなたの国の、お金を扱う仕事にたずさわっている人が、その業務から解放された時のことを。そして、お金を動かすために使っていた時間や労力を、もっと世の中のためになる仕事に向けたら・・・お金に関する仕事がなくなったら、ずっと楽になると思いませんか?いいですか。今のあなたの国でも、お金に関わる仕事をしている人が全員、その仕事をやめてしまったとしても、みんな十分に暮らして行けるはずなんです。そんな、言ってみればムダなことに時間や労力を使っていたにもかかわらず、あなた方は今までやってこられたわけですから。ですから、そういう仕事にかけていた時間や労力を、もっと社会の役に立つ仕事に向ければ、もっともっと暮らしやすくなるはずですよ」

 

長島龍人『お金のいらない国』【『地球村』出版】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

ちゃんとしなさいの「ちゃんと」とは何か。 

大人になるということはどういうことだろうか。ちゃんとしなさいの「ちゃんと」とはどういうことだろうか。様々な方々と話をする機会を通じて、意外と多くのひとにとって、大人になるということは「時には自分の気持ちを押し殺してでも、周囲に合わせることができるようになること」だと思っているみたいだと気付いた。しかし、本当にそうなのだろうか。自分を押し殺すことが「ちゃんとする」ということならば、この世の中は自分を押し殺さなければ生きていけない【ダメ人間というレッテルを貼られる】ということなのだろうか。わたしにはわからない。わかることと言えば「自分には無理!」ということだけだ。 

 

わたしの信条のひとつに「自分を殺してひとに好かれるより、自分を出してひとから嫌われるほうがずっといい」というものがある。 自分に嘘をつきながら生きるよりも、本音を話して野垂れ死んだほうがずっといい。自分に嘘をつかなければ生きていけないのだとしたら、わたしは、そんな世の中を生きていたいとは思わない。あるひとは言う。自分の言いたいことだけを口にしていたら、生きていくことはできないよ、と。わたしは思う。「そんなことはないぜ」と、言いたいことは口にしてもいいのだと、やりたいことはやってしまってもいいのだと、わたしという人間は思っている。少なくとも、坂爪圭吾という「ほんとうのことを言うこと」以外には何も取り柄も役割も見出せない取るに足りないひとりの男が、ほんとうのことを言うというまさにその部分だけによって、いまもこうして生きている【生かされている】ひとつの現実があるぜ、ということを思う。

 

本音を話すと、ひとの涙に触れることが増える。緊張していた何かが解けるのだろうか、胸の重みを話すことで離すことができるのだろうか、話しながら涙を流すひとと頻繁に出会う。わたしは「たまってんだな」と思う。そして、泣くことは悪いことなんかじゃないから、どんどん泣いたほうがいいのだと思う。涙のあとには笑顔がある。「あはは、泣いちゃった」みたいな感じで、自然と笑顔になっちゃう姿をこれまで何度も何度も目にして来た。この瞬間の笑顔は、純度の高い、ほんとうに魅力的な笑顔だ。「いつも元気でいなくちゃいけない」という思いからの笑顔ではない、泣きはらした後に思わず笑顔になっちゃっているこの感じ、この『ちゃうちゃう感』こそが最高の魅力なのだとわたしは思う。こうでなければいけない、こうしなくちゃいけないという能面みたいな表面をかち割って、その奥にあるその人自身の素顔に触れることができた時、わたしは「お前【自分】のこころはまだまだ生きていたじゃないか」とうれしくなる。このうれしさが、明日も生きていきたい【人間は捨てたもんじゃないぞ、人生は捨てたもんじゃないぞ!】と思うエネルギーになる。 

 

 

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純度の勝負。。。

 

人生は続く。

 

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