いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

死ぬことに、護られている。

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鎌倉駅にいる。音楽をはじめてから「彼はミュージシャンなのよ」と言われる。別に嫌じゃないが、微妙だな、とは思う。彼はミュージシャンだと言われるより「彼はミュージックだ(He is music)」と言われた方が腑に落ちるし、なんなら「私たちは音楽だ(We are music)」と言われた方が、的確だ。音楽家になりたいのではなく、私は、音楽そのものになりたい。もっと言えば、楽器を弾ける弾けないに関わらず、私たちひとりひとりは音楽みたいなものだ、ということを思い出したい。

 

 

おおまかなスケジュール

【現在開催中】 Agape「与える喜びを与える喜びツアー(通称・AYA)」
【現在開催中】 Agape 千が平塚から大阪まで歩きはじめる「東海道五十嵐次」

11月22日(金)19時 Agape 単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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輪郭のない世界。

数年前、ピアノとフルートと、即興で音を合わせる機会があった。私は、適当なコードを弾いた。熟練者であるピアノ奏者とフルート奏者が、それに合わせて音を重ねた。音楽をやっているひとならわかると思うが、稀に、奇跡とも呼べるような音の重なりが生まれることがある。それは、まるで「別の次元に引き上げられる」感覚を残す。これ以上に気持ち良い瞬間はないのではないだろうか、という驚愕に、私は、震えた。泣きそうになった。魂が震えた。素晴らしい音楽は「彼岸(輪郭のない世界)」を感じさせる。音楽に限らず、美とは、そういうものだ。あっちの世界を、こっちの世界で感じさせるものを『美』と呼ぶのだろう。逆に言えば、こっちの世界に終始しているものは、魂を動かさない。頭を動かすだけで、終始する。

 

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「恋の花」 作詞 Keigo Sakatsume 作曲 Yasuko Kosuge

不思議な 世界を 旅して
雨音の うえを 泳ぎ出す

いつかは消えてくあなたの
笑顔も 涙も

刹那に 流れた 想いが
永遠に 空を 駆け廻る

飛び跳ねていた 季節も

恋のはなびらに舞う 運命を背負って
誰にも見えないまま あたしが踊るの

幸せの 箱で 泣いてる
小さな あたしが 泣いている

扉を開けたら 命が 踊り出す

あたしが 見ている 間は
あなたは あたしの ものでしょう

汚された 記憶も

涙から 枯れ落ちた 風に舞う あたし
あたしも知らなかった あたしが踊るの

恋のはなびらに舞う 運命を背負って
誰にも見えなかった あたしが踊るの 

涙から 枯れ落ちた 風に舞う あたし
あたしも知らなかった あたしが踊るの

 

花がある。この世で花が枯れたとき、あの世で花が咲くのだと思う。あの世で花が枯れた時、この世で花が咲くのだと思う。死んだ人にも届けることができるもの。それは『花』だ。だから、墓場に花を添えるのだと思う。言葉もまた、死んだ人に届けることができる。その瞬間、言葉は『詩』になる。だから、葬式の時にお経を読んだり、歌ったり、祈りを捧げるのだと思う。捧げるということに、音楽の本質があるように思う。自分の身を通じて、目には見えないものに自分を捧げる。それは「俺は、俺だ」という風に自分の輪郭を明確にする行為とは真逆で、自分を透明にする行為、自分が消えてなくなり、おおきななにかとひとつになろうとする行為だと思う。古くは、宗教的な儀式で、そのような営みは行われていたのだと思う。

 

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「flow-er」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

悲しいこともあるのに 大丈夫!と笑って
息も止まるほど 恋をして

足りないもの数えて キリないとか言うけど
終わりないもの 求めてる

それでよかった ふたり
なにもなくても
懐かしい未来(いま) 抱えていける

楽しいこともあるのに 切ない!とか笑って
世界のやさしさ 覚えたよ

結末だけ夢見て あとは全部投げ出した
恥ずかしがり屋 信じてる

あいも変わらず ぼくら
息をしてる
純粋なまま 汚れていこう

悲しいこともあるのに 大丈夫!と笑って
息も止まるほど 恋をして

足りないもの数えて キリないとか言うけど
終わりないもの 求めてる

それでよかった ふたり
なにもなくても
懐かしい未来(いま) 抱えていける

あいも変わらず ぼくら
息をしてる
純粋なまま 汚れていこう

 

ギターを弾いている時、稀に、自分とギターの境界線が溶けて、自分が音楽そのものになっている感覚を覚える。自由とは、やりたいことをやれる状態というよりも「自分が消えてなくなっている」状態ではないだろうか。自分がゼロになり、同時に、全部が自分になる。作詞をするときは、いつも『死』を想う。死を想起させないものに、どうやら、自分の心は動かないみたいだ。自分が笑えているときは、死んだひとも一緒になって笑っているのだと思う。自分が悲しんでいるときは、死んだひとも一緒になって悲しんでいるのかもしれない。生きている間だけ通用するものではなく、死んでもなお残るもの、死んでもなお届くものを、遺したいと思う。

 

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「We are blessed」 作詞 Keigo Sakatsume 作曲 Yasuko Kosuge

晴れた日に 星を見たような
透き通る 白い息

見たこともないような 青
この空に 描く夢

遠く 遠く 降り注ぐ 光たち

雨の日に 虹を見たような
やがて 消えて行く ぼくたちを 照らす日を

We are blessed
We are blessed

見たこともないような 青
この空に 生きる

We all are blessed in delight

 

note.mu

 

死ぬことに、護られている。

油断をしていると「皮膚の内側が自分(皮膚の外側が自分以外)」という世界の認識をする。だが、本当にそうだろうか。海に泳ぐ魚。それを食べた私は、私のままなのか。魚も、私になるのか。自分は魚でもあるとは言えないのか。自分の体内には、無数の菌が生息している。臓器は自分のものでも、菌は自分のものではないのか。もっと言えば、心臓は、自分の意思とは関係なしに躍動を続けている。自分の意思とは関係なしに動くものを、果たして「自分のもの」と言えるのだろうか。自分が動かすことのできないものを、いったい、なにが動かしているのだろうか。それを『命』と呼ぶのではないのか。命が、私たちを動かしているのではないのか。

 

不幸は分離感、幸福は一体感だと思う。私たちは、それぞれの命を生きているというよりは、ひとつのおおきな命を生きているのではないだろうか。他人だと思っていたものも、実は「もうひとりの自分」なのではないだろうか。私はあなたの代わりに生きていて、あなたは私の代わりに生きている。そういう風に、世界を捉え直すこともできるのではないだろうか。自分の体験は、自分固有の体験ではなく、人類全体の体験になるのではないか。自分という人間が挫折するとき、それは、人類全体の挫折になるのではないだろうか。自分という人間が勇気を獲得するとき、それは、人類全体の勇気につながるのではないか。だとすれば、ひとは、本当の意味でひとりになることなど、できないのではないか。など。空想は、広がっていく。

 

私は、多分、死ぬことに安寧を見出しているのだと思う。それは「死にたい」ということではない。人は必ず死ぬ。そう思うことが、生きることをシンプルにする。自分のやるべきことを明確にする。自分は、ただ、自分が死んでも残り続けるものに、自分の命を捧げればいいのだ。死なないように、死なないように、死なないように生きたとしても、最後には、死ぬ。人生とは、死なないために生きることではないと思う。逆だ。死ぬために、生きるのである。死ぬ準備を整えるために、生きるのである。理想の生き方と、理想の死に方は、酷似している。全然関係ないが、女心に家があると『安心』になる。自分は弱い男だから、死ぬことを、まるで故郷のように、再び母体に戻るような感覚で、安心感の源にしているのかもしれない。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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