いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ】「不安」を原動力に生きるか「希望」を原動力に生きるか。ー 現状を打破する道は唯ひとつ、自分が恐れていることをやることだ。

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岩手県盛岡市に招待されて、坂爪圭吾を囲む会を開催していただいた。調べてみて驚いたのだが、東京から盛岡までは新幹線で二時間ちょっとという距離であり、盛岡は都会だと思った。雪で閉ざされた地域の人間は、真冬は出歩けなくなるからこそ精神世界が充実する。要するに「一見大人しそうだけど、蓋を開けてみるとぶっ飛んでいる人」が多い。

人間の生き方には二種類あって、それは「不安」を原動力にする生き方か、「希望」を原動力にする生き方か、そのどちらかなのだろうなと思っている。不安を原動力に生きる場合、いつまでも不安から逃れることは出来ない。「不安だから貯金をしよう」とか「不安だから資格をとろう」などと考えて行動を起こしても、常に満ち足りることがなく、100万円貯めれば今度は200万円貯めなければ不安になるし、ひとつの資格を取ったとしても、今度はまた別の資格が必要になるのはないのかと新しい不安が生まれてくる。不安をベースに行動を起こしてしまっているために、やり始めた当初は「やるぞ!」と奮起することが出来たとしても、数日も経てば「やりたくてやっていたこと」が「やらなければいけないこと」へと姿を変えて、自らを圧迫するものになり、いつしか苦行のように思えてくる場合がある。

何も保証がない私の生き方を見て、多くの方々が「不安になることはないのですか?」と尋ねてくれる。「家がない生活は不安ではないですか?」とか「安定した収入がないと不安じゃないですか?」などと尋ねられることが頻繁にあるが、誤解を恐れずに言えば、それは質問してくるその人自身が、そのような問題を内面に抱えているからこそ出てくる質問なのだろうなと思っている。もちろん、私自身に不安がないと言えば嘘になる。ただ、基本的には不安を日常的に意識することは少ない。それはなぜか、自分なりに考えてみた結果、それは「希望」をベースに生きているからなのだろうなと思った。

私にはひとつの強烈な思いがある。それは「こうあるべき」とされている常識をひっくり返してやりたいという、謎に強烈な(それでいて昔から根強く存在していた)思いだ。「家がなくても生きることが出来れば自由度が高まる」などの思いはその代表格で、基本的には「こうあるべき(家がなければ生きていけない)」という常識をひっくり返してやれたら面白いだろうなと思っている。大袈裟な言葉で言い換えれば、私のこうした思いが「希望」になり、取るに足らないひとりの存在を突き動かしている。

仮に、私が「不安」をベースに生きていたら、今頃は立派に発狂していたと思う。家がないという不安定な状態に頭がおかしくなり、恐怖に怯え、「まともに生きていくことが出来ない」自分を責め続けた結果、鬱病になるか自殺をしていたと思う。しかし、私の支えとなる「常識をひっくり返してやりたい」という思いが希望になり、「こんな状態でも生きている人間がいるということを立証してやろう」という前向きなエネルギーによって自らをドライブさせることによって、今も死なずに生きている。

訪れる先々で様々な人と会話を交わすが、頻繁に見受けられる悩みのひとつにこんなものがある。それは「本当はやりたいことをやって生きていきたいのだけれど、それで生きていけるのか不安だから、どうしても今の仕事をやめることが出来ない」というものだ。本当は心のままに生きていたい。自分がやりたくないことよりも、自分が心の底からこれをやりたいと思うことをやって生きていたいと望むのは、人間としても自然な心理だと思う。しかし、それで生きていけるか不安だから、どうしても今の仕事をやめることが出来ない。このような悩みを抱きながら生きている人は、決して少なくはない。

「生活のために仕事をやめることが出来ない」という生き方は、乱暴に言えば「不安」をベースに生きている証拠になる。誤解されると困るが、私は「不安」をベースに行動を起こしている人を非難したい訳ではない。重要なのは、日々のすべてが「不安」をベースにしたもので埋め尽くされてしまうと(生活から一切の希望が失われてしまうと)、人生がつらく悲しいものになってしまうということだ。

自分の日常的な行動の中で、「不安」ではなく「希望」を原動力にやれることを増やしていくこと。人生の十分の一でも構わないから、希望をベースに行動を起こせる何かを増やしていくこと。これが大切なのではないだろうかと私は思った。「不安」だから何かをするのではなく、「こうしていきたい」とか「こういう人生を送りたい」と思える希望を原動力に、日常的なアクションに少しだけ変化を加えてみる。その積み重ねが「希望の種を撒く」行為となり、日常に新しい変化を与えるのだと思っている。

こういう話をすると、同時にこのような質問を受ける。それは「やりたいことがわからないのですが、どうすればいいと思いますか?」というものであり、これに対する私の答えはシンプルだ。それは「自分が恐れていることをやること」であり、本当は昔からやってみたいと思っていたけれど、失敗するのが怖かったり、周囲の無理解や抵抗を受けるのが怖くてやれなかったことをやることだと思っている。

誰もが「やりたいこと」を常に胸に抱いている訳ではない。しかし、本当はやってみたいと思っていたけれど、恐怖心から実行に移すことができなかったことならば、すべての人間が持っているものだと私は思う。恐怖心の中にこそ突破口がある。自分が「危険だ」と思う道の中には、必ず「本当はそうしたい」と思っている自分自身が隠されている。

どんなに些細な事でも構わないから、少しだけ勇気を必要とするものを試してみる。それは、道端ですれ違う誰かに挨拶をしてみることでもいいし、恋い焦がれていた相手に告白をすることでもいいし、常日頃から感謝の気持ちを抱いている相手に気持ちを伝えることでもいいし、嫌いな上司の靴に大量の画鋲をぶち込むことでもいいし、惰性で続いていた人間関係に別れを告げることでも構わない。それを実行する時に「少しだけ勇気を必要とすること」を日常的に行うことで、打破される現状が必ずある。

私はこれを「一日一F」と命名し、一日に一度は『恐怖心(FEAR)』を覚えることを実行すれば、来年の今頃は今よりもずっとタフな自分になれているだろうなと睨んでいる。勇気を出して何かを行えば、必ず何かが変化する。もちろん、時にはダメージをくらうこともあるだろう。しかし、今までの人生がそうであったように、人間は受けたダメージを通じて(それはスーパーサイヤ人が死にかける度に強くなるのと同じように)人間的な魅力を増幅させていくのだと思う。

「現状を打破する道は唯ひとつ、自分が恐れていることをやることだ」ー これが私の信条だ。私の年齢は29歳で、まだまだ何かを悟っている訳でもなければ、人生のなんたるかを理解している訳でもない。どんどん痛い目に遭い、グハグハ言いながらも逞しく生きていけたら本望だ。所詮、生まれてから死ぬまでの間の人生なのだ、「不安」ではなく「希望」を原動力に生きていこう。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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