いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

【TPE-永田町】経済なんてどうでもいい。そんなことより『いま、ほんとうの意味で生きているか』の方が圧倒的に重要だ。

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台北から日本に戻り、永田町で開催された『これからの経済』がテーマのパネルディスカッションに参加した。登壇者は辻信一さんと三宅洋平さんで、福岡県の糸島で市議会議員(?)をやっている人も来た。これからの経済について各自が思うことを話すという内容だったのだけれど、結構な違和感を覚えたので簡単にまとめます。

1・経済を言い訳にいまを生きることを放棄してはいけない。


最大の感想はこれに尽きる。いまの経済がダメだからとか、これからの経済が良くなればもっと自由に生きることができるとか、そういうのは単なる言い訳だと思う。『これからの⚪︎⚪︎』という言葉はそこら中で目にする機会があるけれど、私には『遠い国のおとぎ話(ファンタジー)』にしか聞こえない。

2・この技は広範囲において多用できる。


「経済なんてどうでもいい」というワードは、各分野において多用できると思った。結婚なんてどうでもいい。就職なんてどうでもいい。学歴なんてどうでもいい。不登校だとかひきこもりだとか鬱病患者だとか借金があるとか恋人に振られたとか自分の気持ちを誰にもわかってもらえないとか、そんなことよりも『いま、ほんとうの意味で生きているのか』の方が圧倒的に重要だということ。

私は経済の専門家でもなければ、何か特定の分野の専門家でさえもない。ただ生きているだけで、社会的な肩書きは何もない。家を持たずに生活をしているとか、ホームレスだとか、ブログを書いているだとか、そんなものは表面的なものに過ぎない。「普段は何をしているのですか?」という質問を頻繁に受けるが、私は「生きているだけです」と答えている。そうすると、大半の場合は苦笑されて終わる。

現代社会では「生きているだけ」では通用しないので、自分に社会的な肩書きを与えるために躍起になる必要が発生している、ように見える。何処かで『いまのままの自分では通用しない』と思わされているために、自分以外の何者かになろうとしたり、資格をとるために大変な労力を必要としたりする。

3・「疲れているひとに対する処方箋のような生き方」には興味がない。


昨夜は『減速して自由に生きる(ダウンシフト)』の著作でお馴染みの高坂勝さんと対談をした。誤解を恐れずに言うと、私は「ダウンシフト」とか「スローライフ」とか「自給自足」という言葉に、あまり前向きな印象を覚えることがない。何かこう『疲れているひとに対する処方箋のような生き方』のような匂いを感じてしまうからであり、別に悪くはない(やりたいひとはやればいいと思う)けれど、何かこうあまり未来を感じない。私は「昔に戻りたい」のではなく「次に行きたい」と思っている。

4・自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしない」というものがある。


私は、基本的には疲れているひとと同じ時間を過ごしたいとは思わない。自分が誰かを救えるほど立派な人間だとも思えないし、誰かを救おうとすることで優越感を得ようとすることも嫌いだし、(単純に)元気がないひとよりも『一緒にいると元気になれるひと』と同じ時間を過ごしたいと思っている。

巷に溢れる「あなたはあなたで素晴らしい」とか「頑張らなくていいよ」とか「自分らしく生きよう!」みたいなメッセージを目にすると、私はどうしても違和感を覚えてしまう。きっと、日本には疲れているひとが大量にいるのだろうな、と思う。だからこそ、このような言葉が流行るのだろう。

疲れているひとを癒しても(マイナスがゼロに近づくだけであり)プラスが発生することはない。それよりも「圧倒的なマイナスを抱えながらも、自分を打ち出して全開で生きようとしている」人間が持つ生々しさが私は好きだし、そういう人間から醸し出されるエネルギーにはプラスもマイナスもない。

5・優しそうなひとほど、私には怖く見える。


弱っている時、誰かの優しい言葉はいつも以上に自分の中に浸透していく。疲れているひとが圧倒的に多い社会では、こうした『世の中に浸透しやすい優しい言葉(優しい態度)』を悪用して、自分を優位な立場に持って行こうとする人間が多発する。私には「誰かのため」に何かをしようとするひとのことを、根本的に疑ってしまう傾向がある。それよりも「自分がやりたいからやる」というシンプルな衝動に従って生きているひとから醸し出される清々しさが好きで、自分のために生きている人間が好きだ。

6・自分の衝動は他人に説明することはできない。


人間には美しい部分もあれば醜い部分もある。私は「綺麗なだけのもの」を見ると、どうしてもそれだけじゃないよねと突っ込みたくなってしまう。清濁あわせ飲んでこその人間であると思っていて、常に耳障りのいい言葉しか使わないひとや、優等生的で無難な社会貢献性だけを謳っている団体などには、どうしても「それだけじゃないよね」みたいな違和感を覚えてしまう。

7・人生の主語は「(他の誰でもない)自分」にすること。


こうするべきとかこうあるべきとか、ああしなさいとかこうしなさいとか、そういう言葉には軽くうんざりしている自分がいる。人生の主語は「(他の誰でもない)自分」であるのがベストだと思っていて、あの人がこれをしてくれないからダメだとか、社会が悪いからダメだとか、もっとみんなこうするべきだとか、こういうのは『この瞬間における自分自身の責任を放棄している』ようにしか見えない。

人生の主語は自分にすること。これは非常に重要なことだと思う。自分でも気づかないうちに「自分の人生のうだつが上がらないのは(自分以外の)何かのせいだ」みたいな思考をしてしまう。これでは、自分の人生の舵を他人に委ねてしまうことになる。

8・生きることや楽しむことに、他人の許可は必要ない。


自分の価値は自分で決めることができる。

9・「幸せにならなきゃ」いけないこともない。


「こうしなければいけない」と思われていることの大半はまやかしであり、そうしたいと思った人はそうすればいいし、そうしたくないと思った人は無理をしてする必要もない。世間では『夢をもて!』とか『楽しみながら生きろ!』とか『自分のやりたいことをやれ!』みたいな言葉が充満しているけれど、「幸せにならなきゃ」みたいな思いから自由になれたとき、その人は幸せなんだろうなと思う。

10・百花繚乱、咲き乱れてしまえばいいのだと思う。


冒頭でも述べたように、経済よりも政治よりも自分が置かれている周囲の環境よりも、圧倒的に重要なのは『いま、ほんとうの意味で生きているか』ということだと私は思う。誰もがハートの中に花の種のようなものを抱えていて、それは生きている限り「咲きたがっている」ものだと思っている。

生きることや楽しむことに『他人の許可』は必要ない。これがこうなれば花が咲くとか、これがこうならないから花は咲かないとか、そんなことはない。いつでも花は咲き乱れる準備が出来ていて、あとは自分自身が腹の底から「咲かせるのだ」と決めてしまえば、何度でも、何処にいても、可憐に花は咲き誇るだろう。

自分の花を咲かせるのだ。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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