いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「誰かのため」とか言っていないで、自分のために生きること。ー 期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。

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武蔵小杉のホテルから眺めた空が綺麗だった。先日、この場所で開催された教育系シンポジウムに登壇者のひとり(異物的な役割)として出演した。そこで、強烈な違和感を抱く出来事があった。テーマは「こどものためにできること」であり、私を含めた(私以外は立派な経歴の持ち主である)四人の登壇者たちが順番に壇上で話すという内容だった。


「こどものためにできること」なんて存在しない

私はまだ結婚をしたこともなければこどもをもったことがないので、こども目線での話しかすることができない。私は、自分の親には「こどものためには生きないで欲しい」と思っている。あなたを育てるために嫌な仕事も我慢してやっているとか言われてしまったら、「(俺のことなんてほっといてくれて構わないから)あなたはあなたの為に生きていて欲しい」と思ってしまう。

こどもに元気がない最大の原因は「大人に元気がないこと」

他の登壇者の方々は、最近のこどもの傾向などの話をしていた。「最近のこどもは自信がない」とか「最近のこどもは自分がやりたいことがわからない」とか「他人の目線を気にしすぎている」とか、好き勝手なことを言っていた。私は、こうした話を聞きながら「これは大人の話じゃないか」と思ってしまった。最近のこどもに元気がない原因は、最近の大人たちに元気がないからだと思っている。

個性的でも何でもない大人から「個性を持て」と言われても意味がわからないし、就職しても(結婚しても)全然幸せそうでも何でもない大人から「就職しろ(結婚しろ)」と言われても意味がわからないし、これではまるで「不幸になれ」と言われているみたいで言われた方も混乱してしまうだけだ。

今回、私が強烈に感じた違和感は以下の3つ。

1・「社会に通用する人間を育てるのが子育ての基本」という嘘

正直に言って、未だにこんなことを壇上で偉そうに言う人がいることに驚愕した。私から見れば、年間三万人を超える自殺者がいて、100万人を超える鬱病患者がいる社会に適応できる人間を育てようとするのは非常に危険だと思っている。それよりも新しい社会の在り方や理想のスタイルを(自分の生き様を通じて)実現する力を持った人間の方がずっと重要であると思っているし、そもそもで子育てに正解もクソもないと思っている。

2・結局、大人たちにとって都合の良いこどもを育てようとしていること


大人たちは「個性が大事だ」とか「多様性を受け入れよう」とか、口先だけでは常に綺麗なことを言う。しかし、結果的に褒められるのは「無事に学校に通うこと」が出来たこどもたちであり「無事に正社員になること」が出来たこどもたちであり、レールに戻ることが出来たこどもだけが賞賛される。

3・不安を煽り過ぎ

「貧困に喘ぐこどもたちが無数にいる」とか「最終学歴が高卒の人間の3分の2は就職できない」とか「小学生でも塾に通わせないと進学できない」とか「教育費にはこれだけ費用がかかります」とか、とにかく子育てに関する家庭の不安を煽っては「そうならないための処方箋」を示そうとする人が多い。

最初は我慢をして聞いていた私も、最終的には「ふざけるな」という苛立ちにまみれてしまった。そして「私を見ろ」と思った。学歴もなければ正社員でもなく、学生時代は友達も皆無で孤独に過ごし、現在は貧困に喘いでいるどころか家もない。そんなクソみたいな経歴の持ち主でも、現在は比較的明るく生きているばかりか「教育系シンポジウムに登壇する(!)」という奇跡も果たしてしまっている。

あらゆる場面で「不安を煽り過ぎだ」と思うことが本当に多い。「あなたにはこれが足りていません」と消費者の不安や欠落を指摘したり、「もしかしたら戦争が起こるかもしれませんよ」と大衆の不安心理を扇動して、それらを補うための商品やサービスを販売する輩が大量にいる。

親が子に望むことと、子が親に望むことは一致している

私の出番が来たので、苛立ちを隠すことなく思っていることを正直に話した。私はこども目線の話しか出来ないが、実は親も子も共通のことを相手に願っていると思う。それは「完璧な人間であること」なんかではなく、「(不完全でも構わないから)楽しそうに生きていて欲しい」というシンプルなものであったはずだ。元気でいてくれたらそれでいいし、自分の親には楽しそうに生きていて欲しいと思っている。私のために生きて欲しいとは思わない。自分のために生きて欲しいと思っている。

人間が行動の原動力に出来るのは「不安」か「希望」の二つしかない。現代社会は不安を煽り過ぎで、不安を原動力に日々を過ごすのはあまりにもつらい。「こうなりたくないから」じゃなくて「こうなりたい」という希望を軸に行動を起こさないと、いつまでたっても不安から逃れることは出来ない。「こどものために生きる」のではなく、自分のために生きることが(結果として)こどものためになる。


イベント終了後、一通のメールをいただいた。
坂爪さん 初めてメッセージを送らせていただきます。○○と申します。去年末にFBでお見かけしてから、私がうまく言葉に出来なかったけれど、ずっと思っていたことを表現されている文章と生き方に惹かれ、ブログを読ませていただいています。今日はお礼を言いたくてメールしました。長いですが、読んで頂けたら幸いです。
今日武蔵小杉でのイベントで初めて坂爪さんの生のお話を聴き、削ぎ落とした人のオーラというか、存在と眼光にも強烈な影響を受け、何より本当にすっきりしました。直前に話されていた先生方の話に、違和感を感じ少し苛立ちながらも、いつものようになるべく思考を停止して聞き流していたところに、坂爪さんが私の気持ちを丸ごと代弁してくれました。
社会で通用する人間にすることが親の役目 ー その社会って? 私にとっては会社とは、いわゆる世間の目です。私はアロマセラピーの仕事をしていましたが、典型的な日本企業で、楽しかった仕事が店長になり会社に求められるがまま自分の感情を殺して利益を出すために仕事をしていたら、身体に不調が出て燃え尽きて辞めました。癒しの仕事をしているのに癒されず、あらゆる癒しグッズに毎日囲まれながらも仕事に行くのが嫌で嫌で。社会で、会社で通用する人間になるには、自分らしくいてはいけない、利益を出せない、価値を産み出せない人材はいらないと刷り込まれて思い込んで辛かった。自己肯定感どころじゃなくて、人の目ばかりを気にして自分を否定して怖れを原動力に動いていたから辛かったんだと思います。今思えば視野が狭かっただけなんですけど。
坂爪さんのいうように、元気で幸せだったらパーフェクト。正解はたくさんあるし、どんどん増やせるっていう価値観を親がみんなが持てたら、子供も大人も幸せなんだと思います。子供が成長して大人になって親になっていることを忘れてはいけないんですよね。私にはまだ子供はいませんが、いつか産んで育てることが出来た時に、幸せな私の姿を見て、いろんな正解があることを知って貰えるように、坂爪さんのように自分の直感と感情に素直にマイペースに、少しづついろんなものを削ぎ落として今を生きて行こうと思います。
もっともっと坂爪さんのお話を聴きたかったのですが、あっという間で…笑
今度は違うイベントにも参加してみます
うまく伝えられずもどかしいですが、
同じ時代に同じ国にいられることに感謝です。
これからもずっと応援しています。
ヘルシンキとローマのブログも楽しみにしています(*^^*)

私は「苛立ちを隠さないでよかった」と思った。

物語の主語を「他人」ではなく「自分」に徹底する


日本は(本当は「日本は」とか使いたくないけれど)物語の主語を「自分以外のもの」にしてしまうことが本当に多い。これをやったらあの人はどう思うだろうかとか、これをしたら誰かに笑われるかもしれないとか、自分の人生の主語が「他の人がどう思うか」になってしまっている。

究極的に重要なのは「自分はどうしたいか」であるはずなのに、あらゆる人の顔色を伺いながら生きていると、あらゆるジャンルの人たちのご機嫌(親の顔色、職場の顔色、家族の顔色)を伺わなければいけなくなる。誰にも嫌われないような折衷案を探している内に、取り返しのつかないほどに老いぼれてしまったら、それこそ人生を棒に振ってしまうような最悪の結末を迎えてしまう。

自分の幸福は自分で決めるものであり、他人がどう思うかなどというものに依存させてしまっては、一瞬にしてコントロールを失ってしまう。自分の人生の主語は「他人」ではなく「自分自身」であり、他人がどう思うかではなく自分自身がどう思うか、それがすべてであるように思っている。

完璧な人間が存在しないように、完璧な子育ても完璧な人生も存在しない。自分にも他人にも「(不完全でも構わないから)楽しそうに生きていて欲しい」と願うことが出来る精神的な余裕を取り戻すことが出来れば、他の誰でもない自分の人生により一層の集中力を醸し出して行けると思っている。

「誰かのため」とか言っていないで、自分のために生きること。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。物語の主語は「他人」ではなく「自分」であり、自分が自分のために生きることが、結果として誰かのためにもつながるのだろう。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》