いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

北風と太陽の童話で言うところの、太陽になる時が来ているのだと思う。批判や暴露にエネルギーを注ぐのではなく、圧倒的な愛と許しで相手を受容する、その包容力が試されているのだと思う。

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懲りずに夕日を眺め続けている。あらゆる自然は決して誰のものでもなく、ただ、自分がそれを眺めている間だけは自分のものだと言えるのだろう。稀に『どうして自分は夕日に感動するのだろうか』ということを考える。それはきっと、いつまでもそれを見ていることが出来ないからなのだと思う。夕日は沈む。それは花火の美しさと似ている。花火が美しいのは、必ず最後には夜空の闇に消えるからだ。

自由と孤独は抱き合わせで、自由を愛することは孤独を愛することに似ている。孤独を愛するとはどういうことだろうか。それは『瞬間』を愛することと似ている。今日の自分はもう、明日になれば取り戻すことは出来ない。今日の自分は今日で最後で、今日の誰かは今日で最後で、今日の夕日は今日で最後で、明日になれば二度と取り戻すことは出来ない。この瞬間はいつも最初で最後のものだということ、いつまでもそれを見ていることが出来ないものに美しさを感じるのは、きっと、すべての瞬間に終わりがあるからなのだと思う。夕日も、花火も、自分の命も、いつか必ず終わりの瞬間が訪れる。

ー 生きているのは今だけだということ。

昨夜は海辺の広場にテントを張って眠っていた。花火をしたいと友人が言った。私は「それなら俺がいる所でやろう」と答え、SNSで参加希望者を呼びかけた。酒が飲みたいともつぶやいた。私は滅多に酒を飲まない。しかし、昨日はそういう気分だった。私のつぶやきを見てくれた男性が、大量の酒とつまみを差し入れてくれた。非常に嬉しかった。その男性は「これから仕事がありますので」と言って、誰にも会わずに笑顔で帰って行った。その男性と入れ違いで、四名の参加希望者が徐々に集まって来た。

私たちは枯れ木を拾って焚き火を起こし、その火を種に花火をした。月が綺麗だった。まるで夕日のように静かに海面を照らしていた。花火の光が綺麗だった。焚き火を囲みながら椅子でも並べて、焚き火カフェでもやれたらいいねと話した。私は「いいね」と思った。焚き火と海と月明かりがあれば、他には何も要らないと思った。テトラポットの間近で横になって夜空を眺めていた。いくつかの煌めく星の中に、まるでUFOのように小刻みに動く小さな星があった。「あれはUFOだね」と私たちは話した。

23時過ぎには解散し、私はテントに戻って坂口安吾の小説を読んでいた。別の友人が差し入れてくれた書籍だった。しかし、即座に眠気に襲われた私は照明を落として眠りについた。虫の鳴き声だけが響いていた。24時を過ぎた頃、私の名前を呼ぶ声で目が覚めた。男性がひとりと女性がひとり、私のテントの前で座っていた。「焚き火をしようよ」と女性が言う。「少ないけどお酒も買って来たんだよ」

私たちは再び焚き火を起こし、一緒にたわいもない話をした。月が綺麗だった。その辺に落ちている石ころを拾って、遠くに置いたペットボトルを標的に投げ合ったりもしていた。男性が言った、「あのペットボトルを倒すことに成功したら、俺たちの夢が叶うということにしよう」ー 結局、すぐにはペットボトルを倒すことが出来なかった。何度も何度も何度も石ころを拾っては投げ続け、漸く、男性が投げた石ころがペットボトルに命中した。男性は大声で叫んだ。夜の海に歓喜のシャウトが響き渡った。

何もない場所で、自分たちだけの遊びを見つけてはそれを味わっていた。テトラポットで横になるとか、波音を聞きながら月を眺めているだけとか、裸足で砂浜を散歩するとか、焚き火をひたすら眺めているとか、石ころを拾っては投げ続けているだけとか、見る人が見ればくだらない遊びになるのだろう。私たちには、多分きっとそれだけで充分だった。時刻は25時を大きくまわり、私たちは別れた。

再びひとりになり、いくつかのことを考えた。

SNSを開けば常に誰かが誰かを罵倒している。何かを暴露したがる人がいる。お互いのプラスな部分にではなく、お互いのマイナスな部分にばかり注目している人たちがいる。憎しみからは憎しみしか生まれない。誰かを批判すれば、批判された相手は必ず報復を企てる。お互いがお互いを批判し合った先に生まれるものは、決して居心地の良い世の中ではないように思う。憎しみが愛情を生むことはない。


自然は偉大で、善人にだけ恵みを与えるものではない。誰にでも分け隔てなく照らし続ける夕日を眺めていると、自分の小ささを思う。憎しみが愛情を生むことはない。憎しみはまた別の憎しみを生むだけだ。批判や暴露にエネルギーを注ぐのではなく、圧倒的な愛と許しで相手を受容する、その包容力が試されているのだと思う。北風と太陽の童話で言うところの、太陽になる時が来ているのだと思う。


人生は有限で、いつか必ず終わりの瞬間が訪れる。きっと想像を越えたスピードで私たちは今という瞬間を過ぎ去っていて、本当であれば『誰かを憎んでいる』時間などは無いのだと思う。それよりもずっと重要なことがある。今日の自分は今日で最後で、今日の誰かは今日で最後で、今日の夕日は今日で最後で、明日になれば二度と取り戻すことは出来ない。この瞬間はいつも最初で最後のものだということ、いつまでもそれを見ていることが出来ないものに美しさを感じるのは、きっと、すべての瞬間に終わりがあるからなのだと思う。夕日も、花火も、自分の命も、いつか必ず終わりの瞬間が訪れる。


北風よりも太陽になろう。人生は有限で、人生は有限で、いつか必ず終わりの瞬間が訪れる。北風と太陽の童話で言うところの、太陽になる時が来ているのだと思う。批判や暴露にエネルギーを注ぐのではなく、圧倒的な愛と許しで相手を受容する、その包容力が試されているのだと思う。人生は続く。


坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya 
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